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映画「記憶の棘」の不思議さ

Date
2007-12-11 (火)
Category
memo | 愚考 | 映画・TV

ニコール・キッドマン主演の映画「記憶の棘 」(2004年公開)を観た。観終わったときに不思議な雰囲気を持った映画だなとまず思った。でもその「不思議さが」どの様なものか、映画のどの部分に感じたのかがよくわからなかった。レンタルDVDだったので気になる箇所を何度か繰り返し観たが皆目見当が付かない。何かブログにでも書いてみれば少しはわかるかもしれない、などと思い軽い気持ちでメモをすることにした。(映画のあらすじはYahoo映画 に詳しく載っている)

主演のニコール・キッドマンは確かに上手い役者だと思うし、この映画でも役所を的確に押さえてもいる。しかし最初に画面に登場した際、僕には彼女がキッドマンだと認識することが出来なかった。短髪で、服装は品があると言えばそれまでだが、今までになく地味で、全体から見ると彼女の存在感は薄い。逆にキッドマン扮するアナの回りを固める出演陣が個性的で、だからこそ演出の意図を感じるのではあるが、存在感の薄さはさらに対照的で際立ってくる。(ちなみにアナの母親役はあのローレン・バコールだ。)

冒頭の雪の中ジョギングする男性の背中を追いかけるカメラワーク。このまま男性が走る姿の映像を流し続けるのではないかという予想を持つほど、それはそれで飽きずに見てしまう僕がいるのだが、このシーンは長く続く。一つ目のトンネルを越え、またしばらく走り、二つ目のトンネルの入り口付近で胸を押さえ倒れ込む男性。その瞬間に、産湯の中から顔を出す赤ん坊。これらの流れは初め何を意味しているのかがまったくわからなかった。

物語はそれら冒頭のシーンの10年後から始まる。そして徐々に冒頭シーンの意味が伝わってくる。アナの婚約パーティに突然に現れる10歳の男の子、彼は自分はアナの亡くなった夫ショーンだと言う。そしてアナとショーンの二人しか知り得ないことを彼は語り出す。その記憶の確かさに徐々に翻弄されゆくアナと男の子(彼の名前もショーンという)の両親たち。

映画の設定上では、男の子とアナの亡き夫との間には二つの共通項がある。一つ目は同じ名前(固有名詞)を持つということ、二つ目はアナの夫であるショーンが亡くなった日と男の子が誕生した日が同じであるということ。それらは冒頭のシーンの繋がり、トンネルの中で亡くなると同時に産道から誕生する、という連続した流れと共に、映画鑑賞者に「輪廻転生」を意識させる。ただこの映画は神秘的な側面を強調しているわけでもなく、男の子がアナの亡夫の個人的な記憶を何故知り得ているのか、映画後半で理由も提示している。

ただ僕にとっては男の子ショーンがアナの個人的なことを知りえた理由は何でも構わない。それが如何に観客が納得できそうな理由であるにせよ、この映画の出発点はその謎解きにあるのではないからだ。例えば、多くのラブロマンス物は、それが悲劇的な結末で終わる場合、愛する一方が亡くなり一旦は絶望の中に陥るが、やがては亡き相手の愛を感じることにより再び生きる力を抱く、という構造を持っているように思う。特にそれはハリウッド映画の、強いて言うとすればキリスト教国が製作する映画に多いように思える。おそらくはキリストの復活をモチーフにしているのかもしれない。では実際に愛する者が復活したらどうだろう、それもまったく違う姿で、長い時間の後で。愛の不滅性はこの場合でも表現できるのだろうか。この映画の出発点はこの問いだと僕は思う。

そうなると幾つかの問題が出てくる。まずは亡き夫がアナに向けられた愛は、亡き夫でしか適うことができないのかと言う問い。亡き夫の生まれ変わりであることをどの様にして証明するかということ。そもそもアナ自身が亡き夫に向けていた愛が変質していないことをどの様にして保障できるのだろう。また男の子が「アナ愛している」といったとき、男の子のアナに向けられた愛が以前の亡き夫の愛と同じことをどのようにして確認できるのだろう。僕は意図的に「保障」とか「確認」と言う言葉を使っている。特定の男女の愛が特殊であるならば、一般論としての愛の言説はそこには意味を成さない。しかし、愛の特殊性を論じるのであれば、時間を経て姿かたちを変えた相手に対しても以前と同じように向けることができるのだろうか。

映画では男の子が亡夫ショーンであることの証明として「記憶」に重きを置いている。仮に男の子が亡き夫であるならば、そして男の子が亡き夫であることを意識し、アナを愛しているとするのであれば、そのほかの記憶も持っているだろうということだろう。それでは同じ人である証明とは、記憶という過去の特定の出来事を共有することなのだろうか。ショーンがショーンであるのは、さまざまな個人的記憶が質問者と同期が取れている確認によってなされるのであろうか。ショーンとは共有する記憶の集積の中から立ち上がっていたともいえる。しかし人間のアイデンティティが過去の出来事とその記憶の総和であるとは僕には思えない。さらに記憶の集積から立ち上がる個人の現在性はどこにいってしまうのだろうか。

それぞれの問いの中で主人公であるアナは混乱する。混乱の中で彼女も彼女自身が持っている記憶、それは彼女自身が保ち続けた彼女自身の記憶の中から男の子を亡き夫の生まれ変りであると認めていくのである。このアナの心情の変化の過程は、当初存在感が薄かったアナが徐々に周囲の反対の中で逆に存在感を強めていく。そして男の子と共に暮らすことを決意したときに破綻が訪れる。結果的にアナの亡き夫はアナとの結婚生活期間中別の愛人がいたのである。アナへの愛が純粋であることを男の子のショーンはその根本存在(自分が元アナの夫であること)においていた。その結果、アナを裏切り続けていた亡き夫はショーンではないことになる。でもアナへの愛情は純粋でなければならない。アナに向けられた不滅の愛の存在が、男の子に矛盾を持たせ、男の子はアナの元を去る。そしてアナは混乱の中にとどまることになる。

結果的にこの映画の不思議さは、愛の不滅性が現実の中で、きわめて個人的な記憶の中で立ち上がるしかなく、しかもそれゆえに愛の不滅の不可能性を前面に出すことになる、その点にある。愛が人間の外部にあるとすれば、時間を経て姿かたちが変ろうとも、その愛を確認することができる。愛に証明とか確認は必要なく、ただ感じるのみとするのもよい、でもその感じる根拠が記憶の中に見出だすしかないのであれば、果たしてそれは愛していると言えるのであろうか。愛は人間の時間の中に存在するしか我々は感じることができないのではないだろうか。さらに記憶とは歴史家が検証し羅列する項目の列挙でもない。個人間の感情の同調がそこには必要だと思う。しかし双方がそれを認め合うには時間が重要な要素となる。

どうも映画の感想としては陳腐なものにしかなっていない。それはやはりこの映画の不思議さを僕なりにでも整理できていない証左だと思う。愛の問題は僕には荷が重たすぎる。もう少し整理してから再度この映画について書くかもしれない。

テレビドラマ「点と線」(ビートたけし出演)をみてだらだらと思うこと

Date
2007-12-07 (金)
Category
愚考 | 日記 | 映画・TV | 社会

1958年(昭和33年)公開の映画「張込み」について、 監督である野村芳太郎は次のように語る。「この映画はリアリティが大事です。観客が少しでも嘘っぽく感じられないようにリアリティを求めました」
映画冒頭で、刑事たちが張込み現場に着くまで、列車内の場面が延々と続くのはそうした監督の配慮からきているのだと思う。

映画におけるリアリティの追求とはひとつのパラドックスに近いかもしれない。 人工的な所作により作られる「現実」は、 当然にそこに製作者の考えが盛り込まれている。つまりは、その時点で「現実」 は外部ではなく内部性からという矛盾を抱えてしまう。 ただし映画「張込み」の場合、原作とほぼ同時代の映画なので、 監督自身は物語の時代設定を意識することはない。 野村芳太郎監督が意識するリアリティは、 刑事と言う仕事と生活がべったりと貼り付いた人間の生態にこそあったと思う。

これが2007年公開映画「続 三丁目の夕日」となると、 リアリティはCGで描かれた風景のみとなる。「続 三丁目の夕日」 はまるでテーマパークの様に安全で清潔で明るい。 そこには昭和30年代の公害と大気汚染に見舞われた東京の姿はどこにもない。 首都高で覆われていない日本橋、完成直後の羽田空港、 そのほか日常を取り巻く数多くの小物が登場し、 そこに役者を立たせたとしても昭和30年代初めにはたどり着くことはできない。おそらく、 もう我々には昭和30年代さえ描くことは難しい状況になっているのかもしれない。ふと、そんなことを思う。

2007年11月24日・25日の二夜連続で放送したビートたけし主演の「点と線」 を観た。このテレビ版「点と線」では、 原作もしくは過去に映画化(昭和33年)されたものと比べ、(1) 現在から過去の出来事を振り返ること、(2) ビートたけし扮する老刑事鳥飼重太郎が事件に対し極めて強い執念を持つこと、(3) 鳥飼と刑事三原紀一が本事件から二度と会わないこと、 の3点が際立って違うように思える。無論、ドラマの中で戦争の経験を引きずることが、 鳥飼の事件に対する執着、 および犯人である安田辰郎が犯罪行為に至らせたという伏線も違うといえばそうなのではあるが、 ただ戦争の逸話は本ドラマでは、 俳優たちの熱意ある演技と裏腹でそれほど重要ではないように思えるのである。

僕にとって本ドラマで重要なせりふ、と言うより印象に残っているせりふは、 鳥飼重太郎の最後に述べる一言、「何故か無性に腹が立つ」 である。それらは、鳥飼の人生のなかで常に持ち続けてきた心情であり、 それが本事件でも現れたように思えるのである。仮に、 犯人夫婦が自害せずに検挙されていたとしても、鳥飼のこの「何故か無性に腹が立つ」 感情は拭うことができないように僕には思える。 鳥飼はなぜ無性に腹が立つのか、何に対して腹が立つのか、 それらはドラマでは明らかにされることはない。 彼の心情の起源が戦争にある様にドラマでは描かれているが、 僕にはそのように見ることはできなかった。

腹が立つ対象が社会システム、 もしくは自己願望達成への無力感にあるという安直な考えに僕は即同意はできない。鳥飼重太郎の 「腹が立つ」 感情はそういう部類から起こっているように思えないのである。たとえば、このドラマが放映されていた最中、 新聞では守屋前事務次官による防衛省収賄容疑報道が一面の見出しを踊っている。それらはドラマと同じ状況を彷彿させるが、 僕自身が受けるものは無関心と脱力感でしかない。鳥飼の「腹が立つ」感情は終わった結果に対して向けられてはいない。 鳥飼の人生の流れの中で現れ培われていったその感情は、やはり流れの中にこそあるのである。つまりは社会システムの一断面、 自己願望未達という、流れを切り取ったところに見出されるようなものではないように僕には思える。さらにいえば、流れを切り取ったとき、 それは既に同じものではなくなってしまっている。問題は常に未解決のまま残され、「腹が立つ」気持ちから受け入れられる。「腹が立つ」 と言い、その出口を三原に向けた鳥飼は、その誤りを知り帰京する三原を探し夜の街を走り回る。でも結局三原とは会えず、 それが最後の出会いとなるのである。

話は変わるが、上記にあげたドラマ設定上の三つの変更点は、 ひとつのシーンに収斂する。それは鳥飼重太郎の死に様である。 確かにアリバイ設定上、昭和30年代の時代背景は無視できない。 現代においては同様のアリバイ工作はできようもないからだ。 でもだとしても、それが現代から振り返る筋書きとする理由にはならない。 僕にとって、 このドラマは鳥飼の死を描きたかったのでないかと思えて致し方ないのである。「何故か無性に腹が立つ」鳥飼の死を、 珍しく雪が降った寒い朝に庭で一人うつぶせになり死んでいった姿として描くこと、それがこのドラマで一番描きたかったことではないだろうか。 それは「何故か無性に腹が立つ」人の死に様としてふさわしい。

このドラマでは5人の死が描かれている。情死偽装された男女の死、 ある意味情死ともいえる犯人夫妻の死、そして鳥飼の死である。 それぞれの死は、「点と線」に絡まる事件の中で一つの過程として現れる。 情死偽装された男女の死は鳥飼にとっては発端ではなく、 流れる問題の新たな発見である。犯人夫妻の死は問題の解決ではなく、 新たな問題を鳥飼に怒りを持って強引に認識させる結果となる。 そしてその問題は解決されることはない。鳥飼の死に様が、 一種殺人現場に近いように描かれているのは必然なのかもしれない。 逆説的に言えば、解決不能な問題を認識しないものこそが、 新しい出来事を受け入れることも見つけることもなく、 それだからこそある意味安らかに死んでいくことができる、 そういう風に鳥飼の死に様は語っているかのように僕には思えたのだ。

映画を含め最近昭和30年代が多く描かれている。現在から昭和30年代を眺めると 「戦後はもう終わった」 と言われた同時代の宣言が滑稽のように思えてくる。映画「続 三丁目の夕日」もテレビドラマ「点と線」も、 時代設定を昭和30年におきながら現代のリアリティをもって描かれている。それは時代劇となんら変わることはない。 昭和30年代に我々が失ってしまった何かがあるかどうかは僕にはわからない。でもそれを描くために、たとえば「続 三丁目の夕日」 の中で使われたせりふ「お金より大事なもの」というステレオタイプのイメージを出すために、途方もない制作費と、 消費活動を利用した宣伝効果を利用しているのも事実なのである。

松本清張の「張込み」を読む

Date
2007-11-21 (水)
Category
愚考 | 文学・書籍 | 映画・TV | 社会

松本清張の「張込み」は次のような物語を持っている。 これらは1957年の映画であろうと、 2002年のテレビドラマであろうと変わることがない。

(1)刑事が殺人犯を探索するため、 過去に容疑者と関係があった女の家を張り込む
(2)女は既に歳が離れた吝嗇な男の後妻となり、彼の継子を育てている
(3)女は生気が感じられず、判を押したような日常を送っている
(4)容疑者が女の元にやってくるが刑事はそれを最初見逃す
(5)容疑者と一緒にいる女は生気があふれ活き活きとしている
(6)刑事は男を捕まえ、女に家に戻るように言う
(7)女は家に戻り、以前と同じような生活を送る

「張込む」刑事は女の私生活の一部を覗き続ける、そして女は最後に「家に戻るよう」 に刑事から伝えられるまでそのことを気づかない。

 「張込み」とは一種の監視装置でもある。 監視される側は監視されていることに気がつかない、 それは事象発覚した後に別の姿で起動し、監視される側に突然に立ち現れる。「張込み」 の設定が、通常は複数人体制で行われることが、 油木という男性刑事一人での「張込み」は必然と考えられる。それは一種の「私小説」 の姿を呈している。小説「張込み」の読者は、 自らが油木という刑事と同一化し、女を監視するのである。

監視される側は監視を意識していない以上、その姿を露にする。この場合、 女は生気のない顔で日常を過ごし、 容疑者の男が現れ精彩を放つ。その変貌の落差は刑事の目、つまりは読者の目からは、 女の謎の一部を垣間見たと感じられたことだろう。 この落差を描くことが小説「張込み」の主眼でもあると思うのだ。

松本清張「張込み」の構造を支える柱として「欲望」 を挙げることができるのは間違いない。「欲望」はそれを限定する場である「家」 を離れて立ち上がる。しかし社会構造は、その「家」 のネットワークで成り立ってもいる。つまり「欲望」を限定する「場」としての「家」 があるから、 社会秩序が保たれているともいえるのかもしれない。その社会秩序は男性社会が構築してもいる、 よって刑事は女が生気のない人生を生きることを承知で家に戻ることを勧めるのである。

「欲望」の追求は叶えられることはない。女の「欲望」は男の逮捕で幕が下りる。 それは一種の「欲望」への否定の姿でもある。そして 「欲望」が暴走しないために監視装置が設けられる。1957年製作の映画「張込み」 では、 タイトル画面の時、刑事が張込む「眼」 を正面で捉えた画像が映し出される。それはあたかも観客を監視する「眼」でもあるかのようだ。 ゆえに映画では、 女の欲望が結果的に成就されないことで、その行為が許されないことを観客に意識させる。

逆に2002年のテレビドラマは、たけしの存在自体が逆説的に「欲望」 の発露の存在として描かれる。 彼は女の家に投函された封書を勝手に開封し中を確認する。また彼の家が崩壊寸前にもかかわらず、 省みることもなく仕事へと出かける。 さらに彼の妻は不倫をしている可能性もある。そのたけしが演じる刑事が、監視する女に対し、 やはり最後は家に戻るように伝えるが、既に 「家」には「欲望」を限定する「場」にはなりえていない。それは彼の家庭の姿が証明している。 だからこそより大きな代償、 たけし演じる刑事の死が必要となるのである。そしてその結果、やはり「欲望」は拒否される。それは女の「欲望」 と共に刑事の家庭に対しても同様となる。

人の「死」を持っても抑えるべき人の「欲望」の発露、果たして人の「欲望」 とはかようなものなのだろうか。逆に「欲望」 の限定を求めることが、 現代における人の生のゆがみとなって現れるという可能性も否定できないのではないだろうか。 確かに消極的な自由が一般的な状況の中で、 無限定な「欲望」の存在は悪とされる。ただ瑣末な個人の「欲望」は、より大きな力を持つ「欲望」 とその発露の際の暴力の前で利用され無化されている現実もあるように思えるのである。

松本清張原作の「張込み」は一言で言えば傑作に値する小説ではない。 でもこの小説が各種メディアの中で時折利用され、 もしくは映像化される理由は、何かしら社会の意志を感じるのは僕だけではあるまい。

メモとして残す映画「墨攻」を観ての直後の感想、それは一つの脱力感

Date
2007-02-28 (水)
Category
memo | 映画・TV

墨攻

昨日映画「墨攻」を観た。とても良い映画だと思ったし、何よりも面白かった。その面白さは、 アクションとしての展開の早さとその強度の強さによるところが大きいのだとは思うが、それ以上に何より魅力あふれる登場人物、 そしてそれを演じる俳優の力量が大きいと思う。

映画「墨攻」のあらすじをここで書くつもりはない。 ここでは未だ考えがまとまらない僕自身の気持ちを、思いに任せて綴ろうと思う。

一言で言えば、この映画のメッセージ性はわかりやすい。なおかつ、この映画がアジアの3カ国(香港を含む中国、韓国、日本) の映画人たちが結集して造られている。おそらく、このメッセージ性の強さは3カ国の合作によるところが大きいのだろう。 一つの点で彼らの意見はまとまる。それは映画中において墨家の思想として何度も現れる、「非戦」と「兼愛(万民を愛す)」 ということなのかもしれない。

メッセージ性の強さは、では一つの解釈にまとまるかと言えば、そんなことはない。これはあくまで僕の想像なのだが、 いくつかのパターンに分かれるように思える。例えば、多くの映画は一人の主人公の視点で描かれることが多い。それ故、 観客はその主人公に自分を同化してしまうものだ。逆に言えば、対する人物の考えを二項対立化し否定する。

圧倒的な軍事力の巷淹中(こうえんちゅう)とそれに対する革離(かくり)、その構図は一方を米国と見なすことは可能だろう。 さらに欲望の権化となる梁国王は言わずともながである。その中で革離を誰におくか、この映画が中国で評判を呼んだのは、とてもよくわかる、云々。

別の見方をすれば、巷淹中は軍隊の指揮官がそうであるように、常に死者のことを語る。死者(戦死者)を悼み、 それを力にして戦いへの士気を持続させる。それに対し、革離は生者のことを語る。人生には生きる価値があり、それは奴隷状態ではない。 そして戦いでの死は、ある意味無意味なのである。これらのメッセージで、日本における憲法論議を想起させることも可能だろう、云々。

「非戦」と「兼愛」をキーワードにした様々な解釈は、僕には脱力感しか与えない。でもそれらがこの映画を観るものが簡単に得ることができるメッセージであるのも事実なのである。

「万人を愛する」墨家の思想にたいし、革離に助けられた男は彼に向かって告げる、「誰を愛するのか間違っていないか」。 顔のない万人を愛することの不可能性を告げるのである。それにより革離は顔のわかる相手、 つまり彼が愛する女性を助けるために再び梁城に戻る。その箇所は、唯一といっても良いほど、 この映画で僕にとって救いとなるメッセージである。しかし、結果的に革離が愛する女性は死ぬ。それも革離の戦術の結果によって。

思い起こしてみれば、この戦いで登場人物の全員の希望は絶たれる。梁国王の希望の息子は殉死し、巷淹中は敗北を味わい、 革離は救いたいと願った女性を失い、戦士たちは戦いの意味を失う。そのほか、顔も見せず言葉も発せずに、実に多くの人員がこの戦いで死ぬ。 それらもこの映画でのメッセージの一つなのだとは思うが、ただ救いがない。

僕にとって、革離の愛する女性(逸悦:いつえつ)の死ほど、この映画の象徴性を出しているシーンはない。 逸悦は梁王に謀反人の罰で声帯が失われ地下牢に投じられる。水攻めにより梁城奪還を果たした革離は逸悦を探し回る。 どんどんと水が地下牢に浸水し彼女は溺れ死ぬ。

逸悦が溺れるのは二度ある。一度目は偵察の時に敵に見つかり逃れるために川に飛び込む。その際彼女は革離に、 自分は泳げないことの伏線を与えている。その時も彼女は溺れるが革離が助ける。水没した地下牢から革離は逸悦を見つけるが、 今度は助けることが出来なかった。しかもそれまで、革離は何度も地下牢の上を通り過ぎる。彼の智力を持ってすれば、 逸悦が造った靴を見つけたときに、即時に地下牢にいることがわかるはずである。しかし彼は地下牢の上を何回も走り回るだけにすぎなかった。

この無意味な程の革離の「走り」は何を意味するのか。愛する者が誰であるかを識るが、 求めるものは決して得ることができず徒労に終わる。そして愛するものを殺すのは自分に他ならない。 しかし、その様なメッセージを誰が受け入れることができるというのだろう。戦によって、人は何も得ることが出来ないし、得ることを許しもされない。 脱力するほどの結論とはいえ、革離の「走り」が意味する物は大きい。

映画の最後に革離のその後が簡単に語られる。孤児を連れて諸国に平和を説いた、その後日談にたいし、「孤児」 という象徴性はともかくも、脱力感故に、全体的に虚しさを感じたのは事実である。

ひとつだけ、僕にとって希望をもたらせることがあるとすれば、それは全員が映画の登場人物になることにある。 無数の名もなき声もなき人たちとして描かれるのではなく、主要登場人物のように自分の生を生きる。そして相手もその様な人物として扱う。 それが現実態だとしても、なおさらに人間の複数性のなかでの個人の在り方を考えてしまうのである。これも脱力するほどの結論とはいえ、映画 「墨攻」を見終わった直後に一番強く感じたのはそのことに他ならない。

小説から映画に繋がる「ジョイ・ラック・クラブ」の遺伝子情報について

Date
2007-02-13 (火)
Category
memo | 愚考 | 文学・書籍 | 映画・TV | 社会

The Joy Luck Club

映画とその原作となる小説との間に横たわる溝は決して埋まることがない深さを保っている。 映画には映画で使われる言葉と世界を持ち、小説は小説で使われる言葉と世界を持つ。それでも、両者を較べ、 どちらがより良いなどと述べることの過ちを僕は幾たびか繰り返してきた。

そしてその過ちは、「私」という世界に取り込むための過程の中で、「私」を保全するための、 いわば発熱状態の中でおこなわれている様に思える。二つのメディアで、ほぼ同時に、似た内容のものを取り込んだのだ。 しかも両者とも記憶に残る優れた作品であれば、「私」のなかで、それらを如何に昇華させるかは、ひとつの事件となって「私」 の精神を揺さぶったとしても不思議ではない。発熱を静めるための一つの処方として、どちらかが優れていると定め、 片方を捨て去ることもあり得る。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」は素晴らしい映画だった、それは多少の苦痛を伴いながらも僕の中に取り込まれた。小説「ジョイ・ ラック・クラブ」も素晴らしい小説だった。しかし小説の「ジョイ・ラック・クラブ」は、未だに「私」 の中で発熱を促す異物となって留まり続けている。

幾つもの小さな疑問が小説を読んで浮かぶ。それは不思議なことに、映画では感じることがなかった疑問である。 疑問という言葉が適切でないのを実感しながら、僕はこの言葉で綴っている。しかしそれに合う適当な言葉が見つからない。

矛盾をきたすようだが、小説を読んで浮かんだ疑問は、映画を観て浮かぶことがなかった疑問を掘り返しているのである。つまり、 小説を読んだ結果、映画が再び活性化した異物となって私を捕らえている、そういう状態に陥っている。 しかも今回は片方を捨て去ることで解決することは出来ない。「私」の中の二つの異物は、「私」の中で昇華させなければならない。 さすればきっとそこから、新たな「ジョイ・ラック・クラブ」が生まれることだろう。それはウィルスが身体に侵入し抗体を造るのに似ている。 ウィルスは「私」にとっては異物であるが、それによって造られる抗体は「私」の身体の一部となる。

映画「ジョイ・ラック・クラブ」の脚本スタッフに原作者のエィミ・タンがいたのは間違いない。 それは映画の最後に現れる一連の製作スタッフに名前を見つけたから言っているのではない。原作者がこの映画に大きく関与している状態が、 映画の隅々に現れていると思えたからだ。それも小説を読んで、自分なりに確信したことに過ぎないのであるが。

この映画と小説は、ある意味補完関係にあるように思う。無論、映画と小説を物語の筋で見比べると、違いは幾つもある。しかし、 それらの違いは概ね小説の意図を崩してはいない。それよりも映画は、小説で読者が当然に思う疑問、「その後、彼女たちはどうなったのだろう? 」 を解消することも担っていた。
例えば、割り勘の夫婦となった娘の家は母の言うとおりに崩壊したのだろうかとか、 裕福な白人アメリカ人と結婚した娘は本当に離婚したのだろうかとか、そういうことだ。

また映画が使用する言語は映像であるため、それらはテキストとしての言葉より強度を必要とする時もある。 それにより小説と内容が変わった場面も多かった。浮気性の男と結婚し、彼との間に出来た赤ん坊を殺す場面では、 映画では産まれている赤ん坊を茫然自失状態の中で桶の中に沈めてしまうのに対し、小説では赤ん坊は中絶し殺すことで表現されている。

それらを一つ一つ語るときりがない。両者は似ているようで違う、違うようで似ている。映画は、まるで小説という「母」から生まれた 「娘」のようだ。でも母と娘の関係である以上、母から受け継いだ遺伝子を娘が受け取っているのも事実である。 それらを幾つか僕は感想として載せようと思う。

1.理念化された中国

「ジョイ・ラック・クラブ」に登場する母親達4人は全員中国で生まれ育った。そしてやむにやまれぬ状況で米国に渡ってくる。

 「アメリカに着いたら、わたしそっくりの女の子を産むわ。女の価値は夫のゲップの大きさで計られるなんて言う人は、 向こうにはいないでしょうよ。人から見下されないように、娘には完璧なアメリカ英語を身につけさせるわ。向こうに行ったら、 娘はいつも満腹で悲しみなど入り込む隙間もないでしょうね! 自分が望む以上のものになったこの白鳥を娘にあげれば、 きっと娘はわたしの思いを汲んでくれるはずだわ」
(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)

母親達はいずれも何らかの事態で、自分達が生まれ育った中国に失望を抱いている。それこそ、 「女の価値は夫のゲップの大きさで計られる」 国だったのである。さらに旧日本陸軍が中国を侵攻していた時代でもある。飢えと身に迫る危険、 時代の状況も渡米を促すことにもなる。

しかしだからといって、彼女達が生まれ育ち身に付いた文化的資産を、渡米と一緒に中国においてきたかと言えば、 そういうことではない。むしろ彼女達にとって、 第二の人生の場となる米国で生き抜くための重要な指針として育っていったと言っても過言ではない。 しかも米国での生活空間は中国人同士との繋がりが強く密接でもある。その生活空間の中で、彼女達の文化的資産が、現実の中国を離れ、 独自に展開していった様に思う。それは言わば理念としての中国であり、その中で母親達は中国人としての自覚を保ち続けた。 しかしそれは現実に中国で生活する人の世界とは違っていた。

「去年、四十年ぶりに戻った中国で、それと似たことを経験した。わたしは派手な装身具を取り外した。 派手な色も身につけなかった。彼らの言葉でしゃべった。彼らと同じ通貨を使った。それでも、彼らには見抜かれた。 わたしが純粋な中国人の顔をしていないことを。彼らは、わたしに外国人向けの値段を吹っかけてきた。
わたしは何を失ったのだろう? その代わりに何を得たのだろう? 娘はどう感じているのか聞いてみたいと思っている。」
(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)

彼女が失ったものは、渡米してからの40年間という、中国での時間である。 得たものは、それに変わる米国での時間とも言える。彼女達の「理念化した中国」の土台は、渡米する前の中国、 つまり1940年代までの中国でもある。どちらが「純粋な中国人の顔」をしていたのか、それは誰にも答えることが出来ない、 と僕は思う。言えることは、その事実、つまり彼女達が大事に育てあげてきた括弧付きの「中国」は、 時代と共に変化することがなかったということなのだ。

無論、母親達は中国人である。しかし彼女達が自らを「中国人」 として意識し表明できるのは、中国以外の場所、特に米国でしかなかった。

2.母と娘

母親達が願ったように娘達は完璧なアメリカ英語を操るようになった。 娘達が育った30数年の間、米国も含め世界は大きく変貌した。グローバル化、あるいは多文化主義的な世界観は、 当然にその時代を生きる娘達に影響を与えずにはいられない。

「そのとき、私は思い当たった。彼女達は恐れているのだ。 私を自分達の娘と重ねてみているのだ。私と同じように無知で、 彼女達がアメリカに持ち込んだ真実や願いをまるで気にかけない娘達のことを。中国語で話しかける母親をじれったく思い、 片言の英語で説明する母親を愚かだと思う娘達のことを。おばさん達は、ジョイ(喜)とラック(福) が娘達にとってもはや同じ意味でないことを、アメリカ生まれの娘達の閉ざされた心には”喜福” が一つの言葉としては存在しないことを知っているのだ。いつか孫を産んでくれる娘達が、 代々伝えられてきた希望のつながりと断絶してしまったことを知っているのだ。」
(「ジョイ・ラック・クラブ」 エミィ・タン 小沢瑞穂訳)

娘達が母親達のことを理解しない部分は、 理念化しそれが母親達の信念とまで昇華した「中国」のことであると、僕は思う。頑なに時代の変化に流されるのを拒み、 その中で大事に育ててきた「中国」、しかしそれは当然に娘達に受け入れることが出来ない理念でもあるのだ。

娘達にとっても、自分たちの生活空間は、 同様の中国系アメリカ人達による親密圏でもある。その親密圏で培われてきた信念は、理由はわからずとも、娘達に足かせとなり、 逆にそれが彼女達をしてその親密圏を脱したいという気持ちに繋がっていったのではないだろうか。 娘のアメリカ人化はそのように始まっていったと僕は思う。 そしてますます娘は母を理解できなくなっていく。

母から娘を見れば、それは同一の存在でもある。瓜二つの顔、そして性格、 もしくは似ているように見える人生の歩み。しかし娘は母との違いを気持ちの中で列挙する。たどたどしい英語、因習に絡まった言葉、 中国人同士の社会。それは一言で言えば、「同一」と「差異」の問題でもある。母は「同一、平等」を望み、娘は「差異、区別」を求める。

母親達は自らの生い立ちと歩んできたことを率直に娘達に語り始めることでその境界を越える。両者の対立は、 愛情深きが故のすれ違いから発しているのである。母は娘の幸せを願い、娘は母に心配をかけまいとする。それは互いに同性であること、 そしてそこから発生する問題への相互の理解と承認により、母と娘は互いの問題を自分の問題として考えるきっかけとなった、と僕は思う。

この小説ではジェンダーの話は避けては通れない。何故、母と娘なのか。母と父、 娘と息子、もしくは性とは関連しない固有の性格、それぞれの組み合わせは無限に近いかも知れない。しかし「ジョイ・ラック・クラブ」 では「母と娘」の話となっている。しかも「ジョイ・ラック・クラブ」 の構造は、常に現時点で娘が抱える問題に符合する姿で、 母の過去がさらけ出される。 その世代間の縦に串刺しされる女性であることにより起こる問題は、主人公(既に母親は亡くなっている) の存在により、母と娘の双方に、 今度は横に繋がっている。

3.ジェンダー

母と娘の関係を近づけさせたのは、親子としての関係(親密圏) よりは同性としての繋がりであった。ここで実際に「ジョイ・ラック・クラブ」本編中の2編について考えてみようと思う。一つは 「割り勘の結婚」、リーナ・セント・クレアを主人公とする物語、もうひとつは「虎年の娘」、インイン・セント・ クレアでリーナの母親の物語である。この二つの物語は、他の母と娘の物語の組み合わせも同様だが、構造が同じということではなく、 状況に対応する行動と思考が母と娘とで重なっている。

「割り勘の結婚」では夫婦両者に共有するモノの費用は折半している。

「きみと同じように、ぼくもいわれのない金は受け取りたくないんだ。 金のことを別々にしている限り、お互いの愛情にいつも確信がもてるからね」
わたしは抗議したかった。こう言ってやりたかった。「違うわ! 私はそんなふうに考えていないの。 今までの私達のやりかたは好きじゃないのよ。本当は、お互いに自由に与え合うやり方が好きなのよ・・・・」でも、 どこから始めたらいいのかわからなかった。すべてを与え合う素晴らしい愛の形を彼がこれほどに恐れるなんて。誰に、 どの女にそこまで傷つけられたのか、彼に聞きたかった。」

別々、つまり「割り勘」であることでリーナの夫ハロルドは、 お互いの愛情に確信が持てるという。しかしそれは本来のリーナのやり方ではない。しかしハロルドを素晴らしい男性と思い、 彼と結婚を望むリーナにそれを強く主張することはできない。逆に彼に嫌われまいとハロルドの好みの女性になろうと努力をする。しかし、 その努力もハロルドの頑な平等性に、常に不満を持ち続ける。知らぬ間にリーナの家庭は崩壊の危機に瀕している。 しかしそれを知るのは、 リーナの母であるインインだけである。

「虎年の娘」では中国の裕福な家で生まれ育った母(インイン) は一人の男性と恋に陥る。そしてインインもその男性が喜ぶような女性になろうと心がける。 しかしその気持ちは夫となった男性がインインを捨てオペラ歌手の元に去ったときに完全に裏切られる。そしてその男性が数多くの女性と、 その中には見知った従兄弟も含まれる、浮気をしていた事実を知る。しかしその時はインインはその男の子供を宿していた。

「リーナに、私の恥を話そうと思う。わたしが裕福で美しかったことを。 どんな男にももったいないような娘だったことを。物のように捨てられたことを。 十八にして頬から美しさが消えてしまったことを話そう。恥辱とともに湖に身を沈めた女達のように、身投げをしようとしたことを。 その男を憎むあまり、お腹の子供を殺してしまったことを。 (中略) その男の長男が体内から引き出されたとき、 どす黒い復讐の念が私を満たしたからだ。死んだ赤ん坊をどうしようかと看護婦に聞かれたとき、わたしは新聞紙を放り投げて、 魚みたいにそれに包んで捨ててくれと頼んだ」

その後インインは数年間、その男が死ぬのを望んだ。そしてそれが叶ったとき、 その男は別の浮気相手に刺し殺される、彼女は現在の夫であるセント・クレアと再婚する。そしてその過程で自分が「虎」 であることを自覚していく。

「割り勘の結婚」のリーナの夫ハロルドと「虎年の娘」 のインインの最初の夫との共通項とは、特別であるはずの女性に対する「公平」さかもしれない。 ハロルドは会社内においてもリーナを他の事務員と区別は一切しない。それは私的空間である家庭内でも同様である。 インインの最初の夫は、彼の浮気相手の女性とインインを区別しない。映画ではその夫が浮気相手にインインを紹介するとき「淫売」 という。無論それは、自分と自分の浮気相手に跳ね返る言葉でもある。

また別の見方をすれば、ハロルドと最初の夫は、 リーナもしくはインインと結婚する以前に既に結婚をしていたとも捉えることができる。 それぞれの男性の結婚相手はハロルドの場合仕事であり、インインの最初の夫は他の多くの女性だった。「重婚」の概念は古いが、 父権制がホモソーシャル体制として捉え直すことが可能となるジェンダーのセオリーでは、新しい観念となって登場する。 つまり多くの男性は、結婚する前に既に父権制の基で、それを強化する何かと結婚しているという捉え方である。

インインは娘であるリーナが結婚したハロルドが、 自分の最初の結婚相手と結局は同じであることを見抜いていた。故にリーナの家庭は崩壊する他はなく、その中で娘を救う道は、 娘が自分を「虎」であることを自覚することとなる。ここにきて「虎」の意味がジェンダーとしての「女性」であることが明確となる。 そして互いに「虎」であることで、母と娘はさらに強い絆を持つことができる。

4.まとめ
4人の女性が飲食しながら楽しげに麻雀をするクラブ、ジョイ・ラック・クラブのキーとなる数字は「2」だと思う。 米国で行われるようになったジョイ・ラック・クラブも2度目のクラブであることが、それを象徴的に表している。その他にも「2」 にまつわる話も多い、例えば一番重要な「2」は母と娘、でもジェンダーのセオリーでは「2」は「3」にすり替わる。「3」 は誰かが他者になり得る。そしてその他者とは、おそらく「女性」自身のことなのかも知れない。
小説も映画も、以前の中国と現在の米国の比較などは一切していない。そこにあるのは、 以前の中国も現在の米国も女性にとっては何も変わらぬ世界であるのだ。(映画での中国の描き方には、明らかにオリエンタリズムを感じる)

男性である僕がこのような読み方をするのは偽善的かも知れない。 しかしそれを承知で「ジョイ・ラック・クラブ」の感想をまとめてみた。

僕はこの小説と映画を読み切ったのかと自問してみる、 無論そこには答えなどない。その問い自体が無意味であると、僕の感性は告げる。では有意な問いとは一体何かと逆に問い返す。 おそらくその問いへの回答は、僕自身の男性性によって阻まれている。逆に言えば、その阻むモノを見つめることが、小説と映画の 「ジョイ・ラック・クラブ」を読むと言うことなのかも知れない。そんなことを思う。

ニュースステーションに見るメディアのゴミ言論の作成について

Date
2007-02-08 (木)
Category
memo | 映画・TV

ことの起こりはつまらぬ事件の説明からだった。

「恋敵と思いこんだ女性空軍士官を襲撃しようとしたとして、誘拐未遂罪などで逮捕された米航空宇宙局(NASA) の女性宇宙飛行士、リサ・ノワク被告(43)が6日、第1級殺人未遂罪でも訴追された。NASAも同日、 ノワク被告を停職30日間と宇宙飛行士の資格停止などの処分にするなど「現役宇宙飛行士による初めての犯罪」(フロリダ州のオーランド・ センチネル紙)への衝撃が全米に走った。」(サンケイWEBより引用)

つまりはどこにでもあるような男女の愛憎から来る諍いの話である。ニュースソースとなり得たのは、 容疑者が女性宇宙飛行士であったこと、彼女が恋敵を叩きのめすために1500Kmもの距離を不眠不休で走り続けた、という二点につきる。 もともとアメリカには未だに宇宙飛行士に対する特別視(ヒーローとする見方)が存在するようであるが、男女間の問題に職業は関係ない。

気になったのは古館氏の言動であった。つまり、リサ・ノワクの宇宙飛行時の姿と逮捕時の姿の写真を較べ、 その容貌のあまりの変化に驚く発言を述べたのである。確かにテレビで映し出された双方の違いは誰も目で見ても明らかだった。 希望と期待に目を輝かせた宇宙飛行時の会見、そして訥々と語る逮捕時の姿。

しかし双方の写真の選択をおこなったのはメディアであるのも間違いない。逮捕時は1500Kmもの距離を、 おそらく不眠不休で走り続けたのである。しかも恋敵への憎しみを胸に抱きながら。憎しみを別としても、1500Kmを走破すること自体、 肉体的な疲労は限界を超えていたに違いない。その時の様相は普段と違うのは、彼女だけでなく誰でも同じではないだろうか。

メディアはわざわざ彼女の姿で一番違う二枚の写真を手にいれた。それは視聴者が望む理解しやすい姿の違いでもある。 つまりは悪意ある者の姿は外に現れる、という幻想を具体的に提示したのである。でもそれが真実だとしたとき、 現代に起こる様々な詐欺行為は事前に判明することになる。人は外見だけで内心はわからない。こんな単純なことを、 何故にわざわざ否定するようなことを古館氏は語るのであろうか。

この二枚の彼女の写真は古館氏の語りによるテロップで、ある意味固定化されてしまう。そして、 恐ろしいことを考える人は外面にそれが現れると言うことの証拠となる。古館氏の発言は正直ゴミ発言である。 でもゴミ発言は何故か即時消費されることなく伝播する。また無意味な発言が誕生した。今日のニュースステーションでそれを僕は目撃した。 まぁ、こういうゴミ発言を述べたとしても時間の無駄かも知れないが、メモとして残す。

JoyLuckClub

Date
2007-01-12 (金)
Category
人物 | 愚考 | 文学・書籍 | 映画・TV

母は僕が3つの頃に夫と死別をした。彼女の生きるための厳しい戦いはそれから始まったと言っても過言ではないと思う。でもそういう母にも幼い頃、そして学生時代とそれに続く時代があったのは紛れもない事実だ。でも僕はそれらを殆ど知ることはない。

幼い頃の母、そして学生時代の母、夫である僕の父との結婚生活、その時々に彼女がなにを見て、なにを聞き、 そして肌でなにを感じたのだろう。
時折、年が離れた母の姉、僕にとっての叔母から、学生時代の母のことを聞くときもある。 学生時代はお転婆で勉強よりはスポーツに熱中していたそうだ。彼女は卓球の選手だった、そしてクラシック音楽が好きだった、その中でも特に 「アルルの女」が好きだった。そういうことを断片的に僕は叔母から教えられた。

父は、その叔母が学校教師だった頃に初めて受け持ったクラスの生徒だったという。父は叔母の教えに感銘を受け、 たった一年の担任期間にもかかわらず、毎年の賀状は欠かさなかったそうだ、そしてそれが縁で父と母は結婚をした。 父は土木技師だったので現場が決まると半年間は家に戻らなかったそうである。そして父は33歳の若さでガンを患いこの世を去る。

それからの母は今までの生活とはうってかわってて苦難の連続だったらしい、父の退職金と保険、そして幾ばくかの借金で、 現在すんでいる場所で下宿屋を営む。下宿屋を撰んだ理由は幾つかあるだろう、 でも最優先だったのは幼かった僕と姉のそばにいて生計を得れるということ。 それから今に続く母の事は僕も知っている。 しかし母の気持ちまで知っているとは言い難い。

映画「JoyLuckClub」は4組の母と娘の物語である。この映画には8人の女性の、 彼女たちの母への記憶が現在に結びつき語られる。映画のあらすじは調べればすぐにわかる。僕にとってはあらすじは問題ではない。映画を見て、 まず思うことは、原作者エィミ・タンがこの小説を書かなければならなかった気持ちの強さだった。映画の脚本にもエィミ・タンは加わっている。 それほどこの作品は彼女にとって重要な作品なのだと思う。そしてそのメッセージは男性である僕にでさえ十分に伝わる。

8人の女性、母の母も加われば計12名の女性の生き方は勿論一様ではない。僕の母の生き方がそうであるように、 人と較べることができる人生などどこにもありはしない。そしておそらくこの国には、数千万の母親がいて、その一人一人に 「JoyLuckClub」が存在している、と僕は思う。そしてその数千万の母親たちは、それぞれに愛する者たちが存在する。 愛の連環の中で、互いに幸福を味わい、時として誤解を招き、場合により憎しみに変わることもあるかもしれない。

それは途方もない思いなので、目眩すら感じる。いまのところ僕にできることは、人を、人との関係の中で認めようと努めること、 そして自分を生かすこと、そのくらいしか思い浮かばない。

小説「JoyLuckClub」の方は十年位前から読もうと思い続けていて、それでいて、 読書の待ち行列では優先順位が後回しになりつづけていた。実は映画で公開(1993)していることさえ知らなかった。 今回レンタルで映画を見て、やはり小説も読もうと思い至り、図書館に予約を入れた。
映画の監督はウェイン・ワン、僕の好きな映画「スモーク」(1995)の監督でもある。「スモーク」の方は、これまた好きな作家ポール・ オースターの原作だったので、確か恵比寿ガーデンまで公開時に見に行った記憶がある。とても丁寧に映画を造る監督だと思う。

僕にとって、「JoyLuckClub」は今後も何回も見る映画のひとつになるのは間違いない。

映画「ダヴィンチ・コード」を見てトムハンクスの毛髪が気になる

Date
2006-07-21 (金)
Category
映画・TV

 davincicode

映画「ダヴィンチ・コード」を見た。僕はこのベストセラーになった原作を読んではいない。 邦訳される前から何かと物議を醸し出していた作品として注目はしていたが、いざ邦訳されると、やはり同様に注目している方が多く、 書店で積まれている書籍を見た瞬間に読む気が全く失せてしまった。

映画はトム・ハンクス主演だというので見に行ったようなものだ。実を言えば彼の以前の出演作「ターミナル」を見て、 彼が歳をとった姿に驚いた。それでも「ターミナル」 のあの無国籍風の男はトムハンクスでしか演じられないと納得したのを覚えている。

僕が好きな映画、「ビッグ」で見せた、あの子供っぽい目つきと笑顔、そして大きな鍵盤の上で曲をタップで弾く軽妙な動き、 あれらを印象的に覚えている僕にとっては、トム・ハンクスの俳優としての存在感をそこに求めて眺めてしまう傾向がある。勿論「ビッグ」 から20年近い年月が経っているのは理解しているし、彼がその年月に俳優として幅を広げてきたのも見ている。

それでもトム・ハンクスの役者としての本質、もしくは魅力は、映画「ビッグ」で見せた姿にあると思うのだ。 彼から少年ぽい眼差しを無くしてしまったら、彼から軽妙な雰囲気を無くしてしまったら、それは単なる普通の中年男優でしかない。  

トム・ハンクスは、存在としての喜劇性を感じさせる役者だと僕は思う。彼が演じる役は、深刻な状況にいても、 どこか軽さとおかしみがある。そしてその雰囲気が映画の中で逆説的に現実感をもたらせる。

それが今回の「ダヴィンチ・コード」では、彼の良さが現れていない。全くとは言わないが、あれだと誰が演じても同じではないか、 そんな感想を持つ。だからか、 妙にトム・ハンクスの頭の禿げ具合が目立ってしょうがなかった。 

「ダヴィンチ・コード」のトム・ハンクスは、正直言えば映画興行の担保として担ぎ出されただけで、彼が演じる必然性はそこにはない。 だから見終わった後に彼が出演していることを忘れるほどでもあった。

また彼が演じる教授が、様々な事物から連想を働かせ、真実へと推理している様は、 CGを多用し見ている方も理解しやすいのだが、 妙に現実感が乏しく、何か回答がどこからともなく出てきた、 手品のように種も仕掛けもあるような、そんな気分にさせられた。

だから原作を知らない僕は、映画の半ばまで、トムハンクス演じる教授が黒幕ではないかと疑ってしまったくらいである。 そう、 映画途中で僕が密かに願ったこと、悪役としての黒幕トム・ハンクスを僕は見たかった。

トム・ハンクスを気にせず、映画としてみればなかなかに面白かった。でもどうも評判はあまり良くないらしい。 また話題としてキリストに関することに集中しているかのようだ。

確かに、例えば「南京事件」を背景にサスペンス映画が造られた時、 描き方により、映画として僕は見ていられないかもしれない。 解釈はその人が持っている、文化的・歴史的資源によるところが大きいとも思う。 でも映画の感想は、他もそうかもしれないが、 自分の立場で行うなうしかない。

僕にとってはこの映画はサスペンス映画ではない。この映画は一人の女性が自分が何者であるかを知る過程を描いた映画だと思う。 一見何も関係ない事柄が繋ぎ合わさり、結果的にわかるのは自分のことだった。そしてトム・ハンクス演じる教授も同様である。 彼もこの事件を通じて自分を知るのである。だから映画では、二人の過去の記憶が時折挿入されている。

歴史サスペンスとして見たとき、思い出すのはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」である。そちらのほうは書籍も映画も何回も見て、 または読んだ。それと「ダヴィンチ・コード」を較べるのは何だが、映画を見る限りに置いては、謎は「薔薇の名前」 の方が圧倒的に深いように思える。

原作を読んでいない僕が言うのは何だが、「ダヴィンチ・コード」が流行った理由の一つとして、そのわかりやすさが挙げられる様に思える。 で、僕の結論で言えば、わかりやすさは真実からほど遠い。勿論、一つの出来事に対し様々な物語があると思うし、 原案ではその中の幾つかをつなぎ合わせて出来たのだと思う。物語作家としての才能には敬服するが、これほど売れたのは、 その伝説を逆手にとっての、巧みな商業主義があってこそだと思うのである。

トム・ハンクスのことを語るつもりで脱線をしてしまった。

時には昔の話を by 加藤登紀子

Date
2006-07-12 (水)
Category
映画・TV | 音楽

宮崎駿監督作品の中で一番好きな作品が「紅の豚」である。監督の空に対する果てしない憧れとロマンチシズム。 おそらく主人公が人間であれば、これほど格好良く描くことは難しかったのではないかと思えてくる。見方にもよるが、 このアニメは好き嫌いがはっきりと出るかもしれない。僕自身がこのアニメが好きなのは、 ロマン主義的な傾向が僕の中に根強くあるからだと思う。

加藤登紀子作詞作曲の映画エンディング曲「時には昔の話を」は映画以上にその傾向が現れている。 誰かが映画とは痕跡の表出であると言っていたが、それであれば自己回帰する作品は映画とは言えない。それでも、常ではないが、 時としてそういう映画と歌を無性に見て聞きたくなるのである。

これから盛夏だというのに、今夜は既に秋の気配。時には煙草の紫煙の中で思いに耽るのも良いかもしれない。

映画「ヒットラー最期の12日間」の感想を再度書く

Date
2006-04-17 (月)
Category
愚考 | 映画・TV

前記事「映画「ヒットラー最期の12日間」感想、それは映画の誘惑」 で僕は一つのモチーフ「二度の自死」をもって感想を書いた。 ただモチーフ自体が僕には手に負えなく、とても緩くてまとまりに欠ける文章になってしまった。それを認めての再度の感想は、 でも前記事の反省からではない。同一のモチーフを持ちながら、別の話を書きたいと思ったのである。それはあの映画全体に流れる、 勿論僕が感じた、一つの雰囲気についてとなる。

 ベルリンの地下基地の将校達の姿は、ロシア兵達が迫ってくる状況の中で、 ただ時間を潰すだけであった様に見える。 手駒の軍隊がない等の理由で作戦本部の将校達がやることがないのはわかるが、酒を飲み、 トランプで遊び、煙草を吸い、 益にもならぬ話で笑う、それらの姿に僕が感じたのは「退屈」とそれを紛らわすための行為であった。

 彼等は時間を持てあましていた。だからただ時間を消費するためだけに、彼等は酒を飲み煙草を吸いトランプで遊んだ。 彼等は何を持っていたのだろう。滅びの時だろうか。恐らくそういう観念さえも持っていなかったのではないかと思う。 ただ彼等は時間を持てあましていた。そういう風に僕には映ったのだった。

例えばゲッペルス夫人の描き方だが、 彼女は自分の子供達を睡眠薬で眠らせ、眠った後に一人一人を劇薬で殺していく。 全員殺し終わった後に彼女は別室でトランプ占いをする。 茫然自失するわけでもなく、 無表情に一人でトランプで時間を使う彼女の姿は鬼気迫るものがあった。自死までの時間を持てあます姿、 死までに至る時間は彼女にとって無意味であったに違いない。それでもその時間を「退屈」だと感じる姿がそこにあったように思える。 僕はこの映画の核がこのシーンにあるように思えて仕方がない。

「退屈」が対象の欠如を感じることで生じる「気分」の一つとするならば、 明らかに彼女はヒットラーの自死により世界の欠如を実感しそれ故に自分の生の時間全てに「退屈」を覚えていたことだろう。 そしてそれは自分の子供達の殺害という行為で決定的になったのではないだろうか。 彼女は自らの死を夫であるゲッペルスの銃によって与えられるが、これも僕の想像だが、彼女は生きるのと同様に「死」 についてもどうでも良かったと思う。何も感じることがない状態、それを人は何というのだろう。「絶望」という言葉を僕はすぐに思い出す。

「退屈」は状況により「絶望」に至る、そうなのかもしれないが早々に答えを出すのが憚れる。 この映画全体に流れる無力感と倦怠感。 熾烈なベルリン攻防戦で次々に倒れる市民たち、そのさなか退廃的な酒宴に興じる将校たち、 それらの止め処もない反復した映像にうんざりし、映画が長く感じたのも事実だった。

そのうんざり・ 飽き飽きとした気分は見終わった後にも続いた。ヒットラーとその最後の状況を事実に即して描いている、 との映画広報の謳い文句が正しいとすれば、その最後はなんとも陳腐で「退屈」な「最後」だったのか。

勿論この映画は現実ではない。 人間はこの映画のように鳥瞰した現実を見ることはないと思うのだ。ただこの映画は一つの人間の「生」 の現実を現している、そう思える。 多くの戦争映画は僕にとっては退屈そのものである。殺し殺される反復映像、 新味がない故に強度が求められ、 観客はより強い刺激を期待する。その文脈でいえばこの映画も「退屈」な映画の一つなのかもしれない。

唐突に登場しては即時殺される人々、 史料を基に描かれているのであれば、現実にはその登場人物にも確固と存在した名前と「死」 の意味があるはずである。 その意味を考える暇なく映像は進んでいく。クラップの「過剰と退屈」で言われるまでもなく、 そこに意味は常に不在となる。 戦争映画の退屈さの元はそこにあるのかもしれないが、 それが現実の戦争への嫌悪感に繋がる可能性があるとすれば意味があるのかもしれない。

映画「ヒットラー最期の12日間」感想、それは映画の誘惑

Date
2006-03-10 (金)
Category
映画・TV

「亡国のイージス」を見たときに、これは今までの戦争映画のパロディではないかと疑った。さしずめ「亡国のイージス」のヨンファであれば、「ヒットラー最期の12日間」の観客に向かって言うことだろう。
「日本人よ、これが戦争だ」と。
でもヨンファが本当に戦争を知っていたのかは、僕にとっては疑わしい。彼にあったのは個人的な強いルサンチマンでしかなかったと思える。

映画「ヒットラー最期の12日間」をレンタルで借りてみた。見終わった後は正直言って心身ともに疲れた。ヒットラーと彼の側近を中心にベルリン市街戦を描いている為か、そこに現れる映像は滅びる国の姿であり、具体的には自死、敗残の将兵、私刑の死、銃弾に倒れる市民、等の姿であった。疲れたのはそれらの映像によってだけでなく、幾つもの疑問が僕の中に現れたからだった。

映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たヒットラーを描いている、と公式サイトには書いてある。しかしそれが全てでないことは誰もがわかる。つまり秘書が全く目撃することが出来ない状況も映画に描かれているからである。その割合は少なくない。秘書の目撃以外の場面は、膨大な記録から制作者が取捨選択し、多少の脚色を加え、映画に使われているのだと思う。秘書の原作本もあり、無論それに対しても同様のことだろう。全方位に全ての記録を2時間台の映画に詰め込むのは不可能であるし、仮に行ったとすれば、それは映画とは言えない代物になってしまう。

映画であれば、当然に制作者側の意図がそこにはある。歴史に詳しい方から見れば、この映画には描かれていない箇所、もしくは変更されている箇所等と、気になる事柄が多い事だろうが、それが映画というものだ、と僕は思うのである。さらに、この映画は「秘書が見たヒットラー」の言葉より、「高い真実性」の先了解を観客に持たせているように思えるが、裏には、秘書が見たヒットラーを描いているに過ぎません、という言葉も含まれているとも思えるのである。その上で制作者は秘書が見てはいない様々な場面を挿入しているのである。これらのことを前提にして、僕はこの映画を史実としてではなく映画として観た。

映画というのは誘惑のメディアでもある。人は映画を見ると自分の信念をその中に発見しようとする。そして必ず見つけるのである。その誘惑を抗える人は少ない。映画の感想とは自分語りに他ならない、そして僕もこの映画で見つけたのはひとつの自分の考えであった。ただ毎度のことだが、その考えに対して明確な言葉と論理を持って僕は語ることが出来ない。ようするに未だ僕には不明なのである。こうやって書くことで少しでも理解に近づきたいと願っているだけなのだ。

「ヒットラー最期の12日間」が公開した当初、産経新聞での紹介欄にフランス人批評家の言葉が載っていた。既にその新聞は手元になく記憶は曖昧だが、確か彼はこう語っていた。「ドイツ人はヒットラーを語れるほど成熟したのか」と。僕はレンタルで借りるときこのフランス人批評家の言葉を思い出していた。

「成熟」とは一体どのようなことを言うのであろうか。「成熟」という言説には明らかにそこには他者性があると僕は思う。「成熟した」という基準は、外部に在る普遍的な定義が必要と思うし、その定義は「成熟したのか」と問うフランス人にも当然に跳ね返ることになる。ただ「成熟したのか」と問いかけるフランス人批評家がそのことを意識していたとも思えないのである。でも何故か、「成熟」という言説に内容説明を求めるまでもなく、それを掲載したフランスおよび日本の新聞も、おそらくドイツでさえ、了解を得てしまうのである。なぜこのような事がおきるのだろうか。

ひとつ思いつきに近い想像をすれば、「成熟した」とは、ヒットラーを含めた第三帝国が起こした様々な惨事の理由を見つめ批判する外部に在る規範の構築、それを構築した上で政治にそれらを生かすことの様に思える。でもヒットラー以後、多くの思想家たちがそれらを行ってきたのではないのだろうか。未だ足りないのであろうか。おそらく足りないという話ではなく、ヒットラーに関する問題は時代と共に変質し、新たな問題として再生産され続けているのだと思うのである。

時代の思想に掴まれている僕らにとっては、様々な問題は、大雑把に言えば、個人のアイデンティティ・社会状況・政治経済にその原因を求める事が多い。ヒットラーでさえその限りではなく、よってそこからはモンスターではなく人間としてのヒットラー、独裁者ではなく思った以上に民主的なヒットラー、そして第一次大戦からの復興とドイツ民族の自信回復に成果を上げた政治家、等のイメージを立ち上げることも可能ではある。でもそれは時代の思想からの必然による出現ではなく、一つの誘惑として現れるのだと僕は思う。その誘惑の中でヒットラーをヒューマニストとしての見方もあるが、その時、ヒューマニズム(人類主義)の人類に該当しない人たちは人類主義と結託した科学としての衛生主義により駆除される。そこに現れるのはヒューマニズムは人種主義と結託しやすいということかもしれない。誘惑されるのはよいが、それから派生する問題を続けて考えなければならないと僕は思う。

映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たというオブラートに包んではいるが、ドイツで制作したヒットラー個人と周辺に的を絞った映画である。つまり個人のアイデンティティを描くのであれば、それによって他の出来事を卑小化することなく、ヒットラーの問題を解明すべきであるが、ドイツはそれを行うことなく、現代における色々な出来事の中にヒットラーを埋没させ、なし崩し的にしようとしている。そのようにフランス人批評家は受け取ったのではないのだろうか。そして同様にイスラエルの人もその点が感じられるからこそ、この映画に批判的な態度を示したように思えるのである。しかし、ドイツの映画界がヒットラーの誘惑を受けて描きたかった事は一体何なのであろうか。

この映画の中で、僕にとって気になる点が二つあった。ひとつは映画最終場面に近い、外交官がヒットラーとの誓約に自死をするのだが、彼はまず毒薬を飲み、そして自分のこめかみに銃を撃つ。毒薬については、この映画で何度も登場するが、飲めば数秒で死に至る劇薬である。つまり彼は数秒の後に死ぬことがわかって、そして銃を自分に撃つのである。おそらくこれはその場にいたものの証言に基づいた話だとは思うが、僕にとっては二度の自死と写ったのであった。なぜ彼は二度にわたり自分を殺さなければならなかったのか。

もう一つは、ゲッペルス夫妻の描き方が丁寧に時間をかけて描いていることである。確かに映画はヒットラーとその側近達を描いている。でも数多い側近のうち、ゲッペルス夫妻の場面の多さは特筆している。ゲッペルス夫妻とヒットラーの関係、登場の仕方、子供たちを殺害するシーン、および自死迄の様子、映画はこれらの場面を丁寧に描いている。ヒットラーの自死の場面が密室状態で観客に明らかにしていない事を思えば、その変わりに、夫妻を描いているかのようにも見えてくる。そしてここにも、前記の外交官の二度の自死と同様のモチーフが現れてくる。それは子供の殺害である。

子供の殺害方法は、まず彼等を睡眠薬で眠らせ、眠ったときに母親が毒薬を投与する。子供達にとっては睡眠薬を飲んだ時点で既に死は確定済みである。だから睡眠薬を飲むとき長女は抵抗するのである。勿論睡眠薬だけであれば子供達は死に至ることはない。夫妻の気持ちの変化で死を免れることは出来る。でも睡眠薬で眠っている時、子供達には生死の決定権はないのである。そして夫妻が気持ちを切り替える事はあり得ない。ナチスがない世界は彼等にとって生きるに値しないからである。

逆の見方をすれば、子供達はナチスにとっても未来である。つまりはナチズムは二度と現れないことを映画は語りたいのかもしれない。さらに子供達を殺した母親は、自分を殺したのと同等である。その後映画では、ゲッペルスの妻の表情は仮面のような無表情さを保ち続ける。ここには子供の殺害から連続する二度の自死のモチーフがあると僕には思える。そしてそのモチーフは妻を銃殺するゲッペルスとその死に連続して流れていくのである。

ゲッペルス夫妻は、ナチズムの崇拝者の末路、もしくはナチスドイツの終焉、を象徴的に表していると僕は思うのだが、それだけでは無いと思う。つまりはゲッペルス夫妻から外交官に続く一連の二度の自死。それが正直言えばよくわからない。ただ僕の中に、この映画全編を通じて引っ掛かり続けているのである。あれこれと色々なことを考える。一つめの自死は国家の自死、二つめの自死は個人の自死。もしくは暗に二度の自死を強調することによって、ナチズムを過去の出来事として精算する意図もあったのかもしれない。また二度の自死の持つ意味をキリスト教的な意味から捉えるとどうなるのだろうか。さらに現代のドイツの状況の何かがそこにあるのかもしれない、でもそこまで行けば、無知な僕には辿り着くことは難しい。

再度言うが、上記の2つの自死は綿密な調査の上での定説であるのだろう。でもそれを取り上げ描く裁量は全て制作者側にあるのである。つまり僕はこの二つの出来事を疑っているのではなく、映画における二つの取り上げ方が気になるのである。

二度の自死の意味について、あれこれと考えたが適切な答えが見つからなかった。僕自身がこの映画を通じて、映画の持つ誘惑に抗えない結果、一つの妄想を見ているのかもしれない。その可能性は大いにあり得る。さらに、この映画感想をこのように述べることで、僕は一体何をしたいというのであろうか。ドイツ観念論の言論空間の中でさえ、ナチズムが誕生したということだろうか。ヒットラー以後の様々な思想、マルクス、実存主義、一連のフランス思想、そしてポストモダニズム、それらの潮流の中で解決できない現代の様々な問題を、それらの考え方と言葉と参照を行う事に終始するのでは結局そこから抜け出ることができないと、そう言いたいのであろうか。

いずれにせよ、僕はそこまで到達できないのは確かである。ただ、この映画はそれらを考える切っ掛けになったことは確かだと思う。
最期にこの映画はよい映画か?人に勧めることが出来る映画だろうか?それについての僕の評価は厳しい。ヒットラーを描くのであれば、もっと徹底的に描いて欲しかった。そう思う。

追記:実を言えばこの映画の感想を書きながら僕は「日本の一番長い日」を思い出していた。

深夜の討論番組に反応して思うこと

Date
2006-03-02 (木)
Category
愚考 | 映画・TV

最近テレビの話題を会社の同僚としなくなった。朝から夜半まで仕事をしているわけだからテレビを見る時間などどこにもない。 それはわかる。でもそれでも以前はその範囲でテレビの話をしていたようにも思う。聞くとテレビは殆ど見ないという。ああ、 それは僕も同じだと答えながら、「殆ど見ない」の内容が少し気になった。

僕を例にあげれば、週に5時間くらいである。これは多いのか少ないのかそれとも平均なのかがわからない。 きっと平均などというのはないのかも知れぬ。つまりは自分の過去から現在までの推移の中で、徐々に見なくなっていった、その感触で 「見ている」とか「見ていない」などと言うのであろう。僕の場合、週5時間でも見ているのは事実なので、 やはりテレビは見ていると言った方が正解なのかもしれない。などと愚にもつかぬ事を考える。

つい最近眠れぬと深夜にテレビをつけたら討論番組をやっていた。田原総一郎氏が司会の番組で、 何を討論していたのかはすっかり記憶から抜けている。でもその番組の参加者で政治家の菅直人氏がテレビの権力性について語り、 それは誤解だと田原氏とテレビ関係と思われる人が反論していた。

これは面白そうだと少し見たが、双方ともテレビに権力が「ある」「ない」のやり取りに終始して埒がない。反論側は、 テレビ制作は視聴者が望むものを造ると言っていたが、おそらくそれが制作者側の実感でもあるのだろう。その意見に対し、 視聴者とはいったい誰を指すのか、気になるのは視聴率ではないのか、などの使い古された物言いをするつもりも僕にはない。 テレビだけでは、討論会で制作者側が言うとおりに権力など持たないと思うからだ。実態不明の視聴者と組んでひとつの番組を造り、 そしてそれが管直人氏のいう所の権力となるのだと思うのである。

実態不明の視聴者と言ったが、実際はこの討論番組で言えば、少なくとも実態不明ではなく、 そこに僕が視聴者の一人としているのは間違いない。何故討論番組を制作するのだろう。 それはテレビというマスメディアの意見を代弁する仕組みであり、全ては制作者側の意図によってバイアスされる。 その中で参加者が語る意見の責任は制作者側ではなく、語った参加者の責任になる。

勿論、テレビというメディアの中では画面に多く登場する者が番組の中で主体となるのだから、時間制限の中で、 参加者は自ずから発言が過激になる。過激な意見は当然に口を挟む点が多くなり、それが討論の場を盛り上げる。 そしてそれは制作者側が望むところでもある。 そして視聴者である僕は、口を挟む点を目の前に差し出されることから、 自ら進んで番組に参加して行くのである。

僕がテレビの前にして、口に出さずとも、思いの中で番組参加者の討論にそれぞれ意見を言う、その意見は反論なき絶対的な意見でもある。 その僕の意見は誰に向けて差し出されるのだろう。少なくとも日々にささやかに降り積もる不全感を解消する、 一種のカルタシスを得られる効果がそこにはあるように思える。つまりは自分の中の問題を別の形で解消するために、 深夜の討論番組は消費されるのかもしれない。そしてめでたく視聴者である僕の中で番組は完成するのである。

僕は確かに深夜放送の討論番組に、テレビ局の場にいなくても参加していた。そうしてこのブログでその事を書いている。 それは一言で言えば、討論番組が造り上げた物語への参加でもある。仮にその討論番組で失策があったとき、 様々な伝達手段で批判が沸き上がることだろう。でもそれは見方を変えれば、制作者側が意図した物語に参加できない事への不満でもあり、 批判することでまた別の新たな物語を造ることでもある。そうした場合、制作者側は視聴者のヘゲモニーを意識すると同時に、 番組が視聴者と共に造っていると実感するように思える。つまりはテレビ制作者への批判は、どういうものであれ、 テレビの中心性を強化することに繋がる、と僕は思う。

 最近、日経ビジネスEXPRESSのサイトで大橋巨泉氏は次のように語っていた。

ビル・ゲイツもブッシュ家も、ニュースやスポーツ中継以外、テレビなんか見てませんよ。(日本も) 勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけなんですよ。負け組、貧乏人、それから程度の低い人が見ているんです。 (中略)テレビは今に「貧困層の王様」になるはずです。(大橋巨泉「金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった」 から引用)

米国は僕にとっての基準ではないので、別に大橋巨泉氏の言葉に反応するつもりもない。 一つだけ巨泉氏と僕との間で違う感覚があるとすれば、勝ち組とかそういう陳腐な物言いではなく、 巨泉氏はニュースやスポーツ中継を他の番組と切り分けている点である。

僕の感覚では、テレビで放映する番組はニュース・スポーツ中継に分け隔てすることなく、番組制作の手順に則って流れていると思うし、 内容に関しても制作者側の思惑の中で制作しているのではないかと思っている。つまり僕にとって、 ニュースとスポーツ中継を分け隔てすることは出来ないのである。

さらに僕にとっては、巨泉氏が活躍された11PMの系譜は姿を変えて各放送局のニュース番組に受け継がれている、とも思っている。 あれらのニュース番組はバラエティ番組ではないのだろうか。 僕にとっての問いは、ニュースやスポーツ中継を、 その他のテレビ番組から切り分け、結果的にテレビを見ていないという感覚がどのようにしてできあがったのかと言うことである。

確かに1日24時間という人間の活動時間の取り合いをしている諸々のサービスが多くなった現在、 テレビに割り当てる時間は以前より少なくなったのは事実だと思うが、それ以上に僕らの生活の中に浸透している事が、 テレビを見ているのに見ていないと言う感覚を育てているように思える。また別の見方をすれば、 テレビという存在は従来の電気製品としての受信装置だけでなく、ネット上においても存在している。僕にとってはその 「見ているのに見ていないという感覚」が怖いと思うのである。

NHK番組「移民漂流10日間の記録」を見て思うこと

Date
2006-02-18 (土)
Category
愚考 | 映画・TV

2006年1月29日に放映したNHKスペシャル「移民漂流 10日間の記録」を見た。本番組は「シリーズ 同時3点ドキュメント」のひとつとして制作している。「同時3点ドキュメント」は、3地域のほぼ同時刻の状況をひとつのテーマに沿って描いている。おそらくNHKにとっては意欲的なドキュメンタリーであろう。タイトル映像に流れるナレーションがそれを物語っている。

「ニューヨーク上空の蝶の羽ばたきが東京に嵐を引き起こす」という言葉がある。地球上のどこかで起こった出来事が、遠く離れた場所を揺さぶり、それが増幅しながらさらに全く別の場所へと連鎖していく。一見無関係に見える出来事が不思議な因果関係で結ばれているのである。(NHK 同時3点ドキュメントナレーションから)

物事を時系列で追うのでなく地政的な空間関係で把握すること自体目新しいことではない。ただNHKのドキュメンタリー作成手法は定点から時系列に沿って広がりを持たせていく事が多かったと思う。それを考えると今回の「3点同時ドキュメント」はNHKにとっては従来にない手法と言えるし、制作現場からみるとひとつの新たな一歩なのかもしれない。でも今回が従来作成手法の限界を越えるための実験的な企画であるとするならば、それはそのような技術的な問題ではないと僕は思うのである。NHKが日本を代表するテレビ局であり日本語で制作することから、番組は日本語が理解できる人を宛先にするが、それ以上の条件は持たせることはないだろう。つまり、番組としては幅広く予備知識も何も持たない人を対象とし、かつ最後まで飽きさせずに見てもらわなければならない。だから複雑に絡み合った問題も大幅に切り捨て、物事を在る程度単純化しなくてはならない事に繋がる。だから大抵のドキュメントものは、無理矢理に仮想された番組として同一性の構築を行うことになってしまう。実を言えば今回の「移民漂流 10日間の記録」も、飽きずに最後まで見たが、見終わった後に残るのは少ない。

同時3点の選択理由は僕には不明ではあるし、それについて特には意見は持たない。エチオピアのユダヤ人家族がイスラエルに移民し、イスラエルの若者がドイツに移民を試みる。そしてドイツでは戦後最大の不況下、移民および外国人労働者への排斥運動が巻き起こり、その中で少子化による将来の経済的な国力低下を防ぐため、高度な技術力を持った移民を受け入れる政策を打ち出している。そうしたドイツの移民政策は逆にドイツに生まれ育った人たちに不安を与えていく。 それぞれの国の事情を番組でナレーターは簡単に語る。エチオピアは貧困と人口増加の問題があり、イスラエルはアラブ人との人口比率がユダヤ人側の少子化で逆転する予測から世界中のユダヤ人の移民を進めていること、ドイツの移民政策は少子化と国力維持の双方の目的があることなどである。

僕は3点地域の選択理由については問わないと書いたが、描かれている人の流れは気になった。エチオピア・イスラエルそしてドイツへと続く流れは、構図として番組冒頭のナレーションに重なる。ニューヨーク(蝶の羽ばたき)?東京(嵐)がある意味聞ける話として成り立つのは、大国としての米国ニューヨークの蝶の羽ばたきだからだと思う。仮に南海の小国の蝶の羽ばたきであったとしたときに、東京で嵐になると思える人がどのくらいいるだろうか。単純に言えば、エチオピアにとってはイスラエルは身近な西洋の一国であるし、イスラエルの若者にとってはドイツは西洋の真ん中に位置している国である。つまりはこの構図は、冒頭のニューヨークの蝶の例えと同じく、西洋中心の近代的な世界観を露骨に現している様に見えるのである。

それが未だに世界の現実だとすればそれはそれでよい、ただ問題なのはNHK制作者側はそれを無自覚にいることだと僕は思う。さらに因果関係を現したいのであれば、エチオピアの問題として番組で挙げていた貧困と人口増加の根本をまず洗い出さなくてはならないと思う。それぞれの歴史観にもよるが、エチオピアの歴史に西洋は全く無関係ではないと思うのである。さらに東京の嵐で因果関係が完結したとも思えない。ドイツの移民政策は、逆に数十万人のドイツ人の流出となっているのであれば、最後に押し出される人は誰なのだろうか。まさに因果関係の区切り方に制作者側の歴史に対する無自覚さが出ていると思うのである。

番組ではエチオピアでは一家族のみを追い、イスラエルでは一人の青年とエチオピアからの移民達を見せる、ドイツではさらに両国より多くさまざまな場面を見せ特に誰かを中心におくことはしない。つまりはドイツに流れるほど問題が複雑化する方向に見せている。あたかもドイツよりイスラエル、イスラエルよりエチオピアの方が社会的問題が少ないかの様な印象を持ってしまうのである。

エチオピアがイスラエルのユダヤ人移民に協力する理由は国家による間引きと同じであると僕は思う。勿論、人が生きて生活をするためにやむを得ず、もしくは長く待ちわびた「約束の地」イスラエルへと移民していくのだろう。そこには僕などが口を挟む間もないことは事実である。ただイスラエルがユダヤ人比率を高めたい理由のひとつとして簡単に想像できることは「兵士」の数なのだと思えるのである。ドイツの移民政策といい、そこにあるのは近代国家の姿そのものである。NHK制作側のコメントとして、人びとの国家観が変わったと語っているが、どのように変わったのか正直この番組からは掴めなかった。仮に個人のアイデンティティ形成に国家を求めなくなった事であれば、番組があえて特別番組で語る事でもなく、さらに描き方も違ってくる、と僕は思う。

イスラエルに移民したエチオピアのユダヤ人達は、一年間イスラエルに馴染めるように教育を受けた後、実社会に投げ出される。番組では、彼らの多くは日本で言うところの3Kの仕事に就くことになると語りその姿を撮していた。さらに既にゲットー化している様子が紹介された後、その中で「だまされた」「差別を受けている」と語る姿も撮していた。移民開始当初の一世代目の苦労はどこも変わらないとは思うが、問題は同一民族なのである。今まで、「宗教」、「歴史」、「民族」で同一化を確立していた民族国家としてのイスラエルが、新たに「人種」を受け入れるとき、内部からのほころびが出てくるのではと思うのである。しかもエチオピアのユダヤ人移民は東西欧州からのユダヤ人と同じ歴史をくぐっていないのである。内部のほころびが、逆に同一性維持への引き締めと、ユダヤ人としての主体を造り続けるために、新たな敵を造る事がないようにと思うだけである。ただこのイスラエルの状況については個人的には確かに興味はある。

ドイツは地政的に欧州の中央に位置しているので、歴史的に人の出入りが多いところだと聞いたことがある。特に1999年、難民の受入数は米国・カナダと並びドイツは1万人以上であり、欧州の中でも群を抜いて多かった。いわゆる経済的に豊かな国で移民・難民の受け入れ数が最も少ない国はおそらく日本であろう。今後は移民・難民受け入れに消極的な対応も国際的には許されない状況になっていくことだと思う。

「移民漂流 10日間の記録」では、最後に先進諸国の少子化問題を挙げ、ドイツを含めそれぞれの国の生産能力から見た維持のために必要な移民数を語っていた。それによると年間60数万人の移民受け入れが日本では必要だと語り番組が終わる。つまりこの番組は、移民について報じていながら、その移民を先進諸国の少子化問題のフレームに重ねているのである。少子化問題は国民にとっては情緒的な問題に近いが国家にとっては国力低下の問題であり、両者の温度差は大きいように思う。ただ少子化問題が即座に移民へと短絡的に繋げるのはお粗末ではないのだろうか。繋げてしまう事は、近代国家としての思想を補強してしまう結果になりはしないだろうか、と懸念する。

60数万の移民が必要だとの産出は、おそらく2000年3月の国連経済社会局人口部の報告書によると思われるが、この報告書での基となるのは15歳以上64歳未満の生産年齢人口のことであるし、年齢以外で対象となる条件が僕にはよくわからないのである。何が言いたいかと言えば、移民・難民への対応は国際関係の中で自ずからそれなりの受け入れを行う必要が出てくると思うが、それと少子化対策は分けて考える必要があると僕は思うのである。両者のそれぞれに日本で政策として整備しなくてはいけないことは多いと思う。勿論、少子化対策への整備、つまり女性が働きやすい環境の整備等が、移民対策に繋がることもある様に思う。

番組の話に戻るが、「移民漂流 10日間の記録」の制作者は一体何を視聴者に伝えたかったのだろうか、見終わった後に残る気持ちはその疑問である。3点同時の状況を見せているようで少しも見せてはいない、逆にカタログ的な番組構成により外部からの俯瞰的な視野を与えているかのような感覚になるが、それも錯覚にしか過ぎない様に思う。何の意味もない番組であれば無視すれば事足りる、本番組もそうした番組のひとつかもしれないが、僕の何かに引っかかり本記事となった。3国についての状況を語ったつもりは全くない、ただ番組の感想を語っただけである。的を絞れない記事で申し訳ないと思っている。

丑三つ時、ブログを書いて震える

Date
2006-02-14 (火)
Category
愚考 | 映画・TV

子供のときに映画「東海道四谷怪談」をテレビで見た。僕が小学生で夏休みの近くの友人宅に遊びに行き、暇に任せてテレビをつけたらたまたま放映していた。見たくはないのだが、目を離すことができず、とうとう最後まで見てしまった。帰りの道が、まだ暗くはないのだが、街路樹が自分に襲い掛かるような、そんな気分になり怖くて家まで走って帰った。後から知ったら、僕らが見た映画「東海道四谷怪談」は、原作鶴屋南北、監督中川信夫の1959年封切りの東宝映画で、数ある四谷怪談では最も怖いと評判の映画だった。

この映画を見てからしばらくの間、怪談物がまったく受け付けなくなっていた。「東海道四谷怪談」ほどの怖さではなくても、それらしき番組が始まると目を背けるか耳を覆おうかしてしまうのである。テレビを消す行為は一瞬でも番組が視野に入るのでできない。もちろん今はそういうことはないが、それでもこの映画を思い出すといまだに怖さが蘇る。二度と見たくないと思っている。

大人になり、子供のときに味わった同様の怖さを再び味わった。それはあの「リング」である。1998年に鈴木光司原作、中田秀夫監督の角川映画で原作を含めブームとなった「リング」の貞子を見て、僕は「東海道四谷怪談」を思い出したのである。あれから一連のジャパニーズホラー作品が人気を呼んでいるが、僕は一作も見てはいない。こうやってブログに書くこと自体にも多少の抵抗感があるのである(笑)

人はなぜ恐怖を感じるのか?そのような問いは、様々な分野での研究者がそれなりの回答を持っていると僕は思うが、それらの回答は僕にとっては無意味である。仮に人が感じる恐怖の原因を洗い出し、それを相対化し、「脱恐怖」(大笑)をしたところで、僕にとってあれらの映画に「怖さ」を感じることの現実性は変わらないのである。でも「東海道四谷怪談」と「リング」の二つの映画を較べてみたときに、もちろん二度は見ないので記憶の中でだが(苦笑)、ひとつの共通項がある様に思えた。考証なしの冗談に近い想像ではあるが、ここまで読んだついでに聞いて欲しい。(あいそ笑)

「東海道四谷怪談」で印象的な場面はおそらく戸板返しだと思う。伊右衛門(天知茂)が殺したお岩(若杉嘉津子)とあんまの宅悦を戸板に打ちつけ川に流す。そしてその戸板が釣りをしている伊右衛門の前に流れ着き彼を襲う。伊右衛門はお岩の死骸を川に流したのはとても象徴的なのかもしれない。川は異界との境界線であり、もしくは異界への交通路を現していると思うからである。

日本の川は概ね山から海へと流れる。山は山岳信仰を持ち出すまでもなく神聖な場所であり、山神(人)が住む異界でもあった。川はその異界と人間が住む里を経由して海へと続く。イザナミ・イザナギノミコトは初めの子供が異形であったので葦船に乗せて流す、地蔵菩薩は三途の川を渡れぬ子供達を霊界へと誘う、桃太郎は川から流れてきた桃から生まれた事が示すように最初から異形の者として登場する。

再び伊右衛門の前に現れる戸板は、つまりは異界から戻ってきたことを現しているのでなかろうか。戻ってきた戸板に打ち付けられたお岩は既に死骸ではなく異形の者である。
「リング」の場合、象徴的に現れる井戸もまた川の変形である。井戸は垂直方向の川として見ることが出来るからだ。つまり井戸自体が異界への道として現されていると思うのである。何故貞子は井戸に落とされたのか。それはもともと超能力を持つ子として生まれた貞子が父から見ると既に異形の者だったからだと思う。異形の者を異界に帰すこと、それが井戸への突き落とし行為だったようにも思える。貞子は井戸をはい上がろうとする。実際は貞子は異形の者ではなかった。井戸の外部、つまりは人間界にすむ普通の女性であった。だから彼女は井戸からはい上がろうとした。しかしそれが出来ず、彼女は父が恐れた異形の者として復活するのである。井戸からはい上がった貞子は異形の者なのである。

井戸についてついでに話す。もし仮に貞子が井戸で生まれ、井戸の底で生活し育ったと仮定すれば、そんなことは実際にあり得ないが、彼女は井戸の外にはい上がることはなかったと思う。井戸の外部を知るものは、井戸から出た事がある者だけである。また西洋的な見方で言って、人は他者により己の同一性を確保するのであれば、貞子は自分を持たない以前に知らないことになる。そういう者は異形の者でもなんでもない。

お岩と貞子の共通項は、殺されて川に流され、そして異形の者として戻ってきたことにある。

あああ、ここまで書いて急に映画の情景がまざまざと思い出してきた。もっと突っ込んで書きたいことは沢山あるが、この怖さに耐えられそうにもない(震笑)。それに書いている時間は丑三つ時でもある。こういうときは寝てしまうに限る(笑いなし)。

映画「笑の大学」における一つの序説としての感想

Date
2006-01-19 (木)
Category
愚考 | 映画・TV

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三谷幸喜の「笑の大学」をレンタルで見た。この映画は公開前から期待していたが、 機会を逸してしまい見ることが出来なかった。一度機会を逃すと、気持ちも冷めるものだ。 随分前にビデオがレンタル店に並んでいたことも知っていたが、手に取ることさえしなかった。

見たい洋画があり、 それを借りるついでに一緒に何気なく借りただけなのである。でもそれは正解だった。とても面白かった。 展開も早く、 セリフ回しも巧みで主要登場人物が二人だけで、しかも殆どが閉じられた部屋の中が舞台だというのに、 飽きることなく鑑賞することが出来た。
監督・脚本・演出の良さもさることながら、二人の演技が良い。 特に役所広司の演技は素晴らしかった。

「笑の大学」で気になる場面があった。それは最後の場面だ。検閲官・向坂睦男(役所広司) が軍隊に入隊する脚本家椿一(稲垣吾郎) を励ました後、何故、再び検閲室からでてさらに励ましたのだろう。 部屋の中の会話で十分でなかったのか、でも少なくとも検閲官・ 向坂睦男にとっては十分でなかったのだろう。

抑えがたい衝動が部屋から飛び出させ、そして検閲官の立場では言ってはいけない言葉を語る。 その時の向坂の心情はどういうものだったのだろう。 映画を観ている最中は、その時の向坂の行動は自然で僕は納得した。 この素朴な問いかけは映画を見終わった後に徐々に沸き上がってきたのである。

何故、どこに僕は納得したのだろう。 その点が今回の感想の出発点だった。 この映画の設定が戦中であることとか、 椿一の仕事が一枚の赤紙によって中断されることとか、 それらのことは僕にとっては大きな意味を持たない。大事なことは「笑の大学」 は主要登場人物が二人であるということ、 そしてこの二人の立場と目的は対立しているということであり、 その状況を創り出すために戦中という時代設定が必要だったと思うのである。

映画冒頭は向坂が検閲官として数名の脚本家と対応してい場面から始まる。向坂の仕事に対する姿勢が出ていた。 そこでは検閲台本の作者たちは、初めから検閲官・向坂と敵対する者として登場する。 そして向坂の目的は自分とは相容れないとの立場を崩すことがない。それは互いに了解し合う可能性を否定するということに繋がる。

また向坂にとって意に合わない舞台を不能にすることは、台本に大きく干渉することと同義であった。しかし椿一の場合、 台本への干渉は致命的ではなく、彼の目的は上質の喜劇を上演するということであった。それが二人の行動の奇妙な一致を見ることになる。
向坂は坊主のカツラをかぶってまで台本に関わりを持った理由は、向坂の仕事と矛盾する行動ではなかった、と僕は思う。 彼は職務に忠実であったが故に、業務範囲を超えて、あくまで台本に干渉し続けたのである。

ただ、 この二人の奇妙な共同作業による新たな脚本の創造は、互いの立場を超えた人としての了解へと繋がっていくことになる。 それは向坂にとって椿の世界観、笑いの世界、を知り了解することになっていく。
ただ椿自身は幾分向坂のそうした対応を過大に評価してしまうことになる。それが自分の思いを吐露する場面になるのであるが、 その結果向坂自身の職務、それは相手を了解する以上の重みを持ったもの、を喚起させてしまうのである。

向坂の最後通告である 「笑いの要素を全てなくすこと」は、彼自身が椿の世界観を了解しているからこそ出る、 椿にとって致命的な要求であると僕は思う。
「やってみなければわからない、僕は自分を信じている」と言い残した椿が、 翌日に向坂に渡した台本は今まで浅草で学んだ笑いの全てが入った完璧な脚本だった。向坂はもう自分の笑いを抑えることが出来ない。 しかし椿は赤紙が来たことで台本の上演をあきらめていた。逆に、向坂の中に育った脚本への思いは捨て去ることが出来なかった。

上記の流れの中で僕が向坂の行動に自然な気持ちを持ったのは、語ることが相手にきちんと伝達され了解しあう事で、 互いの世界の中に構築された共有する思い、それを自分の中にあることを認識し、 その事を椿に伝えたいという強い気持ちを向坂が持ったのが理解できたからだった。

椿を励ます向坂は、前日に「自分を信じている」 といった椿の気持ちに近かったと思う。部屋の中での語りだけでは、 向坂の語ることが椿には伝わらなかった。そう感じたのだろう。 伝わるというのは、単なる言葉の伝達ではない。逆に言葉に頼ると、 その人が本当に伝えたいことは伝わらないとさえ思う。 向坂が部屋から飛び出したのは、その現れだと僕は思う。 そしてその行為に椿は自分の思いが向坂にしっかりと伝わったことを知るのである。

人が人を理解することの一つの可能性、 それも対立する間柄であろうが了解しあえる一つの可能性をこの映画は提示してくれたと僕には思えたのだった。

実を言えば、 この映画を観て僕は別の一つの映画を思い出していた。それは「ロスト・イン・トランスレーション」という映画だった。 タイトルがそのまま主題となっているこの映画では、主人公についた通訳の拙い翻訳が象徴的に登場する。 異言語空間でのコミュニケーション・モデルの不在と、そこからくる孤独感の中で、人はやはり人を求めるのである。 ロストしたのは拙い翻訳のことではない。それは語ることを相手に伝達する気持ちの喪失であり、 それを異言語空間の中で象徴的に表しているのだと僕は思う。

少なくとも、向坂と椿は「ロスト・イン・トランスレーション」 の登場人物と同様の孤独感もしくはその麻痺を味わってはいない。 椿にとっては、 検閲室よりは劇団のなかでこそ孤独感を味わったことだろう。それは一度も笑ったことのない向坂にとっても同じだった。 それは同一言語だからという理由では勿論ないと思う。

映画「3丁目の夕日」を観て思うこと

Date
2006-01-15 (日)
Category
愚考 | 映画・TV | 社会

al3.jpg映画「3丁目の夕日」を観た。見終わった後がとても気持ちの良く、爽やかな印象を持った。とても良い映画だと思う。この映画が日本アカデミーの全部門で優秀賞を受賞した理由も納得が出来る。DVDがでたら購入して、何回も観たいという気持ちになる。

物語は、自動車修理を営む鈴木一家とお向かいに住む小説家の茶川竜之介の双方を中心に展開する。幾つかの物語が自然な流れの中で展開していく脚本が素晴らしい。僕が一番気に入ったシーンは、吉岡秀雄演じる茶川竜之介が、小雪演じるスナックのママである石崎ヒロミに結婚を申し込む場面だ。

茶川が指輪をママにあげたいと思うが、お金を借りても購入出来たのが指輪のケースだけだった。茶川にとってスナックのママはマドンナ的な存在で、自分の気持ちの中で少なからず美化されている。当のママは、様々な辛苦の中でやっと念願の店を構える事が出来た女性で、最初は茶川のことを人の良い男としか捉えていない。でも無理矢理押しつけた親友の子供と接している茶川の姿を見て、その人柄に心を許していくのである。
茶川は指輪が入っていないケースをママに見せ、「いつかきっと指輪を買いますから」、と言う。その姿をみたママは、空のケースから、実際にはない指輪をあたかもあるように手にはめてと茶川に言うのである。茶川の気持ちを受け取めたママは、翌朝父の借金の為に身売りし茶川の前から姿を消す。

映画を見終わった後に徐々に広がっていく様々な思い。感動した、素晴らしい映画だと言うのはたやすい。実際に僕はそうだった。でも自分の中に沸き上がるこの思いは何処から来るのか。

この映画には制作者側からとってみると二つのトリックがあると僕は思う。1つは昭和33年という時代設定。もう1つは映画のキャッチコピー、「携帯もパソコンもテレビもなかったのにどうしてあんなに楽しかったんだろう」。
この二つの設定とコピーで、観客はあたかも実際の昭和33年が映画で描かれていると錯覚するのだと思う。でも、これは想像でしかないが、実際は生活の質において、あの頃と現在ではそれほど違いはないように思える。例えば映画のシーンにもあったが、テレビに流れる力道山の勇姿に応援する街の人達、現在ではコンサートとか様々な姿に変えて残っていると思うのだ。勿論一つの点を除いてだが。

携帯とパソコンを引き合いに出し象徴としているのは、物と心の二項対立により、物より心の豊かさを浮かび上がらせようとしているのだろうか。だとすれば、この映画と同様にいかにも現代的であると僕は思う。確かに当時とくらべ選択の幅は広がった。でも昭和33年当時と比べ、選択の自由とそれに伴う責任も増したのだろうか。それも生活の中で個々人にとって変わらないように思えてくる。

この映画は東京を舞台としたファンタジーであるというのも的はずれだろう。映画なのだからそれは当たり前の話だ。映画として確かに言えることは、この映画は現代の人達に向けて描かれているということだろう。昭和33年の生活を知りたければ、小津安二郎の映画を観ればよい。そして小津の映画とこの映画の違いを感じればよいと思うのだ。

そうこの映画を観て感じるものは、失ったものへの懐古とか、亡くしたものへの後悔では決してなく、僕等が今を生きるリアルな感情に近い。逆に言えば、「3丁目の夕日」に描かれている人達は、現代に住む僕等の一つの姿でもある、と僕は思う。そうでなければ見終わった時に感じた自分の心情を理解することが出来ない。

だとすれば、この映画のメッセージとは一体何だろう。この際、公式サイトに書いてある言葉を一切読まずに、僕の感想を書きたいと思う。

昭和33年が時代設定になった理由は一つしかない。それはその年の12月に完成した東京タワーの存在である。東京タワーがこの映画の本当の意味での主人公だ、と僕は思う。建築中の姿は、映画のもう一つの主題である明日を信じることに繋がっている。映画の中で鈴木一郎は誇らしげに語る、「完成したら世界一の高さになる」と、それは鈴木自身の将来の夢を語ることでもある。

東京タワーは、昭和30年の経済白書にて書かれた「もはや戦後は終わった」の象徴的建築物であると僕は思う。またそれだけでなく、敗戦と同時に得た民主主義と経済的な豊かさの象徴でもあった。それが電波塔であることも二重の意味で象徴的だと僕は思う。

戦前には、いくら技術があったとしても、間違いなく東京タワーは造られなかった。それは軍事的にみても、政治的にみても、なにより皇居を遙か高見から見下ろす建造物を造る事自体難しかったと僕は思うのだ。そういう意味で建築物は時代とその思想を表す。戦後に皇居・軍事・政治への畏れがなくなった結果、逆に人はそれに変わる何かを求めたのではないだろうか。そしてそれが東京タワーであり、メディアの為の電波塔だった。

米国フィラデルフィアの市庁舎ビルのドームに建つ、ウィリアム・ベン立像の高さを超える建物は近くに建てない不文律がいまだに守られている。コペンハーゲンでも市庁舎の尖塔を超える高さの建造物を街中には建てることはしない。ロンドンの町並みはあのビックベンの高さが長い間規定していたとも思う。
街に住む人々が、その街の誇り、もしくは畏れの象徴としての建造物を持ち、それを大事にした。それらは歴史の中で勝ち得た自由と平等の象徴、もしくは建国の象徴だった。だからその建築物を遮る高さのビルを近くに建てることはなかった。街に住む殆どの人々が仰ぎ見ることが出来なくてはいけなかった。その中で彼等は、お互いが共有する「何か」を育てていった、と僕は思う。今の言葉で言えば「公共性」に近いかもしれない。

「3丁目の夕日」では殆どの登場人物たちは東京タワーを仰ぎ見る。彼等にとってそれは、戦後の復興の象徴だったのかもしれない。でもそれ以上に、建築中の、もしくは建築後の東京タワーの姿を、多くの人が仰ぎ見る事により、互いに共有する「何か」を感じることが出来たのではないかと思う。その「何か」が現在の日本に必要だと、僕はこの映画が語っているように思えてくるのである。

僕が子供の時、近くの国道から大きく正面に富士山を眺めることが出来た。今では高速道路が国道の上を走り、その時の眺望は失われてしまった。富士山は少し前までは東京の何処からでも眺めることが出来た。富士山を仰ぎ見るとき、それがその形を誰もが知っていようとも、「あっ富士山だ」というかけ声と共に心によぎるもの、そして飽きずに見続ける気持ち、それらは民族として日本人の歴史の中で育て上げられてきたものだ。そしてその気持ちが公共性を考える原点に近いのではないかと僕は思うのである。

映画が昭和33年に戻らなくてはいけなかったのは、その時点に戻らなければ得る事が出来ない風景がそこにあるからだと思う。それは何処からでも仰ぎ見ることが出来る、東京タワーと富士山、そして家族の象徴でもある「夕日」なのだと僕は思う。それが映画の最後に3つとも登場する。

「3丁目の夕日」では公共の場と個人とが渾然一体としていて、明確な区別がない。テレビを購入した鈴木家では、街の人達が当たり前のように集まり、居間で力道山を応援する。また従業員を追いかけて鈴木則文は茶川の家に勝手に入り込む。
この映画で何回も語る言葉は、茶川のいう「お前と俺とはなんの縁もゆかりも無いんだからな」である。このセリフは「3丁目の夕日」のメッセージをとてもよく表していると僕は思う。「縁もゆかりもない」人と同じ家に住む。それが社会なのだとこの映画は語っているかのようだ。

最近ゲーム「キングダム・ハーツ2」で遊んだ。ゲームの中では「仲間」「友達」という言葉が本当に多く出て少々うんざりした。勿論、友達も仲間も恋人も家族も大事なのは当たり前だと思う。でもそれらは別の一面でみれば、仲間から、もしくは友達から除外された人がうまれるのも事実だと思うのだ。社会、もしくは公共性を考えるとき、「仲間」「友達」の発想では難しいと僕は思う。「縁もゆかりもない」人との生活を考えること、それが大事なことではないかと思うのである。そしてその中心に、いつも仰ぎ見ることが出来る象徴としての「東京タワー」が建っているのである。

もしかして僕は新たな「東京タワー」を求めているのかもしれない。それは一つのイメージで全体を纏めたいという心根からでは決してない。個々のユニークな考えと行動を、お互いに尊重し守ることは市民社会の原則だと思う。ただその根っこにある何かは、共有出来ると僕は思うのである。そしてその「何か」を知ること、それが新たな「東京タワー」の礎になるのでないかと愚考するのである。

僕はこの映画の何に感動したのだろうか、それは「縁もゆかりもない」人々と共有できる「何か」を、それはこの映画に登場しなかった様々な人達、日本人以外の日本に住む人達を含めて、得られるのではないかと感じたからだと思う。

こっそりと復活、そしてローレライ

Date
2005-09-11 (日)
Category
愚考 | 映画・TV

今春公開した日本映画「ローレライ」をレンタルで見た。この映画に関して、時代背景が戦争末期であることから、様々な考えがあるのは想定できるが、僕はとても面白く観ることが出来た。僕にとって「ローレライ」は完全なファンタジー映画だった。だから役者がどんなに素晴らしい演技をしても僕にとっての現実感はなかった。ファンタジー映画としてみて、その世界観の中に没入し、そこからこの映画を眺めると、配役一人一人の動機は納得がいくものではあるが、それは例えばアニメを観て登場人物の行動に納得するのと似ている、そんな感じで僕はこの映画を面白く観たのだった。

僕はこの映画で大きく分けて二つの感想を持った。これからその話をしたいと思う。一つめは、この物語は何故うまれたのかと言うことだ。戦争時代の、特に対米戦を描くことには、ハリウッドに対する一つの挑戦への意味合いもあるのかもしれないが、日本が敗戦を経験していなければこの映画の誕生はあり得ないのは間違いない、と僕は思う。「ローレライ」において殆どの内容は登場人物それぞれの美学の主張であった。
敗者は美学にすり寄る、と僕は思う。それは過去の失敗における心理的な打ち消し作用があるのかもしれない。
さらに言えば、美学の主張は失敗を共有する者達から観れば、何か癒される印象を持つものだ、とも僕は思う。僕がこの映画を観て、面白いと思い、場面によって登場人物の行動に共感するのは、勿論僕が日本人として、映画の中で尊敬できる同国人の姿を見たのは間違いはない、でも別の側面から観た場合、僕の中に前記のような癒しの部分もあるのも事実だと思う。
逆に言えば、あの戦争を体験した者も、それをしらない世代においても、敗戦という出来事に対し、僕を含めいまだに何らかの決着がついていないと言うことが、「ローレライ」をして多くの人の共感を得られことの事由の様な気もするのである。

二つめは、メディアはメッセージだとすれば、「ローレライ」から僕が受け取ったメッセージについてである。それは、一つめで僕があげた美学の部分を出来るだけ排除し、その上で一番に印象に残ったことでもある。
それは役所広司扮する艦長が、若い男女の乗った特殊潜航艇を切り離し(生き残って欲しいという願いから)、二人に向かって言う言葉である。男が「大切なものとは一体・・・」という言葉に対し艦長は一言「考えろ」と言う。「お前なら考えればわかるはずだ」という言葉に、敗者の美学からのり越えの糸口があるように思えたのだった。考えると言うことは、美学の中に止まるということを許さない状況におくことのように、僕には思えたのだ。それは一つのファンタジーの終わりを告げる言葉でもあった。

上記のように考えていくと、物語の筋からみても「ローレライ」は商業的にみて日本市場に的を絞った商品であることがよくわかる。この映画はあくまでも、日本人が作った日本人のための娯楽作品なのだ、と僕は思う。それでもビジネスとして成功することをこの映画は証明している。

ついでにいえば、僕は美学そのものを否定する気持ちは毛頭無い。ただこの映画に僕は何故共感したのかを探ってみたいと思っただけである。

2005年8月7日、脈絡なく考えたことをメモとして残す

Date
2005-08-08 (月)
Category
愚考 | 愚考 | 映画・TV

広島における原爆のテレビ特番が今年は多い。被爆から60年という節目ということでもあるのかもしれない。広島・長崎を考えるとき節目という言葉自体にも多少の抵抗感があるのも事実なのだが、正直言えばこれらのテレビ報道を見る際に、僕は自分の到着点を掴めずにいるのも事実なのである。

原爆の被害に遭われた方の体験を聞くたびに、僕はメディアを通じて体験者に同調し何ともやるせない気持ちになる。やるせないという言葉も違うかもしれない。身が内側から何かを吹き出し崩れていく感じ、何が崩れていくのか、それはある意味現在の僕が暮らし生活することとか、新聞などで論評される政治的なこととか、あるいは事件とか、僕を取り巻く多くの社会的状況が、体験者の一言で無意味に感じられるのである。そうそれは現在の日本の国という単位での共同体が、体験者の一言で戦前と対峙され瞬間的に崩れ去る、大袈裟に言えばそんな一瞬の感覚に襲われるに近い。

多分、戦前の日本と戦後の日本では全く別の共同体と言って良いほど何もかも違うことだろう。僕にとって見ると今の暮らしの中で、戦前の日本という国とその共同体を意識することは殆ど無い。それは歴史的な一項目であり、書籍の中で、もしくは博物館的な諸物の中で、テレビなどのメディアの中で、現時点で結果を知る者として総括され時折提示されるだけなのだ。それが広島・長崎の体験者の話を聞くとき、さらに被爆された多くの方が今でも苦しんでいる姿を見ると、僕は繋がっていない断絶され溝があると認識している戦前から、がっしと鷲掴みにされ、「どうなんだ、どうするのだ」、と問いを投げかけられる様に感じてしまうのである。つまりは、僕自身が思い描いている戦後の日本が新たな国として立ち上がり、戦前の日本とは違うと思うことが妄想なのだと、思えてくるのである。

今では僕も多くのことを知っている。広島・長崎では日本人以外にも少なからず在日の方々も被爆しているという事実。捕虜となった人達の被爆、そして住んでいた外国籍の方々の被爆。メディアは時として、それらの方々を無視し、今回の特番においても登場するのは日本人だけである事実。さらに、核と人間との問題という文脈でなく、第二次世界大戦の文脈の中で見ようとする事の問題。戦争の文脈の中で広島・長崎をみると、人は人の上に原爆を落とせるという事実の認識、他の戦闘を列挙されることにより相対化され、被害者と加害者の双方の言い分の中に埋没されていくだけだろう。広島・長崎の問題は、そこから始まりチェルノブイリと東海臨界事故の一連の核と人との関わり方の中で見ていく必要がある、と僕は思う。そうは思いながらも、体験者の話を聞いてしまえば僕の心は前述の様な思いへと辿ってしまうのである。それは自分にとってのナショナリズムの部分もあるのかもしれない。もしくは自分の捉え方に誤りがあるのかもしれない。

先日のテレビ朝日の特番「ヒロシマ」の後半で、名前を忘れたがエノラゲイに搭乗した科学者と被爆者の対談が流れた。メディアが何をねらったのか不明な企画であり、僕自身途中で聞くに堪えない状況になった。今となってはそれぞれの方々が語る内容を正確には覚えていないが、被爆者の方が語った言葉の中の「申し訳ない」という一言が、相手の科学者に謝罪を要請する事に繋がっていったのだ。被爆者の思いは間違いなく正確に相手に伝わっていなかった。その原因の一つに、些細なことだが通訳者のスキルの問題もあったと思う。「申し訳ない」という一言は、被爆者が突然に訳のわからない悲惨な状況に陥り、その結果身近な人の死に立ち会うことで自分自身を責める気持ちから、自分自身に向けられた言葉でもあったことだろう。彼等被爆者の時間は、被爆した身体と共に、原爆が炸裂したあの時間と場所から一歩も動いてはいない。被爆者達が被爆体験を語る動機は、それを後世に残すこと以上に、間近の多くの死者達に対し語ることではないだろうか。常に死者達と共にいる者達の言葉を、前向きに「生きる」事を良しとした人達に伝える事は難しい、と僕は思う。それに、それらの事柄を知識人然とした、第三者的な論評でまとめた筑紫哲也氏の言動に底の浅さを感じてしまったのもある。

多分、広島・長崎の死者達は、「戦争は悲惨だ」とか「繰り返してはいけない」等の言葉に、自分たちが死んだ理由を見つけ納得することはないだろう。それは空爆で逃げまどい焼かれていった多くの人達に対しても同様だと思う。同様に日本が侵略し傷つけ殺した多くの人達に対しても、「日本は平和な国になりました」と宣言しても納得しないと、僕は思う。それらの死者達を考えるとき、僕は言葉を失う。どこから誤りが始まり、それは一体どこまで続いているのか見当がつかないからだ。そこから僕は抜け出すことが出来ないし、抜けだし論評することで何かがわかるとも思えない。そしてそれでも僕は生きていくしかない。

再び「宇宙戦争」の感想、それは一つの妄想

Date
2005-07-08 (金)
Category
映画・TV

af_blogのfuRuさんの「宇宙戦争」感想記事を読んだ。「宇宙戦争」の映画だけでなく、最近の映画全般にわたる、とても良い記事だと思う。僕とは見方が違うが、それでも納得できる部分も多く、読んでいてとても面白い。なによりfuRuさんの感性に触れることがとても楽しい。

再度「宇宙戦争」感想記事を書くのは、fuRuさんの記事に触発されたというわけではなく、前回記事において書くことを躊躇した内容を、僕の思考の中に留めおくよりはメモとして残しておいたほうが良いと考えたからだ。

ティム・ロビンスは好きと言うより、巧い役者という方が僕にとっては適切だと思う。「ショーシャンクの空に」「ミスティック・リバー」、双方での彼の演技力は素晴らしかった。ただ、やはり僕にとっては「ショーシャンクの空に」のアンディ役が印象に強く残っているせいか、その後の彼が演じる役は巧いとは思うが、多少の違和感を持ってしまうのも事実ではある。再度の「宇宙戦争」記事はティム・ロビンスがメインというわけではないが、彼が演じる役オギルビーとトム・クルーズ演じるレイとの関係について書きたいと思った。

前回も書いたことだが、「宇宙戦争」は主人公であるレイの視点から描かれている。それはかなり意識的なカメラに立ち位置からでもわかる。この映画では、レイが見ることしか見えず、レイが知ることしか観客は知ることが出来ない。それは、同じスピルバーグ監督作品である「プライベート・ライアン」が連合国側という一つの共同体からの視線とは異なり、主はあくまで個人の目線だと思う。「プライベート・ライアン」では、一つの共同体から外れる者たち、つまり枢軸国側兵士の痛みは殆ど観客に伝わらないが、冒頭のノルマンディ上陸での激しい戦闘シーンでもわかるように、連合国側兵士の痛み・人間性は明確に伝わってくる。

「宇宙戦争」の場合、視線はレイという個人の視線であるため、幾つかうがった見方も可能となる。その最たるものは、たぶん、宇宙戦争自体がレイの妄想ではなかったのか、ということだ。レイは生活が荒れ、離婚によるストレスと、子供を愛せない自分を責めている。その結果、精神的に追い詰められ、宇宙戦争という妄想が登場し息子と娘を連れまわす、そんな見方だ。それであれば、「宇宙戦争」において説明不能な様々な出来事も、レイの意識における何かの象徴性ということで説明がつくだろう。

勿論、上記の見方を僕は選択しない。でも似たような見方として、映画の中で一つだけそれらしき場面があると思っている。それがティム・ロビンス演じるオギルビーとレイとの関係である。僕は、この映画をレイの視点で描かれているといったが、実際は数箇所においてレイの視線から外れるときがある。その一つが、レイが娘を守るためにオギルビーを殺害するシーンなのである。このシーンはレイがオギルビーがいる部屋に入りドアを閉めて、しばらくして殺したと観客に思わせる状況で部屋から出てくる。その間の目線は、誰でもなく、ただ娘を映しているだけとなっている。映画全体から言えば、とても奇妙なシーンでもある。

はたしてオギルビーなる男性は存在したのだろうか。これがこの記事の主旨でもある。率直に言えば、僕はオギルビーなる男性は実際には存在せず、彼はレイの幻想だという見方をしている。何故そもそもオギルビーは、逃げ行く大勢の中からレイ親子を見つけ助けようとしたのか、レイ親子を助けるだけではオギルビーが目論む反撃への戦力としては弱いとしか言いようがない。それでいて、反撃を目論むオギルビーはレイを囮にし、その隙に敵を叩くことを考えている。それは自己保身を考えてというのもあるが、オギルビーが娘に近づいたり、レイに娘のことは面倒見ると告げたりと、実はオギルビーの意図は娘をレイから奪うことにある様にもとれる。少なくともレイはそのように見ている。

何故オギルビーはレイの娘を奪おうと目論むのか。オギルビーは宇宙人によって妻と子供を殺された男である。それは離婚によって妻と子供から去られたレイの境遇を暗喩しているようでもある。レイはオギルビーが登場する場面では、娘を守る父親の対場となっているが、元々は子供と一緒にいるのが面倒と考える男だった。オギルビーは亡くした自分の子供の替わりにレイの娘に近づいたのかもしれないが、想像するに、妻と子供を愛する良き父であり良き夫だったことだろう。ただ、宇宙人が地球人の血を吸う現場を見ることで、オギルビーの行動は一変する。幻想の増援部隊を導くために、地下に穴を掘り始める。それは恐怖から自己の生存だけを願うエゴイスティックな姿でもある。見方を変えれば、それはレイの以前の姿でもある。

つまり僕の言いたいことはこういうことだ。レイはオギルビーの宇宙戦争前の父親像を願い、宇宙戦争前の自分の姿を錯乱したオギルビーの姿に見た。だから、レイはオギルビーを倒さなければならなかった。倒したのは以前のレイの姿である。そして残るのは、宇宙戦争前のオギルビーの良き父親像であるのだ。これらはレイの精神の中で行われたと考えたほうが良いと僕は思う。第一、地下を掘る音がうるさいだけで人を殺す動機になるだろうか、気絶させ手足口を不自由にするだけで事足りると僕は思う。

レイがオギルビーを殺す場面がないのは、実際に殺す相手が実在しないからだと僕は思う。だからそれ以降は、オギルビーの存在そのものがなかったかのように描かれ、観客から彼は忘れ去られる。

僕にとってこの映画は、何故レイ個人の視点だけで描かれなくてはならなかったのか、の問いで記憶に残る映画になったと思う。ただ評価については、前回の記事から変わることはない。

図書館雑文

Date
2005-07-04 (月)
Category
memo | 愚考 | 映画・TV

利用者の立場で図書館の事を書くつもりでいた。でもそれには少し時間がかかるようだ。利用者の立場で言えば、僕は図書館が抱える様々な問題に無関心というか、問題自体を認識していない。
利用者から見ると、図書館は常に無料のサービスを提供してくれる場所であり、空調が整った快適な空間で、読書もしくは勉強ができる。それは利用者にとって常識的なことであり、先々その提供が途絶えることもしくは変化することをなどないと信じて疑わない。
それらの事などに、利用者として語りたいと思ったのだが、僕の力不足で少し難しい。

図書館でまず思い出すのは映画「ショーシャンクの空に」。アンディーが図書係として刑務所の図書室を整備する。刑務所での図書館。それは「希望」を描くこの映画にふさわしい存在だった。アンディは映画の中で言う。「音楽は誰にも奪えない」と。それは、図書館に寄贈された中に入っていたクラシックレコードを刑務所中に放送する事で、罰則として独房に2週間閉じこめられた後で言う言葉だった。人の心の中のものを他人は侵すことができない。それは図書館に所蔵する様々な書籍・音楽によって象徴的に現されていたように思うのだ。

近くの図書館に行ったとき、所蔵している書籍に囲まれると、時折僕は軽い目眩さえ感じる。知らないことが僕には多すぎる。そのことと、これらの書籍を自分の人生において全て読むことが不可能な事を悟るのだ。勿論、量とかが大事だと言っているのではないが、それらの書籍の中で知らぬ間に、自分の経験とか知識に対し謙虚になっているのは間違いない。

そういえば、以前「東京国立近代美術館フィルムセンター」に度々行った。そこの図書館は映画に関する資料が多かった。最近はどうだろうとネットで調べたら、イベントとして「生誕百年特集 映画監督 豊田四郎」を開催しているようだ。豊田四郎監督作品で未だに印象に残っているのが「地獄変」。中村錦之助・仲代達矢の演技が今でも覚えている。フィルムセンターの図書館に行きがてら映画でも見てこようかなと少し思う。

あと図書館で思い出すのは「国際子ども図書館」。ここには昔の絵本が多い。サイトを見るだけでも楽しくなる。ただ問題は開館時間が社会人にあわないことだ。
元NHKアナウンサーである鈴木健二さんは、昨年まで青森県立図書館長だった。そこで「おはなし会」として朗読と語りを始めた。それは今でも続いているようで、図書館の利用者向けへの一つの文化活動として根付いているようだ。

現在、図書館は様々な問題を抱えている。それに、昨年米国で図書館が市の財政問題で閉館に追い込まれたニュースを何件か聞くように、図書館の維持には相当の費用がかかる。図書館閉館のニュースは対岸の火事ではないのかもしれない。当たり前のように受けているサービスも、今後は様々な社会問題への対応による支出により、図書館への財源割当は減ってゆくように思える。そのとき、今後専門家だけでなく、利用者側の意思表示も必要になるときがくると思う。

スピルバーグの「宇宙戦争」

Date
2005-06-29 (水)
Category
映画・TV

「トム・クルーズの」というより、「ダコタ・ファニングの」とした方が正しい気さえする程、彼女の印象が強い。押さえた演技というより、逆に押さえない演技であることが、少女としての役柄にリアルさが増しているように思う。それほどこの映画での彼女の存在感は大きい。

当初H.G.ウェルズの古典的SFが現代にどのように描かれているのかに興味を持った。解釈の仕方でどのようにもなる原作ではあるが、今回のスピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の場合、僕の見方として最も強く感じたのは、親子関係の再生というモチーフだった。

この映画では、観客である僕らは、トム・クルーズ演じる主人公レイが、見ることしか見えず、知ることしか知らされない。そして映画のほとんどで、圧倒的な力の前に、レイは子供と一緒に逃げ続ける。彼は圧倒的な物理的な力の前に逃げまどうだけでない、それよりもさらにレイは親として、もしくは一人の人間として、自分の子供の前から逃げまどっていたのである。彼は子供を守り逃げまどう中で、逆に子供に対し逃げずに真っ正面から立ち向かうようになる。このレイの成長が主軸となっているように思える。

この映画はレイの視点から描かれている。だから、通常このような人類の危機的な映画としては描かれていないものもある。それは世界各国での危機的状況である。この映画で描かれている舞台は米国だけなのだ。圧倒的な力の前で混乱し、攻撃される理由さえ思い浮かばない。突然に振り下ろされた力に翻弄され続ける人たち。攻撃される理由、攻撃者の正体と背景、それらは最後まで明らかにされることはない。それは実際の戦闘と同じ状況なのかもしれない。

映画の中で一人の男がレイに向かって、「ウジ虫の様に駆除しようとしている」という。ウジ虫であれば、駆除するのに何の良心の呵責もいらないだろう。でも、宇宙人が地球人を地球に蠢くウジ虫と見るのであれば、地球人なき地球を支配した宇宙人も、やはり地球に蠢くウジ虫でしかない。その意味において両者は同根かもしれない。だとすれば、この映画における宇宙人とは何を現すのであろうか。

「未知との遭遇」で宇宙人という他者との友好関係を描いたスピルバーグは、この映画では一転して攻撃を描いている。この映画を見る米国人たちは、一体どのようなことを記憶に蘇らせるのであろうか。突然の攻撃、無差別に攻撃され殺される人たち、そして逃げまどう人たち。それはグランドゼロのあの記憶ではないだろうか。見終わったとき、そんな一瞬の思いつきに、しばらく僕は囚われていた。それは見方として、批判的な方向に偏りすぎているかもしれない。

いやいや、やはりこの映画は、よけいなことを考えずに、トム・クルーズ主演の娯楽大作として見るべきなのだろう。

昔の「宇宙戦争」(1953年)の最後のシーンを思い出した。なすすべもなく教会で最後の時を待ち祈り続ける人たち、その描き方の方が、僕にとっては、今回よりも強く受け入れることができたのも事実だった。それは宗教がどうかという話でなく、「祈り」の持つ本質的な何かが、この手の映画にふさわしいと感じたからであった。今回の「宇宙戦争」にはその「祈り」という感じは微塵もない。

バットマン・リターンズ、見終わった直後の感想

Date
2005-06-20 (月)
Category
映画・TV

バットマン・ビギンズ」を見てきた。何故今バットマンなのかは別にして、バットマン好きの僕としては見なくてはいけない。それに大変におもしろい映画だった。展開も早いし、あのバットマンの世界観も現代的にアレンジされているとはいえ、十分に醸し出している。従来はゴッサムシティという都市世界を描く事がバットマンを描く事でもあったのに対し、今回のビギンズは、バットマンであるブルース・ウェイン個人を描く方にさらにシフトした感じがする。そして、その点においては成功したかもしれない。少なくとも僕の中では、バットマン映画として過去の作品と較べても上位にランクする内容だった。


ただ、ビキンズはスターウォーズのエピソード1から3へのダースヴェーダ誕生までの物語と重なって仕方が無かった。少なくとも僕にとって、バットマンの作り方は、ダースヴェーダーの作り方と同じだったし、しかもバットマンが武道を学ぶ師匠としてリーアム・ニーソンが登場する事から、さらにそれは強まったのも事実だった。それはアナキン・スカイウォーカーを見出したクワイ=ガン・ジン(同じくリーアム・ニーソン)と重なる。なぜ、ダースヴェーダーとバットマンが重なるのかよくわからない。たんに見え方としてのコスチュームが似ているからとかというのでなく、大元の所で両者は似ているような気がするのだ。


ビギンズでは「正義」という言葉が多く語られるが、それはこの映画におけるゴッサムシティでの概念であって、観客が映画に没頭する事が出来る「わかりやすさ」があればそれでいい内容である。映画が終わり、観客達が連れ立った友人達と早速に始める、映画の「つっこみどころ」は、映画への没頭に対する逆作用と考えれば、その量の多さは映画の成功を現しているのかもしれない。そう、この映画は突込み所満載だった。ただ、僕はその点も含めて楽しむ事が出来た。


「正義」だとかゴッサムシティの「都市論」だとかは、この映画では無縁だと僕は思う。単純に思う事は、ビギンズは「父性」について考えさせられる映画だということだ。それはダースヴェーダーが「母性」に関することと対照的でもある。ビギンズでは、主に父親の事が語られ、一緒に暴漢に合い殺された母親の事は殆ど出てこない。バットマンを鍛えるリーアム・ニーソン、見捨てることなく愛情を注ぐ執事マイケル・ケイン、彼に知性を授けるモーガン・フリーマン。彼らは、それぞれに父親の一つの姿を現しているかのようだ。しかも、少年時代に井戸に落ちた逸話は、オスライオンが我が子を谷底に落とす逸話と同じだ。父親を喚起するイメージが多く登場するビギンズは、それが多く登場するがゆえに、逆に「父親の不在」が前面にでていると思う。


「何故井戸に落ちた」
「這い上がるためだ」


何故今バットマンなのか、それは商業的にはスターウォーズの最後の作品公開前という思惑があったことだろう。スターウォーズとこの映画は、僕にとっては完全に競合する。スターウォーズはダースヴェーダーが誕生し、ビギンズはバットマンが誕生する。それぞれの誕生が何を現すのか僕にはわからないが、ただ両者とも面白い映画であることは間違いなさそうだ。次はいよいよスターウォーズである。

雪の女王

Date
2005-05-31 (火)
Category
memo | 映画・TV

毎週日曜日に放映しているNHKアニメ「雪の女王」が面白い。毎放映分は、それ毎に話が完結していて、とてもわかりやすい。それでいて無理がなく、すーっと物語が入ってくるし、絵も丁寧で、全体的にみて好感が持てる。こういう品質が高いアニメを造るのは、制作側のご苦労が多いことだろうなと思うが、視聴者とすればとても嬉しい。

「雪の女王」はだいぶ前に、高校の頃に、読んだ記憶がある。細かな流れは既に忘れてしまった。確か、雪の女王に連れ去られた男の子カイを探すために、女の子ゲルダが一人で旅に出ると言う話だった様に思うが、おいおいアニメを見ることで思い出していくことだろう。先が楽しみだ。

「雪の女王」は冷戦時代のソビエトでアニメ映画化されている。残念ながら未だ見ていないが、その映画でのゲルダは闘う女性として描かれていると聞いた。
そのイメージもあるのかもしれないけど、今回テレビアニメ板に登場するゲルダを見ていると、毎回ハラハラしてしまう。たとえば1回目では、大人が「行ってはダメ」と言っている「迷いの森」に友達を連れて入っていくし、2回目ではおばあさんの熱冷ましの薬草を探しに、カイのお母さんが寝ている隙に雪の河原まで行ってしまう。つまり、大人の禁止を破る子でもあるようだ。

それぞれにゲルダにとっては言い分があるのはわかるし、アニメを見ている僕などは納得してしまう。それに、多くの物語がいうように、子供は自分の住んでいる世界から外に飛び出していくものなのかもしれない。大人が禁止するには、それなりの理由がある。それは社会の中で大人達が生きていくための了解事項であり、大人達は子供達にそれらを禁止として伝えているとはおもう。でも子供達にとっては、「外」にこそ何か新しい物、素晴らしい物が待ち受けているかのように思うのかも知れない。動機はどうあれ、旅が主となる物語は多いのは、そういうロマンを求める気持ちを、逆に物語を通じて何かを伝えようとしているような、そんな気持ちになる。

雑感:身体がだるいと感じていたが、昨日からだが寒くてどうしようもなかった。それで熱を測ったら、39度近くあった。久しぶりの発熱だ。昨晩から今朝にかけて、随分と汗が出て、熱も少しは引いたが、それでもまだ熱が少しある感じがする。昨日に較べたら、本当に楽になったのは間違いないのだが。

ビョルン・アンドルセンの消息

Date
2005-05-21 (土)
Category
映画・TV

ブログ「Mercedes's Diary」さんの記事「男の子の気持ち」を読み、そこでビョルン・アンドルセンの文字を見かけたので、彼は今どうしているのかな、と軽い気持ちで検索をして、見つけたブログ「シェイクで乾杯」さんの記事「ベニスで死す」。

そうなのか・・・と言葉を失う。

「シェイクで乾杯」で引用していた今年3月10日号のパリ・マッチ誌の記事で、ビョルン・アンドルセンはこう語っている。

『私が生きることを続けるためにどれだけの努力を費やしているか、あなたたちは想像できないでしょう』

「ベニスに死す」を観ていない方には、多分この記事はよくわからないことだとおもう。観たことがあれば、彼の言葉にある「想像できないでしょう」の重みが伝わってくる。

「ベニスに死す」での彼の役柄「タージオ」は映画により造られたアイデンティティだ。しかしそれがあまりにも美しく鮮烈な印象を人にもたらせたとき、ビョルン・アンドルセンに「タージオ」のアイデンティティを人は無意識にでも求めるようになる。

もとよりビョルン・アンドルセンという生身には、彼自身の連続した複数の「私」がいることだろう。その状態は同じ身体構造をもつ人間として、僕にも想像できる。勿論、その心身まで知ることは出来ないが、少なくとも「タージオ」という造られたアイデンティティではないことは容易にわかる。

たとえば、僕の身体には連続として連なる幾つもの「私」がいるとする。それを仮に切り取ったとき、そこには同一化できない「私」が幾つも出来ることだろう。それらを僕は状況に合わせて使い分けてもいる。また僕は、自分から、もしくは社会から、「択一せよ」と要請される圧迫も同時に感じる。つまり安定しろというわけだ。それは現在の日本においての普通の出来事かも知れない(それが良いとは思わないけど)。

ビョルン・アンドルセンの場合、それが造られた「タージオ」になれとの要請であれば、それは自分自身を生きるなと言われているようなものだとおもう。「タージオ」のアイデンティティはビョルン・アンドルセンの内なる差異の一つではなく、外の虚像のアイデンティティだからだ。それゆえ、彼は常に自己の内を模索し、生きることを続ける努力をしなくては生きられなくなる。

俳優になるためには、そのへんの問題を様々な役をこなすことで相対化して薄めるのだと思う。ただ俳優であっても、一度印象が刻印されれば、そこからの脱却は難しいことだろう。そういえば、TV板「スーパーマン」の俳優がそれで自殺した事を思い出した。そういう話は知られることがなく、数多くあるのかもしれない。僕はそんな思いで彼の言葉を読んだ。

ハリウッド板「シティ・オブ・エンジェル」の中で特に好きなシーン

Date
2005-05-07 (土)
Category
映画・TV

外科医マギー(メグ・ライアン)に好意を寄せる天使セス(ニコラス・ケイジ)は、普段は人間の目には見えないが、姿をあらわしマギーの前に登場する。友達となった二人は、市場で買い物を一緒にする。天使は永遠の命を持つ変わりに、美しさとか味覚とか匂いとかの感覚がない。市場で買った洋ナシをマギーが食べるときセスはその味を尋ねる。

セス:「どんな味?言葉で表現してみて、ヘミングウェイみたいに」

マギー:「そうね、この味は・・・・洋ナシの味よ!」

マギー:「あなた知らないの?」

セス:「君の感じ方を知りたい」

マギー:「甘くて・・・
     香り高くて・・・
      優しく舌の上で溶けていく・・・
       雪が淡く消えるように」

マギー:(少し照れながら)「どう?」

セス:(笑みを浮かべ)「完璧だ」

マギーの答える洋ナシの味の言葉が好きだ。仮に洋ナシが映画とか小説などのテクストだったとき、できれば僕はマギーのように答えたいと思う。この説明でセスは洋ナシの味をマギーとほぼ同じに感じる事が出来た。「完璧だ」というセスの表情がそれを物語っていた。

セスは洋ナシの味を知りたいと思っただけではない。それと同時にセスはマギーのことを知りたいと思った。マギーが語る洋ナシの言葉は、マギー自身を語る言葉でもある。だから、味覚を知らないセスはマギーの言葉で洋ナシの味だけでなくマギーのことも知ったのだった。
洋ナシの味は人それぞれによって違う。セスは僕にとって身近にいる人のことでもあると思う。

サリーちゃん、あなたは魔法使いだったのね

Date
2005-05-04 (水)
Category
映画・TV

花村よしこの言葉である。
「魔法使いサリー」の1部最終話での言葉だと思った。衝撃的な一言だと思う。第一すんなりと「魔法使い」という言葉が出るのが凄すぎる。
事前にサリーは、自分の正体をよしこちゃんとすみれちゃんに告げている伏線があるけど、それでも「魔法使い」はあまりにも現実離れしている。
それを淡々と言ってのけるところをみると、学校の火事とか何かで、よしこちゃんの頭が麻痺していたのかも知れない。頭が真っ白状態での言葉とも思うのだ。

例えば、仲良く付き合ってくれた異性が、実は結婚詐欺師だったとかに近い言葉かも知れない。正体を知ったとき、確かに頭は真っ白になる事もある。

「サリーちゃん、あなたは結婚詐欺師だったのね」

しかし、これではあまりにも酷すぎる。第一、結婚詐欺師と魔法使いを一緒にしてはサリーちゃんに申し訳ない。でもそんな感じで驚くとき、よしこちゃんの思いを胸に抱く。そう考えれば、よしこちゃんの言葉は日常でも大いに使えるように思える。

でも最近この言葉に対し認識を新たにした。よしこちゃんはサリーの正体を知っても、彼女の本質もきちんと知っていた。友達思いの優しいサリーの本質はよしこちゃんとって何ら変わりはなかった。魔法使いであっても、サリーとは友達であるのは変わりはない。だから、すんなりと彼女が魔法使いであることを認めることが出来た。

そう考えると、よしこちゃんが素晴らしい人物の様に思えてきた。すべからく、他文化が共存するこの国において、見習うべき点がただある。
しかし、これは親が子供に持つ気持ちに近いかも知れない。

「サリーちゃんは強盗したけど、本当は優しい子なんです」

例えが悪かった・・・やはり強盗と魔法使いを同じにするのはよくない。

よしこちゃんは、父子家庭で母親変わりに三つ子の面倒を見ている。アニメ1部では個人タクシー運転手を父に持つが、原作では八百屋の娘である。明朗活発、常に前向き、姉御肌だけど優しく情に篤い。まさに自立した人でもある。

学校の火事の際、サリーは魔法を使ってしまう。目の前で魔法を使ったことにより、よしこちゃんとすみれちゃんの記憶からサリーは消されてしまう。
これは最悪である。よしこちゃんの人間性を魔法界は信じていない。人間をひとくくりにしていて、その中の一人としてよしこちゃんを見ている。

「サリーちゃん、貴方は魔法使いだったのね」と語るよしこちゃんの表情を見れば、彼女が信頼に足る人物であることは明白である。それはすみれちゃんも同様だろう。

サリーの記憶がなくなったよしこちゃんは、サリーとの歴史的事実が欠落している。サリーはよしこちゃんのことを憶えているので、20年くらいして出会ったとしても、よしこちゃんはサリーのことを把握できないだろう。知らないんだから。
でもサリーはよしこちゃんのことをわかると思う。
これは双方にとって、特にサリーにとって残酷なことである。そう考えると、記憶を無くす罰というのは、よしこちゃんに向けられるのでなく、サリーに向けられている。残酷な刑罰だと思う。

でもきっと、サリーは王女様になり、魔法界と人間界の素晴らしい架け橋となり、様々な問題を解決してくれると信じている。

などと思わず熱く語ってしまった・・・話は尽きそうもないがひとまず終わる。

追記:正体が魔法使いで良かったかも知れない。

「サリーちゃん、あなたは男だったのね」

これだといくら人格者であるよしこちゃんでも友情は消えていくことだろう・・・

魔法使いサリーのページ

映画「LOVE LETTER」小考

Date
2005-04-19 (火)
Category
映画・TV


loveletter

映画「LOVE LETTER」は1995年に公開された。監督は岩井俊二さんで、彼にとっては初めての長編映画となる。


山で遭難死した恋人宛てに出した手紙が、偶然にも同姓同名(藤井樹)の女性に届き、そこから恋人の中学校時代の思い出を語ることで、現在の恋人でもあった女性の心情と、過去においての少年少女の淡く不器用な思いが抒情味豊かに語られていく。
今でもこの映画に共感する人も多いと思う。この映画は韓国でも大ヒットし、一時は舞台となった小樽に韓国旅行者が多く訪れたと聞いている。


この映画で言う、ラブレターとは一体何なのか。それは神戸の女性が亡くなった恋人に差し出す手紙のことであり、中学時代の思い出の中で少年「樹」が少女「樹」の名前を図書カードに書き綴ることでもある。

初めに恋人に差し出す手紙の宛先は届くはずのない宛先であり、いずれは自分の所に必ず戻る手紙でもあった。つまりは自分宛に出した手紙でもある。また少年「樹」が綴る名前は、少女「樹」の名前だけでなく自分の名前でもある。つまり、この映画は愛する者を自分の中に取り込みたいという同一性が底に流れているともいえるかもしれない。

ただ、そうはいっても僕はこの映画が好きである。最後の「失われた時を求めて」の図書カード裏面に描かれた少女「樹」の似顔絵をみて、大人になった「樹」が自分の幼い恋心を自覚して涙ぐむシーンが、それまでの閉塞感を打ち消すさわやかさとなって気持ちが良く、とても好きだ。


最初の手紙の内容は、「拝啓、藤井樹様。お元気ですか? 私は元気です」だけとなっている。これは手紙の冒頭に過ぎない。亡くなった恋人に対し、言いたいことは色々とあるだろう。何故この手紙の内容は挨拶だけだったのだろうか。それは、前段の映画のあらすじと異なるが、返事が必ず来るはずの手紙だったからのような気がしている。挨拶は反復される。映画の終盤近くに、神戸の女性が山に向かって「お元気ですか」と呼びかける。それは木霊と現在の恋人の掛け声、さらには小樽の病室での女性の言葉によって反復される。反復されることにより、お互いが認証し合う。しかしこれは映画全般を通じて思うことだが、そこには成人となり亡くなった男性「樹」の存在はない。中学時代もそうだったが、成人となり亡くなった「樹」の存在は、この映画では果てしなく薄い。ただ、唯一彼の存在を強く想像出来たのは、山での遭難時に歌う松田聖子の歌詞によってだった。


ただ映画評論家からの視点はこの映画に対し厳しい。


『回想シーンで素晴らしい抒情味を湛えたこの映画は、構造としては回想が主体、その限りで明瞭な中心性を貫いているのだが、それは自己愛的中心性が、作品構造に反映しただけともいえる。この作品には同一性だけがある。その意味ではこれは映画ではない。他者の身体の傷跡が過剰に観客に貫入して感動を与えるのが映画だとすれば、この作品では構造的な自己愛が鏡面反射のかたちで観客の自己愛に点灯させ、それが疑似感動になっているだけだ』
阿部嘉昭 「Love Letter」は映画ではない から引用)


確かにこの映画には多くの類似とも同一性とも言えるものが登場する。同姓同名、瓜二つの女性、小樽の女性の父親が風邪をこじらせ死んだ状況の繰り返し、白樺の名前「樹」等々。少年少女の淡い恋心がわかるだけに、阿部さんの評論に対し抗う強い言葉を僕は持っていない。しかし、この映画に対する評価は微妙なところで違うのも確かだ。(例えば、阿部さんの評では山での呼びかけはあざとくて嫌いだと宣言している。)
でも阿部さんが評されるように、この映画と少女漫画の世界観は同根かも知れないとは思う。


『つまり、「自分に似ているものは世界に無限にあり、それら相似物の存在により世界は穏やかに連鎖している」とでもいうような。これは読者?描き手の関係を考えれば、少女漫画の根幹にある世界観だとも理解できるだろう』
(阿部嘉昭 「Love Letter」は映画ではない から引用)


『ヒロインの古層にあった、けっして意識化できない、浮遊する恋情が、時間を超えた得恋体験として書いて側から照射されるこの作品のラストシーンは、確かに観客にとっては癒しの瞬間である。 (中略) これらにあっては観客は画面を観るという行為を貫徹できない。つまりは観客は画面の代わりに自分自身を否応なく見てしまうからだ。それらの画面は実は観客を愚弄している。つまり、「Love Letter」はポルノグラフィの亜種なのである』
(阿部嘉昭 残酷もまた「私」を癒す から引用)


ただ、阿部さんはこの映画をテクストとしての限定した世界観でのみ評しているように見受けられる。それであれば、何故この映画が日本と韓国において多くの共感を得られたのかの説明に続かない。つまりこの映画評は、「ふーん、それで何?」といった感想しか持ち得ないのも事実のような気がする。それは、テクストとしてのみこの映画を捉え、全体の流れの中で評していない視座がそこにあるからではないだろうか。ただ、映画公開時に発表したこの評にそこまで求めるのは酷なのかもしれない。


さらに、この映画は現在韓流と呼ばれる韓国で制作された様々なドラマと映画の一つの型になっている印象を受ける。だとすれば、この映画を再度評論することで、韓流ドラマが何故日本で受け容れたれたのかの新たな視野もそこに見つかるかもしれない。例えば、少女漫画的世界観を根底においての日韓の文化論など。そんなことを、久々にこの映画をDVDで見て思った。

映画「コラテラル」感想のための覚書

Date
2005-04-10 (日)
Category
映画・TV


20050410122fb8eb.jpg映画「コラテラル」をDVDで見た。マイケル・マン監督、トム・クルーズ主演の1994年10月に日本公開した映画で、前評判が高かったため映画館で見られた方も多かったと思う。僕自身も映画館で見たかった映画の一つだが、機会を逸してしまい観賞できたのは一昨日のことだった。
以下にまとめるのは、先々感想を書くかも知れないこの映画の覚え書きとなる。少し無茶苦茶な感想ではあるが、まぁファーストインプレッションの位置づけなのでご容赦の程お願いします。

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岸部シローさんと爆笑問題トーク番組

Date
2005-04-05 (火)
Category
映画・TV | 社会

昨日たまたま付けたTV番組で、岸部シロー氏が自己破産した時のことを放映していた。爆笑問題が司会者で、その他色々なタレントが出演していた。何かお金に関するバラエティ番組のようだった。岸辺さんは。「なんとかなるやろ」との気持ちで次々に借金を重ね、ついに5憶円以上の負債を抱え込んでしまった。

岸部さんは既に白髪が交じり老齢に達しようとする年齢であり、風采も若さが影を潜め、男性である僕から見ても、色気に乏しくなっていた。そして喋りもはきはきしてしてなく、口の中でごもごもという様なので、良く聞き取れない。と、まぁこれは僕の見方なので、かなりバイアスが入っているのは間違いない。ただ憎めない雰囲気は健在だったし、そこから良い味を出していた。

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アメリカン・ミソジニー

Date
2005-03-31 (木)
Category
memo | 文学・書籍 | 映画・TV

内田樹さんの「映画の構造分析」(晶文社)を読んだ。内田さんの文章は本当にさくさく読める。
この本は3章からなっている。1章は本のサブタイトル「ハリウッド映画で学べる現代思想」通りに、映画を通じて現代思想を紹介する内容となっている。まぁこれはこれでよい。僕がこの本で一番面白かったのは3章「アメリカン・ミソジニー」である。この文章だけでもこの本を図書館から借りた価値があるというものだ。だからこの記事では、この3章を限定して紹介したい。
尚、記事で 『』 内で紹介した文は全て「映画の構造分析 3章アメリカ・ミソジニー」からの引用である。

『アメリカの男はアメリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文化は地上に存在しない。珍しいことに、この点については、多くのフェミニストが私と同意見である。』

実はこの見方を初めて知った。それ以前にフェミニズムについて、あまり考えたこともないのだから、今まで知らなくて当然かも知れない。知らないと言うことについて、恥ずかしいことなのかも実は解らない。でも会社勤めの男性としてはかなり一般的な姿なのではないだろうか。なにしろ同僚の男性同士で「フェミニズム」について議論することはないし、しなくても同僚がその事を意識しているとは到底思えない。だから、この本の書き出しから僕は全く未知の領域に足を踏み入れたと言うことだ。(あ、勿論知らないといってもゼロというわけではないですから・・・)

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映画「キャストアウェイ」の感想

Date
2005-03-27 (日)
Category
映画・TV


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映画「キャストアウェイ」をDVDで見た。感想を書きたいと思う。この映画の感想を書くにあたって、ネットで他の人の感想を大いに読んだ。当時話題を呼んだ映画だけあって、感想の量も多かった。当たり前だけど、一人一人毎に感想は違う。言葉だけで感想を分類すれば、多分かなり整理できるかもしれないが、そんなことは無意味だろう。それに僕の琴線に触れる感想もなかった。感想は人それぞれなのだから当たり前なのかもしれない。


「キャストアウェイ=CASTAWY」とは余分なものをぬぐい去るという事だ。キャストアウェイの公式サイトに書いてあった以下の文章がそれを物語る。


「4年が経ち、チャックはまったく生まれ変わった人間として文明社会に戻る。そして、彼は、これまで所有していたもの、大切だと思っていたものをすべて失ったことが、今までの人生に起こった最高の事だと悟るのだった。」
キャストアウェイ公式ページから引用)


上記公式ページの文章は唐突に現れる。多くの人の感想を読んだけど、上記の文章に到達した方はかなり少ない。例えば最後のチャックの独白シーンでのセリフ。


「これからどうするか?息をし続ける。明日も太陽が昇り。潮が何か運んでくる。」


そのセリフと上記公式サイトの言葉との開きはなんだろう。このセリフをはくことが、人生最高の時と悟った男の言葉とは個人的にはとても思えない。映画として失敗したのだろうか。それとも僕の見方が浅いのだろうか?

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花森安治「戦場」とNHKスペシャルでの東京大空襲

Date
2005-03-09 (水)
Category
映画・TV

NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」を見た。その時に花森安治さんの文章「戦場」を思い出した。その文章で花森さんは、東京大空襲の経験を散文調で書いている。「戦場」とは空襲にあった地域のことを言っている。しかし花森さんが「戦場」と呼んだ場所は、現代でもそうは呼ばれてはいない。だから、僕は彼の文章をブログを通して紹介したいと思った。
(以下 『』 内の文は全て花森安治さんの「戦場」からの引用です。)

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af_blogさんの「優しい時間」の記事

Date
2005-03-08 (火)
Category
映画・TV

毎週木曜日フジテレビ系で22時から放映しているTVドラマ「優しい時間」が面白い。
色々なことを考えさせられる。でもタイトルの「優しい時間」って何?とも思ってしまう。

僕の気持ちを言えば、毎回ドラマの終わり近くに登場する、亡き妻との語らいの時間が、一番優しさを感じる。
ただこのドラマを見る僕は単なるファンにしか過ぎないので、その世界に埋没してしまい、振り返ると多くを語れない。

af_blogさんのブログでは、「優しい時間」の毎回放送内容を色々な視点で簡潔に短く述べている。
af_blogさんの語る言葉は詩的で美しい。僕はドラマ「優しい時間」を見てから、さらにaf_blogさんのブログを読み、再び感動を味わっている。
この番組が好きな方はぜひとも一度読んでほしいと思う。きっと色々なことを感じると思う。

「もう泣かない もう負けない
思い出を超えられる 明日があるから」
(主題曲「明日」の歌詞から引用)

「明日」を主題にした曲なのに、この曲は僕に郷愁を感じさせる。僕にとって「明日」とは訪れることのない日のことだ。それは僕の心の中にしか存在しない。「明日」は常に未来であり、「今日」は常に過去になっていく。

ただ、「昨日」の出来事が「今日」の僕を縛っているのであれば、たぶん「明日」の僕を縛るのは「今日」の出来事なのだろう。だから、「明日」を考えるということは、「今日」とか「昨日」を考えることと同じような気がしてくる。

この曲が、僕に「郷愁」という名の「感傷」を感じさせるのは、「明日」は僕の心の中に「昨日の思い出」と共にあるからなのかもしれない。
でも「感傷」は僕をその中に止めようとする。僕が生きるということが、連続した行動の流れだとすれば、その場に止まり続ける事はできない。「思い出を超える」という事は、それでも歩き続ける気持ちを持つ事のような気がする。

逆に「明日」だけを思い描いて生きられればと思う。それができれば、きっと楽になるだろう。いやいや、ない物ねだりはやめよう。それらは全て僕の心の問題なのだ。

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映画「なごり雪」

Date
2005-02-13 (日)
Category
映画・TV

「なごり雪」と言えばイルカが歌うフォークの名曲として知られる。作詞作曲は伊勢正三さん、もと「かぐや姫」の一員でもある。元々この曲は「かぐや姫」のアルバムに入っていた曲らしい。

その「なごり雪」をイメージした映画を借りてみた。監督が大林宣彦さんである事も、この映画を観る動機の1つ。見終わった感想は、皮肉でも何でもなく「本当に良かった」のひと言。いつもの事ながら、映画感想の語彙不足に我ながら驚く。

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シッピングニュース

Date
2005-02-07 (月)
Category
文学・書籍 | 映画・TV

「「津波が来るよ!」と、叫んで右往左往しているうちに、家の二階部分がゆっくりと流され始めた。すると兄は外に出て、家に縄をくくりつけて、ひたひたと水に浮いている家を引っ張り始めた。」
(田口ランディ「津波の夢」から引用)

▼ランディさんのお兄さんが津波から家を守ろうとする姿に、僕は映画「シッピングニュース」を思い出した。映画の中で主人公の先祖は住み慣れた島を離れ、凍った海を家ごと移動する。家は縄でくくりつけられ、それを一族全員十数名で引っ張って移動していくのだ。映画の中で特に幻想的で印象的な場面だった。

▼住み慣れた島を離れるのは、土地が貧しくそこで生活することが出来なくなったからだ。しかも海が凍るほどの厳寒の中の話なので、状況も環境もランディさんの夢とは全く違う。でも、家を縄でくくりつける所作が同じ事で、僕はこの夢と映画を結びつけたのかもしれない。

▼ランディさんのお兄さんは「シッピングニュース」の主人公クオイルの様な人だったのかもしれない。僕のイメージはそこに繋がっていく。クオイルは劣等感が強く、うだつが上がらない中年の男だ。しかも浮気者の妻に先立たれ、残された二人の幼い娘と共に、クオイルの先祖が住んだ土地で人生をやり直そうとする。そこで地元の新聞社に勤めシッピングニュースを書き、新しい恋も知って、彼自身を取り戻していく。

▼勿論僕はランディさんのブログで、お兄さんが亡くなられていることを知っている。でも生きている者と死んだ者の区別は一体何処にあるのだろう。ランディさんの言葉を借りれば、「肉体的な兄は死んでいるのに、兄は私の夢の中でこの十年の間ずっと、啓示を与え続けている」のだ。あちら側でお兄さんがクオイルの様な生活をしているかもしれないと、僕が勝手なイメージを持ったとしても許して欲しいと願う。

▼その中でお兄さんは、時折ランディさんに向かってシッピングニュースを書き送っている様な気がする。ランディさん宛に送っているので、恐らくその他の方には伝わらない話なのだろう。でも間違いなくランディさんには伝わっているような気がしてる。

▼「シッピングニュース」は舞台となった土地、カナダのニューファンドランド島がまるで生きているかのように描写されていた。厳しい自然、漁業の不振から寂れていく町、その中で希望を失わない人々。その中で主人公は記事を書いていく。彼の文章には、優しくユーモアに溢れ暖かみがある。それは以前にニューヨークで書いた文章とは全く違っていた。

▼2月3日節分の日は、僕の父が数十年前に亡くなった日だった。僕が3才の頃に亡くなった父は、夢でも僕に何も語りかけてはくれない。でも時折母には何かを語りかけているそうだ。実を言えば僕の所にも来て欲しいと願い続けている。だからランディさんのこの話は僕にとっては羨ましい。

映画「ターミナル」を見て、複雑な気持ちの感想

Date
2005-01-18 (火)
Category
映画・TV


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ターミナル」を見てきた。まさしくファンタジー映画として楽しんだ。実を言えば見る前におおよその「あらすじ」から勝手にイメージを作っていたが、それは見事に覆された。結果から言えば良くもあり悪くもあった。


最初僕がイメージしていた映画は、人々が過ぎる場所としての空港に、拘束される事で止まる主人公がいて、彼とそこに行き交う人々との間に芽生える物語だった。止まった人は移動したくてもそれが出来ない人であり、しかも帰る場所もない宙ぶらりんの人でもある。その宙ぶらりんの人の視点で、アメリカという国を移動する人を介して見る。そんな映画だと思っていたのだ。


実際の映画での主人公は、状況としては僕の想像通りだったが、そこに止まる人でなく常に動く人であった。ポジティブに状況を受け入れ、その中で彼にとって最善の事をした。また、彼は自立していた、そして人を信じ裏切らなかった。だから、彼の回りには自然に人が集まり、その人達は好意を持って彼を応援した。


一見して不条理な状況に陥っても、目的に向かって前向きに動けば、周りの人は手を差し伸べてくれる。そんなメッセージを素直に感じた。


「ターミナル」の主人公として、トム・ハンクス以外には考えられないと思う。コミカルにそしてチャーミングに、悲壮感を漂わす事なく演じきった。トム・ハンクスの昔の名作「ビッグ」を思い出してしまった。それほどはまり役だと思う。


この映画はファンタジーだから、細かな点に揚げ足を取るのは失礼かもしれない。少なくとも僕はそう思った。映画の世界を楽しめればいい。そう言う映画だ。
でも「楽しむ」と言う事は、良い事である反面、物事を片側でしか見ていないと言うことにも繋がる。もう一つの視点で見ると、この映画は怖い映画になるかもしれない。


例えば、主人公の敵役である空港警備局主任が、元上司に言われるセリフ「ここは人間重視の国だからな、少しはビクター(主人公)を見習え」。
人間重視の国とは米国のことを指しているのだろうけど、背景にその逆として「人間軽視の国」があると言うことなのだろうか。


最後に主人公は友の為に祖国に戻る決心をするが、その友は自分が足枷になっている事を知らずに、彼を「臆病者」と言ってなじる。その友は自分が原因であることを知ると、自ら彼の重みを外すために行動する。その姿をみて主人公は再び目的に向かって行動を取るのだか、ここら辺の価値観の決めつけが少し興ざめさせたのも事実だった。


上記だけでなく、こういうセリフと価値観が、「楽しさ」の中に随所に現れてくる。そしてそれらは「楽しさ」によって覆い隠され、見る人に自然に植え付けて行くように思えた。


映画終了後エスカレータ内で見知らぬ友人同士の男性二人が「良かったね」と言っているのを聞いて、実をいうと言われたのが僕でないことを喜んだ。良い映画だと思うが、素直に「良かったねと」同意を求められたとき、多分即答は出来ない自分がそこにいたからだ。


昔からハリウッド映画に親しんだ僕は、こういう映画は好きであるのは間違いないが、以前のファンタジーもしくはコメディ映画には「国」というイメージを喚起する事が少なかったような気がする。それはこの映画が「空港」という場所での物語と無縁ではないとは思うが、何か少し気になったのも事実だった。


なにやら訳がわからない感想になってしまった。でもその訳がわからない雰囲気が僕の気持ちを良く伝えていると思う。

日本のファーストフード会社トップ5に公開質問状

Date
2005-01-10 (月)
Category
ビジネス | 映画・TV | 遊び | 食べ物

cinemacafe.net」では映画「スーパー・サイズ・ミー」公開前に日本のファーストフード会社トップ5に公開質問状を出している。
内容とその結果はここを参照。

トップ5とは「日本マクドナルド」「モスバーガー」「ロッテリア」「ケンタッキー」「フレッシュネス」の5社。

実際何のトップ5か正直わからなかった。1日のハンバーガー販売個数なのか、売上げなのか、利益なのか。でも公開質問状のサイトを観ればわかるが、単なる映画の話題集めを目的とした内容であるので、気にする必要もないのだろう。

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ピーター・セラーズのチャンス

Date
2005-01-09 (日)
Category
映画・TV

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ピーター・セラーズの伝記を元にした映画「ライフ・イズ・コメディ」が1月29日からシャンテ シネ、ヴァージン TOHO シネマズ六本木ヒルズで公開が始まる。
主演は、あの「シャイン」のジェフリー・ラッシュ。「シャイン」での演技は素晴らしかった。彼のことだからきっとピーター・セラーズの事もきちんと表現してくれるのであろう。

ピーター・セラーズのなかで一番好きな映画は「チャンス」だ。有名な映画なので、観られた方も多いと思う。僕はだいぶ前にレンタルビデオで観たが、今でも心に残る味わい深い映画の1つだ。

「世間知らずの庭師のチャンスが、主人の死をきっかけに外の世界へ。そこで政界の人物と知り合い、人々の勘違いから、何も知らないチャンスが政界へと進んでいく姿をシニカルなユーモアたっぷりに描いたハル・アシュビー監督作。
庭のこと以外、何もわからないチャンスの素朴な発言を、政界の人物たちがこれまでにない斬新な発想だと重要視し、チャンスを政界入りさせようと躍起なる様が可笑しい。」
アマゾンドットコム のレビューから)

アマゾンのレビューが端的に映画の内容を示している。ただ、勿論この映画はこのレビューだけに止まらない。この映画の企画を長年温め続けてきたのは、他ならぬピーター・セラーズ自身だった。彼はこの映画で何を言いたかったのだろう。それは映画の主人公でもある「チャンス」自身にそれが現されていると思う。

チャンスには人が生き生活するときに発散する汗(匂い)が全くない。常に清潔で、身なりも正しく、少しも乱れる事がない。いわばチャンスは浮世離れという以前に、人間離れしている存在だ。彼は自分を持っていない。多分中身は何もない存在なんだと思う。

その中身は、彼と接する人が、自分の持っている物で埋めていく事になる。だから人によってチャンスの見方は大きく変わる。つまり人はチャンスを見ることで、逆に自分をそこに投影している。そんな風に僕はチャンスの事を観ている。

チャンスは一体何処から何のために来たのだろうか。それはピーター・セラーズ自身にとっても一番知りたいことのように思える。何故なら、僕にとってチャンスとはピーター・セラーズ自身の事に他ならないと思うからだ。いくつもの顔を持つ男、と言われたピーター・セラーズ自身が、自分の本来の顔を忘れている様に思える。中身は空虚で、それを埋めるために映画と女性に没頭する。そんな彼の人生が映画となって僕らの目の前に差し出される。今度はその映画を通じて、僕らが自分の事を観る番なのかもしれない。

人体実験は最高で最悪のアイデア

Date
2004-12-28 (火)
Category
映画・TV


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映画「スーパーサイズ・ミー」が12月25日から公開している。この映画は前評判が高かく、内容を含めて事前に知ってはいたが、既に始まっているとは思いもしなかった。
内容はモーガン・スパーロック監督自身が1ヶ月の間ビックマックとコーラだけで過ごし、その結果様々な体調変化をおこした事を記録した映画だ。撮影開始してからスパーロック監督は苦痛で早く撮影が終わればいいと願い続けたそうだ。まさしく彼の云うところの「人体実験は最高で最悪のアイデア」だったというわけなのだろう。


しかし日本のテレビでは、大きく紹介されていないらしい。以下は「アエラ」(’05.1.3?10)からの引用。


「スパーロック監督が10月に来日した際も新聞、雑誌の取材が殺到した中、テレビ局はCSテレビ局が2社訪れただけだった。しかもそのうち1社はNHK系列。映画にやり玉にあがるマクドナルドや、コーラのメーカーはいずれもテレビCMを数多く打っているスポンサー。そのため民放テレビでは、この映画を取り上げづらいらしいのだ。あるワイドショーの芸能担当ディレクターによると、試写をみて気に入り、最初は5?6分かけて紹介する企画を考えた。だが同じ局の他の番組でストップがかかったと聞いて断念。1分弱の簡単な紹介コーナーで取り上げようとしたが、今度はプロデューサーからストップがかかったという。」


「スーパーサイズ・ミー」は欧米ではかなりのヒットをしているらしい。勿論この映画は、「スローライフ」推進でもマクドナルドが象徴している「アメリカングローバリズム」批判を行っている訳ではない。
米国で話題になった通称「チーズバーガー法」へのメッセージと受け取って良いのかもしれない。二人のティーンエイジャーが自分たちの肥満はマクドナルドの責任だと訴訟を起こし、結果的に敗訴になったが、その後ホワイトハウスと食料品業界が協力して、「肥満は自己責任なのでファーストフード業界を訴えてはいけない」という法律が出来た。その法律を通称「チーズバーガー法」と云うらしい。ただ、訴訟の話でなく、マクドナルド等のファーストフードは日本でも日常の食品となっているので、映画の内容は僕らにとっても身近な話だとは思う。


しかし、あれほど「華氏911」の時は大きくテレビ局でも取り上げたというのに、グローバル企業にはメディアも弱いのだとあらためて思った。
テレビ局も企業だからスポンサーは大事だとは思うし、この映画を取り上げる事が(スポンサーを無くしてもよいほどの)公益性を持ってはいないと、判断した結果とは思うが、どこかの局で1つくらいは大きく取り上げて欲しかった。


最後にスパーロック監督の言葉を、同じく「アエラ」から引用する。


「この作品のプロモーションのために世界各国を回ったけど、どの国でも僕とこの作品を取り上げないメディアがある。表現の自由というのは、スポンサーが許す範囲内での自由なんだろうね」


名言だと思ったのは僕だけではないだろう。個人的には「華氏911」よりはよっぽど「ドキュメント」だと思ってはいる。


その他関連サイトとして「スーパーサイズ ブログ」が面白い。なんと日本のファーストフードとである寿司を1日3食で1ヶ月過ごすという企画のブログ。既に企画は終了済み。寿司だったら挑戦しても良いと思ったのは僕だけでは無いはず。

「アイムホーム」からみたビジネスのタイミング

Date
2004-12-25 (土)
Category
ビジネス | 映画・TV

aaaaaNHKドラマで「アイムホーム」放映中に、原作である石坂啓さんの漫画を再読したいと思い、色々な書店を回った事があった。勿論帰宅途中での書店回りだったのだが、ことごとく書店には既に在庫がなかった。ある書店では、気を利かせてくれて出版元に問い合わせをしてくれたが、出版元にも在庫は無いとの事だった。NHKのドラマサイトを見ると、原作本は書店に問い合わせてとの事だったので、絶版とは考えづらい。単に再版していないだけの事なのだと思うが、この状態を見て、出版元は1つのビジネスチャンスを逃してしまったのではと思ってしまった。
 

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ドラマ「アイムホーム」をみて感じたこと

Date
2004-12-18 (土)
Category
映画・TV


20041218025a45ad.jpgNHK総合テレビで、月曜日から木曜日の夜11時から15分間連続放送していたドラマ「アイ’ムホーム」が今週に終了した。原作は石坂啓さんの漫画で、以前に読んだ事があった。人気のあった番組だった様で、既にDVDでの販売を期待している声がサイトの掲示板に現れている。僕も毎回欠かさず見ていた。とても面白く、久しぶりに、毎回見終わった後で、次回が楽しみになるドラマだった。あらすじはサイトの「ここ」を見て下さい。

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ニールヤングからのとりとめない話

Date
2004-12-12 (日)
Category
映画・TV | 音楽

20041212969ad13e.jpgニールヤングが大好きだ。自分がどのくらい彼のCDを持っているのか試しに調べてみた。そしたら17枚のCDが出てきた。自分でもビックリした。そのCD一枚一枚を見てみるまでもなく、実はヤングと同じ時間の中で聞いた曲は一曲もない。全部後から購入した物ばかり。ヤングを聞き始めたきっかけはパールジャムから。パールジャムと競演した「ミラーボール」が何とも素晴らしかった。その時にパールジャムが何となく萎縮して演じている感じがして、逆にヤングが目立ってしょうがなかった。「何だこれー、ニールヤング凄い!」これが始まり。だからかなり遅れてきたファンと言ってもいい。まぁいつもの事ですけど。

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地球上で一番セクシーな男

Date
2004-11-27 (土)
Category
映画・TV | 遊び

sexcy米国ピープル誌の毎年の恒例企画である「地球上で一番セクシーな男」に「ジュード・ロウ」が選ばれた。この賞はピープル誌の編集者らによって選ばれ、故人は含まれないとのこと。タイトルを含め何事も順列を決めたがる米国ならではの賞だと思うが、本音の部分では一種の「しゃれ」に近いものがあるのだと思う。ちなみに今までの受賞者をあげると、メル・ギブソン、ショーン・コネリー、デンゼル・ワシントン、リチャード・ギア、ベン・アフレックス、そして去年はジョニー・デップと映画俳優が多い。

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キャットウーマン

Date
2004-11-27 (土)
Category
映画・TV


2004112769f761e2.JPG今日帰りに渋谷のタワーレコードによりCoccoのCDを購入した。実はまだ聞いていないので、この感想はまた載せようと思う。

帰りに映画館の前を通ったら「キャットウーマン」が最終日で、しかも20時からの開演がレイトショーという事で普通より500円安くなっていた。時間を見ると10分前だったので、帰宅の予定を変更して見ることにした。

映画館は凄くすいていた。僕を含めて全員でも10名はいなかったと思う。だからみんな自分が一番好きな場所に座る。この映画は、実は前評判がよくなかった。それがこの人数に反映しているのかもしれない。でも僕にとってはやはり主演のハル・ベリーにつきる。彼女が出ていなければ多分見ていないだろう。X?MENでは単に美人でしかなかったけど、「チョコレート」の最後のシーンでの彼女は素晴らしかった。あの演技のために映画に登場する数多くの要素があるのではと思わせた。
この映画に登場する要素とは、人種・死刑囚の妻・死刑執行人・息子の死・差別等々。
日本語での映画名は「チョコレート」だが原題は「MONSTER’S BALL」(怪物の舞踏会)と言うのだそうだ。
チョコレートでのSEXシーンは話題を呼んだ。二人がお互いの穴を埋めるためにSEXをする。でも二人の間に絆が出来るのは、レティシア(ハル・ベリー)の死刑囚の夫を執行したのがハンクであることを知る最後のシーンであったと思う。家の外で佇むハンクにレディシアは近寄り隣に座る。許すも許さないも彼女の心にはなかったと思う。お互いの失った穴の深さをしり認め合う事が出来る。でも二人の先行きはようとして暗い。
そのハル・ベリーが出ている「キャットウーマン」だが、彼女が格好良かった。特に歩く姿が良い。他はあらすじを含め特に印象はなかったけど・・・それを見ただけで良しとしよう(笑

ドラえもん、声優降板に思うこと

Date
2004-11-23 (火)
Category
愚考 | 映画・TV | 社会

200411231e9a8851.jpg

テレビ朝日系の人気アニメ「ドラえもん」で四半世紀にわたってドラえもんの声優を務めてきた大山のぶ代さんら主な声の出演者5人が来春、降板し、若手と交代することが21日明らかになった。(日本経済新聞から)

「ドラえもん」は大山のぶ代さんと言うくらい他の方は考えられない。既に25年もドラえもんの声をやられていたのかと思うと、ご苦労も多かったことだと思う。ご苦労様と同時に思うことは後続の若手の方の大変さだ。イメージが固定されているので初めは色々と言われるとは思うけど、新たな「ドラえもん」を創造する気持ちで、楽しく面白い番組を造っていって欲しいと思う。ちなみに、今度降板する5人の出演者とは、ドラえもん、のび太君、しずかちゃん、スネ夫、ジャイアンの主要メンバー全員となる。

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イブラヒムおじさんとコーランの花たち

Date
2004-11-17 (水)
Category
memo | 映画・TV


20041117f5c783cc.jpg「モータサイクルダイアリーズ」を見に行ったときに予告編で紹介していた映画「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」が気になっている映画の1つ。オマーシャリフ主演と言うだけで食指が動いてしまう。「オーシャン・オブ・ファイヤー」で久しぶりに姿を見た時は、もうそれだけで嬉しく、あの映画の評価が僕の中でかなり上がった。

「アラビアのロレンス」「ドクトルジバコ」と色々な名作に出ているけど、僕にとってはやはり「ドクトルジバコ」が一番かも。勿論DVDでしか見てないけど、東洋的で精悍な顔つきで目が印象的だった。
「オーシャン・オブ・ファイヤー」では最初わからなくて(ううう、情けない・・・)、部族長の役だったけど、渋くて良い役者だなぁとおもって見てたら、中盤くらいでもしかしてと思い、後半になってやっと気がついた(我ながら鈍い)。

この映画はオマーシャリフが脚本を見て、イブラヒムの役は自分しかないと思ったとどこかで聞いた。予告編で、少年モモがイブラヒムの店の商品を盗もうとした時に見つかった時に、イブラヒムがモモに言う言葉が「盗むときはわしの店だけにしなさい」(不確かだけど、おおむねこんな感じです。)それだけで、良い印象を持ってしまう。

オマーシャリフも今年で72才。でも昔の雰囲気をそのまま持っている感じがして凄いと思う。勿論役者は役だけではその人の事はわからないけど、きっと自分の人生を自然に歩んできたんだろうなって思う。こんなに気に入っている俳優なのに、僕にとっては初めての映画館でのオマーシャリフになるだけに映画がとても楽しみ。

11月20日から恵比寿ガーデンシネマで上映します。

「モーターサイクルダイアリーズ」を見て「旅」を考える

Date
2004-11-16 (火)
Category
オートバイ | 愚考 | 映画・TV


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この記事は「モータサイクルダイアリーズ」を見た感想でも、チェ・ゲバラの紹介でもありません。映画をみて「旅」の事を考えた「試案」と思ってください。映画の感想とチェ・ゲバラの事を期待して読んだらきっとがっかりするでしょう。「試案」ですから内容は不十分です。それを覚悟してくれる優しい人はどうぞ^^ちなみに、映画の感想は「素晴らしい」の一言です。

「旅行計画:4ヶ月で8000km走る。方法:いきあたりばったり。目的:本でしか知らない南米大陸の探検。移動手段:怪力号。1939年式のノートン500だ。」

別に大志があるわけでもない二人の若者が無計画な旅に出る。何処にでもある風景だと思う。僕もこの二人と同じ時期にモーターサイクルで旅に出た事がある。僕の場合は日本国内だけど、東京から縦断して新潟に、そこから日本海沿いに九州長崎まで行き、帰りは福岡から船で神戸経由で東京に戻ってきた。延べ日数約2週間。映画と同じように無計画。泊まりは野宿。長崎は友人の家に着いた時、友人は夜逃げをする前日という状況で、おかげで僕はその手伝いまでさせられた。でもその話は今回では余計な話。

旅の移動手段を何にするかは結構重要な話だと思う。二人は旅の前半モータサイクルを使った。その理由は自動車を使うほどのお金がなかったのかもしれない、もしくは南米の悪路で取り回しが聞くモータサイクルを選択したのかもしれない。でもいずれにせよ、旅の道具としてモータサイクルは適切なような気がする。

僕にとって旅の感覚で大事なことは「もっと遠くに」という気持ちだ。家から出て遙か遠くに来たと感じる事が旅の感覚だと思う。それは心で感じることだから、実際の距離の問題ではない様に思える。人生が旅だと良く聞くけど、それはその気持ちが同じだからかもしれない。そして遙か遠くに来たという感覚は、移動する過程で過ぎ去る土地の空気に触れる事と無縁ではないように感じる。空気に触れるとは、自分が慣れ親しんだ土地とは違う感覚を味わう事で、それは過ぎ去る景観の違い、家々の違い、そして土地の人々との会話で味わう事など、旅人が感じる総体として心に伝わる様に思う。だから、移動手段としては徒歩、自転車、そしてモーターサイクルの順番で人は旅を感じる様に思える。モータサイクルが適切だと思うのは、乗り物(飛行機・船・自動車)の中では比較的その空気を感じることが出来ると思うからだ。勿論徒歩には敵わないとは思うけど。

「お母さん、ブエノスアイレスを出て、惨めな生活とも退屈な講義ともお別れです。」

旅は人を開放的にする。それは「遠くに来た」という感情と無縁ではないように思える。自分の生活空間の引力から脱した時に開放感を味わうと思うのだ。モータサイクルのタンデムシートに乗ったゲバラは両手を鳥のように水平にのばすシーンがあるけど、それはその開放感を良く現していると思う。開放的になると人は生活する場所では考えられない行動を行うときがある。映画の中に出てくる逸話は、貧乏旅行での知恵を見せているが、その知恵が出る背景に旅の開放感は無関係ではないように感じる。

ただ、ゲバラは旅の前半は自分の生活を引きずっていて開放的にはなり得なかった。それは彼の性格に依るところが大きいけど、僕にとっては2つの理由も幾分あるように思える。1つは恋人への気持ち。もう一つは彼の持病である喘息。彼女への気持ちは、具体的には彼女から預かった15ドルがそれを現している。アルベルトがその15ドルに気がつき、そのお金を使わせようと色々な事を言うが、その都度チェ・ゲバラは頑なに拒否する。その時にアルベルトが言う言葉「お前はあの女に骨抜きにされているんだ」は、旅に出て既に開放的になったアルベルトが、未だに生活を引きずっているゲバラに対して言ういらだちの言葉のように聞こえる。それがなくなるのは、彼女からの別れの手紙(だと思う)を受け取ってからだ。一日海を見てゲバラは彼女を失った世界を受け入れる。


開放的になると言うことは、心の状態が様々な外的変化を受け入れやすくなっている様にも思える。考え過ぎかもしれないが、彼女との別れから、ゲバラは旅の様々な出会いに自分の心をより開いていった様に感じる。

旅人は旅人である限り傍観者の立場になる。旅人は移動する者である。移動する限り、その旅の過程での出来事は傍観者の立場にならざるを得ない。
ただ、ゲバラは自分が傍観者であり続ける事は出来ないと感じている。そう感じたのは、砂漠で出会ったインディオの夫婦との出会いからだった。仕事を求めて放浪する夫婦は、旅が目的の旅を理解する事が出来ない。ゲバラにとってインディオの夫婦が自分に向けられる目は厳しく感じたことだろう。その時、ゲバラは自分が、インディオの夫婦を取り巻く世相に対し、傍観している姿に恥ずかしさを覚えたように思える。傍観者であれば、全体を見つめ客観的に世相を批判する事は出来るかもしれない。でも傍観者である限り、苦しんでいる人達が自分の姿に共感を持つ事は難しいだろう。だから、それ以降彼は旅人であることを意識的にやめようとする。僕にとって彼女から預かった15ドルをそのインディオの夫婦に渡す事は、ゲバラがその夫婦側に入る事を象徴しているように思えるのだ。

それ以降彼は旅人でありながら、積極的に人の中に入っていく。それでも傍観者の立場であることには変わりはなかった。その立場が大きく変わるのはハンセン病診療所に着いてからだと思う。「モータサイクルダイアリーズ」での旅の終わりはベネズエラのカラカスではないと思う。二人の旅の終わりはこのハンセン病診療所のように感じる。彼らはいずれこの診療所からいなくなる人ではあるが、それを考える事なく二人はここに止まって働く。その時既に二人は傍観者ではない。それが象徴的に現されているのが、ゲバラが診療所で迎える誕生日に河を泳ぐシーンだと思う。若さ故の情熱と言えばそれまでだが、僕にはゲバラが自分の命を省みず、傍観者であることをやめ、積極的に彼らの中に入る姿がそこにあるように思える。だからこそ、ハンセン病患者達はゲバラをこころから受け入れたと思うのだ。

原作ではこの河を泳ぐシーンはない。これは映画のハイライトとして脚本家が創作した逸話である。でも後日「チェ」と親しみを込めて呼ばれるゲバラの事を知っている僕には、この逸話が不自然に思えない。

旅には必ず出発点があり終着点もある。仮に旅をし続ける人がいたとしても、僕には必ず旅の終わりは、その人にも訪れると思っている。例えその終着点が次の旅の出発点になったとしても、やはり旅は「何処から何処へ」があるのだと思う。でもこれは旅だけではないのかもしれない、ゲバラにとってこの旅は、彼の人生においてチェ・ゲバラになる為の出発点だったのかもしれない。

同様に思う事は、現代の僕等は一体何処から何処に向かっていくのだろうかと言うことだ。できれば僕等の旅が次の世代の幸福に続く事が出来ればと願う。でもその為には、旅の途中でも立ち止まって考える必要があるのかもしれない。そんな気がする。

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「隠し剣 鬼の爪」の感想にならない感想

Date
2004-11-14 (日)
Category
映画・TV


20041114c399d2f6.jpg「隠し剣 鬼の爪」を見に行きました。実を言うと映画のことを今まで多く書いているけど、感想を述べるのは正直苦手です。何故かというと、見る映画が全て好きになってしまい、あまり批評が出来ないからです。勿論、批評をするために映画を見るのは本末転倒だと思うけど、僕の場合、大抵感想は「面白かった」「良かった」で終始してしまう。これも大いに考え物だと思うのです。人に言わせると幸せな観客、映画監督が最もメディアにインタビューさせたい客となるそうです・・・(笑

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たわいのない夢話

Date
2004-10-24 (日)
Category
愚考 | 映画・TV

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僕は高校の頃、絵にも描けない美しさを文章で表現できないものだろうかと考えた事がある。でも「絵にも描けない美しさ」を文章で表現すると、やはり「絵にも描けない美しさ」にしかなり得なかった。

それば僕の語彙不足の問題でもあったかもしれない。もしくは、日本語には絵の美しさ、それを見て感動する人の心を書き表す為の語彙が不足しているのかもしれない。
当時の僕は、それを自分の語彙不足とは一切思えなかった。言葉の、つまりは日本語の限界だと思ったのだ。
その思いは無学故の不遜な思いだった様に今では思える。では、今は成長しあのころに書けなかった「絵にも描けない美しさ」を表現できるかと問われれば、諸手を挙げて降参するしかない。いまだに状況はあの頃と何も変わってはいない。

1998年米国制作の「シティ・オブ・エンジェル」は好きな映画の一つだ。元はドイツ映画だったのをハリウッドでリメイクした作品で、主演はメグライアンとニコラス・ケイジ、二人とも好きな俳優だ。
その映画の中では小道具としてヘミングウェイの小説が使われている。天使役のニコラスケイジはヘミングウェイの小説、特に食事の味についての記述を好んで読む、天使には味覚というものがないので彼はそれを知りたいと思うのだ。知りたいと思うきっかけは、一人の人間の女性を愛し始める事だった。
ある時人間になりすました天使であるニコラスケイジはメグライアンに近づき、市場で一緒に洋なしを買う。そしてその洋なしをメグライアンに食べてもらい、味を表現してもらう。
その時のメグライアンのセリフが大好きだ。洋なしの味を香りを含めて見事にしかも簡潔に言い表していた。

その映画の影響もあってか、それからの僕は美味しいと感じた時に、言葉でその味を表現しようと試みている。勿論その表現は、よくある料理漫画の表現のような安易で意味不明な言葉であってはいけない。それらは誰もがわかる言葉で、簡潔に美しくなければならない。難しそうに思えるかもしれないが、それは意外に表現できるものだ。

でも条件がある。それは本当に美味しいと感じ、その味に感動を覚えなければ書く事は難しいという事である。
それを翻って考えると、「絵にも描けない美しさ」は、その場にいてその美しさに感動を覚えれば、人はその美しさを書けるのではないかと思う様になった。

また映画の話をすると、「コンタクト」という映画があった。出演はジュディ・フォスター。彼女は宇宙人とのコンタクトを調査し続けている天文学者である。ある時、待ち望んでいた宇宙人とのコンタクトをすることが出来た。宇宙人から送られてきたのは、何かの転送装置の設計図だった。そこで、その図面を元に装置は作られた。色々な事があり、搭乗者は彼女に決まる。そして彼女は宇宙の深淵と遙かに美しい姿をかいま見る。その時の彼女のセリフは印象的だった。「学者でなく詩人を連れてくるべきだった」

僕は密かに思っている事がある。もし全てを現す事が可能な真理があったとして、 仮にその一言を書く事が出来れば、それを読んだ人は何の迷いも苦痛もなく自分の人生を全うする事が出来る。人が書くという行為は、描く歌うと同様に自然な行為だと思うし、何故それらが自然なのかは、そこに生きると同義の意味が隠されているからだと思う。そしてそれらを表現し続ける事で、もしかしたら長い間に(本当に長い時間をかけて)人は、その真理を表現できるようになるのかもしれない。勿論夢話に限りなく近い話だとは思うけど。

めぐりあう時間たち・・・その後

Date
2004-10-20 (水)
Category
文学・書籍 | 映画・TV

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「めぐりあう時間たち」の原作訳本を読み始めたのが、10月3日のlogに書いてあったので、既に2週間以上経った事になる。

人によって、もしくは状況によって、人が本を読む早さは様々だと思うけど、たいてい僕の場合は集中して一気に読んでしまう事が多かった。それなのにこの「めぐりあう時間たち」はこんなにも時間がかかっている。現在、やっと半分迄の箇所に来たところだ。

ではつまらないのか?、いえいえその逆でもの凄く面白いのだ。半分のところで感じた点をいくつかメモしておこうと思う。

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昔この国にオリンピックがやってきた

Date
2004-10-11 (月)
Category
愚考 | 映画・TV | 社会

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1964年(昭和39年)10月10日に第18回オリンピックが東京で開催された。アジアで最初のオリンピックでもあり、オリンピックに向けて日本が莫大なエネルギーを集中した時期でもあったと思う。例えば、神宮外苑にある国立競技場は昭和32年に起工、33年には竣工という早さで、2ヶ月後のアジア大会ではメイン会場となっている。

よくオリンピック以前と以後というように、東京はオリンピックを境にその姿が大きく変わった。首都高が出来、新幹線が開通し、道が拡張舗装され、ホテル等の建物が建築された。特に会場となる運動場の周辺は大きく変わったと聞いている。駒沢総合運動場はオリンピック以前は駒沢球場で東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のメイン球場だった。駒沢球場の周辺は何もない湿地帯だったと聞いた事がある。なにしろその前はゴルフ場であり、明治帝の御狩り場だったこともある地域だ。駒沢運動場の周りで舗装されている道路は国道246号線くらい(戦前246号線は戦車道路と呼ばれた。厚木基地と首都圏との連絡道路の役割のため早いうちから整備されていたと聞いている)

僕は経済には疎いけど、その時期はオリンピック景気と呼ばれ主に土木建築業界と鉄鋼業界がこの国の経済を引っ張っていったのだと思う。そしてそれが後年の「日本列島改造論」に結びついていくような気がしている。

脇目もふらず、ただ前を向き目的に向かって全力で走り抜ける。その結果、東京オリンピックは大成功を収める。でもなくした物も沢山あったのではないのだろうか・・・・

市川混監督の記録映画「東京オリンピック」はまずビルの破壊のシーンから始まる。破壊そして建築。それは悪い事ではないかもしれない。でも破壊された物は二度と戻らない。新たに建築されたとしても、それは破壊した物の代わりではないのだから。

お江戸日本橋の上に首都高が通っている。初めて日本橋を見に行った時、勿論随分昔の事だけど、広重の浮世絵のイメージが強かったせいか日本橋を見つける事が出来なかった。人に聞きやっとたどり着いたのは、探しながら何回も通った橋だった。川の上に首都高が通っている、確かに川の上に作る方が用地買収などで楽だったのかもしれない。竣工までの期間が短い建築だったと思うので、合理的な方法をとったのかもしれないと思うけど、道路起点の場所としては少し寂しいものを感じる。

東京オリンピック以降、東京への一極集中はさらに強まった様に感じる。その結果前記の「日本列島改造論」が出る事になるのだけど、改造論では地方に東京並の街を作り一極集中を緩和しようとの目論見ではなかったのだろうか。結果は益々の一極集中となっている。

僕は「東京オリンピック」は戦後復興における一大イベントであり、それが素晴らしく成功した事を同じ日本人として誇りに思う。それと同時に僕は戦後復興から現在まで続くこの国がなくした物達を偲ばずにはいられない、それはこれから続く道の大事な指標になり得ると思うからだ。

追記:実は円谷選手のことを書きたいと常々思っている。東京オリンピックのことを書きたいと思っていた背景には円谷選手の事が脳裏から離れないためだった。でも結局かけなかった。彼の死を書くにはあまりにも僕の筆力では足りなすぎる、そんな気がしたのだ。人は視点によって、見る内容は著しく変わる。そして彼の死をその土俵に乗せることは僕にとっては不遜の様にも思えた。「頑張れ」と常に言われ。それに答えようとした円谷選手に当時の光と影を見てしまうのは、これも結果を知っての「後出しじゃんけん」なのかもしれない。

「慶次郎縁側日記」

Date
2004-10-09 (土)
Category
memo | 映画・TV

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NHKの金曜時代劇「慶次郎縁側日記」が面白い。既に7回を迎えた。全10話だから、あと3回しか見る事が出来ないのが残念。

主人公の慶次郎は高橋英樹が好演している。今までの彼のイメージとは違う役柄だけど、これがまた良い。なんか深みがあるというか、一言で言うと渋い。 原作は北原亞以子さんの慶次郎縁側日記シリーズから、脚本は宮村優子さん(声優の宮村優子さんとは同名別人です。念のため)と山本むつみさんとの事。

昨日放送した7回目「春の出来事」の内容

慶次郎(高橋英樹)は、往来で若い女・おせん(坂井真紀)とぶつかり、怪我を負わせてしまう。おせんの見舞いを切っ掛けに、二人の逢瀬が始まる。人目も憚らぬ二人を、「年甲斐もなく、若い女に騙されて」と、周りのみなが心配する。だが慶次郎は、何も無くなる老いの寂しさよりは、「騙されてもいい、面倒を背負い込みたい」のだ。やがてこの恋は、おせんの夫・卯之吉(永岡佑)が慶次郎を襲うという事件を引き起こしてしまう。(慶次郎縁側日記サイトから)

そのうちに卯之吉が盗みの現行犯で捕まってしまう。その知らせを聞いたおせんは番屋まで駆けつけ、卯之吉が盗みをはたらいた原因は自分にあるから自分も牢屋に入れて欲しいと哀願する。その際に慶次郎との事は単なる金ずるだったと告白するおせんだったけど、そのおせんに対して慶次郎は「俺は恋だったぜ」と一言告げる。

このシーンにぐっと来てしまった。なかなか言える一言ではない。それを聞いたおせんは下を向き涙をこらえる。このしぐさでおせんも又慶次郎の事が好きだった事がわかる。慶次郎と卯之吉の為におせんは(慶次郎の事を)金ずると話していたのだった。

この一言は慶次郎だからこそ言える言葉かもしれないけど、それ以前に僕にとっては原作者と脚本家が慶次郎に言って欲しい一言の様に思えてしかたがない。原作者と脚本家は女性だから、別の見方をすれば慶次郎は女性が思い浮かべる男性の理想像なのかもしれない、こう考えるのは偏見だろうか?でもそう思わせるほどに慶次郎は寛容で優しい。

慶次郎縁側日記」のタイトルとエンディングの絵が味があって良いと思い調べたら、CGクリエイター・保谷瑠美子さんとの事。保谷さんのHP(モノカタリ)には色々な作品があって面白かった。

モーターサイクル・ダイアリーズ

Date
2004-10-08 (金)
Category
memo | 映画・TV

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10月9日より全国でロードショー公開される「モーターサイクル・ダイアリーズ」は見に行こうと思っている映画の一つだ。


日本公式サイト公式サイト(写真はこちらの方が大きくて良い)

23歳の医学生エルネストは、親友アルベルトとともに中古のおんぼろバイクに駆(の)って南米大陸を縦断する冒険の旅に出る。それは金も、泊まるあてもなく、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった(中略)冒険心、情熱的な魂、旅を愛する心でつながれた二人のゆるぎない友情。心をふれあったすべての人に、惜しみない愛を捧げた、エルネストの瞳に映る南米大陸の様々な風景。その記憶が彼の未来を変えた。日本公式サイトから、エルネストは将来チェ・ゲバラとよばれる事になるあの革命家です)

内容も面白そうだ、でも僕がこの映画で一番見たいのは1939年製のバイクNorton500だ。
多分OHVシングルエンジンだと思うけど、昔に写真をみて美しいと思ったエンジンだった。Nortonは1898年に英国で誕生した名門メーカーだ。実質的には1969年製造のNorton Commandoが最後のバイクになったと思っていたけど、20世紀末に復活した。

昔の話だけど僕はブリティッシュバイクが大好きだった。しかもシングルもしくはツィンのバーチカル(直立)エンジンで形式はOHVもしくはOHC。日本製のDOHC4気筒エンジンはエンジンのヘッドが大きく美しいと思った事は一度もなかった(それは今でもそうだ)。
そうなると必然にクラッシックバイクに向かうようになる。そんな時、家の近くにNorton Commandoが時々駐車しており、羨望の眼差しでそれを見ていたのを思い出す。


「モーターサイクル・ダイアリーズ」は東京では恵比寿ガーデンシネマで公開する事になっている。恵比寿ガーデンシネマと言えば「スモーク」をロードショー公開した映画館。スモークの原作脚本のポール・オースターが大好きで期待を込めて見に行った記憶がある。その期待は裏切られる事はなかった。記憶に残る映画になった。またこれはレンタルで初めて見た映画だけど「ボーリング・フォ・コロンバイン」もこの映画館で封切り公開されたと思う。その恵比寿ガーデンシネマの開館10周年記念として上映するのがこの映画となる。それらも含めて十分に僕のツボに入っている映画だと思う。これは行くしかない。

見たい映画

Date
2004-10-05 (火)
Category
映画・TV

今一番みたい映画は二本あるけど、両方とも日本映画だ。一つは「笑いの大学」、もう一つは「隠し剣 鬼の爪」。両方とも10月30日封切り予定となっている。

「笑いの大学」は元々三谷幸喜原作脚本の舞台劇だけど、今回の映画化にあたり新たに脚本を書き直しエンディングも舞台とは違うらしい。舞台劇の方は見た事がないので(名前だけは知っていた)結末がどのように変わるのか比べようがないけど、三谷幸喜さんの脚本だったら面白いに違いない。それにキャスティングで役所広司も好きだし。「笑いの大学」の公式サイトのTOPページにある観劇で笑っている観衆(多分最後のシーンかも)のFlashがあるんだけど、何故か見飽きなくてしばらく眺めていました。

「隠し剣 鬼の爪」は「たそがれ清兵衛」が好きだったので、同じ原作、同じキャストでの映画に強く惹かれたのが発端。役者も期待できそうだし。主演の永瀬正敏さんなんだけど、頭・・・勿論カツラだよね?あまりにもはまりすぎて(特に中央の薄い毛が・・・)もしかしてこの映画のためにマゲを結ったのかとちょいと思ってしまいました。

ちなみに藤沢修平の隠し剣シリーズを少し読んでみたくて本屋さんに行ったけど、この映画に該当する短編が見あたらなくてそのまま買わずに帰ってきました。藤沢修平の本は人気があるようですけど、残念な事に未だ一冊も読んでいません。今回が良い機会かもしれませんね。

話が少し変わりますけど、「隠し剣 鬼の爪」のヒロインとして出演する松たか子さんは、ミュージカル『ラ・マンチャの男』アルドンサ役で再度出演するそうです。ドン・キホーテは勿論松本幸四郎です。

2002年、博多座(福岡)・帝国劇場(東京)にて上演された「ラ・マンチャの男」が、2005年5月名鉄ホール(名古屋)、6月帝国劇場(東京)にて上演されることが決定しました。
前回、大抜擢されましたアルドンサ役に、松たか子が再び挑みます!!(松たか子公式サイトから)

僕は1995年のアントニア役でミュージカル『ラ・マンチャの男』(青山劇場)で見ました。その時のアルドンサ役は鳳 蘭さんでした。でもアルドンサ役が出来るようになったとはたいした物ですね。2002年から俳優が若返ったと聞いています。素晴らしい舞台ですし、また見に行きたくなってしまいました。


いまさら「めぐりあう時間たち」しかも途中

Date
2004-10-03 (日)
Category
文学・書籍 | 映画・TV

東京の下高井戸に小さな映画館がある。小さいと言っても比較的新しく清潔で設備も整っているので、気持ちよく映画鑑賞が出来る。僕のお気に入りの映画館でもある。上映する映画も選別された良質の映画が多いし、ロードショーが終わった映画を再上映するので見損ねた映画を見れるのも良い。

下高井戸シネマ:http://www.ne.jp/asahi/kmr/ski/shimotakaido_cinema.html

少し前に、その下高井戸シネマで「めぐりあう時間たち」を見た。

この映画はアカデミー賞をいくつか取り話題性も高かった映画なので、多くの人が様々な切り口で語ってもいる。Googleで検索すると約1万件以上もでてくる。

何を今更と思うかもしれないけど、僕にとってこの映画の位置づけが未だになされていない。僕はこの映画を見て感動したけど、感動の理由が見えないのだ。それで未だにこの映画を引きずっている。1回だけ見た映画なのに、結構細部まで鮮明に覚えている。DVDで発売された時に、購入もしくはレンタルで再度見ようかと思った時も何回もあるけど、一度も行動してはいない。買う寸前、もしくは借りる寸前で自分を押しとどめるなにかがあるのだ。そのなにかは、最初に下高井戸シネマで見終わった時に感じた「得体の知れぬ何かの重さ」を再び感じたくないと言う保身の心境に近い物がある。その「得体の知れぬ何かの重さ」がわからぬまま今に至っていて、気になる映画の一つになっている。勿論日々の生活の中では忘れている事でもあるのは事実だけど。

先月本屋で別の本を探しているときに、たまたま偶然に「めぐりあう時間たち」の訳本を見つけ購入してきた。それを昨日から読み始めた。読了まで少し時間がかかるかもしれないけど、読み終えたら感想はここに書くつもり。読み終えたら再度映画を見てみようかなとも思っている。そしたら別の視点で見る事が出来るような気がするのだ。

ちなみに映画について、登場する俳優達は誰もが素晴らしかった。この映画には僕の好きな俳優達が多く出ている。筆頭はやはりニコール・キッドマン、メリル・ストリープ、それからエドハリスも大好きだ。内容について言えばヴァージニアウルフが登場するだけでもわくわくする。キャストも素晴らしいしカメラワークも素晴らしいと思う。でも特に素晴らしいと思ったのは音楽だ。音響担当はフィリップ・グラスという人で、とても有名な人らしい。実はこの映画を通じて初めて知った。

「めぐりあう時間たち」公式ページ:http://www.jikantachi.com/home.php

公式ページに載っている原作者のインタビュー「なぜヴァージニア・ウルフなのか」は時間があったら読んでみて欲しい。少なくとも僕は共感しました。

フィリップ・グラス:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A5%EA%A5%C3%A5%D7%A1%A6%A5%B0%A5%E9%A5%B9

まだまだ僕はこの映画で色々と楽しむ事が出来そうだ。

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