日記
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JR渋谷ハチ公リーフレット前の露天商
最近の話だ
JR渋谷駅ハチ公口にあるハチ公のリーフレット。それに面して昔から新聞・雑誌を販売する露天商がある。ずいぶん昔から営業していると思う。僕が渋谷に行き始めた頃、つまり学生時代には既に営業していた。その頃はその店だけではなく他に2~3店は営業していた記憶もある。今から数十年も昔の話だ。
渋谷駅から降りる人、もしくは利用する人達でハチ公リーフレット前は本当に多くの人が通り過ぎる。その店は年月と共に周りの景色に溶け込み、新聞・雑誌を買う人以外は、つまりは殆どの人は、その店に見向きもしない。人々は、黙々と、談笑しながら、携帯電話で話ながら、時計を見ながら、待ち合わせのために、バック・買い物袋・手ぶら、そして思い思いの服装で、少しもその店に気づくそぶりも見せずに、実に多くの人がその店の前を同じ速度で一群となって過ぎてゆく。勿論、意識し合わないのは一群の一人一人もお互いに同様だろう。でもその店から見れば、それら多くの人達は一人一人というよりは大きな川の流れのように見える。
店には一人のお婆さんが黙って座りその流れを見ている。時折何か書き物をしている。彼女の後ろには、幾つもの布製の袋がぶら下がっている。その袋の中は、おそらく長年その場所で営んできた何かの集積なのだろう。袋はいつも同じ数が同じようにぶら下がっている。僕はと言えば、カメラを携えハチ公のリーフレットと人の流れを撮ろうとその露天商の横に立っている。僕にとっても露天商は川の岸辺にある小さな岩のような物だ。その小さな岩は流れに影響も景観の美しさも与えはしない。露天商の老婆は、その店と一体化し、隣で立っている僕でさえ意識することもない。
僕がこの露天商の女性を意識したのは、たわいのない彼女の一つの行動からだ。その行動を劇的に描写する力を僕は持たないし、そういう行動でもない。単に彼女は使い捨てカメラを構え目の前を通り過ぎる一群に向けてシャッターを押したということだけだ。でもその動作が速くとても自然だったので、偶然にその行動を見てしまった僕でさえ彼女の行動を把握するのに時間がかかった。カメラは露天商の外からは見えない机の上に常時置いてあるようなそんな印象をもった。それほど何気なく、仕入れ台帳に鉛筆で数字を書き込むような、ありふれた毎日の仕事の様に、するりとカメラを取り出しファインダーを少し覗きシャッターを押して、こちらからは見えない露天商の棚に置いたのだった。
無論、何故彼女が使い捨てカメラで目の前の人通りを写真におさめたのかは知らない。でも一連の慣れた動作から、その場で何らかのタイミングで何回も撮影している様に思えた。そこから幾つもの物語を造る誘惑にかられる。物語は彼女の撮影を行う理由への興味が発端となる。でも理由(意味)を考えることはそれこそ無意味だろう。実際に彼女から聞けばよいのだ。彼女の行動に興味を持った僕は直接に理由を聞きたいという衝動に駆られた。でも客観的に見れば、カメラを持った見も知らずの男性からいきなり「写真を撮っていたのを見かけました。何故写真を撮っているのですか?」などと聞かれれば誰だって警戒する。僕は彼女への聞き方についてあれこれと考えた。で、しばらく彼女の様子を見ることにした。彼女が再度カメラで写真を撮ったとき、僕が彼女の写真のファインダーの中に入り彼女に対し微笑む、もしくは僕も彼女に向けてカメラレンズを向ける。今から思えば途方もない愚策だが、その時は真面目にそれが一番良いと感じたのだった。
僕はハチ公リーフレットの前で、彼女の視界から少し外れた位置に陣取り露天商を注視した。幸い彼女は僕には気が付いていない様子だ。僕と彼女の間はとぎる事がない人の流れが続く。時折、ほんとうに稀に露天商に人が立ち寄り雑誌を求める。その都度彼女は客に会釈をするわけでもなく淡々と仕事をこなしていく。カメラで人を撮るとは想像さえ出来ない。
僕の隣で女性が歓声をあげる。待ち人が少し遅れてやってきたのだ。謝る男性に女性はわざと少しふくれてみせる。先ほどまでの表情とは全く違う。露天商の横では男性が四・五人固まって談笑している。誰かをからかっているらしい。その隣では女性の顔を覗き込むようにして男性が何かを語っている。また、急ぎ歩く女性に勧誘の男性が近づいては断られている。露天商の女性は何も変わらない。
30分くらいがそうやって過ぎた。僕は露天商を見ている。見ながら、何か彼女がカメラで写真を撮ったことは聞くべきでも意味を考えるべきでもないと思えてくる。勝手な物語を造ることさえはばかれる。僕がたった一回見た撮影の仕草で十分なのかも知れない。ただ一つだけ僕は思う。おそらく彼女の家には数千枚の露天商から撮った、いわば定点撮影の写真があることだろう。多くの写真は量では測れない一枚一枚のその写真の集積なのだろう。この一枚、あの一枚、年月日と時間が記録された、この場面、あの場面。写るハチ公リーフレットは同じでも、流れゆく人々は誰一人として同じではない。ただ彼女だけがそこにいて撮したという事実が大事なのだ。
しばらくして僕は首を振りその場を離れた。実はこっそり彼女の写真を撮った。でも掲載は何処にもするつもりはない。
中内渚 繋がりの絵
会社の同僚に連れられて中内渚の個展に行ってきた。銀座の古いビルの一室、後から別の友人から聞くと築70年だそうだ、八畳間くらいの広さに絵が並べられて掛かっていた。天井には様々な飾り付けが吊り下げられている。中内さんはそれらを指して、メキシコの飾り付風が街で売っていたので買って来たと笑いながら語る。とても笑顔の素敵な女性だ。最初万国旗と思えた飾り付けは、そうではなく骸骨の模様に切り抜いたものだった。中内さんはそれも嬉しそうに話す。「メキシコの飾り付けって骸骨模様が多いんです。」
部屋の天井の中心から八方に広がる飾り付けを個展開始前日にほぼ徹夜をして作ったのだそうだ。もう少し飾ってメキシコの雰囲気を出したい、まるで部屋全体が彼女の作品のように、後から思えば彼女が描いたメキシコの市場のように、なって欲しいと思っていたのかも知れない。
そう、個展の空間は既に画家のキャンパスとなっていたのだ。僕は彼女の空間に足を踏み入れた。その空間は入るものを拒絶せず暖かく包み込む。強度を持って個性を押しつけるわけではなく、徐々に確実に染みこませる。個展の空間への第一印象はそういう感じだった。
アートとはスタイルだと僕は思う。中内渚のスタイルは古本の頁をキャンバスにしていること。勿論それだけではない。色遣い、線の描き方、絵の構図の取り方、絵の具の種類と色の使い方等々、無限の選択肢の中から画家は瞬時に自分のスタイルに合った仕方を選ぶのだ。当然だが、観客はそれらのスタイルを構成する要素を全て読み取ることは出来ない。それに画家はそんなことを観客に望んでいるわけでもない。画家はただ完成した自分の作品を気に入ってくれることだけを望むのだ。でも僕は、画家の意に反するかもしれないが、少しだけ絵に歩み寄っていこうと思う。
何故古本に絵を描こうと思ったのですか、と僕は聞いてみる。それは彼女にとって今まで何回もされてきた質問なのだろう。画家は凡庸な僕の質問によどみなく答える。
「私すごくスランプになった時があって、その時に白い紙に描くことがとても怖くて。白いキャンバスは自由で、私はその自由が怖かったんです。それで古本の余白に描き始めたんです。」
その時彼女は一枚の絵を描くために周辺を隠れながら移動していたのだという。一枚の絵に納められた複数の立ち位置。
僕は続けて聞く。それで今では白い紙に描くことはできるのですか。画家はその質問に一瞬戸惑う。僕は補足する。たとえば何も描かれていない白い紙だとしても、自分で文字などを書き加えてフレームを造っても描けるんじゃないかと。
「ああ、それだったらしています。例えばあの絵」といって彼女は一枚の絵を指さす。「自分で文字を加えたんです。」
何も描かれていない白いキャンバスが自由を意味するのかは僕にはわからない。でも彼女はそう感じた。一つ言えるのは、何も描かれていない白いキャンバスは画家のスタイルではなかった、ということだ。画家の独創性はそのスタイルにこそ存在する。そして画家はそこに自由な感性の広がりを感じるのではないだろうか。彼女にとって白いキャンバスはそうではなかった。白いキャンバスから離れることで、彼女は新たな出発をし始めることが出来たのだと僕は思う。
画家は何故古本の頁に絵を書くのか。その問いは果てしなく陳腐だ。しかし誰もがその問いを持つことだろう(多くされる問いかけは陳腐なものが多い)。僕も同じように彼女に質問をした。そしてスランプの話を聞き、わかったような気持ちになる。でも実際は少しもわかってはいないのだ。人間である限り理由を求めるものだ。そして質問を受けた者はそれに応えようとする。つまりは人が納得するような答えを見つけ出し、そして聞く方はそれを聞いて安心をする。何故彼女は古本の頁に絵を描き始めたのか。でもそれはどうでも良いことなのだ。画家は古本の頁に絵を描き始めた。そしてそれが彼女のスタイルの一環になった。それで十分だろう。
それでも僕は少し思うのだ。彼女の絵を見ればわかる。彼女の筆の使い方、色の選び方は、古本の赤茶けた頁に実によく似合う。線の描き方、周辺の絵のモチーフは、少しもその古本から外れてはいない。なおかつ中内さんが選ぶ絵の題材も、完成した絵を眺めれば古本の頁に合っている。今回の個展はメキシコの風景だった。それらは市場であり教会であり、物とか人が溢れ賑やかだった。ある絵では野菜だとか果物が山高く積まれ、その中で男性が一人うつむいていた。天井には球体に円錐のような突起物が幾つも出た飾りとか絵が描かれている旗とかが吊り下げられている。またある絵では、市場の絵と同じように雑貨・おもちゃが山高く積まれ、その中で女性が編み物をしている。古本の頁であることを意識させるのは、印刷された文字、スペイン語で書かれているため僕には何が書いているかはわからないが、何か小説のサブタイトルの様な文字列を見るときだ。それでもその文字列さえ絵全体から見れば違和感は殆どない。絵のために文字があり、文字のために絵が添えられているような、そんな感触を受ける。「絵」と「言葉」、おそらく彼女にとってその二つは何ら隔てる物がないのだろう。
賑やかな題材は、多くの物と人が描かれることでさらに楽しげな雰囲気を醸し出す。しかしどの絵も第一印象として受けるのは賑やかさではない。淡い色彩が多いためか、古本の赤茶けた色のせいか、僕には落ち着いた静けさを感じてしまうのだ。しかし多くの物が描かれているため、絵に近づいて細部を見ると幾つもの面白さに出会える。クマのぬいぐるみ、カエルのおもちゃ、編み物をしている女性の横に顔だけ描かれた男性、しかもその男性には「ANTONIO」と名前が添えられているのだ。そして何枚かの絵には中内さんの文章が綴られている。
例えば、魚市場の絵の右下には次の文章が載っている。
『"魚の卵"のことを、キャビアというらしい。だから、ししゃもの卵もキャビア。実際、ここで買った、まさに見た目キャビアも、ししゃもの卵。(ちゃんと黒く色づけされている。)これをお土産にすることになった。でもなんて言って渡したらいいんだろう。"これ、お土産のキャビア"?それとも、"これ、お土産のししゃものキャビア(卵)"どちらの方が親切?』
また、雑貨・おもちゃを売っている店を描いた絵には、『通りがかる人が「このタイプの、別の色のあるかしら?」って聞いてきたけど、私店員じゃありません』。教会の絵には中内さん本人が登場している。添えられている言葉は、『パイプオルガンの結婚行進曲を聴きながら』。そして教会の外では花嫁の姿がラフに描かれ、花嫁と見られないと心配したのか「花嫁」と矢印で示されている。
中内さんがスケッチをする時、何冊もの古本をジャンルは選ばすに持って行くそうだ。頁は本から切り離さずに開け、まるで本を読むように、そこにスケッチをするのだと聞いた。傍から見ると、彼女が絵を描いていると気が付く人は少ないかも知れない。おそらく彼女はペンで絵を描き後から色を付けていくのだろう。
スケッチをする時間、対象となる場所、例えば市場・商店・広場・教会などは時間の経過と共にその様相は変化をしていく。画家はそれらの変化を、自分が感じるがままに、なるべく絵に取り込もうとする。時間の経過を、人の動きを、絵に現すのは難しい。難しいながらも画家は、それでも彼女自信が感じる時間の流れそのものを絵に捉えようとする。だから絵の中に、自分に起きた変化とか心境も含めて描くのだろう。彼女の絵に登場する幾つもの顔だけの人物、そして前述の添えられた幾つかの言葉はそれらの現れだと僕は思う。そこから現れるのは、ある瞬間を捉え静止した市場の姿ではない、画家が過ごした市場での時間そのものなのだ。
スケッチをしながら、その場の雰囲気を味わい、そしてその中に心身を投じる。彼女が描く何人もの人は、描かれる側はわからなくても、彼女にとって親しみある人になっているに違いない。創作は単独の活動であるのは変わりはないにしろ、スケッチをする間、彼女は多くの人の繋がりを感じていたと僕は思う。
個展のオープニングパーティは同窓会の様相を呈したそうだ。その時は借りている部屋では収まりきれず、階段まで、果てはビルの入り口まで人で溢れる。多少の混乱状態に中内さんは内心ハラハラする。でも「個展に来て」というと集まってくれるのが嬉しい、とも彼女は語る。和気藹々とした楽しさの中心に彼女の絵がある。おそらくそれが彼女にとっては嬉しいのだろう。スケッチをすることで感じる人との繋がり、個展での人の繋がり、そのどれもが画家に新たな創作の力を与える。
しかし不思議な気持ちがする。単独で格闘しながら創作活動をする画家は、絵を描きながら少しも観客の事は考えてはいない。あくまでも自分と向き合い自分の形式にこだわるのだ。それでいながら完成された絵は人の繋がりを求める。孤高の絵など世界に存在しない、と僕は思う。絵は描かれたとたんに観る人を求めるものだ。それがたとえ画家が唯一の観客だとしても。
世界には様々なアートが存在し、且つ創られている。いかなるアートであっても、それは観る者の活動を一旦停止させ、そのアートを媒介にして活動を再開させる力を持っている。「活動」とか「停止」「再開」をどのように受け取っていただいても構わない。僕が言いたいことはこれらの言葉に収斂するわけではない。ただこれらの言葉しか僕は持たない。
中内渚のスケッチは確かに僕の活動を停止させた。しかしその力は強引でもなく、僕の感性に混乱を与え立ち止まらせたと言うわけでもない。どちらかと言えば、僕が自ら停止したと言ったほうが適切かもしれない。でも逆に言えば、おそらくそれが中内渚の絵の力なのだろう。そして僕は彼女の絵を媒介にしてこの文章を書いた。拙さは僕の能力によるところが大きいが、時間を見つけ少しずつ書いた。いわば活動の再開は緩やかであり、自分に圧迫を感じるほどの性急さは微塵もなかった。そしてそれも彼女の絵の力なのかもしれない。
中内渚の絵はスタイルとして発展途上であると僕は思う。完成したアートという言葉自体語彙矛盾に満ちているなかで、発展途上は彼女の可能性が未知であることを示している。彼女の内に秘め、自身にとっても捉えがたい熱情が、さらに表現として彼女のスタイルに現れることを僕は望んでいるのだ。それは彼女の絵を知り、その出会いが幸運であると認めている一人のファンの思いでもある。
中内渚の公式サイト:Nagisa's Sketches & Drawings
中内渚のブログ:国際派アーティストのアイデア帳
眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った
- Date
- 2008-10-07 (火)
- Category
- 日記
右目に眼底出血が起きてから約3ヶ月が経った。出血は右目の視界の半分を曇らせ、かつ見る物を歪ませた。眼科医で診察を受け、出血の原因は眼からのものではないと言われた。眼の曇りから網膜剥離を想定していたので、医者のその言葉は意外だった。多くは高血圧もしくは糖尿病が原因なのだそうだ。そういえば昨年の定期健診で血圧が高いと言われたことを思い出す。実は最近まで血圧が低い方だと思い込んでいた。かつて血圧が低く保険に入るのに苦労した。血が薄いと言われ赤十字の採血を拒まれたこともある。だから、血圧が高いと言われたとき、自分への思いと医者からの言葉とが一致せず多少混乱したのも事実だ。糖尿病を現す数値は今まで出たことがない、そうであればこの眼底出血は高血圧が原因の一つであるのは間違いない。昨年の定期健診で血圧が高いと言われてから、それまでに時折訪れる身体の不調が高血圧の症状と繋がり、多少ながら自覚していたせいか眼科医が言う原因の幾つかの中で、僕は漠然とそう信じた。
眼からの情報量は約80%だと聞く。右目の下半分の視界が損なわれている僕は、つまりは約20%の情報量が失われていることになる。でも実感としてはそういうものではない。私の見える世界は以前とほぼ変わらぬ世界である。ただ全く同じというわけではないし、右目だけで見れば、曇りと歪みとで近くの人の顔さえ判別不能な状態である。左目からの映像と合わせることで、脳内で補正をかけて以前と変わらぬ像を描いているのだろう。しかし静止視力は以前と比べ著しく落ちた。強いてカメラレンズに例えれば、僕が見る世界は絞りを開放した世界に近い。大げさに言えば、焦点が定まったものは確かに見えるか、その他はぼけて見える、そういう感じである。だからか、この眼で見る世界は以前と比べとても美しい。
僕の眼が眼底出血という「病気」に罹ったと言えるのは、眼底出血前の状態、つまりは欠損前の状況を把握・記憶しているからだ。さらに眼科医から見せられた激しい出血の跡を示す眼底写真。だから僕は医者から処方された薬を毎日飲み、してはいけないと注意されたことを守る。しかし僕はこの眼の状態をどこかで「病気」であるとは考えてはいない。確かに眼底出血の為に、バイクに乗るのは控えているし、仕事でのPC作業は疲れる、次第に読書時間は減っていったし、なによりもカメラのファインダを左目で見ざるを得ず慣れるのに苦労している。でも僕は現在のこの眼で世界を見、そして感じている、そしてそのこと自体に欠損は少しもない、世界に欠損がないように。性能低下はあるが見えるという機能的な事を言っているわけではない。逆に言おう、今回のことで僕は「見ると言うこと」に以前と比べ少し意識するようになった。
カメラでピントが激しくずれた写真を眺めたとき、僕は人間の眼では捉えられない世界が確かにあると思ったことがある。ピントが合っていない写真、ぶれて対象が何重にもながれている写真、歪んで写っているものが判別不能な写真、それらは僕らの世界に確かに存在する「もの」の姿を現していた。その時、僕にとってカメラは人間の眼では見ることができない「もの」の姿を写す道具だった。人間が見える世界は、人間にとっていわば都合のよい世界なのだ。カメラで捉える失敗とされた無数の写真のように、光を捉える時間と静止しない視点、さらに光の波長を読み取る幅により、そこに在る「もの」の姿は人間の現実を簡単に超えてしまう。
左目による脳内の補正は、僕の過去の経験を根拠にしているのだろう。こうあるべきだ、という世界。それとも僕の脳は人間にとって在るべき世界を知っているのだろうか。そしてその世界を僕の右目は拒否しようとしている。時折感じる右目の違和感は、まるで失敗とされた写真と同様に、右目からの世界も受け入れるべきだと僕に訴えているかのようだ。
さくら
東京ではソメイヨシノが散り始め、少し遅れて山桜が満開の時期を迎えた。しかし圧倒的な本数の違いか、ソメイヨシノの散りゆく姿は今年のさくらの終わりを感じさせる。先週末、会社知人の姉が亡くなられたと聞いて通夜に行ってきた。茨城と埼玉の県境にある町。利根川の土手には夕日に照らされて菜の花が眩しい黄色を放っていた。そして通夜の場所の傍らにはソメイヨシノが咲いていた。散りゆく桜。桜には死にゆく者をイメージさせる。無論これは造られたイメージだ。それはわかっている。でもこの国の春にはさくらが多すぎ、僕はどうしようもなくそのイメージに囚われる。
さくらは人の手が入らない限り群生することはない。群生しているということは人が植えたと言うことだ。近代では、さくらが植えられた時代は廃墟と都市開発に重なるという。植民地政策の一つとしてさくらが植えられ、戦争による廃墟の跡にはソメイヨシノが植えられた。さくらの樹の下には死体が埋まっているという梶井基次郎のイメージはあながち間違っているわけではない、と思う。
日本人が桜が好きなのは、歴史的・社会的に構築され捏造されたものに過ぎない。凡庸な意見だが、別に異論はない。でもそこからは次の何かが生まれるとも思えない。ソメイヨシノは植えられ、植えられた人の意志とは次元を異にし、春になれば花を咲かす。そこにあるのは生命の営みであり、人間がソメイヨシノに抱く様々な了見とは無縁の開花でもある。しかしその桜を植え続けているのは人間なのだ。
昨年参照した佐藤俊樹氏『桜が創った「日本」-ソメイヨシノ 起源への旅』によれば、ソメイヨシノを多く植えた理由の一つとして「経済性」があげられると言う。価格が安く、供給元に需要に応えるだけの生産能力があったから、役所にとっては計画が立てやすかったと言うのだ。そしてもう一つ、ソメイヨシノが桜のイメージを誇張した姿だったこともあげている。いわばさくらの理想型、理念化されたさくらの姿は思想的に政治に利用しやすかった。
理念化した桜であるソメイヨシノへの反発も当然にわき上がる。しかし強い反発は植える熱意と大して代わりはしない。桜を元に近代日本の姿を暴いた所で花見の客が興ざめをするわけでもない。人々は日々報じる桜前線に色めき立ち、満開の桜の下で狂騒を繰り広げる。
さくらは一つの様式を我々に示すが、さくらの経験は個々の文脈によって違う。毎春に同じように咲く花は、我々の人生において一つたりとも同じものはない。愛すべき人を失った者が観るさくらは悲しくはかないことだろう。新たな道を歩む人が観るさくらは青空の下で意気揚々と咲いていることだろう。個々の経験は記憶となってさくらに結びつき、やがてさくらは忘れ得ぬ花となる。
一つの様式、一つの理念で語られるさくらは既に過去のものとなっている。それは良いことだろう。その代わり、さくらは個々の思い出作りという活動に動員され消費されることになる。いわば現代のさくらは自由市場に放り込まれた一つの商品でもある。特別ではあるが、単なる日本に在る多くの樹木の一つとしての存在。それもまた良いことなのかもしれない。
相撲の様式、朝青龍、そして時津風部屋の悲劇
「相撲」の様式を考えるとき、そこには歴然とした幾つもの表象が離れがたく結びつき構成されているのを意識する。髷を結う髪の毛、「まわし」以外は何も身に付けないほぼ裸体の姿、そして勝負までの一挙一足に至るまで、何から何までもが相撲の様式として成り立っているかのようだ。力士たちはそれらを無視することも外れることも出来ない。
2008年1月場所千秋楽の横綱同士による優勝決勝戦は見事だった。僕は夜中のダイジェストで試合を見たが実におもしろかった。二人の異国の青年力士による闘いは大相撲の醍醐味を直接に伝えていた。あの試合に解説は全く無用だった。
サッカー問題により二場所出場停止を受けた朝青龍は1月場所の序盤で土が付いていた。取り戻せない勝負勘、そしてモンゴルで傷ついた足、さらには風邪による発熱。しかし朝青龍に休む選択肢は全くなく、その結果二日目に稀勢の里に土俵下に送り倒された。このまま白鵬の全勝で有利のまま千秋楽を迎えると思われた。しかし十日目で白鵬は苦手の関脇安馬の上手投げで初黒星を喫した。そして両者一敗のまま千秋楽を迎えたのであった。
2008年1月場所千秋楽の横綱決戦時の瞬間視聴率が34%を超えていたと後日発表されたが、相撲人気が再燃するかどうかは別にして、1月場所の人気が朝青龍による所が大きいと少なからずの人が思うことだろう。
「1月27日の初場所千秋楽。13勝1敗同士の横綱相星対決に48本の懸賞がかけられた。横綱同士の相星決戦は約5年半ぶりだった。47秒間の大相撲で白鵬が左から上手投げをきめて、朝青龍を1回転させた。国技館に飛び交ったざぶとんは、ベビーフェースがヒールに勝利したことを祝福するものだった。「休んでいた横綱に負けられない。それだけでした」。白鵬は繰り返した。(2008年02月08日 朝日新聞)」
朝日新聞では善玉と悪役との闘い、千秋楽決戦での勧善懲悪、これらが衆目を集めた要因の一つとする。その一方で朝日新聞では以下の意見も載せている。
「日本相撲協会の再発防止検討委員会委員で漫画家のやくみつるさんは「朝青龍は土俵外の態度など何も変わっていない。みそぎは終わっていない。これで土俵の第一人者の座を白鵬に奪われた」と手厳しい。大相撲にヒールの存在など必要ない、という立場だ。(2008年02月08日 朝日新聞)」
朝青龍に付きまとう横綱としての「品位・品格」問題。漫画家のやくみつるさんの意見は一つの朝青龍の好転を見ることが出来る。それは彼の行動を問題視する範囲から「土俵内」が消えたことだ。再起後の一月場所であれほどの相撲を見せられれば「土俵内」での行動に異を唱える者は少ないことだろう。
朝青龍の横綱としての「品位・品格」を問題とする人たちに、特に相撲関係者に聞きたいことがある。それでは横綱審議会は何故彼を横綱にしたのか、ということだ。彼の「ヒール」振りが横綱になることで緩和されるかもしれないという思い込みがそこにあったのだろうか。いや違う、と僕は思う。サッカー問題は別にして、朝青龍の態度に、周囲が求める横綱としての「品位・品格」が身につくことなど誰も考えていなかったのではないだろうか。
そもそも「相撲」の様式の中に既に「品位・品格」は内包されているのではないだろうか。「相撲」は様式の世界であり、逆に言えば「様式」しかない。そこに主観的な「品位・品格」を求めること自体に無理がある、なぜなら、繰り返すようだが、既に様式に内包されているのだから。
様式は「表象」される。そして「表象」を規定するのは、この場合一連のルールでしかない。「品位・品格」に問題があるとすれば、具体的にどうすべきかをルール付ければ良く、抽象的である限り現実的には議論のしようがない。
「協会最高責任者の目が土俵の上だけに向けられていると、「強ければ何をしても構わない」と、師匠の言いつけに耳を貸さないモンスター横綱が出てこないだろうか。また「強い力士を育てさえすれば」という風潮は、常軌を逸した過酷なけいこを弟子に課す親方が出てくる危険性もある。(2008年2月9日 毎日新聞)」
上記の毎日新聞社説の意見は誤っていると思う。相撲は「相撲の様式」の中で、つまり定められたルールの中で行動する限りにおいて、強ければ何をしてもよい。朝青龍が横綱に昇格したのは彼の強さからではなかったのだろうか。また、「「強い力士を育てさえすれば」という風潮は、常軌を逸した過酷なけいこを弟子に課す親方が出てくる危険性もある。」とあるが、過酷な稽古により強い力士が育つと考えているのだろうか。そうではない、と僕は思う。「相撲」の稽古は「強さ」を追い求めるのが主たる目的ではない、それはいわば「相撲」の「様式」を力士たちに身をもって伝えることにある。
いわば、「過酷な稽古」は相撲の様式、つまりは「相撲」の伝統継承にこだわる姿勢によって発生する。強い力士を育てるためには、力士が必要とする筋肉を鍛えるための効率的なトレーニングと、適度な休息により達成可能なのは、ほかのスポーツと同等のはずであろう。「相撲の様式」を守るため、部屋の独立性維持と、親方主導による稽古が存在するのだと思う。毎日新聞の社説は、「品位・品格」という抽象的な、あたかも日本社会で共有されていると誤解している道徳性が根本に横たわっているかのようである。
「大相撲の時津風部屋の序ノ口力士だった斉藤俊(たかし)さん(当時17歳)=しこ名・時太山(ときたいざん)=が急死した事件で、愛知県警捜査1課と犬山署は7日、制裁目的で2日間にわたって暴行を繰り返して斉藤さんを死亡させたとして、元時津風親方の山本順一容疑者(57)(元小結双津竜)と兄弟子3人を傷害致死容疑で逮捕した。また、県警は同署に特別捜査本部を設置した。大相撲にかかわる事件で当時の親方が逮捕されたのは初めて。」(2008年2月7日 読売新聞)
あえて2008年時点における相撲を「近代相撲」と呼べば、その起源は明治四十三年の国技館の開館時期付近となることだろう。維新直後の相撲存続の危機を脱し、政府・軍部中央にいる好角家たちの力により人気と勢力を持ち直した。その過程において、浮かび上がった課題は屋根付きの常設館設立のほか力士たちの行状改善(相撲道改革)であった。
明治四十三年の相撲道改革は多義に渡っている。「相撲、国技となる」(大修館書店 風見明著)によれば、改革の内容は以下の範囲となる。
「土俵のルール、力士が取組みを行う際のルール、行司と勝負検査役が判定を下すルール、団体戦のルール、報酬のルールなどプロスポーツとしての相撲に当然に要求される諸ルールのほかに、行司や力士の服装や番付け方法、相撲関係者や観客のマナーに関するルールなどから成るものとしてよい」 (『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明著)
その後幾度と変わったルールも多いが、目的としては力士としての品格を規定づけることを主としている。相撲節絵の宮中行事が途絶えてから約千年、それから明治に至るまで相撲は武道だけではなく、余興であり芸能であり続けた。逆に言えば芸能であればこそ途絶えることなく歴史に存在し続けたともいえる。ある意味「相撲」の神話への回帰は、芸能からの脱却であり、まずは力士の意識を変えることでもあった。そしてそれらはルールと、時には警察の介入により行われていったのである。
相撲部屋の名門時津風部屋の事件は、伝統・文化を守る意識から、残念なことだが起こるべくして起こった。「相撲」の歴史を紐解けば、「相撲」の改革は外部からの圧力によって、協会は致し方なく行動をとっているのがほとんどである。明治時代の危機脱却と、国技としての認知までのあいだ、協会は力士の行動をルールとして規範を設け改革してきた。今回どのような改革を行うのか僕にはわからない。
でも朝青龍の登場が、それがヒールとしての対抗軸としてでも、変革の兆しとして在るように思える。朝青龍と今回の事件との関連性は全くない。ただ、朝青龍は「相撲」が単なる「様式」であることに直感的に気がついていた。それは彼の育ってきた文化的背景の違いによるのかもしれない。そして「様式」は時として外すことも可能な「仮面」として彼に写ったとしても不思議ではない。 しかし「仮面」を「仮面」であることを認識できない人が多いように思える。
「仮面」が引き離せないほど密着し、それが主体としての自己を確定する時、名門時津風部屋の悲劇が起こるのである。事件の発覚はたまたま行われた司法解剖による所が大きい。故に過去において、それが実証困難であったにせよ多くの斉藤俊さんが存在したことは想像に難くない。
今回の事件への相撲協会の対応は様々な意見を呼んでいる。多くは協会対応の遅さであり、非難となって現れている。協会がどのような動きを見せるのか僕にはわからない。でも協会の動きは、我々が「相撲は国技」という認識を持ち、「相撲」から日本の「伝統」と「文化」を抽出し、さらにそれらの再生産を要請する姿勢にこそ、根本的な問題が隠されているように思えてくる。
何故「相撲」は日本の国技といえるのか、さらに「相撲」を日本の国技として在り続けてよいのだろうか、という素朴な問いかけこそが、「相撲」の改革を促し、しいては今回の事件を繰り返さない「考え」になると僕には思える。そしてその「問いかけ」への鍵を朝青龍と白鵬の異国の青年が握っているようにも思えるのである。
補足:「相撲、国技となる」(大修館書店 風見明著)によれば、相撲が国技となった理由は、明治四十三年の国技館開館による所が大きいとのことだった。
「国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治時代に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。「国技館」は響きのよい名称と受けとめられ、各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきた。」(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明著)
ある産業医との会話で思うこと
理由は忘れたが、あることで産業医と話をした。産業医とは企業の社員数規模に応じて法律で定められている嘱託・専属の医者のことで、専門家として社員の健康管理を行っている。
例えば社員が何らかの病で休職が必要なとき、産業医は企業の厚生部門と連絡を取りあい、社員が受診した外部の医者の診断書を元に休職是非判断を行う。彼が扱う情報はきわめてセンシティブなので、僕との会話の内容は一般的な内容だったが、あらためて考えることも多少あった。
これも法律で決まっている話だが、社員が休職をする場合1年半は期間に応じて基本給の100~80%の特別手当が支給される。ただ休職期間が3年間経ったとき、企業での雇用継続義務は消失するので自動的に退職することになる。そういえば「鬱病」による休職が最近多いと新聞で読んだことがある。何故このようなことを書くかと言えば、産業医との会話が休職制度に流れたからだ。
「復帰される方の割合はご存じですか」と彼は僕に聞いてきた。
休職をすると言うことは、会社を退職する気がないと言うことだから、少なくとも3年間で復職するべく養生に努めるのだろうと、何も考えずに僕は答える。
「そうですね、5割くらいではないでしょうか」
5割に根拠はない、本当はもう少し多いと思っていたが、質問をされたと言うことは、逆ではないかという気がして若干少なめに答えたのだ。
彼は苦笑して答える。
「3割に少し足りないくらいです」
「えっ、そんなに少ないのですか」
「はい、これでも最近はあるトレーニングを取り入れて劇的によくなったのです。以前は2割くらいだったのですよ」
あるトレーニングというのは他企業の産業医でも取り入れている「図書館トレーニング」という方法であるらしい。つまりは擬似的に図書館を会社に見立て、9時-17時の間、図書館で何らかの作業をする訓練を一定期間続けるということである。
「図書館トレーニング」とその効果について彼は語る。僕は想像がつくので彼の話を上の空で聞き始める。僕は思う。おそらく彼は正しい、そして違う。正しいと思ったのは「図書館トレーニング」なるものが一定の成果を出していることだ。産業医である立場から言えば、彼は企業の世界に属している。つまり彼にとって社員が復帰するかしないかが問題なのであり、復帰率はそのまま彼の成果につながる。
会社に復帰しなかった約7割の人を思う。一つ言えるのは、その中の何割かは別の道を見つけ出し歩いていると言うことだ。そして残りの人々もいずれは自分の道を見つける。復帰した約3割の人がそれを立証している。2割と3割の違いは確かに図書館トレーニングの成果だろう。しかしそれは復帰すべきか否かについて迷う人を復帰に向けて後押しをしただけで、戻られたのは彼らの生きる力なのだ、と僕は思う。人間は単純な一つのスイッチがあるわけでもない。何かを押しただけで稼働するというわけではないと思うのだ。
ここまで書いて僕はまた別のことを思う。自分の道を見つけて歩き出すと書いたが、それも違うのかもしれない。人は他人がその立場で価値観を唱えようと唱えまいと関係なく、生きていること自体すでに歩いている。彼の意志でとか、選択しながらとも言わない。ただそこに在ること自体がすでに最善の結果なのだと思うのだ。
「コミュニケーション能力が落ちているのです」
彼の言葉が突然に耳に入る。僕は思わず「えっ」と聞き返す。
「離職されていた方が復帰したとしますよね、その時まで長期間仕事を離れていた方がいきなり業務に就けるかと言えば、それはできないのです。まずコミュニケーション能力が落ちている。それに計算能力、そして文章作成能力とかもね。これらの能力低下によって、復帰してからまた自信をなくされて退職される方も多いのです。」
もっともな意見だ。仕事を中心に考えればそういうことになるのだろう。僕は黙って聞いている。
会社でコミュニケーション能力が重要な能力であることはその通りだと思う。でもそれらの能力は復帰をすればそれほど時間がかからずにある程度は短時間で元に戻ることだろう。問題と思うのは、会社の中の特殊な価値観を共有できるかと言うことだ。そして自分と折り合いをつけられるかと言うことだろう。
折り合いを付けると言っても、確固とした自分を持っていることが前提というわけでもない。折り合いを付けられる自分は、おそらくその会社の中の特殊な価値観と対峙して始めて問題として浮かび上がると思う。対峙により浮かび上がった問題と、如何に上手く付き合えるのか、それはかつて休職以前に無意識でしてきたことでもある。その「こつ」を思い出せれば、彼は会社の中でなんとか過ごすことができるだろう。それでも無理なら別の世界を見つければよいのだ。
無論会社に残ることは生活の糧を得るのが最たる要因であると思う。しかしどうしようもないこともある。産業医の彼は人間を病気と健康の二元論で世界を見ているのかもしれない、ふと僕はそう感じる。医者は病気を治療し健康な状態に戻す役目を負っている、ことから病気と健康を分けて考えやすい。でも実際はそうではない、と思う。僕らは健康でもなければ病気でもない、と思うのだ。健康と病気の状態を人数分布で仮に現せば、病気側に限りなく長く伸び続けるロングテールの曲線を描くのではなかろうか。
3年間の休職期間があるという体制は悪いことではない。さらにそのシステムを利用できる人は恵まれているともいえる。そしてシステムを利用するために、休職者は積極的に医者が望む姿になるのだろう。
ひとしきり休職期間による能力低下の話を聞いてから僕は挨拶をして別れた。それから彼とは出会っていない。
日本学術会議の代理出産の禁止案で思うこと
厚生労働省と法務省の審議機関である日本学術会議の代理出産の禁止案は一つの限界を示している。禁止の理由は、代理出産する女体のへの危険性であり、胎児に問題があるときのトラブルの発生への懸念である。いずれの理由も反論が出ることは必然であるにもかかわらず、具体的にはそれくらいの理由しか得られてないのだ。逆に言えば代理出産への流れが出来上がりつつあるということのように僕には思える。日本学術会議でも十分にそのことは認識されているのかもしれない、それが矛盾する「試行」制度の盛り込みに現れているのだと僕は思う。
代理出産の是非を議論している日本学術会議の生殖補助医療の在り方検討委員会(委員長・鴨下重彦東大名誉教授)は31日、東京都内で公開講演会を開いた。不妊夫婦が妻以外の女性に子供を産んでもらう代理出産を法律で原則禁止する報告書案に対し、参加者や委員からは賛否両論が出た。この日の議論を参考にして検討委は2月にも最終報告書をまとめる。(2008/1/30 日本経済新聞)
結論から言えば、日本の出産母胎による親権付与の背景には血統主義があるのでないだろうか。帰化以外の日本国籍所有者は概ね血統主義から日本「民族」と見なされる。つまりは日本人女性から産まれた子供は確実に「日本人」なのだという、今では根拠が薄い考えがあるように思えるのだ。無茶を承知で直感だけで僕は書いている。でも代理出産可能な国の多くは、調べてはいないので無責任な意見なのは承知でいえば、出生主義を持っている国が多いと思うのである。
それであれば代理に出産する女性は日本人にすればよいという反論も真面目に出てくるかもしれない、でもそういうわけにもいかない。なぜなら日本の血統主義は「家」という概念が密接に絡んでいるからだ。逆に言えば日本が血統主義から出生主義に切り替わるだけで、日本のコンテクストが大きく変わらざるを得ないことがわかる。
日本学術会議の出席者たちは何を守ろうとしているのだろう。代理母の肉体だろうか、それとも出産後に起きる様々な個別問題からだろうか。いやそうではない。守ろうとしているのは彼らの中にある括弧付きの日本なのだ、と僕には思える。だから容易には代理出産を認めるわけにはいかないだろう。
でもその戦略は間違っているとは言わないけど、少し違うように思う。彼らが代理出産を禁止するためには、逆に代理出産を賛成すればよい。そしてその賛成の条件により実際に稼働が難しいように持って行くのだ。何事もそうだが、禁止の主張は全面的な受諾の可能性を秘めているものだ。論議の中で注意しなくてはいけない意見は、全面禁止の主張ではなく、「一定の条件付き容認」を語る者の「条件」なのだと思う。
僕は代理出産は制度的に概ね全面的に認めていくべきだと思っている。最初からワーキングコードを作ることは難しいので、当初はバグだらけのコードであるのは間違いない。バグコードの対処で経験を積めるし、何をフォローすべきかの知識も構築できるだろう。仮に「条件付き容認」しか現実的でないとすれば、「条件」は緩やかにすべきだと思う。
当事者同士の金銭の授受がなくても、間接的に経済に影響を与えることだろう。新たなコードはいかなるものであろうと僕らに影響を与えぬものはない、と思う。代理出産を認める新たなコードが仮に書かれたとすると、そのコードは他の一見何の関係性を持たないコードの矛盾を露わにするものだ。おそらくその先にある何かをどのようにみているかが、日本学術会議と僕との違いにあるように思える。
2008年1月29日 諸々のこと
■マクドナルド訴訟
「判決は、管理監督者を「経営者と一体的な立場にある者」と認定。店長は (1)企業全体の経営方針の決定過程に関与していない(2)権限は店内に限られている-ことなどから、 肩書は店長であっても実質的に管理職ではないとした。」(東京新聞から)
上記の解釈であれば、日本の多くの企業の管理職は実質的に管理職ではないとなる。別に判決の批判をするわけではない。「今回の判決が、 管理職の範囲をあらためて明示したことで、経営側の拡大解釈論に一定の歯止めをかけることが予想される(東京新聞)」 ことから労働者の立場からすれば悪い方向ではない。ただ実際との乖離は深いと感じただけだ。
マクドナルドは様々な面で象徴と見なされる。昨年の日本国内で異なる商品価格の導入は、 国ごとによる価格差を持つグローバル企業ならではの発想とも言える。つまりは国内にグローバルを導入したのである。無論、 グローバルというか、資本主義は差があることを前提にし、格差を造り出すことで資本の増加が得られる機構でもあるから、 その考えを国内だけではなく社内にも適用するのは当然の発想とも言えないことはない。つまり「管理者」 という名前の珈琲農園従事者を造るのである。その視点で言えば、判決は拡大化したグローバルという考えに対する反論とも取れる。
■【主張】透析患者増加 糖尿病予防の徹底が急務
僕の知り合いに透析患者が一人いた。かなり年配の方だが、透析を受けることの辛さを教えてくれた。透析と言うとまずその方を思い出す。
僕に猫の育て方を教えてくれた。しかし後から知れば、その方は猫を飼ったことはなく、
おそらく教えてくれた育て方は猫ではなく犬の育て方だったように思う。その猫は今でも一緒に暮らしているが、
教えてくれたその方は数年前に亡くなった。透析は辛い。患者は毎年1万人づつ増えているという。
「透析患者を減らすには、まずは徹底した糖尿病予防が必要だ。生活習慣を変え、カロリーの過剰摂取と運動不足による肥満をなくし、 血糖値に問題がある場合は、厳格な血糖コントロールが求められる。(産経新聞)」
生活習慣病という名称は好きではない。個体差により発症の程度が違う為、まず自分の肉体の傾向を知る必要がある。しかし、 若年のときは個体差は明確的でなく環境に合わせて同様に行動する。その結果が現れるのは青年から中年に達しようとするときだろう。勿論、 誰の肉体ではなく自分の肉体であるから、出来うる限り自分が管理するしかないが、ケアとしての医療体制だけではなく、拡大する「自己責任」 という概念の歯止めも必要だと思う。
■「社説:ガザ 「強制収容所」を終わらせよう」
「イスラエルはパレスチナ人の居住地域へ食い込む「分離壁」を造っている。 国際司法裁判所は「違法」とみなし、国連総会も壁の撤去を求める決議を採択した。しかし、壁の建設はなお続いている。」
「「屋根のない強制収容所」といわれるガザの惨状を終わらせるにも、国際社会の良識と結束が必要だ。」
(毎日新聞から)
そう思う。そしてその為にも広く情報が行き渡ることを願う。
■Amazonが米国のみで展開しているDRMフリーの音楽配信サービスが2008年中に世界展開するそうだ。 DRMについては使い勝手で色々な問題が起こるためAmazonの展開は嬉しい。ただ身近にレンタルCD店がある場合、 やはり価格的にレンタルが優位と思う。さらにAmazonの展開が日本の音楽業界に受け入れられるかも未知数である。 仮に受け入れられたとして、提供する範囲の限定、もしくは逆の流れを産む可能性、例えば悪名高い複製禁止 CDの復活、 も有り得るようにも思う。どうなってゆくのだろう、今後の展開が気になる。
■赤福
赤福が2月中に復活する。嬉しい。名古屋・大阪営業所での製造はなくなったが流通拠点としては残っているので、
それほどの人員削減はなかったのではないか、などと想像する。製造拠点の縮小は事件の流れから見て致し方ないことだと思うが、
逆に地域限定銘菓として市場価値は上がるかもしれない。船場吉兆も赤福も老舗の同族会社であることから同一視しがち。
でも赤福好きの僕としては決して同一ではない。赤福にえこひいき宣言をする。
2008年1月28日 日記
- Date
- 2008-01-28 (月)
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- 日記
晴れ、6時半頃に一旦眼が覚める。起きようかとちらっと思ったがあと一時間は眠れると思い再び眼を閉じる。起きたのは7時20分ごろ。
眠気が尾を引いている。珈琲を飲む。煙草をすう。徐々に眼が覚める。
思いついたことを脈略なく書き綴る。思いついた時点での書き込みとなるので、起承転結などない。 逆に言えば起承転結のある文章など最近は仕事以外では書きたくないので、これはこれで面白い。
「産経新聞 主張 道徳教育 心とらえる教材が必要だ」
「人間」が造られた存在であるのなら、「道徳教育を実践せよ」と声を上げる人々はそのことを熟知しているのかもしれない。 大雑把に言えば、「道徳教育を実践せよ」は一つの従来教育への「否定」である。論理的に言えば、最初に何かの「肯定」があったはずだと思う。 ただ面白いことに、肯定A、Aの否定B、Bの否定C、と続いたとき、肯定Aと否定Cは同じではなく、 逆に否定Cは肯定Aも合わせて否定しているように思う。「道徳教育を実践せよ」と語る人たちは、無論戦前の「修身」 を念頭においているわけではないと思うが、言葉は政治的であり歴史を背負っているため、読み手は彼らの言葉を「肯定A」 も否定しているとはイメージできない様に思える。
しかし、教育に関する「論」は何故このように「美しい言葉」で語られるのであろう。教育には一つの「こうあって欲しい」 という思いがそこには横たわっている。その根幹を明らかにできず上辺だけを語るしかないからこそ、それを補う言葉として「美しい言葉」 を使うしかないのかもしれない。
大阪知事選挙については殆ど興味がない。
日経社説「消費者行政は「器」より実質的な議論を」は面白かったが、社説としての中身はない。その中身のなさが、逆に 「実質的な議論をせよ」という提言になってる印象を受ける。
「日本の行政は殖産興業の明治以来、業の振興に主眼を置いてきた。業界ごとに細かく法律を作り、それに基づき監督官庁が保護・ 育成の任を担う「業法行政」だった。その中では消費者保護は二の次だ。相次ぐ消費者被害を受け、 消費安全の部署をつくるなど変化は出ているが体質は容易に変わらない。」
日経の社説が言わんとしていることはわかる。で、体質を変えるための何か意見を日経は持ってるのかな・・・
そういえば今朝通勤時、満員電車の中で立ちながら僕にもたれて寝ている女性がいて、それには参った。彼女は完全に熟睡していた。 立ったままこれほど熟睡している女性に今までに遭遇したことがない。最初彼女は具合でも悪いのではないかと疑ったほどだ。 でも停車するごとに出入りする人の流れに逆らうことがなく、それでいて眠ったままなのだ、動いているさまを見て、具合が悪くないとわかった。 正直言ってその動きには驚いた。慣れていると思った。もたれられたのは二駅なので10分は経ってないと思う。 でも僕としては動くわけにも行かないのでちょっと疲れたと言うわけだ。まぁ別に良いけど。
最近携帯のフィルタリングサービスが話題になっている。未成年向け有害サイトフィルタサービスの話だ。 ドコモがフィルタリング設定を保護者側で出来るようにするとのこと。もっともな話だと思っているが、僕としては 「未成年向け有害サイトフィルタリング」自体に反対なので、仮に提供するのなら保護者側での設定は最低限必要だと思っていた。 フィルタリングに反対なのは、「有害サイト」の定義が曖昧なことと、フィルタリングをすることで何の効果が得られるのかがわからないこと等、 要するに何かしらまず管理が先にあるように思えるのだ。フィルタリングは対象者がサイトを知らないときに有効だと思うが、 対象者が有害サイトとされたサイトを知りえたときは逆の効果を生むと思うし、 それ以前におそらく対象者はそのサイトを何らかの手法をとって参照するだろう。だれも人がしたいと思うことを止めることはできない。
2008年1月24日、東急田園都市線
2008年1月24日、この日は東急田園都市線にとって不幸な一日だった。二度の事故が比較的近い時間帯に起きたのだ。 朝日新聞によると以下のような顛末だったらしい。
「田園都市線では同日午後5時半ごろ、川崎市高津区二子の高津駅で人が通過中の電車に飛び込む事故があり、 午後7時15分まで救助や復旧作業が続いた。(asahi.comより)」
最初の事故は人身事故だった。この事故で電車は二時間近く止まった。 二度目の事故は用賀駅で線路に亀裂が発見されたことによるものだった。最初の人身事故との関連性は全くない。
「レールの継ぎ目の溶接部分が何らかの原因で切れたとみられ、 レールを流れる信号用の電流が途切れて近辺の信号が赤になったという。鉄道関係者によると、冬は寒さでレールが縮みやすく、 溶接部分や傷のある部分でレールが切れることがあるという。(asahi.comより)」
この事故で途中の10分間の再開を除き約1時間40分電車は止まった。二度目の事故の発覚は午後8時頃だったので、 人身事故からの復旧からまだ間のないことがわかる。
田園都市線は渋谷から神奈川の中央林間まで通じている。しかも田園都市線は地下鉄半蔵門線と東武電鉄に直結しているため、 両線にも影響を与えた。田園都市線が不通の間、東武押上から渋谷までの折り返し運転となり、電車は乗客を次々に澁谷に送っていた。 当然に半蔵門線渋谷駅のホームは人であふれた。勿論渋谷から田園都市線を利用する人も多い。 故に一時は渋谷駅で乗客の入場を制限する処置まで行われたほどである。何人かが体調不調を訴え救急車で運ばれた。 人々は不確かな情報を伝えるアナウンスと再開時期が不明な状況にうんざりした面持ちで、それでも殆どの人は無言で電車が動くのを待ち続けた。
僕は半蔵門線を利用している。丁度帰宅のため駅に着いたのが午後8時あたりだと思う。ホームに降りると電車が停車していたので、 これはついていると迷わず電車に乗り込んだ。でもいつまで待っても出発しない。不思議に思い始めたとき駅のアナウンスが流れた。 アナウンスは、その時点での状況を伝えようとしているのは声の調子で感じるが、全く要領を得なかった。僕が理解できたのは、 東急田園都市線で人身事故があったこと、電車の点検のためその電車を回送すること、 回送が終わるまで駅に停車している電車は出発できないこと、この電車は渋谷までで田園都市線には乗り入れないこと、などであった。
後から新聞情報を知れば、半分はその通りだが線路の亀裂のことなどは知らされなかった。でも乗客にとって一番に知りたいことは、
駅に停車している電車がいつ動き出すのかと言うことだ。でもそれを想像することさえできない内容だった。これも後から知り得たことだが、
この一連の事故で約16万7千人の足が大きく乱れたとのことだった。
しばらく電車の中で待っていると東急線が開通したとのアナウンスがあり、電車も渋谷行きからさらに先の中央林間行きに切り替わった。
それで帰ってこれたのだが、後から知れば、その稼働も10分間だけの一時的なことだったらしい。
この事故を都市の脆弱性に結びつけて話をするのは簡単なことだ。しかしその様なことは誰もが承知の話である。 我々はまるでカミソリのエッジの上を危ういバランスを保ちながら歩いているようだ。でもそれを告げて何かが変わるわけでもない。
影響を大きくしたのは線路の亀裂の発覚の方だろう。その事故を振り返ってみれば、停車時間は、 体調不良になられた方には大変に申し訳ないが、たったの1時間40分である。人に言わせれば、その1時間40分で個人的・ 社会的に致命的な状況に陥る人もいるかも知れないし、体調不良を訴え最悪の場合亡くなる方もでるかもしれない、 でもそれでもたった1時間40分なのである。
普段では何も問題のなかった交通システムが、1時間40分間停止しただけでこのような混乱状態になったということは、 逆に言えばそれだけのボリュームを交通システムが日常処理していたということになる。これはある意味凄いことだと僕は思う。 そして都市交通システムを維持し運営する人の社会的使命の意識の高さで、復旧を短時間(人によって考えは違うとは思うが) で行えたのも素晴らしいことかも知れない。渋谷駅で殆どの利用者が我慢できたのも、 都市システムの脆弱の中でそれを復旧しようとする彼らの姿に、わが身の日常を重ねていたからだと思うのだ。
つい少し前まで、ネットが普及の兆しを見せ始めた頃、会社の業務は在宅化するのではないかとの予想が多かった。 フレックスタイムを多くの会社が採り入れたころだ。その傾向は、現在では、 個人情報保護及び情報セキュリティのかけ声のもと吹き飛んでしまったかのようである。今、 多くの人たちは会社でまるで図書館の閲覧室にて仕事をしている感覚に囚われているかもしれない。在宅勤務の夢は遠のき、 今でも都市交通システムに依存してそれぞれの仕事は成り立っている。 身体的にはネットのインフラよりも交通システムの方が社会的に重要なライフラインなのである。
現代では、過去の民族大移動のように毎日人は肉体を動かしている。そしておそらく人はそのような習慣の中で肉体を動かすこと、 つまりは行動(反応)することが重要だとする価値観を身体性にまで落とし込んでいることだろう。今回の一連の事故も、 自らその肉体を粉砕するという人身事故に始まり、線路の亀裂を最初に発見したのも利用者の眼であったし、 それらの事故の復旧の為に関係者は駆け回り、利用者は立ち続けた、という風に、一連の流れは肉体的なレベルに均しても説明がつくし、 新聞などの報道もそれに準じている。
新聞でインタビューに答える人たち。彼ら・彼女らの言葉は心の有り様を素直に表現している。心は身体の反応に連動する。 それぞれの肉体の状態において心の有り様は、個々に様々とはいえ、反応の仕方では同じ方向を向いていたと思う。 勿論それが人間の常態であるかもしれない。無論人はそれぞれに違う。ただ、反応に対しては僕も含め何かしら人々は似ているように見える。 だからか、この様な事故があり大勢の人々が一カ所に群れのように集まると、僕は自分の存在の薄さを多少なりとも感じるのである。
電車は途中で減速・停車しながら通常の約倍の時間で下車駅に着いた。 無言で改札を出る人々に混じりながら僕は周囲の安堵した様な表情の顔を眺める。帰りは散歩がてら遠回りをして家まで歩いた。 家について最初の人身事故が自殺(25歳独身女性)である可能性が高いことを知った。少しだけ彼女の人生と家族のことを思った。
「内部統制」という気持ち悪さ
「内部統制」が2008年度から開始される。おそらく現時点では多くの会社員は「内部統制」 についてそれぞれに思うところがあるように思う。僕もその一人だが、実を言えば考えるたびに少し気持ち悪くなるので、「内部統制」 については出来るだけ考えないようにしていた。気持ち悪さの原因は僕の中に二つの思いがあり、 それを仕事の現場において意識して使い分けていることにある。ただどうにも我慢が出来なくなってきているので、 ガス抜きのつもりでブログに書くことにした。
「内部統制」についての基本的な考えである「4つの目的」(*1)と「6つの構成要素」 (*2)についてはある程度周知のことだと思うのでここでは書かないが、それらの目的・要因の説明をするまでもなく、簡潔に「内部統制」 を語れば読んで字のごとく「内部を統制」する一言で足りる。
株主総会が会社を外部から統制することであれば、「内部統制」は経営者が会社を内部から統制することにある。 会社を内部から統制するとは具体的に何かといえば、それが「6つの構成要素」に関わり合うのだが、 誰がその要素を現実化するかといえば従業員に他ならず、そこから経営者が従業員の行動を統制する、 つまりは悪事が働ける能力と立場にある者が実際にその行動に至らないように管理する、ということに繋がってゆく。
だから経営者側から「積極的に「内部統制」に参加せよ」と言われても、従業員の立場から言えばその行動は論理的ではないのである。
しかもいわゆる「JSOX法」と呼ばれる関係諸法の成立が、米国からの影響(*3)を強く受けているにせよ、日本側の成立動機に 「大和銀行事件」 (*4)があるのは事実だと思う。一人の行員による巨額損失が発見できなかった責任を問われ、 経営者側に約800億円という損害賠償責任を認めた大阪地裁の判決は衝撃的だった。確かに「大和銀行事件」以降、「内部統制」 がらみの事件が起きているのは事実である。でもそれらの事件の何件かは経営者自らが主体的に係りあってもいるし、 特に昨年の偽証事件の殆どは経営者側が確信犯的な主犯格でもある。何が言いたいかといえば、立法の宿命かもしれないが、 常に現実の方が動きは早く、既に「内部統制」の仕組みでは対応不能な状況下にあるのではないか、と思うのである(*5)。
「内部統制」は定めた業務プロセスの遵守が要となる。業務プロセスはプロセスオーナー(役職としては取締役クラス)が統制し、 業務プロセスの承認はプロセスオーナーが行うことになる。 また業務プロセスはPDCAサイクル(*6)という原理的にトップダウン手法により維持管理される。 業務プロセスどおりに業務が遂行されているかをPDCA手法により確認するのである。しかし、 業務プロセスをプロセスオーナーが統制するということは、逆に言えばプロセスオーナーは業務プロセスを好きなように変更可能だとも言える。 そしてそれに対するチェック機能は監査役もしくは株主に委ねられることになる。しかし昨年の事件を考えたとき、 果たして機能がどのくらい果たせるか疑問が残る。(*7)
会社を人間の身体の部位に例える話は矛盾が噴出するが、不定形な有機体の例えは身体の例えよりはましかもしれない。 つまり独立して勝手に動いているように見えても全体としては一つの目的(生命維持)に向かって動いているという例えである。 システム論的な見方かもしれないが、僕が会社をイメージする時に最初に浮かぶ姿である。それからしてみれば、「内部統制」 は不定形な姿を四角形とかの姿に切り替えるだけでなく、勝手に動けないようにすることのように思える。不定形であろうが四角形であろうが、 「内部統制」の根にシステム論的視点があれば個人の価値が薄くなるのは変わりはない。ただ僕としてはさらに勝手に動けない様にすることで、 その傾向が強まると思えるのである。
もともとシステム畑で育った人間だから、標準化とか、見える化とか、 システム化に沿った効率の良い業務プロセス化とかへの指向は強かった。さらにシステム部門は「内部統制」の運用の要でもあることから、 「内部統制」は追い風ともいえないこともない。これが相反する二つ目の点である。仕事をラディカルに考えれば生活の糧なのであるから、 定められたことを粛々とこなしていけばよい。労務規約を遵守し、 勤務時間中は誠実に自分の能力とスキルを行使することは当然のことだと思っている。追い風と前記の仕事に対する基本的な考えであれば、 内部統制の運用に対しても違和感は持つことはないのだろう。でも最初に述べた思いもあるのだから、僕としてはとても気持ちが悪いのである。
結局トップダウン的な手法が気に食わないだけじゃないか、と思ったこともあるが、どうもそれでも釈然としない。 それに仮に手法がボトムアップであったとしても、自分ひとりで何かが出来るわけでは決してなく、 それ以上にトップダウンとボトムアップという二項択一の問題設定で気持ち悪さが解決できるとも思えない。
ポストモダン的解釈で「内部統制」を誰かが語れば、「環境管理」とか「生・権力」とかの言葉を使うのだろう。それはそれで構わないが、 そういう語りにリアリティを感じるかと言えば、現時点ではそうではないから始末に悪い。当分この気持ち悪さは続くのであろう、 そんな感じがする。しばらくすれば忘れるのかもしれないし(やることは同じだから)、気持ち悪さの原因がつかめるかも知れない。でも今は、 というか当分は、この状況に身をおくしかない。
こうやって解決できない問題が増え、しかも時間と共に、その問題は変質していくのだろう。そして「ポジティブ」 という訳のわからぬ言葉で自分を納得させ、その都度状況に応じて複数の思いを使い分け続けるのだろう。
補足
*1:「4つの目的」とは、(1)業務の有効性と効率性、(2)財務報告の信頼性、(3)関連法規の遵守、(4)資産の保全、 を言う
*2:「6つの構成要素」とは、(1)統制環境、(2)リスクの評価と対応、(3)統制活動、(4)情報と伝達、(5)モニタリング、 (6)ITへの対応、を言う
*3:具体的には、「COSOモデル」(1992年に米国のトレッドウェイ委員会組織委員会(COSO:the Committee of Sponsoring Organization of the Treadway Commission)が公表した「内部統制」 のフレームワーク)とCOSOモデルに準拠すべきと明示している米国「SOX法」
*4:詳細はWikipedia「大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件 」参照
*5:企業犯罪は経済と社会状況によりその犯罪傾向が顕れるように思う。時系列で経済動向を見れば詳細な傾向が見えるかもしれないが、 大雑把な区分けをすれば、バブル崩壊前と後でとは違う。バブル崩壊前は、経営者の親族に対する金銭などの便宜供与、 総会屋に対する利益供与など。バブル崩壊後は、損失補填、インサイダー取引、巨額融資の焦げ付きなど。 現在はバブル崩壊前後とは違う状況を呈しているように見える。ここで言いたかったのは、「内部統制」成立において中心となったリスク(脅威) 分析には「大和銀行事件」が大きくあったように思えるが、現在の脅威はそれだけとは思えない、と言うことである。
*6:詳細はWikipedia「PDCAサイクル 」参照
*7:「公益通報者保護法」で内部告発できる環境はあるが、僕としては、それ以前に「告発すべきか否か」 などというハムレット的立場になる不幸は願い下げである。また、新「会社法」及び「金融商品取引法」の成立が2006年だから、 問題を起こした企業の理解度が不足していたという可能性も否定できない。
今日
- Date
- 2007-12-21 (金)
- Category
- 日記
昼に喫茶店のテラスでコーヒーを飲んでいた。オフィス街の通りに面している店だったので、昼休みの会社員たちが目の前を行き交う。少し肌寒いが快晴、上を見上げるとビルによって区切られた空は雲ひとつない。
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
(西脇順三郎 「天気」)
西脇順三郎の「天気」という詩を始めて読んだ時、そこに地中海の強い日差しの中で、光と影の明確なコントラストによる白いギリシャ的世界のイメージが浮かび、そして固定された。おそらく言葉では言い尽くせないほどの天気だったに違いない。その天気は詩人の感性に直感を与えた。逆に言えば、その日、その朝、詩人の感性はその天気を受け入れる準備ができていた。溌剌として意気揚々、何かその日に素晴らしい出来事があるような予兆を感じる、そんな朝。
戸口で誰かが何をささやこうが、どの神の生誕の日なのか、それらに意味はない。ただ詩人はそのように感じた、そのことが重要なのだ。
僕はと言えば、寝不足でまぶたが腫れ、眼は充血し、手足はだるい。早く今日が終わればと明日からの休みを願っている。一体、詩人が迎えたような朝を僕も迎えることができるのだろうかと、涙目でぼやけた視界を再び空に向ける。そこにはひとつの青だけではない無数の青の世界。ひとつため息をついて冷めかけたコーヒーを勢いよく飲み干す。
昼休みの時間がわずかになったのだろうか、人々が無言で足早に通り過ぎる。僕は座りながら彼らを眺めている。
突然に雨が降ればよいと願った。雨は歩道を濡らし、僕が座っているテラスの椅子とテーブルを濡らす。できれば天気雨がいい。この無数の青の空から降る雨。それはきっと青色の雨だろう。西脇順三郎に直感を与えた天気は晴天とは限らないのだ。そう思うと何故か少しだけ元気が出てきた。
帰りに図書館に寄った。新倉俊一氏の労作「西脇順三郎全詩引喩集成」(筑摩書房)が近所の図書館に置いてあるとネット検索でわかったのだ。「天気」の一行目(覆された宝石)は英国詩人キーツの作品からの引用だと知ってから、そのキーツの詩を読んでみたいと思っていた。きっとその辺の情報が載っているに違いない。
でもあると思われた書籍はその図書館で無くなっていた。昔の情報が更新されず残り続けているのだと図書館士が申し訳なさそうに告げる。その恐縮具合に逆に申し訳なく思う。
変わりに新刊の「西脇順三郎コレクション」(全六巻)のうち二巻を借りてきた。今年は西脇順三郎が亡くなってから25年たったのだそうだ。編者は新倉俊一氏。今日、師走の晴天の下で西脇順三郎の詩「天気」を思い出したのは、もしかすれば何かの兆しなのかもしれない、などと少し思う。そしてそう思った自分を少し笑う。
明日はきっとよい日だろう。朝早く眼を覚ますのだ。
麻雀
- Date
- 2007-12-18 (火)
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- 日記
先だって久しぶりに友人たちと会った。友人の中の一人が久しぶりに麻雀でも打とうかと言うので集まったのだが。麻雀は単なる口実にしか過ぎない。でもいい年をした男たちが集まるにはそれなりの理由が必要な場合もある。以前は年に一度、ほとんどが正月だったが、誰かしら4人集まって麻雀を深夜まで楽しんだ。
酒を飲み、それぞれの日常の出来事を話し、それを茶化しながら、つまりは馬鹿話をしながら麻雀を打つのである。数年前までは、それは暗黙のうちに了解された僕らの公式行事だった。それがここ数年全くなかった。群馬にいる友人の仕事がある程度余裕ができ、今回の麻雀はその彼からの誘いでもあった。
様々な職業の人たちとの会話は楽しい。そのときも麻雀店の閉店間際の深夜0時頃まで遊んだ。そのうちに4人のうち1人が完全に酔っ払い、外面は全く素面に見えるのだが、語る話が何か妙に重くなってきた。彼はウィスキーを休むことなく飲み続け、その合間に、「俺なんてもうどうなっても良い」と語りはじめた。そして「俺の今の心境は特攻隊の一員のようなものだ」と続ける。その時は彼が完全に酩酊しているとは思えなかったので、僕は「それはどういうことか」とたずねた。すると彼は「いつ死んでも良いってことだよ」とこともなげに答えた。
彼には無論妻子もいる。「そんなことを妻子が聞けば悲しむだろう」と続けて僕は聞く。「だからこそ特攻隊の精神に近いんだよ」と彼は、おそらく自分の倫理観だと思うが、僕には通じない一言を言うのみなのだ。
「人間は、特に男はどういう形にしろ子供をつくり、ある程度まで育てればそれで良いんだよ」しばらくたってから彼は補足のつもりで答える。確かにそういう考えもあるかもしれないと、僕はうなずく。僕のうなずきを彼は見逃さず、逆に質問をしてきた。「お前は何のために生きているんだ?」
そういう質問は僕は苦手だ。あなたの知ることではない、と見知らぬ人であれば答えることだろう。でもその時は僕も多少は飲んでいたし、相手は久しぶりに会った友人なのだ。あまりそういうことは考えたことがないと前置きをいい、「人のため、自分のため」と短く答えた。
「人のため、自分のため」、確かに僕は昔からそう考えていたところがある。具体的に言えば、ある人がいるとする、無論その人には親がいる、親にとって子供の存在は悩みの種でもあるが、それ以上に希望でもある。つまりは子供がいるだけで、親のためになるのだと思うのである。そして親は親自身のために生きる。つまりそれらは誰にでも言えることであり特別なことでもなんでもない。だからこそ、語るべきことではなく、僕にとって「何のために生きるのか」という問いは苦手なのである。
「人のため、自分のため」は同時にありえるのか、それは時として難しいが、そこにバランスを保つことが大事なのではないかと僕は思う、と酒の勢いもあり短い言葉で僕は続けた。
彼は黙って聞いていたが、酩酊している状態の故、僕の言葉が彼に届いたのかは怪しい。何故なら、彼は繰り返し「俺はもう終わり」と言う言葉を何回か繰り返し、他の3人を見渡しながら、さもそれが重要なことのように、「俺らもいずれは死んでいくんだよなぁ」と続けたのだから。
弁護するわけではないが、彼は非常にポジティブな考えの持ち主であり、それは日ごろの仕事での活躍、さらに様々なボランティア活動参加という行動にも現れている。だから酔った勢いだとしても、その彼が突然にそのようなことを言い出したのは意外であった。
でも最近思うに、人生を前向きに生きる人ほど、その対極に死をおきたがる傾向にないだろうか。生と死は対立する二項選択問題になってしまわないだろうか。生と死の間は、病気と健康と同じように境目などない。それを無理に分裂させることで、人は病気に落ち込み、死を恐れる。
ではお前はそうではないのか、という問いは即座に跳ね返ってくることだろう。そう、前言の語りと裏腹に僕も死を恐れる。それは僕も現代の生と死のフレームワークの中に生きているのだから、そのような考え方でしか前に進めないのである。
結局麻雀の勝敗はその彼の一人勝ちだった。彼は飲み続け、語り続け、そして勝ち続けた。群馬から来た友人は二番目で少しは勝てた。僕はと言えば散々だった。前半は好調だったが、後半その酩酊した彼に立て続けに満願を振り込んだ。しかし彼は淡々と、喜びを満面に出すわけでもなく、ただ飲み続け勝ち続けたのだった。
群馬の友人は僕の家に泊まった。翌日彼を見送りに渋谷まで一緒に行った。二人とも昨日の疲れからか無言であったが、一言「昨日はすごかったな」と言った。お互いに何がすごかったのか、それだけで了解しあえたのが面白かった。酩酊した友人の方は、日曜である今日も仕事だと言っていた。
それぞれ次の約束をせずに昨日は別れたが、今度の麻雀は果たして何年後になるのだろう。電車に乗り込む友人を見ながら僕はそんなことを考える。そして彼にできるだけさわやかな笑顔をと意識しながら手を振った。
佐世保の事件
僕は時事問題を扱うのは苦手だ。例えば今回の痛ましい佐世保の事件に対しても具体的に事件そのものを取り扱うことはしない。それはあたかも激しい雷雨を狭い穴倉でじっと息を潜め過ぎ去るのを待つ小動物に近いかもしれない。無論佐世保の事件は天災ではない。でも事件報道と本件に絡み様々に湧き上がる風評への対応の仕方としては変ることはない。
何か自分の世界を正そうと、違和感を感じる報道および言動に批判を行うのも良い。ただ僕は自分の世界において、いまだに確信を持って他者に語る正義を持たない。これらの出来事は人間の行動の可能性として繰り返し上書きされ続けるのだ。ただ穴倉で雷雨が過ぎ去るのを待とうが、積極的に雷雨の中に飛び込もうが、両者とも雷雨を気にしていることに変わりはない。 僕のこういう消極的な性分を世の中ではなんと言うのだろう?「負け犬根性」とでも言うのだろうか?だったらそれも受け入れるしかない。
誤解をされそうなので当たり前のことを述べるが、この日本で理不尽に横腹を散弾銃で撃ちぬくことは悪であるのは言うまでもない。被害者の方々には哀悼を捧げるし、ご家族と関係者はさぞかし無念なことだと思う。そして容疑者の母親のこと。彼女が消え入れそうな声で、取材の応答に「申し訳ありません」と答えたと新聞に載っていたが、おそらく地元で母親がこれまでと同様に暮らせるとは思えない。でも無念さでは被害者の関係者と変わることはないのでなかろうか。
本事件の初期の報道では一部のメディアが犯行手口から外国人説をとっていた様に思える。犯行手口の内容によって日本人的とか外国人的というのがあるのかと、その報道を聞いて思ったが、すぐに教会で自殺をしている日本人の容疑者がみつかり、外国人説報道は何もなかったかのように消えていった。これらの外国人犯人説をとったメディアは一体どこからそのような説を取り入れたのであろうか。このような銃犯罪を起こす人は日本人であるはずがない、という根拠なき願望がそこにあるように思えて致し方ない。
さらに初期段階での専門家と称するコメントもひどかった。無論それは結果論から見ての話ではあるが、外国人説にせよ初期の情報不足の中での無責任なコメントは、それらを聞くものをあらぬ方向に誘導する。情報不足でコメントできません、という勇気がなぜもてないのだろう。おそらく別面では、医者と患者の関係、つまり患者は医者の望む答えをするように、同様の作用がメディアと専門家の間にも一部あるようにも思える。
なぜ容疑者のような人間に銃所持許可を出したのか、という意見もあると思うが、現行の日本では正義とはある意味正規な手続きを言う。言い過ぎかもしれないが、誰であろうと銃所持者は銃犯罪を起こす可能性はある。それに正規の手続きの中に、銃を所持しても良い人と悪い人の区別をどのような判断でどの様に組み込むのか、僕にはまったく想像さえできない。それらは自動車教習所で初めに行う性格判断テスト以上でも以下でもないのでなかろうか。集中力散漫と判断された人でも安全運転を続ける人は存在すると僕には思える。それであれば銃所持を全面的に禁止する方向となるだろうが、それはそれで難しいのでなかろうか。
ここまで書いて銃所持に問題解決をおいて書いていると誤解しないでほしい。僕にとって今回の問題は、解決が極めて難しい問題のひとつにおいている。
今年は銃犯罪が多い年でもあった。病院で一般入院患者がやくざと間違われて射殺された。そしてそれ以上に多かったのは、警官の銃による自殺であった。その多くは二十代の男女だと記憶しているが、事件として騒がれたのはストーカー警官の無理心中だった。銃所持の適正テストを考慮するとしたとき、一般人だけにとどまらず警官に対しても同様に行うべきだと思う。
つらずらと本事件とはあまり関係ないことを話してしまった。表層に見えることのみを勢いで書いてしまったようで少し恥ずかしいが、一応日記として載せておく。
「天国と地獄ってあると思う?」唐突に彼女が聞いてきた
「天国と地獄ってあると思う?」唐突に彼女が聞いてきた。いつものことだ。彼女はいつもそのことばかり考えている。同じ質問を何回してきたのかわからないほどだ。その時々の気持ちでやはり唐突に湧き上がる思いを自分の中に収めるのが苦手なのだ。
「僕はないと思っている」それもいつもの返事。その答えを聞いているようには思えずに彼女は続けて言う。それもやはり毎度のことだ。
「天国と地獄がないと思っているからこそ、いえ、ないと思えば何でも悪いことができるようになるよね」
「そんなことないんじゃないかな。たとえば、君は天国と地獄がないとしたら、悪いことなんでもできるの?」
しばらく考えているようなそぶりを見せるが、僕には彼女がどう切り替えしてくるのか知っている。
「あなたは天国と地獄があることを信じていいない」
「うん」
「神様っていると思う?」
やはり僕の質問を流したのだ。僕は彼女が天国の有無に関わらず、僕の倫理観からみて彼女が悪いことをするとはまったく信ずることができない。無論、あくまで僕の倫理観によればの話ではあるが。
「わからない・・・でも僕の中では神様を信じている気持ちがあるかもしれない」
「私・・・きっと地獄に落ちるわ」
彼女は自分が地獄に落ちるとどういうわけか信じている。すかさず僕が答える。
「断言するけど、君は120%地獄にいくことはないね。僕自身のことはわからないけど。」
先ほど天国と地獄を信じていないと言ったにも関わらず僕は答える。
「なぜそんなことが断言できるの?」
「じゃあ君は何で自分は地獄に行くと信じているんだ?」
「私は怖い。地獄に行くのが怖いの」
彼女のその言葉でお互いが黙る。いつものことなのだ。月のうち少なくとも一回はこういうやり取りをする。
僕の父方の実家は神主をやっていた。母方のほうは浄土真宗だ。母方の影響なのか、子供の時分に祖母から天国地獄絵図を見せられたことがある。悪いことをすれば死んだ後こういう場所に行くんだよ、と言いながら見せてくれたその絵のおかげで僕は長い間一種のトラウマとも言える感覚を引きずった。今でもその絵のことを覚えている。閻魔大王を含め十大王がいる十の世界は、実に生々しく人間の苦痛がでていた、別の見方をすれば地獄は拷問の百貨店のようでもあった。それに比べ天国の絵は退屈そのもので何もない世界のように感じられたものだ。幼い僕はどちらの世界に行くの嫌だった。
僕は宗教には疎いが、浄土真宗ではお題目を唱えることで阿弥陀様が極楽浄土に連れて行ってくれるそうだ。昔の人は天国を気にし、今を生きる彼女は地獄を意識する。どちらがどうと言うわけではないが、その違いに彼女は気が付いているのであろうか。これもまた考えれば、神道には天国とか地獄の考えは存在しないように思うがどうなのだろう。黄泉の国があり、そこは死者の国である。そしてその国でもやはり生者の国と同様に自然の法則が作用している。イザナミノミコトが蛆に覆われていた姿をイザナギノミコトは見てしまう。イザナミノミコトは黄泉の国の食べ物を既に食べてしまったのだ。夫に醜い姿を見られてしまったことで、イザナミノミコトは怒り彼を追いかけることになる。正確には知らないが、神道では死ねば誰もが蛆に覆われることで、死者の格差はないように思える。
そして僕は思う。仮に彼女の言うとおりに天国と地獄があるとしよう。誰も見たものはいないのだ、僕らの宇宙とは別次元の世界があったとして、死後その世界に転移しないとも限らない。でもその別次元の世界、天国と地獄どちらに行くのかは、それこそ神のみぞ知るである。でも別次元の世界にせよ、天国と地獄の存在の根本には霊魂不滅の概念がある様に思う。この世界に僕が属している限り、人間に感知可能不能に関わらず、霊魂があるとしたとき何らかの物質で構成されているように思う。そして物質である限り、それは同じ構造で永遠に維持し続けることは難しいと思うのだ。
こうは考えられないだろうか。仮に神がいるとしよう。でもそのことと天国と地獄があるのは別の話だと。さらにいえば人は天国に行くために、地獄に行くべき行為をすることもあるのだ。そうはいっても、神仏が定める規範に人間はやはり知るよしもない。つまりは人間は天国と地獄のことを意識して生活するべきではないのだ。それであれば、人間にとって天国と地獄はないに等しいのではないのだろうか。モーゼの十戒も、その当時の規範に照らし合わせれば、現代の人間はほとんどがその戒律を犯しているではないか。
以上の簡単な僕の天国と地獄への考えを彼女に何度か話したこともある。約30分以上もかけた、こういう話が苦手な僕のプレゼンであった。その時、彼女は感心するほど熱心に話を聞いてくれた。そして聞き終わった後に僕に尋ねたのだ。
「それであなたは天国と地獄を信じてないの?」
テレビドラマ「点と線」(ビートたけし出演)をみてだらだらと思うこと
1958年(昭和33年)公開の映画「張込み」について、 監督である野村芳太郎は次のように語る。「この映画はリアリティが大事です。観客が少しでも嘘っぽく感じられないようにリアリティを求めました」
映画冒頭で、刑事たちが張込み現場に着くまで、列車内の場面が延々と続くのはそうした監督の配慮からきているのだと思う。
映画におけるリアリティの追求とはひとつのパラドックスに近いかもしれない。 人工的な所作により作られる「現実」は、 当然にそこに製作者の考えが盛り込まれている。つまりは、その時点で「現実」 は外部ではなく内部性からという矛盾を抱えてしまう。 ただし映画「張込み」の場合、原作とほぼ同時代の映画なので、 監督自身は物語の時代設定を意識することはない。 野村芳太郎監督が意識するリアリティは、 刑事と言う仕事と生活がべったりと貼り付いた人間の生態にこそあったと思う。
これが2007年公開映画「続 三丁目の夕日」となると、 リアリティはCGで描かれた風景のみとなる。「続 三丁目の夕日」 はまるでテーマパークの様に安全で清潔で明るい。 そこには昭和30年代の公害と大気汚染に見舞われた東京の姿はどこにもない。 首都高で覆われていない日本橋、完成直後の羽田空港、 そのほか日常を取り巻く数多くの小物が登場し、 そこに役者を立たせたとしても昭和30年代初めにはたどり着くことはできない。おそらく、 もう我々には昭和30年代さえ描くことは難しい状況になっているのかもしれない。ふと、そんなことを思う。
2007年11月24日・25日の二夜連続で放送したビートたけし主演の「点と線」 を観た。このテレビ版「点と線」では、 原作もしくは過去に映画化(昭和33年)されたものと比べ、(1) 現在から過去の出来事を振り返ること、(2) ビートたけし扮する老刑事鳥飼重太郎が事件に対し極めて強い執念を持つこと、(3) 鳥飼と刑事三原紀一が本事件から二度と会わないこと、 の3点が際立って違うように思える。無論、ドラマの中で戦争の経験を引きずることが、 鳥飼の事件に対する執着、 および犯人である安田辰郎が犯罪行為に至らせたという伏線も違うといえばそうなのではあるが、 ただ戦争の逸話は本ドラマでは、 俳優たちの熱意ある演技と裏腹でそれほど重要ではないように思えるのである。
僕にとって本ドラマで重要なせりふ、と言うより印象に残っているせりふは、 鳥飼重太郎の最後に述べる一言、「何故か無性に腹が立つ」 である。それらは、鳥飼の人生のなかで常に持ち続けてきた心情であり、 それが本事件でも現れたように思えるのである。仮に、 犯人夫婦が自害せずに検挙されていたとしても、鳥飼のこの「何故か無性に腹が立つ」 感情は拭うことができないように僕には思える。 鳥飼はなぜ無性に腹が立つのか、何に対して腹が立つのか、 それらはドラマでは明らかにされることはない。 彼の心情の起源が戦争にある様にドラマでは描かれているが、 僕にはそのように見ることはできなかった。
腹が立つ対象が社会システム、 もしくは自己願望達成への無力感にあるという安直な考えに僕は即同意はできない。鳥飼重太郎の 「腹が立つ」 感情はそういう部類から起こっているように思えないのである。たとえば、このドラマが放映されていた最中、 新聞では守屋前事務次官による防衛省収賄容疑報道が一面の見出しを踊っている。それらはドラマと同じ状況を彷彿させるが、 僕自身が受けるものは無関心と脱力感でしかない。鳥飼の「腹が立つ」感情は終わった結果に対して向けられてはいない。 鳥飼の人生の流れの中で現れ培われていったその感情は、やはり流れの中にこそあるのである。つまりは社会システムの一断面、 自己願望未達という、流れを切り取ったところに見出されるようなものではないように僕には思える。さらにいえば、流れを切り取ったとき、 それは既に同じものではなくなってしまっている。問題は常に未解決のまま残され、「腹が立つ」気持ちから受け入れられる。「腹が立つ」 と言い、その出口を三原に向けた鳥飼は、その誤りを知り帰京する三原を探し夜の街を走り回る。でも結局三原とは会えず、 それが最後の出会いとなるのである。
話は変わるが、上記にあげたドラマ設定上の三つの変更点は、 ひとつのシーンに収斂する。それは鳥飼重太郎の死に様である。 確かにアリバイ設定上、昭和30年代の時代背景は無視できない。 現代においては同様のアリバイ工作はできようもないからだ。 でもだとしても、それが現代から振り返る筋書きとする理由にはならない。 僕にとって、 このドラマは鳥飼の死を描きたかったのでないかと思えて致し方ないのである。「何故か無性に腹が立つ」鳥飼の死を、 珍しく雪が降った寒い朝に庭で一人うつぶせになり死んでいった姿として描くこと、それがこのドラマで一番描きたかったことではないだろうか。 それは「何故か無性に腹が立つ」人の死に様としてふさわしい。
このドラマでは5人の死が描かれている。情死偽装された男女の死、 ある意味情死ともいえる犯人夫妻の死、そして鳥飼の死である。 それぞれの死は、「点と線」に絡まる事件の中で一つの過程として現れる。 情死偽装された男女の死は鳥飼にとっては発端ではなく、 流れる問題の新たな発見である。犯人夫妻の死は問題の解決ではなく、 新たな問題を鳥飼に怒りを持って強引に認識させる結果となる。 そしてその問題は解決されることはない。鳥飼の死に様が、 一種殺人現場に近いように描かれているのは必然なのかもしれない。 逆説的に言えば、解決不能な問題を認識しないものこそが、 新しい出来事を受け入れることも見つけることもなく、 それだからこそある意味安らかに死んでいくことができる、 そういう風に鳥飼の死に様は語っているかのように僕には思えたのだ。
映画を含め最近昭和30年代が多く描かれている。現在から昭和30年代を眺めると 「戦後はもう終わった」 と言われた同時代の宣言が滑稽のように思えてくる。映画「続 三丁目の夕日」もテレビドラマ「点と線」も、 時代設定を昭和30年におきながら現代のリアリティをもって描かれている。それは時代劇となんら変わることはない。 昭和30年代に我々が失ってしまった何かがあるかどうかは僕にはわからない。でもそれを描くために、たとえば「続 三丁目の夕日」 の中で使われたせりふ「お金より大事なもの」というステレオタイプのイメージを出すために、途方もない制作費と、 消費活動を利用した宣伝効果を利用しているのも事実なのである。
ル・コルビジェ展の短い感想

先々週だったか日にちは忘れてしまったが、僕は六本木ヒルズの「ル・コルビジェ展」 に行ってきた。 もとより建築関係に造詣が深いわけでも関連業界にいるわけでもない。 でもフランスがユネスコ文化遺産にコルビジェの作品群の一括登録に動いている、という話題が出るほど、 彼は普通に知られている歴史上の人でもある。その彼の単独展を開催しているというので興味があった。僕の感覚では、ル・ コルビジェは確かに偉大な建築家だが、日本で単独展が出来るほど知られているとも思えなかったから、 どのような展覧会を企画者は見せてくれるのだろうか、という点が特に興味があったのである。
友人の設計者と少し前に色々な話をした。 その中で建築関連の話でもないのに普通にコルビジェの話が出てきた。 彼は設計技師なので当然にコルビジェのことを知っていて不思議はない。 でも、その時多少の違和感を感じたのは、 コルビジェという名前が建築関係者ではない人でも知っているのが当然という「自然さ」だった。
僕の場合、学生時代からデザイナーとか建築関係とかを志す人が回りにいたので、 その影響もありコルビジェの著書を何冊か読んだことがある。だからこそ知っていると自分では思っていた。だから、彼が「近代建築の始祖」 と呼ばれている理由とかはまったく知らないし、そのような目で見たこともない。一つ言えばテクノロジーとして人間を見つめ建物を設計した、 その事がおそらく発端ではないかと思うくらいだ。
でも、例えばジョサイア・コンドルとか辰野金吾、曽禰達蔵、 片山東熊などの日本近代建築の始祖と呼ばれる人たち、 もしくは堀江佐吉などの大工棟梁たちと、 コルビジェが何が具体的に違うのかは正直に言ってよくわからないのは事実だ。 彼らもコルビジェと同様に、 建築する際に必要な基礎データ値は経験則として持っていたはずである。 さらにフランスが世界遺産登録申請したというのもフランスというお国柄があるからだと思っていた。つまり、 あくまで一般的には知られていない人であり、展覧会の来場者は少ないと思っていた。 人が少なく静かな美術館での鑑賞を僕は当然の事として期待していたというわけである。
でもその期待は六本木ヒルズで入場券購入の待ち行列を見てあっという間に吹き飛んでしまった。そこには老若男女が、 乳母車に乗っている赤ん坊から杖を突いているお年寄りまでの方々が、長い行列を作りながらじっと鑑賞券購入の順番を待ち続けていた。 その状況は僕にとっては想定外だった。後からわかったことだが、展覧会の入場券は六本木ヒルズの展望台への入場券と兼ねていた。 だから多くの方の目的は展望台だったに違いない。ただ兼ねているのだから、 展望台のついでに展覧会を観て行きましょう的なノリの方も多かったと思える。だから、展覧会の総括をすれば、「騒々しかった」がまず浮かぶ。 子供は走り回り、赤ん坊は泣く、それらは致し方ないことだ。それはわかる、 でも静かな鑑賞を期待していた僕にとってその光景の落差は大きすぎた。
では展覧会の内容はどうだったのかと聞かれたら、意外に面白かったのも間違いない。 意外とは、 コルビジェの様々な側面を観る事が出来たことから、展覧会の内容が近代史を振り返る機会になったということで、 それはコルビジェの建築面だけではおそらく知る事が出来なかったと思うからだ。また「面白かった」 の根底には僕のコルビジェへの固定観念が偏っていたことの表れでもあるかもしれない。展覧会での表現が企画者の意図を的確に伝えていたし、 それに対しては違和感はおきなかった。確かにコルビジェは「近代建築の始祖」と言えるのかも知れない、 順路を辿りながら僕はそういうことを考えていた。
まさしく当該展覧会ではコルビジェと近代が離れがたく密着していた状況を的確に現していた。でも逆に言えば、 彼の活動が近代という枠組みに組み込まれているのを理解すること自体が、 近代そのものが現代とは違った時代であったことの証左になりえたようにも思えるのである。彼の作品には、根に僕らが失ってしまった 「大きな物語」が確かに横たわっていた。だから僕はコルビジェの作品群を近代史を見るように順路を辿ったのだった。 子供たちと赤ん坊の喧騒が、近代という時代の音色にも聞こえ、そこに一つの不思議な空間を作っていたように思えた。その中で僕は、展示物を、 何故かしら懐かしさが伴った感覚の中で眺め続けたのである。
特にコルビジェの都市計画はそのことを如実に表しているように僕には思えた。 コルビジェの都市計画には、 人間工学というテクノロジーに含める要素ひとつひとつの選択が「大きな物語」 を背景にして行われているように思えたのだ。 だからコルビジェの計画した都市は、現代におけるそれと著しく景観が異なる。 例えば現代では要素としてバリアフリーとセキュリティが加わるだろう。でもそれ以前に「大きな物語」が喪失している以上、 それは単にテクノロジーに必要な要素の1つにしか過ぎない。その結果、日本のどこに行っても同じ都市景観になるというわけである。 だからといってコルビジェの都市計画を称賛するつもりもない。彼の都市計画には逆にそれだからこそ排除された人たちも多いはずである。
コルビジェ展が今年開催された理由は何だろう。 それは1つには回顧できる時代になったということがあるように思える。 僕らはコルビジェを外部から眺め批評出来る立場にいるのである。 そしてその立場からコルビジェから受け取れるものはなんだろう。 それは僕らが無くしてしまったものへの郷愁だけではないはずである。でも、 この展覧会はコルビジェと近代との結びつきの強さを表現することは成功したとしても、それ以上の射程は持ち得なかったように思える。 現代におけるコルビジェの意味とは何なのか。 おそらく今回の展覧会にあわせ多くの美術誌もしくは建築雑誌がそのことを特集に組んでいることだろう。僕はそれらを全く知らない。 ただ1つ言えることは、既に時代はコルビジェの時代に戻ることはない。コルビジェが実践した建築設計の各要素を、 背景無くしてバラバラに取捨して利用するしか僕らには出来ないのである。
補足1:一般的に知られていない、 といっても当然に多くの方が知っているとは思っている。ここでの比較は、たとえばレオナルド・ ダヴィンチの「モナリザ」と較べての話。 無論混雑具合はモナリザ程ではないにせよ、僕的にはそのくらいの落差があったということである。
補足2:写真は六本木ヒルズの展望台から眺めた東京タワーと街並み
エイトに
エイトが亡くなってから3ヶ月が過ぎた。僕はエイトに会ったことはない。 ネットの中だけの付き合いだった。付き合いと言っても、頻繁なメールのやりとりをしたというわけでもない。エイトが撮った写真を眺めたり、 ブログを読んだり、そしてそれらにコメントを寄せたり、もしくは逆にもらったりした、いわばネットではどこにでもあるような間柄だった。 エイトは頻繁に自分のブログを更新していて、僕はほぼ毎日エイトの記事を読んでいた。率直に日常を語るエイトの文章は魅力的であり、 エイト自身の強さと弱さを自然と顕わにしていた。僕はそれらを通じて次第にエイトのことを知るようになっていった。
エイトを初めて知ったのは写真からだった。
あるバラの一品種の姿を知りたくて写真サイトであるFlickrを検索したのだ。バラの名前は忘れてしまった。
でもエイトの写真は1つの印象として記憶に残っている。それはよくあるような、写真好きが撮ったような写真ではなかった。
そこには撮した者の心情は微塵も入っていない様に僕には見受けられたのだ。一歩身を引いたような写真、
いわば百科事典に載っているような写真。エイトの写真はそんな印象を僕に与えた。
実を言えばそのことをコメントに書いたことがある。よくよく考えれば失礼とも受け取られるコメントだが、
エイトは僕のコメントに喜んでくれた。そしてこの写真サイトを使って植物の百科事典みたいなものを造ることが出来ればと考えている、
と返信コメントで語っていた。
別の話だが、僕は約一ヶ月前に会社の後輩の死を知った。 彼が入社時に僕と同じ部署に配属され数年間一緒に仕事をした。純朴で義理堅く、気持ちが真っ直ぐな好青年だった。 一緒に仕事をした期間は5年くらいかもしれない。それから彼は異動になり、僕自身も異動したりして滅多にはあわなくなった。 それでも社内で偶然にすれ違うとお互いに近況などを報告しあった。後輩の死は昨年のことだったらしい。帰宅途中に下車駅で倒れたのだそうだ。 その話を聞いた際、無論僕は愕然としたし、彼の笑顔を思い出した。 そしてラガーでもあった彼のスポーツマンらしい頑丈そうな体躯を思い出した。でも、悲しみの深さは比べることはできないが、 正直に話せばエイトの死を知った時ほどの痛みは感じなかった。
もしかすれば相次いで知人(エイトが知人と言えるのであればだが) の死を聞いた僕は、そういうことに関する感覚が麻痺していたのかも知れない。後輩の死を聞いたときに、その出来事の大きさと、 自分自身の薄情とも言える気持ちとの落差に驚き、僕は自分を納得させるために一瞬そう考えたのも事実だ。でも時間が過ぎるごとに、 僕の中に占める両者の死の重みはエイトの方がより大きくなっていったのだった。
僕にとって後輩とエイトは全く対照的だと思う。例えば、
僕は後輩の顔を知っている、仕事に関して様々なことを話し合った、その意味では僕は彼のことを知っている。彼の結婚式に招待された。
子供が生まれたと言うことも知っていた。少し調べれば生年月日や生まれ育った場所も知ることは可能だと思う。
逆にエイトは一度も会ったことがないので、外見的なことは何も知らない。何の仕事をしていたのか、
その仕事でどんな活躍をしていたのかなども全く知らない。当然に生年月日とか、どこで生まれ育ったのか、
そしてどこに住んでいたのかさえ知らない。
それなのにエイトの死に強い痛みを感じたのは何故だろう。1つ言えるのは、 現在において、僕からの距離感が両者は違うことはあるかもしれない。僕は後輩は実際に見知っていたが、 ネットの友人であるエイトよりも距離が離れていた。エイトとの距離感は僕が造り出した幻想なのかも知れない。 しかしそれを言えば実際に見知っていた後輩も同様だろう。ただ、エイトと後輩の違いは「顔」に還元されるのも間違いない。人は「顔」 を知れば全てを知ったような気になるが、実際は「顔」によって何もかもを知ることが出来ない。エイトの場合、「顔」 を知ることがなかったことが、より身体的にエイトの文章において実感できる結果となった、と言えないこともない。 つまり僕にとってはヴァーチャルなエイトの存在の方にリアリティを感じていたのである。
エイトのブログ記事は誰宛に書いたかという疑問を抱かせない。 エイトは間違いなく誰に宛てても書いてはいない。強いて誰かと言えばそれは自分自身かもしれない。 だからエイトのブログ記事は一見すると安定せず自律した個人がそこにいないかのような印象も受ける。でも多くの者たちにとって、 ネット上で文章を書くということは、自らを自分の造り出したイメージで縛ることにも繋がっている。 だからエイト自身はその呪縛から逃れていたとも言えないこともない。だからといって、 エイトが撮った写真とブログ記事の総和にエイトの全貌が立ち現れるわけでもない。それらは表層に現れるほんの一部だろう。でもそれを言えば、 実際にエイトの知人であったとしても同様のことだろう。いくら自分が知りえるエイトの情報を集めてもエイトには近づけない。
それであればエイトとは僕が造りだした幻想でしかないのだろうか。 おそらく半分半分だろう。僕はエイトを知っていた。しかし僕はエイトを知らない。そしてその状況にネットとかリアルとかは関係はない。
ある時エイトは僕が撮したベンチの写真にコメントをしてくれた。 ベンチは近くのマンション前に設置していたもので、木製の長椅子ではあるが、一人分の席を表すかのように手すりが付いていた。 エイトはそのベンチを見て、最近そこで寝ることを防止するのを目的と思える手すり付きのベンチが多いですね、と書いてあった。 その視点は紛れもなく僕の視点でもあった。ブログでは、人と接することが苦手でいつも一人でいること、 一人でいることが好きでいながらも多くの人と接していたいという気持ちも持っていること、なども書かれていたように思う。 そしてそれも僕と同じであった。
エイトは限りなく優しく、強く逞しく、弱く儚く、
そして誰もがそうであるように生きる難しさを感じていた。一人でいることを愛しながらも孤独感を怖れた。
単独と孤絶は違うとわかっていながらも、単独と孤絶の境界は微妙であることも知っていた。カメラで多くのものを撮った。
短いながらもその時々の心情を適切にブログに書いていた。旅行が好きで、運転が好きだった。生活は金銭的に豊かではなかったが、
その辛さも逆に些細なことで大きな喜びと感じる繊細さを持って生活していた。繊細さは時としてエイトを苦しめたかも知れない。
でもそれも今では知るよしもない。エイトの新たな文章を読みたい。エイトの新たな写真を見たい。でもそれは叶わぬ夢である。
あなたに
突然に僕はあなたのことを思い出しました。
発端は何だったのか、目の前を通り過ぎる恋人たちの姿からだったのか、それとも街でふと耳にした言葉だったのか,それは全くわかりません。
街を歩いていて、唐突に、何の予兆も与えられずに、僕はあなたのことを思い出したのです。
忘れていたわけでは決してありません。ただ長い間、日常の中であなたのことを考えずに過ごしてきたのは認めます。そしてその瞬間、
フラッシュバックのように、僕は二十歳の学生の時に知り合ったあなたのことを明瞭に思い出したのです。
その思いは何日も僕から離れることはありませんでした。
あの頃の僕たちを知る人は、僕らが付き合っていたと思うことでしょうか。いや、 それよりも僕らのことなど覚えていないかもしれません。でも確かに、あの時あの場所で僕らは出会い、そして多くを語り合いました。
代々木公園を二人で散歩したときのことを覚えていますか?
何故あのとき僕らは代々木公園に行ったのか、その理由も、それまでの経緯も僕は覚えていません。ただ、あなたが木訥と語る自分の事を、
僕はただ聞いていただけです。青空の下、僕らと同世代の男女が楽しげに遊んでいる姿を見てあなたは、
「何も考えずに遊んでいられる学生がとても羨ましい」と僕に言いましたよね。
常磐道沿いの小さなドライブインを営んでいるあなたの実家には、
ご両親と高校生の妹と身障者の弟さんがいて、あなたはその店を継ぐために、調理師免許取得の為、東京の専門学校に入ったばかりでした。
代々木公園で遊んでいる学生達を見つめるあなたの眼差しの奥にどのような思いが宿っていたのか、その時の僕には知るよしもありません。
その時、僕はあなたの「羨ましい」という一言に、「僕も彼らと同じ学生だよ」と答えたのを覚えています。でもその時、あなたはきっぱりと
「あなたは違う」と言ってくれた。
その時の、あなたの凛とした美しい横顔を僕は忘れることが出来ません。 それと同時に、僕はあなたの僕への思いを受け止める恐ろしさに胸のうちでは怯えてもいたのです。僕は少しも彼らと変わりはありませんでした。 むしろ、あの代々木公園で、「あなたは違う」の一言で、僕はそのことを強く意識したのです。
十代後半のあなたには、頼られ期待する家族がいた。 そのことがあなたの重みになっていたのかもしれません。そしてそのことは同時に、片親で育った僕の重みでもありました。
僕の誕生日に、一緒に渋谷でピザでも食べようと誘われたことを思い出します。 あのときは僕が待ち合わせの時間を勘違いして、あなたを3時間以上も待たせてしまったのですよね。結果的に遅れていった僕に、 あなたは何も言わず、ただ来てくれたことを喜んでくれました。僕はその時、初めてあなたがお化粧をして、おしゃれをした姿を見ました。 素面でも十分に美しいと思っていたのに、その時の姿に僕は驚き、そして照れくさかった。無論、 食事をしながら沢山のおしゃべりをしましたよね。でも僕はそれらの殆どを忘れてしまいました。
僕は怖かったのです。あなたの真っ直ぐに僕を見つめる眼差しが、 そして微塵の飾り気のない率直な語りを。それらはあなたそのものでした。その人間が何者かは、様々な社会的属性でないことは無論のこと、 その人の性格や癖の総和でもないことも確かだと僕は思います。あなたの、僕への行為と語り、それらはすべて僕を指向していたし、 その指向を僕自身が体験することで、その体験を通じて僕はあなたが何者であるかを意識したのです。
あなたは僕の前にそうやって現れ、そして僕はその存在の重みにつぶされそうでした。 一般論として、人間の存在に軽重はないとは思います。でもその時、僕の存在はあなたの存在と較べると、とても薄っぺらで軽くそして浅かった、 そのことを僕は常に意識していました。今を思えば、僕は臆病で卑怯な男だったのです。何故なら、その自分の弱さを隠すため、 あなたを遠ざける結果になってしまったのだから。
よくある話と言えばそれまでです。そう、どこにでも転がっている話です。 僕はそれからも幾度も同じことを繰り返してきました。でも何故かあなたのことだけは忘れることが出来ないのです。 それは代々木公園でのあなたの凛とした美しい横顔を、おそれおののき、それでも見とれてしまったからかもしれません。
頻繁に会い、そして語り合った日々。お金のない二人は常に歩き続けました。 でもそれでも手を繋ぐことさえしなかった。でも僕はあなたのことをとても理解していたんですよ。だからこそ、 僕は自分の弱さをあなたへの嫌悪に塗り替えたのかもしれません。無論、これも言い訳です。
家の都合で、学業半ばで実家に戻ることになったあなた、
何度も連絡をくれましたよね。僕は居留守を使い全く応答しなかった。そしてあなたからの手紙、そこには「僕に会いたい」と、
ただそれだけ書いてありました。でも僕はそれさえも答えなく無視しました。
あなたは最後に僕に何を告げたかったのか、それは知ることがなく終わりました。そしてそれは、僕があなたからの言葉への応答も、
あるべきはすの応答を、無くしてしまったことにも繋がります。そしてそのことが僕の存在の有り様を物語ってもいます。
おそらく、ここに書いたことをあなたは既に忘れてしまっていことでしょう。 そして僕のことさえ忘れているかも知れません。そして今では常磐道沿いのドライブインを必死になって切り盛りしているのかも知れません。 傍らには最愛の夫と子供達に囲まれて。あなたは真っ直ぐに生きてきました、おそらくそれは今でも変わりはないことでしょう。だからこそ、 きっとあなたはあなたの幸せを見つけていることでしょう。
僕はと言えば、突然にあなたのことを思い出し、 あらためて自分が何者であるかを知り得ました。相も変わらず臆病で卑怯な自分を。
この手紙はあなたに対し送っています。
でもあなたはこのメールを見ることはないでしょうね。
お互いに心の片隅にも乗らなかった言葉があります。例えば「好き」とか「愛している」などの言葉。「愛」は心の有り様を言うのではなく、
コミュニケーションの一つの姿であるとすれば、その行為と体験から感じ得ることなのかもしれません。そしてそれであれば、
あなたが僕のことをどう思っていたかは十分にわかっていましたし、今となって気が付けば、
僕自身もあなたに対しどう思っていたのかがわかります。でもそれは少なくともあなたにとっては今では無意味な話でしょう。でも僕にとっては、
今更ながら、何故か一つの失恋として、僕の中に芽生えているのです。
長々と詰まらぬ話をして誠に申し訳ありません。 思い出したあなたのことが頭から離れず、僕はブログに書くという行為ではき出すしかなかったことをお許し下さい。 あなたが健やかに幸せな環境の中で暮らされていることを念じつつ、終わりにしたいと思っています。
さようなら。お元気で。
心から Amehare
「道徳」の教科化の話で思うこと、もしくは「有徳の人」について
「道徳」の教科化の話が教育再生会議で論議されたらしい。
この国の歴史の中で有徳の時代があったのかは僕には分からない。ただ言えるとすれば、戦前の「修身」は、 この国が戦争に突入することへの防波堤になり得なかったことだけは間違いない。戦争状態の中で「徳」は無効化する。上官の命令に服従し、 嫌々ながらも敵と称する人々を殺す、そういう人たちも多かったに違いない。そして彼らは、戦争だから、上官の命令だったからと、 自分自身を慰める。戦争に行かなかった人たちにも、同様の試練はあったことだろう。非国民と誹られるのを恐れ、行動を周囲にあわせる。 そして自らがあわせたことを意識しない。
それらの「道徳」は敗戦と共に、一夜にして切り替わる。米国の占領政策を嘆く人たちがいるのは知っている。でも問題なのは、 米国の占領政策で教育を受けた人たちのことではない。戦前・戦中、そして敗戦と、この国の「道徳」と言われるものが、 明治以降3回突然に変貌し、その中でその変貌に気がつかずに日常を過ごすことが出来た多くの人たちのことである。 彼らは当然に米国の占領政策の教育を受けてきた人たちではない。
僕のこの文は、彼らを批判するために書いているつもりは全くない。ただ「道徳」という難しい問題に、 別面の視点を設けたいだけなのである。ところで、「有徳」の人物が、どのような人であるのか、僕は基準を一つ持っている。 それはソクラテスの次なる言葉に集約している。
「悪しきことを為すよりは、悪しきことを為されるほうが望ましい」(プラトン「ゴルギアス」)、つまりは、 「騙すよりも騙される方が良い」ということである。「道徳」の教科化の論議は、根本に現代の若者たちの行動を批判的に見て立ち上がっている。 でも「道徳」の問題に必要なのは、まずは自己を見つめる眼だと、僕には思える。その行為の後に、 その行為をした自分と仲違いせずに過ごすことが出来るのか、そういう眼差しが根本に必要なのであって、 それは他者を批判的に見て立ち上がることではない。
想像してみよう。たとえば、僕が銃口を見知らぬ子供に向けている、僕の額には別人が銃を突きつけられている。彼は言う、「子供を殺せ、
さもなくば俺がお前を殺すぞ」と。
僕が子供を殺したとしても、周囲(法律)は強要されたこととして赦してくれることだろう。でも僕自身は、子供を殺したことを、
その指示に従ったことを、恐らくは生涯忘れることが出来まい。そして、自らへの言い訳として、強要されたこと、
従わなければ自分の命が失う事を、心の中で言い続けるのだろう。
その中で、恐らく有徳の人だけは、子供に向けて銃を撃つことはしない。彼にとっては、子供を殺す自分と、それがいくら強要であったとしても、
生涯仲違いせずに暮らすことが出来ない。故に有徳の人は、自分の死を選ぶ。
僕が思う「道徳」とは、普段の生活ではなく、そういう状況で立ち上がる。だからこそ、冒頭で述べた、この国の3度に渡る「道徳」
の変貌が、僕には気になるのである。
その問題を、教育再生会議で話し合われたのかは僕には分からない。教育再生会議での論議は公開されていないからだ。
さらに話し合われたとしても、その事に結論が出るとも思えない。「道徳」の論議は難しい。僕はそう思う。
さらに言えば、今回の「徳育の教科化」論議が立ち上がった理由とされる数々の問題、いじめ・自殺等などが、 教科化によって改善されるとも思えない。
「何トカ還元水って、大臣は本当に正直なことを話しているんですか」。もし「道徳の時間」 に子供にこう聞かれたら先生はどう答えるのだろう。道徳を「教科」にしようという政府の教育再生会議第1分科会案に、 ふとこんな場面を思い浮かべてしまった。
(2007年4月3日 毎日新聞社説より)
子供達の大人達への眼差しは虚偽を的確に捉える。逆に言えば、「徳育の教科化」
により教育現場の問題がさらにます結果に繋がる可能性もある。無論、教科書を誰がどのように書くのかという実務的な問題も残るが。
且つ教科として評価を行うことで、「徳育」への関心を持たせたい気持ちも理解できる。しかしそれを望むのは無茶な話である。しかし、現状の
「道徳の時間」も無意味であるのは確かだと思う。教師により恣意的に内容が決まるのも考え物だ。その狭間で、
教育再生会議での論議は様々な意見が飛び交ったことだろう。
そして、やはり再生会議の論議は同時公開されなければならない。その詳細な過程抜きで「一致」 といわれても国民は肩すかしをくわされたような気持ちだろう。論議の公開を強く求める。
(2007年4月3日 毎日新聞社説より)
まず必要なのは、再生会議での論議の公開である。そして広く論議内容に対し、批判的な意見を求めることである。 活発な意見の中で、自ずと現状における道が開かれることだろう。そして、この国が抱える問題も含めて、議論が進むことを、ぼくは切望する。
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」 に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。
展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、 ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、 同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。
それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、 もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。 現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、 殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。
と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、 カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、 どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、 等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、 コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、 カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、 それを期待しているかのような行動をしていることだった。
発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。 笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、 まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、 例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、 計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。
彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、 その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている) によって、企業の宣伝効果は高まる。
それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。 そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・ アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。
コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、 なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。 うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、 それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。
おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、 人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、 撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、 恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、 自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。
それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」 という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・ アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、 何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。
写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、 三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。 それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、 僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。
例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、 女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、 ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、 コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット) し続けている姿と重なったのである。
恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。 そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、 擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。 目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。 消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。 そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、 死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、 耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。
消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、 顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、 もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、 シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、 パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。
スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、 しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、 ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、 現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、 写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」
前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」 ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、 やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。
僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。 だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、 写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。 しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。
北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。
哲学者の池田晶子さんが亡くなられたのを新聞で知った時とても驚いた。今月(3月)の3日のことだ(実際には亡くなられたのは2日)、 まだ46歳の死は早すぎると言えば早すぎる。読者の立場から言えば、もうあの平易で奥の深い文章に接することが出来ないという、 一言で言えば残念な気持ちを強く味わった。
その彼女が北朝鮮のミサイル危機について面白いエッセイを書いている。この引用文章の前にイラク戦争に対し若者が「無力感を感じる」という言葉をテレビで聞き、それに応える形でエッセイは書かれている。以下に引用する。
「何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事みたいに生きているから、 そういうことになるのである。
で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。
やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。 生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。 自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。」
(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)
3月22日付けの産経新聞朝刊に記事「PAC3 皇居前広場 展開も」があった。日本のミサイル防衛(MD) システムの一環として、PAC3(パトリオット)の緊急時の配置場所として各自衛隊基地の他、皇居前広場を含む日比谷公園などの国有地・ 都有地の使用も検討しているそうだ。無論、緊急時がどのような基準で発令されるのかは僕には分からないが、 一度配置されれば数ヶ月間はそこに設置されることになるのであろう。
僕としては日本のMD計画は全面的に反対の立場をとっている。理由は、Wikipedia「ミサイル防衛」 の反対論の中にもあるが、イージス艦とPAC3との連携による防衛しシステムは完全ではなく、かつ膨大なコストを必要とする。しかし、 Wikipediaの反対意見(賛成意見も含めて)、僕にとっては重要な一項目が抜け落ちている。つまりMD構想では、首都圏の一部、 名古屋、京阪神、福岡などの大都市を中心に考えられているという点である。逆に言えば、 たとえば金沢などの都市はイージス艦での防御のみでしか対応しきれないということになる。突き詰めて言えば、 日本全土をミサイル防衛で覆うことなど現実的でない以上、どこを守るかということは、どこを切り捨てるかと言うことにもつながる。
日本にとって首都圏地域が最重要な場所であることの理由は、その経済的および政治的な側面からであるが、 1人の人間の生死の立場でもの申せば、東京に何千万人住んでいようが、官僚体制の中心地であろうが、そんなの関係ない。それに、 仮に北朝鮮が核弾頭を積んだミサイルを発射したとして、それが東京を狙ってとは限らない。ミサイル発射の目的にもよるが、 地方都市を標的にする可能性は捨てきれない。たとえば、第二次大戦時に原爆が広島と長崎(小倉は天候不純というだけで回避された) という地方都市に投下された事実が物語っている。さらに、国際社会が、 ミサイルを他国に撃ち込むことによって為される北朝鮮側のデメリットを考えれば、論理的に起こりえぬ可能性が極めて高い。
つまりは、可能性は極端に低いけどゼロではなく、その為に一部の政治家が騒いでいるとしか思えないのである。 そしてその腹には、切り捨てる者と切り捨てられない者の区別がなされているのである。そう述べると、 「じゃテポドンが飛んできたらどうるすの」という意見が必ず起きる。その際に、 僕は上記に引用した池田晶子さんのエッセイを思い出すのである。
「北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。」
人は自分の生を全うするために生きている。テポドンごときでそれが変わるのは、一部軍事産業と政治家でしかない。 ちなみに、引用した文の中で「生きても死んでも大差ない」とあるが、この意味を僕はハンナ・アーレントの言葉を借りれば以下のようになる。 これも引用する。
「自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、 私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、 他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、その中に現われ、 そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、 相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。」
(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P152)
「生きても死んでも大差ない」とあるが、その「大差」ない人間は歴史上において唯一無二の存在でもある。無論、 僕はむろん訳のわからぬうちに核で突然に死ぬのはごめんではある。しかしその気持ちは多くの方が同じではないだろうか、 でも飛んでくるか飛んでこないかで日常を気にして生きるのはさらにごめんこうむる。 この点において米国におんぶにだっこしなさいというつもりではない。ただ、MDに使うコストを他の面に利用すれば、 現在国民の最重要関心事でもある格差の問題解決の試行錯誤に多少なりとも使うことが出来る、もしくは援助が必要な諸外国に使うことで、 「防御しています」というメッセージより「もっと仲良くなりたい」というメッセージを送ることが、 なによりもMD構想につながるのではないかと愚考するのである。
追記:たとえば日比谷公園に設置した場合、設置中は何ヶ月も公園の出入りが禁止される可能性が高い。 公共の庭園を、安易に利用検討するその無神経さが気になる。そもそもこの記事を書いた動機はそこにある。
産経新聞コラム「正論 教育改革は「道徳教科書」作成から」を読んで思うこと
産経新聞(2007年3月7日)のコラム「正論 京都大学名誉教授・ 市村真一 教育改革は「道徳教科書」作成から」(Clipmarks) を読み唸った。教育に関して門外漢ではあるが、このコラムに書かれていることは僕にとっては強く抵抗感を抱かせる。
「安倍首相が内閣の第1課題を教育とし、教育基本法の改正を成就されたことは、岸首相の日米安保条約改定につぐ、 占領政策是正の重要な第二歩であって、真によろこばしい。だが国民の心の荒廃は実に深刻で、その治癒は容易ではない。なにしろ六十数年の積弊、一挙に改善する万能薬はない。どこから着手するか。 」
「占領政策是正」とは使い古された言葉であるが、その内容は、僕などはとんと理解が出来ない。日本の現状は、 仮に教育に関してだけを述べたとしても、根本を占領政策だけに求めるのは無理がある、と思うのである。それらの意見に共通することは、 戦前の日本に対する郷愁である。しかもその戦前の日本は、江戸幕府以前ではなく明治以降に造られた日本の姿でもある。
「国民の心の荒廃」を叫ぶ者は、常に「荒廃」の外部に位置している。
故に語りは上からの見下ろしで書かれることが多い。「私は違うが、周りはこうなっている、故に改善点は私が語れる」、もしくは
「こうすればいいのに何故それが理解できないのか」等など。
市村氏のコラムもその語りを踏まえている。しかし、最も的はずれなことは、荒廃した心を持った国民に対して語られる内容にもかかわらず、
市村氏自身の問題意識が国民と共有しているがごとき語り口だということだ。
仮に、市村氏の言うとおりに、国民の心が荒廃しているのであれば、上記の引用箇所は、既にその意味を失っている。
市村氏は以下の二項目を緊急提言している。
「1、教師の任用更新を厳しくし、その基準を明示する。」
「2、道徳教科書の作成に着手し、著者を厳選する。」
対象は小・中・高等学校の教員となっている。市村氏の考えとしては、 「採用後2年を試用期間とし、最初は助教諭に、後に教諭に任用すること」としている。そして、 「ペスタロッチ等の有名な教育論のエッセンスを踏まえて、立派な「教育者の条件」は何かを真剣に考えた」結果、「(1)学力(2) 親切(3)敬虔な心(4)品性」、の4項目となったそうである。
教師の「質」を考える場合、
しかるべきスキルが必要であることは当然であると思う。スキルとして必要と思われるものは、担当とする教科のスキルは無論のこと、
その他に、広い意味でのコミュニケーションスキルであることは特に異論はないと思う。
僕はここであえて「スキル」という言葉を使った。この意味は、これらの能力は技術として取得可能であることを示している。
市村氏はコラムの中で、(2)親切の説明の中で以下のように語る。
「いじめる、ひがむ、憎む、 恨むという類の情念や権力欲や支配欲の強い人は教師には向かない」
市村氏があげた「情念」や「権力欲」を持たぬ人間はいるのであろうか、
さらにそれらの強い弱いは関係性の中で変化する、と僕は思う。「口頭試問でそれを識別すべき」とあるが、
実際問題としてそれは不可能に近い。仮に様々な測定手法を使い、その人の性格を把握し得たと思い込んだとして、その結果、
逆差別がそこに派生する可能性はないと言えるのであろうか。人間性を数値的に判断する世の中が、逆に子供に与える影響を、
市村氏はどのように思うのであろうか。
そうではなくて、技術として取得可能なスキルとして、教師に必要なスキルと経験程度を明示的に項目化し、
その上で研修などでスキルを段階的に磨く手法を考えた方が、僕には現実的なように思う。さすれば、恣意的な「親切」「敬虔」「品性」などの、
時代とともに、もしくは管理する側の変化とともに変貌する、これらの言葉は無用となる。
「日本人の魂を抜こうとした占領政策は、歴史地理教育をやめさせ、 修身科を廃止させた。歴史地理は、文科省の努力の結果復活したが、修身が担っていた道徳教育はいまだに復活していない。知育・ 体育・徳育が並び進むべき事は教育論の常識であろう。」
ここまで来ると市村氏の個人的「恨み」、占領対策に対する「憎しみ」
の強さが顕わになっている。市村氏が言いたいことはわかるし、頷く面もあるが、しかし根本的に僕に不明なのは、
それほど現在の教育は悪いのだろうか、という事である。確かに、様々な問題はあるし、色々な事件も起きているのも知っている、
でもそれでもなお市村氏の語りを聞き感じるのは、彼のヒステリー的な反応でしかない。つまり、市村氏の語りには、
過去への郷愁と回帰が根底にあるが、時代はその方には流れていないのではないか、という思いである。
「知育」、「体育」、「徳育」、大いに結構ではある、しかしその根底に、人間の世界は多数性であり、1人1人が個別であり、得難く、
かつそれぞれがそれぞれの生を満足しようと生きている、そのことがあるべきで、「徳育」という名の「国のために死ぬ」
的な教育はごめんである。逆に「国のために生きる」ことは「自分の生を充分に生きる」ことと同じ事だ、くらいな「徳育」であれば、
僕としては結構なことだと思う。
道徳の教科書も、仮に作るとすれば、思考する事、ものを考える事、 そういう事に力点を置くべきだと信じる。と言っても、そういう内容であれば、市村氏からしてみれば、 既に道徳の教科書とも言えないかも知れないが。
そう考えていくと、今の学生の有り様は、現代を写しているとも思えるのである。 つまりは、片方に根強く市村氏がコラムで語られた考え方があり、しかし実際にはその方向には向かってはいない、 でも流れをその方向に変えようとする力が、今の政府の中にあり、そこから現実との間に歪みが生じ、 結果的に教員と学生に現れているのではないか、ということである。恣意的な言葉の羅列は美しいが、美しいが故に、 言葉が一人歩きをする場合も多い、もっと技術的に考えていった方が良いのではないかと、僕は思う。
市村氏にとってみると、現在の日本は荒廃した心の人々の集まった所、 と見られているのかも知れない。でも1人の人間の生を考えた時、老婆心ながら、 そのように世の中も見る彼の心の不幸を偲ばずにはいられない・・・
追記:本記事で「Amehare's MEMO」も500エントリーを迎えた。 しょうもない事ばかり書いてはいるが、それも500となると、良くも悪くもよく書いたものだと思う。
オヤジについて考えた小さなメモ
吉田拓郎の「ふるさと」の歌詞は確か次のように始まっている。
「親父を愛し お袋を愛し 兄貴や姉貴を愛し そして 自分を愛す」
既にこの歌が現そうとしている「ふるさと」は、戦後の高度成長時代とともに解体されてしまっている。だから「ふるさと」を現すのに、
歌い手は個々を一つ一つ取り出していくしかない。「ふるさと」を構成する「親父」「お袋」「兄貴」「姉貴」とは、同時に、
解体されてしまった「家族」でもある。しかし、それら挙げている個々を総和しても「ふるさと」「家族」が現前することはない。
だから最後に歌い手は、唯一の拠り所になってしまった「自分」を「愛す」と歌うしかないのである。
ただ、この歌の中での「親父」は愛されていた。それは現在のように、イメージ固定され流布している言葉ではなく、常に、 それを使う者の特定の誰かであった。その点においては、現在において、「お袋」とは違っている。「お袋」 は男性である息子が自分の母親に対して使う言葉で、それは今でも変わってはいない。「お袋」の「袋」とは、無論子宮であり、 かつて自分がそこにいて、そこから出てきた場所でもある。娘が自分の母親のことを「お袋」と言わないのは、自分自身も「袋」 を具有しているからで、その点において娘は母親と対等関係にあるからだろう。逆に言えば、「親父」にはそのような特徴はない、よって「親父」 に向ける眼差しは、少なくとも息子にとっては、彼の行動に向けられ、それが「親父」と接続される。
ネットなどで自らを「親父」「オヤジ」と呼ぶ方を、僕は不思議な存在として眺めている。僕にはない感覚。おそらくそれは、
僕自身が父親を知らないことと無縁ではないだろう。3才の時に父親が病死した僕にとっては、
決して中高年になった自分が父親と重なることはない。
自分を「親父」と呼ぶ為には、基準となるべき父親の存在が不可欠と思う。しかし、ネットの中で自分を「親父」「オヤジ」と呼ぶということは、
他者が見ても納得する、社会の中で共有化された「オヤジ」像も必要となる。しかし、一体そのような「オヤジ」像は存在するのだろうか。
ある面で言えば共有化された「オヤジ」像は、息子・娘からの視点で構築されたのは間違いない。自らを「オヤジ」と呼ぶ時、そこに息子・ 娘の視線を意識しているのもあるだろう。いうなれば、「オヤジ」という言説(といっても差し支えなければ)には「他者性」がない。 満員終電車の中で顔を赤くした男性が酒臭い息を嗅ぐ時の嫌悪感は、自分の父親像と接続され、その男性を「オヤジ」と呼ぶ。
また、社会において押さえ込まれた中高年の性への衝動が、時折ふとした弾みで顕わになる時、彼は「オヤジ」と呼ばれる。現代において 「オヤジ」とは特定の誰か、つまりは自分の父親のことだけを指してはいない。「オヤジ」とは、 公的領域と私的領域の中高年男性の双方の落差である。それは態度であり、顔であり、言動であり、そのほか諸々の中に現れる。 落差があればあるほど「オヤジ」としての強度は増す。
例えば、山田太一監督作品の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんは、年齢を重ねても「オヤジ」と呼ばれることはない。 何故なら彼の生活領域は全て私的領域であるから、落差が起こりえようがないのである。そういった意味では、彼は常に安定している。
何故落差が起きるのか。というか、落差が少しもない男性など現実にはいないとは思うのだが・・・・。「公的領域」 が立ち上がることのなかったこの国で、「社会」が衰退していく一方のこの国で、「美しい日本」 とJRキャンペーン並みのコピーを述べたとしても、それらに「国」が代わるとは思えない。私的領域のさらなる浸食で、元々「公私」 の区別を論じること自体無意味な中で、それでもなお、「会社」もしくは様々な「仕事の場」が「公」と信じて疑わない男たちは、 その場を一歩離れた瞬間に私的領域の「顔」に変貌していく。その顔は、家庭の奥まった中で、 今まで家族以外の誰にも見られることがなかった顔である。
公的領域が立ち上がらなかったとはいえ、それでも少し前までは、「会社」と「家庭」の間は「見知らぬ他人と交差する場」 との意識があったと思うが、それも「私的領域」に浸食され殆ど無くなった。その結果、「オヤジ」が、 その他の様々な妖怪達(笑)とともに顕れたのだ。
「中高年男性らでつくる「東広島おやじ連」が一般公募していた父親応援歌の歌詞が広島県内から50編余り寄せられ、 100番までの応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」が完成した。ユニークな詞が多く、市内で来月開く「おやじサミット」で発表」
(中国新聞 2007/1/19)
「♪でてこい!おやじ!♪」 の歌詞100番の内容は、「 おやじの生き様見せてやれ おやじの背中で見せてやれ 汗水たらして働いた おやじの勲章みせてやれ」 となっている。別に本歌詞を批判するつもりはない。ただ、作者は誰に「おやじの生き様」を見せたいのだろうか。自分の息子・娘であれば、 家庭の中で、愛されようが、憎まれようが、無視されようが、父親としての「おやじ」は了解されている。ただ悲しいことに、「おやじの背中」・ 「おやじの生き様」を見せたくても、見て欲しい人は「働く」だけでは見てくれない。さらにタイトルの「♪でてこい!おやじ!♪」とは、 どこに出て行けば良いのだろう。
おやじの定義などを聞くのは野暮であるし滑稽でもある。そんなことはどうでも良い。ただ一つ言うとすれば、 「生き様」を見せるためには、「働く」姿を見せることではない。人が人を認めるのは、他に変えられぬ存在だからだと僕は思う。現代において、 それは彼自身の固有の行動と言論においてのみ、それが得られると思うのである。ゆえに「仕事」と「労働」だけでは、 その人が行動しているとは誰も思わない。「汗水たらして働いた」姿を見せるより、毎朝近所を掃除する姿、 もしくは家事の手伝いをする姿のほうが、息子・娘は父親を誇りに思うことだろう。
何故、この歌名に「おやじ」を使っているのだろう。実をいえばこの記事は、応援歌「♪でてこい!おやじ!♪」、 のことをNHKで見知ったことが発端になっている。たいした意味はない、とは思うが、だからこそ時代の反映がそこに隠されている。 色々な言葉に接頭語として「おやじ」が付けられるようになってから随分と経つ。そしてその過程は、おそらく、「社会」 の衰退と同期を持っているように思うのである。無論、「社会」が画一主義と同義であれば、それは大いに結構なことだ。ただその場合、 公的領域なきこの国で、いかなる事柄が人々に要請されるかと言えば、それは行動主義に他ならないように思える。私的領域での行動主義は、時として、 他者の存在を拒む。
「おやじ」という言説そのものが、「他者性」を排除している、と僕は思う。僕は貴方の「おやじ」でもなければ 「父親」・「息子」でもない。お互いに、この世界に今まで現れたことがない者同士として、同時代を生きる。それは「見せてやれ」 との命令ではなく、対話と了解しあうこと、それがやはり大事なのではないかと思うのである。
写真よ、ブレろ!

最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、 空気感を排除したい、そんなことを願う。あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。 自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。
帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、 僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。 後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」 ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!
駒沢公園の樹木伐採に関するメモ
昨年の夏頃と思うが、駒沢公園の樹木が管理事務所によって一斉に伐採された。公園は都立であるので、 伐採には都の認可が必要なのだから、それは都庁の何処かの部署が決済したのは間違いない。伐採の事前公告もなかったように思える。 それはいきなりに開始され、数日間続いた。
問題なのは、その伐採の仕方であった。無造作に、一定の高さ以上の樹木は、無論、特定の区域だけだが、 何も考慮されず切り落とされたのである。
多くの樹木は根からの養分だけでなく、初夏の場合、葉からも自らの成長に必要な養分を取り込むはずである。だから、素人が考えても、 樹木のどこをどの様に伐採するのかは、ある程度の専門知識が必要だと僕は思っていた。でも一度だけ、作業中の横を通っただけだが、 ちらりと見たその作業内容は、チェーンソーでなぎ切っているとしか見えなかった。
公園の中で、特に知られている刈り込みは、「大刈り込み」と命名され、大きく立体的にふくらむ優美な姿を見せていたし、 説明看板まで近くにあったというのに、今ではその看板も取り外され(た様に思える)、 ただ無惨に刈り取られた樹木が裸木の集団となってそこにあるだけとなった。
しかし、刈り取られた結果、露わになったものもあった。そこかしこに青いシート屋根が目立つようになった。 公園内の長期滞在者と言うべき人たちの家の屋根である。もちろん、公園の近くに住んで、度々にここに遊びに来る人にとって、 それは周知のことだった。でもこうして露骨に見えると、こんなにも多かったのかと初めは少し驚いた。
こうも青いシート屋根が見えると、この無造作な伐採、つまりは樹木の生命の強さを勝手に信じ伐採した行為自体が、
これらの人々への嫌がらせではないかと思ってしまうほどだった。
そう思った理由は、その方々が住んでいない場所の樹木の伐採が行われていないこと、偶然かも知れないが、
そういう風に見える状態に気が付いたこともある。
正直に言えば、僕は彼らが樹木の伐採で受けた精神的圧迫に対し同情心も起こらないし、それを行った行政側に憤りを持つこともない。 ただ、僕が思っているのが事実であるとすれば、無惨なのは樹木だとは思う。本来、青いシートの屋根の人たちと、例えて言えば六本木ヒルズの高見に住む人たちは、中産階級の役人たちから見れば、シーソーの両極端に坐る事で似ているように思えるものだ。例えは悪いが、昔から貴族と浮浪者は放蕩者と相場が決まっていた。貴族はギロチンにかけられ、浮浪者はムチで追い払われる。現在でもその状況は変わらない。それは新聞の見出し、それは中産階級者のストレスを発散させるための道具としてのメディア、を見れば一目瞭然だと思う。ヒルズの住民のどうしようもない裁判に注目し、知らぬ間に都市再開発の風が街の有様を変えていく。そこで両者の行き場が、我ら中産階級の中へと取り込まれる。
ただ樹木伐採の後も、青いシート屋根は以前と同じ状態で、そのままそこにある。現状では、他に行きようがないのであるから、 そしてこの場所での生活に馴染んでいることもあり、伐採自体が彼らにとって何の効果もなかったのは事実だろう。
今年の春から夏にかけて、切り取られた樹木は、人の営みに関係なく、たくましい命を僕に見せてくれるのであろうか。そうであって欲しいと願う。
aikoのアルバム「彼女」における一つの解釈
aikoのアルバム「彼女」を何回か聞いてみて、歌詞の曖昧さにも関わらず、 アルバムに含まれている曲に説得させられている自分に気が付く。それでは言葉で現してみようとすれば、それが全くうまくいかない。 このギャップはどこから来るのか、僕はアルバム「彼女」に収められている曲の何をどの部分をどういうふうに理解しているのだろう。 それがこの記事の出発点である。
まずアルバムタイトルの「彼女」からして曖昧である。「彼女」とは特定の彼女なのか、それとも不特定の彼女なのかがわからない。 しかも、アルバムに収められている曲の中で、「彼女」を示すタイトル曲はない。唯一歌詞の中で一曲だけ「彼女」が使われている。
勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように
「気付かれないように」と名付けられたこの曲は、おそらくアルバム「彼女」の中でもキーと思える曲でもある。 何故キー曲なのか、それは他の曲が「あなた」と「あたし」の語り合いの中で為されているのに対し、この曲だけが「あなた」と「あたし」 の他の第三者が登場するからである。以下、「気付かれないように」の解釈を中心にアルバム「彼女」を読み解こうと思う。
まずaikoの作詞はとても曖昧であり、それが解釈を拒んでいる。おそらく女性であれば、解釈など必要とせず、 ただ肌で実感できるモノなのだろう。僕はそのこと、つまり女性であれば実感できる歌詞であること、を想像できる。であるならば、 aikoの歌詞の中にあるのは男性になく女性にある「何か」と言うことになる。別に性差を強調するつもりもなく、 肌で実感できる男性もいるかも知れない。でも少なくとも僕はそのように思う。
「気付かれないように」を素朴に解釈すれば、以前につきあっていた男女が出会い、 一緒に街を歩きながら会話をしている情景を思い浮かぶ。「あたし」である女性は、「あなた」である男性の声を聞き泣きたくなる。 しかし泣きたくなる理由が、昔の恋人関係に戻れない悲しみなのか、久しぶりに出会えたことの喜びなのかが、自分でもわからない。
声を聞いて泣きそうになるけど 何故だか解らない
もう戻れない悲しみなのか出逢えた喜びなのか
気付かないように 気付かれないように
問題は次の箇所である。「気付かないように 気付かれないように」、「気付かれないように」のみであれば、 「あたし」が「あなた」を今でも好きなことを、「あなた」もしくは今の「彼女」に気付かれない気持ちが現れ理解しやすい。しかし、その前に 「気付かないように」が、誰に対してなのかが曖昧となる。おそらくそれは、前文の泣きたい理由が判明しないことに掛かっている。 「気付かないように」「気付かれないように」は「あたし」もしくは「あなた」と今の「彼女」、さらには「あたし」 を含む3人に対して向けられている。そして誰に向けられているのかにより、その内容も変わってくる。
しかし僕はこの曲で重要なキーワードはやはり「彼女」だと思う。
ジラールのいう<欲望の三角形>、あるいは<模倣的欲望>は、男女の愛が直接的・ 無媒介に生起するのではなくて、つねに間接的に触媒され、三角関係という迂路をたどることのグラフィックな顕現である。 愛の対象への欲望は、同じ対象を欲望する第三の人間の存在をまって初めて生じるのであって、わたしの欲望と思えるものは、その実、 他者の欲望(あるいはその模倣、反映)にほかならない。 (中略) ふたりいるところ、 かならず第三の人物がいる。2は3であって、 恋愛とは三角関係なくして生じない。
(「ユリイカ」 平成8年11月号 「ご主人を拝借」 大橋洋一 から引用)
ジラールのいう<欲望の三角形>とは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」からとなり、内容は上記の通りである。 「あたし」が「あなた」の今の「彼女」を意識していないはずはなく、逆に「彼女」の存在が、「あなた」への恋慕を増幅させる。「あたし」が 「あなた」に一番聞きたいことは無論「彼女」のことである。そして、「あなた」と「彼女」との間では「あたし」が不特定の「彼女」 の一人となる、そのことも「あたし」は気が付いている、しかし「気付きたくはない」のである。
「あたし」が「あなた」に向ける恋愛感情は、「彼女」を登場させることで際立たせている。 そしてそれは歌詞の中に「彼女」が入っていない曲に対しても、アルバムタイトルに「彼女」を用いることで、すべての曲に反映させている。 なんという才能だろうか。僕はただ恐れ入る。
もう一つ思うことは、aikoの歌詞の中で性を感じさせるのも「彼女」のみとなる。aikoが女性であるが故に、 「あたし」も女性で、恋愛感情を抱く「あなた」は男性であると、暗黙のうちに了解されている。それゆえに、突然の「彼女」 という言葉に僕は少し驚く。
勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように
しかし、歌詞の中で「あたし」が女性であることは、作詞者がaikoであるため状況的に間違いないとは思うが、 「あなた」が男性であることを示すモノはなにもない。「あなた」は女性かも知れない。同性愛的な状況でもこの歌詞の解釈は可能となる。いや、 むしろ同性愛的な状況下の方が理解しやすくはないだろうか。例えば、「あたし」のことかもしれないが髪を触る仕草、そして指輪、 久しぶりに出会った状況。なによりも「あなた」と「あたし(女性)」のどちらが主体としても通じる歌詞の曖昧さ。「あなた」 が男性であるとしても問題はないが、女性と置き換えた方が僕にとってはさらに自然で、歌詞の曖昧さも少なくなるように思える。
同性愛的な解釈はアルバム「彼女」全体を通しても言えるかもしれない。 歌詞の曖昧さは解釈を拒んでいるのではなく、その視点での内容であることからくる曖昧さなのかもしれない。徐々にではあるが、 僕の耳にはそのような内容となって聞こえつつある。
Tokyo Tower、その陰影

東京タワーを撮りに行く。一年に数回、無性に東京タワーを間近で観たくなる。そして、その欲望が発生する季節は何故か冬に偏る。 着いた時間は、既に中には入れない時間で、駐車場にも車は数台しかみえない。数組のカップルがベンチで寄り添うように座り、 じっとタワーを見上げている。寒い、東京タワーは吹きさらしの高台に建っているせいか、風が強い。カメラを持つ手が凍える。
何回か通っていても、思い通りの東京タワーが撮れたことは一度もない。じっとタワーを見上げると、 そこには見慣れたいつもの姿が照明を浴びてたっている。見上げ続けながら、僕は周辺を歩き回る。
僕はどうやら遠景の東京タワーの姿が嫌いと言うほどではないが好みじゃないらしい。遠見に見える東京タワーは、 上空に昇ろうとする意志を現す曲線、そしてオレンジと白に輝くロマン的な姿、それらが強調されすぎる。 その姿は東京タワーの本質を見失ってしまう様に思える。
東京タワーの本質? それは相対化が一般的な状況では、それこそ、それぞれの思いの中で相殺されてしまう。でも多くの映画、 TVドラマ、もしくは写真などで表象されるその姿は、概ね一つに固定化しているかのようだ。そしてそれが遠景のタワーの姿である。そして、 僕はその姿に抗う気持ちが強いのである。
反作用としての東京タワーという意識からの見方ではない。もともと鉄筋を組み立てて造られているのは事実である。 タワーの直下で見上げると、その様が手に取るようにわかる。そんなに美しいモノではない。そう思う。
では何故、僕は東京タワーを見に行くのか。おそらくその質問が逆に僕をこの場に向かわせているのである。 約一年前に東京タワーについて書いた記事がある。今回読み返してみて、イメージが変わっていないことに少し驚く。逆に言えば、 前段の質問から僕は止まったままでもある。さらに今は質問が一つ増えている。何故現在において、映画・ TVなどで東京タワーのイメージの固定化が行われているのだろうかと。
捨てられるから良いんです

近くの公園には梅林があり、ちらほらと花が咲き始めた。その中でも桃色の梅は花が早い。殆ど満開状態となっている。 小正月が終わったばかりだというのに、梅花は春の到来が確実にくることを僕に教えてくれる。
見ると年の頃60代と思える婦人が、両手でデジカメを持ち、背伸びをし少しでも梅花に近づこうとして写真を撮っていた。 僕はその姿を写真に撮る。するとそれに気が付いたのか、婦人が僕の方に振り向く。少し目線が合う。 そして僕の方に近づき話しかけてきた。
「梅はどうやって撮れば良いんでしょうか?」
質問の意味がわかるのに数秒かかった。どうやら梅花を撮っても画面全体が暗くなり、自分が思ったイメージにならないようだった。
「日を背にして、日が当たる梅の花を撮られると良いと思いますよ」、と答える。彼女はふむふむと聞いている。 きっとデジタルカメラを購入したばかりなのだ、そんなことを僕は推察する。続けて彼女は僕のカメラを見て、 「私も以前はフィルムのカメラを使っていたんです。でも今はこれ。写ったものが捨てられるから良いんです」と話してきた。
「あ、これもデジタルカメラなんですよ」、と僕は答える。その答えに彼女は驚き、そして「ああ、
今はこういうデジタルカメラもあるんですねぇ」と感心する。
それからはお互いのカメラ談義となった。婦人のデジタルカメラは、今使っているので2代目なのだそうだ。
その前はコンパクトのフィルムカメラを使っていたとのことだった。
「デジタルカメラは便利ですよね、捨てることが出来るから」、そう彼女は話す。気が付けば、彼女のカメラ談義の中で何回も 「捨てられる」という言葉が出ていた。どうやら婦人にとって、デジタルカメラの最大の利点は「画像が捨てられる」ことにあるらしい。 その意見が面白いなと思う。
話を聞いていると、どうもフィルムカメラを使っているときは、自分が気に入った写真もそうでない写真も両方とも焼き付けるので、 写真だけ溜まってしまいその処置に困っていたらしい。それがデジタル化することにより、気に入らぬ写真はその場で消去できる、 そのことが彼女にはとても良いことと思えるのである。
「パソコンはやられるのですか?」、と僕は聞いてみた。残念そうに彼女は首を横に振る。「もうこの歳では無理です」
「そんなことはないですよ」、と僕は言いながら、確かに今のパソコンのマンマシンインターフェースは、
ある意味、老齢を迎えられている方々には優しくないだろうなとは思う。
(マンマシンインターフェースには色々と思うことがあるが、それはまた別の話)
では彼女はデジタルカメラをどのように使っているのかと言えば、デジタルカメラに差しているメモリカード(256MB)は1枚だけで、 写真をある程度撮り画像が溜まれば、それを持って写真屋に行き、気に入った写真のみプリントアウトするのだそうだ。そしてその後、 メモリカードの画像は全て消去する。
フィルムカメラはフィルム代・現像費・プリント料などお金がかかる。でも気に入った写真は何枚も複製が出来るという利点があった。 デジタルカメラは、お金はかからないけど気に入った写真の複製が出来ない。そう彼女は語る。僕は面白いなぁと思う。
複製のしやすさ、画像の保存のしやすさ、画像管理のしやすさ、 それらは一長一短はあるもののデジタル化の方に軍配が上がると僕は思っていた。それが彼女にとってはどうやら逆らしい。
どうやら彼女にとって「写真」とは、紙に焼き付けられた(もしくはプリントアウトされた)状態を言うらしい。その前の状態は「写真」 とは言わない。それらは写真以前のもの、つまりはフィルムで言えばネガのような、そういう状態のようだ。そう考えれば、 婦人の写真への対応の仕方には一本の筋が通っているし、パソコンを利用しないデジタルカメラの楽しみ方としては、 ある意味合理的かもしれない。
婦人にとっては、フィルムもデジタルも関係ない。できあがる写真が気に入るか否かである。実を言えばその点で、僕は彼女に賛同する。
さらに「写真」とは紙に焼き付けられた状態のもの、との意見にも別に異論をはさむつもりもない。
「捨てられるんです」の背景に、「捨てられなかった(プリントアウトした)」貴重な一枚の写真が見えるからである。
個人が撮す「写真」とは「捨てられなかった」貴重な一枚の積み重ねにあるのかもしれない。そんなことを思う。
そのほかにも彼女から様々なことを聞いた。60代と思っていたけど、実際は70代だそうだ。夫が数年前に亡くなったこと。 自宅は四国の高松であること。娘夫婦が東京に住んでいて、年の三分の二はこちらで暮らしていること。 高松への往復時には必ず京都に途中下車し写真を撮りまくること。写真旅行で色々な場所に行ったこと。写真仲間の最年長で80代の方がいて、 その方の写真がプロに褒められ、とても嬉しいと言っていたこと。四国に行くときは、瀬戸内海の小豆島がお奨めであること。 カメラの他は手芸の趣味もあること。公園の近くに長渕 剛の邸宅が建築中であること、等々・・・。
だいたい一時間近くは話を聞いたかも知れない。でも話は面白かったし、第一僕は人の話を聞くのが大好きなのだ。 それに同じく写真が好きな僕にとって、年齢とは関係なく、彼女の話が自分に思い当たることも多かった。
自分が気に入った写真を、自分の友達に見せ、同好同士が見せ合い、色々なコメントとか評価をもらう。 褒められれば嬉しいに違いない。そしてそれら全てが楽しくてしょうがない。それは僕が頻繁にネットを通じてしていることと同じことでもある。 色々な人の意見を実際に試すことで、他人が喜ぶ写真が見えてくる、あとはそれと自分の感性との折り合いであろう。
さらに彼女はデジタルカメラの操作を覚えたことから、携帯電話の操作、特にメールについて、違和感なく習得出来たそうである。 人生を楽しんでいるなぁ、僕は彼女の話を聞きそう思った。そしてその中心にカメラがあることが何故か嬉しかった。
読書計画というか、もう少し弱い意志を持っての目標
年頭において僕は今年を如何に過ごすかを大雑把にイメージした。無論、今年は僕の人生にとっては去年の延長線上にあり、 年末年始の間に明確な境界線があるわけではない。 そもそも僕自身が今まで思い描いていた境界という状況事態が在るかとかいった疑問は持っている。境界を状況と僕は咄嗟に書いてしまった。 漠然とではあるが、ある種の実感が論理的ではないが、両者が関数的にイコールで結びつくような、例えば行動と状況がそうであるように、 そう思えているのである。しかしまた僕はこうも考えている。境界と状況が関数で結びつくのであれば、その境界事態はエセでもあると。
今年の読書計画と言っても、それは昨年来からの興味の対象である「写真」について、 もう少し集中的に考えてみようということを備忘的に記録するという事に過ぎない。出来れば写真についての多くの書籍を読もうと思うし、 映画に関してもそれは同様である。しかしその中でも、特に月間で集中的に読む書籍を定めようと思っている。 その本は出来ればレジメまでも書こうと思っている。以下に現在考えている写真関係の書籍をリスト化する。
- 「写真論」 スーザン・ソンタグ
- 「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ
- 「図説 写真小史」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「複製技術時代の芸術」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「明るい部屋」 ロラン・バルト
- 「絵画、写真、映画」 ラースロー・モホイ=ナジ
- 「露出過多」 キャロル・スクワイアズ 他
- 「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」 アラン トラクテンバーグ
- 「写真の哲学のために」 ヴィレム・フルッサー
- 「視線の権利」 ジャック・デリダ
- 「写真論―その社会的効用」 ピエール ブルデュー
- 「写真と社会」 ジゼル・フロイント
写真について考えるとき、僕は芸術としての写真、もしくは写真を撮る技術に興味が全くないのに気がつく。そういうことよりも、例えば写真と社会、
もしくはもっと個人的な次元での写真について考える事に興味がある。
丁度12冊になったが、おそらく1年間と考えたとき12冊は厳しいと思う。何冊か落とすことになりそうだし、
全く別の書籍が入り込むかもしれない。しかし、前記の意味合いでの範囲なので、ソンタグ、ベンヤミンは欠かすことは出来ない。と言っても、
それらは既に以前に読んではいるのではあるが。でも今回は再読書であろうと、新たに読むつもりだ、それも何回も。
それに、例えばフルッサーの書籍を読むとき、彼の重要なエッセイ「サブジェクトからプロジェクトへ」の再読も必要になると思うし、
それはソンタグの「反解釈」も同様かもしれない。
ちなみに上記リストの順番は優先順位ではない。
ソンタグは彼女の「写真論」の中で以下のように語っている。
「ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである」
(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)
写真を考えるとは、現世界と歴史を考える事なのである。一枚の写真が撮られた当時の意味はイデオロギーと共に変化する。 それは現在に住む僕にとっては自明の事だとは思う。でも写真を通じてあらためて考えてみたい。
そのほか昨年から読み続けている書籍(ハンナ・アーレント「精神の生活」)がある、これは難物だ。アーレントが亡くなったとき、 タイプライターに挟まった紙には「精神の生活」の第三章タイトルのみが書かれていたという。彼女の「思索日記」をパラパラとめくってみると、 「思考」・「意志」・「判断」について、つまりは彼女にとっての「精神」について、「精神の生活」執筆以前から考えていたことがわかる。 「エルサレムのアイヒマン」で悪についての考察で彼女は自分の考えを纏める気にさせたらしい。
アーレントは「エルサレムのアイヒマン」で「陳腐な悪」と語る。それに対し彼女の師でもあるヤスパースは次のように語る。
「アイヒマンが陳腐なのであって、悪は陳腐ではない」と。
また別の人は次のように指摘する。仮に法廷で被告人となっているのがアイヒマンではなくゲッベルスの時、アーレントは「陳腐な悪」
と言えたであろうか、と。
そのどちらの質問にアーレントは答えてはいない。しかしアーレントは次のように言う。「思考」が無いゆえにアイヒマンの行為があるのだと。
「精神の生活」は今年一年をかけて読もうと思う。その都度、このブログの中で何らかの姿で、僕が受けた影響が出るとは思う。
小説に関しては取り立てて読みたいと思うものは少ない。強いて言えば、「ジョイラッククラブ」(エミィ・タン)、「消去」 (ベルンハルト)くらいか。ただし、写真の話題が登場する小説は積極的に読んでいこうと思ってはいる。
六義園
駒込にある六義園に行ってきた。東京でも紅葉で知られている公園である。紅葉の盛りの時に限り、夜間ライトアップがなされる。 幻想的な夜の紅葉は一見の価値があると思い、出かけたのだが、この時期でも紅葉しているイロハモミジは半数くらいで、 例年と較べると少ないとのことだった。
でも初めての六義園に僕はじっくりとその世界を堪能した。人は多かったが、細い道を行列が出来る程ではなく、 所々知られている鑑賞ポイントが多少の人混みがあるくらいだった。おそらく、 僕が言った日では紅葉は十分ではないことを多くの人が知っているのだろう。
来場者の半数以上が何らかのカメラを持っていた。三脚を持っている方も多い。 確かにこの暗さでは三脚を使わずの撮影は苦労することになる。しかし時折の園内放送によれば、歩道の幅が狭いが故に、 三脚での撮影を禁止しているようでもあった。僕自身はK100Dにメインカメラをしてから三脚は殆ど持たなくなった。 K100が搭載するブレ補正が強力で多少の暗さでは手持ちでも十分に耐える。
ただ六義園の暗さではそれも適わなかった。そこで歩道の足下を照らす証明の上にカメラを置き、それを三脚代わりにして撮した。 ライトアップする証明の影響で、明かりに照らされた紅葉は輝いて美しい。しかし写真では、その箇所が白飛びしてしまう。その為には露出補正をプラスの方向で変更しなければならないが、その時は確実に三脚を必要とする。
道々に安全のために立っている係員が、今年は昼に来た方が紅葉の赤を堪能できますよ、と話していた。それでも道を照らす明かりは細々で、全体ではとても暗く、その中でライトアップされた樹木を眺めているだけでも、その樹が紅葉していなくても、幻想的なその姿は十分に楽しむことが出来た。
今回は初めてと言うこともあるが、ライトアップされた紅葉が、写真となったときにこれほど色が白跳びするとは思わなかった。そして園内の暗さ。これら撮影時における問題への対応を考えれば、写真でさらに様々なイメージを構築することが出来るかも知れない。
写真において、自分が見たままを基本に画像を調整することは、僕には違う。僕が見たままというのは、それは誰が見ても、 脈路自体が変わることはないが、細かに言えば僕にしか見えないイメージでもある。僕の目は、肉体的に言えば、 眼を動かす6つか7つの筋肉が衰えているかも知れない。また眼球にあるレンズの解像度も悪いし、 色彩に関する感覚も識別に関して多少自信のなさもある。それら実態を加味すれば、眼から脳内に流れる情報量とそれに基づいて作られる像は、 僕自身だけの像であるのは間違いない。
故に、僕が見たそのままを忠実に写真イメージとして構築することは意味がない、と思うのである。逆の考えもあることは無論理解するが、個別から普遍性なイメージに昇華し、それを作ること、具体的には、現実的な可能性の中で、印象的な写真を作ること。それが今のところ、僕の現像時の方向となる。
六義園では比較的年配者が多かった。しかも一人での鑑賞は殆どいなかった。思いのほか寒く、シャッターを押す手が冷えてかじかむ。 途中で、休憩所が幾つかあり、そこでは焼き団子とかうどんとか暖かい食べ物が売っていた。焼き団子を食べる。 タレはどうするかと聞いてきたので醤油でと答える。美味しかった。
その休憩所から少し歩くと、六義園のメインとも言える大きな池があり、池の周囲に植えられている、松、モミジ、 等がライトアップされて鮮やかに色が浮かび上がる。しばし見とれて眺めている。人が多くても話し声は殆ど聞こえない。音があっても、 この風景の静寂の中に呑み込まれていったような、そんな感じを持つ。
六義園への道程
- 交通 JR山手線・地下鉄南北線駒込徒歩7分/地下鉄三田線千石徒歩10分
- 開演時間 9:00~17:00(入場は16:30まで) ライトアップ期間は21:00まで。
- 入園料 一般:300円 65歳以上:150円
- 休み 年末年始
死ぬまでに読みたい本
冗談のように聞こえるかも知れないが、僕には死ぬまでに読んでおきたい本が何冊かある。運良く平均寿命まで生き延びたとして、 それでも何冊かは未読のままだと思う。僕はそれらの未読本をリストアップし、 特に優先順位の高い本を僕の棺の中に収めて欲しいと願っている。そしてその中の1冊は既に家族に伝えている。
その時に告げたのがマルクスの「資本論」である。おそらく「資本論」は死ぬまでに読めそうもない、そんな予感を持っている。
僕の予感はこういうことについては結構当たる。
それでは「資本論」を今からでも読み始めればいいじゃないかと思われる方もいることだろう。それがそうはいかないのだ。
先日から読み始めた本は、これも死ぬまでに読みたい本の一冊であるハンナ・アーレントの「エルサレムのアイヒマン」である。 この本は僕にとってはビジネスマン必読書だと密かに思っているのだが、そういう視点で顧みられることは今のところない。その 「エルサレムのアイヒマン」は約240ページだから、量としてはそれほど多くはない。でもハンナ・ アーレントが徹底的な資料を駆使して練りに練った書籍であるから、一文に重みがある。
例えば、別にミステリーを軽く見るつもりはないが、僕の大好きなミステリー作家であるクレイグ・
ライス女史が書く一文と較べてみてもそれは明らかだと思う。つまり読み終えるのにそれなりに時間がかかる。
しかも生来怠け者でもある僕だから、続けて同様の書籍を読む気にはどうしてもなれない。もしかしれば、
しばらく一冊も本を読まないと言うことも十分にあり得る。
そういうサイクルでの読書だから、やはり僕が願うことは叶えられそうもない。
そう言えば昔、高校時代の時に学校の図書館を初めて見て、小中学校のそれと較べ書籍の量と種類の豊富さに驚いた。 そして高校の3年間でこの図書館の書籍を総て読破しようという、無謀な野心を抱いた。 でも結果は入学してから半年も経たないうちに野望は露と消え、僕は西脇順三郎という一人の詩人に夢中になった。
誰でもそうかもしれないが、先のことは予測できない。(ビジネス的に言えば予測できないにもレベルがあるのだが、
自分に対しビジネス手法を適用しようとは夢にも思わない)
だから、僕が密かに思う死ぬまでに読むべき書籍を、生きている間に読み終えてしまうかも知れない。まぁそれはそれで良いのだが、
おそらくその時は、新たな読みたい本が出てくることになるだろうから、やはり同じことなのだろう。まさしく堂々巡り。
その堂々巡り、たぶんそれは螺旋階段のようなy軸方向には動き、x軸での堂々巡りだとは思うが、 それが中断されるところに人生の妙味が在るのかもしれない。そんなことを時々思う。無論、 そういう悟りきった趣を常に胸に抱いているわけでは決してない。
本を読むと言うことは、コミュニケーションの一種だと思うときがある。だから人から人に繋がっていくように、書籍から書籍に繋がる。 書籍のネットワークの中に身を置くことで、そこから新たな世界がひろがる。僕が読みたいと願う本は、ネットワーク的に言えば、 片方向ではあるが、強い紐帯だと感じる。僕が産まれ背負ってきた文化的資産からそれは派生しているのは間違いない。つまりは、 これらの本を読むことで僕は僕の人生を確信する。
そういえば先日はらたいら氏が亡くなられた。奥様の言葉が胸に残る。
「主人は『不服はない。本望だ』と言っていました。63歳でしたが、十分生きられたと思います。 最期は家族に囲まれて旅立ちました」
十分に生きる人生とは、死から逃れる可能性がない状況で、見守る周囲の人達が覚悟を決めている中で、「不服はない。本望だ」 と言える人生なのかもしれない。そう言うことを少し思う。
仮に、「悔いがある、それは何々だ」と語った場合、その悔いを愛する人達に残すことになる。 それが良いことかどうかは僕にはわかならない。ただ書籍に関してだけ言えば、本記事はそのことしか語っていないので、 僕は少しばかり悔いを周囲に残してしまうのかもしれない。
友人との会話で思うこと
友人と電話で久しぶりに話をした。話は最近の状況から仕事の話になった。すると友人は何かわだかまりを持っているようで、 自然に彼の話を僕が聞く格好になった。
友人は建築関係の仕事をしている。また最近は石綿(アスベスト)除去も行っているとのことだった。 ある時彼が追加工事の一環として玄関扉の拡張を請け負ったときの話をしてくれた。
追加工事とは主となる本工事があり、別途必要に応じ発生する工事のことを追加工事と称するようなのだが、 この追加工事で彼は玄関枠を広げるために壁を切り取って欲しいと言われたそうである。
彼に指示したのは工務店で、工務店側はコンクリートの壁だと説明していた。 そこで友人はコンクリートの壁を切り取るべく電動工具で作業に入った。友人は今まで何度もコンクリートの壁を切り取ったことがある。 その彼が壁の外枠から、内部のコンクリートへと電動ドリルが入ったとき、今までだとそれなりの手応えがあるのに、 今回は何の手応えもなくドリルが中に入っていったそうである。
おかしいと思った友人が壁の内側を確認すると、そこにはアスベストの耐火材があり、実際はコンクリートの壁ではなかった。 早速その事を工務店担当者に彼は言いに行った。そうすると担当者は、彼を凝視し、断言口調で、「いえ、あれはコンクリートです」 と言い返したそうである。
「そんなことがない、確認した」と、友人は何回か言ったそうだが、帰ってくる答えは「あれはコンクリートです」、 の一点張りだったらしい。埒がない言葉のやりとりに、友人もうんざりしていたが、最後に担当者が「コンクリートです」と言い終えたとき、 彼は薄ら笑いを浮かべていたそうだ。その表情を見たときに友人は、「あぁ確信犯なんだ」と思ったという。
その笑いは、「もういい加減に空気を読めよ」、と言っているような、そんな笑いの様にも見えたと彼は言う。
アスベストが人体に影響を与えるのは、それが飛散し口から体内に入る時である。だから吹きつけ石綿などと違い、 成型しているアスベストは劣化しない限り、危険性は薄いかもしれない。それでも工事を行うくらいであるから、 ある程度の年数は経過し劣化している可能性は高い、しかも壁と共に切ることで、そこからアスベストが飛散することにもなる。
友人はあわてて最低限の防御を行うべく、車載しているマスク等を取りに行き、それらを装着して作業を始めたのである。
本工事では事前に申請書を提出し、アスベストの調査を行い、その調査結果に見合った体制と設備で除去作業を行う。 また管理者の立ち会いもあり、チェックも厳しいとのことだが、それが追加工事申請となると、事前調査なども行わず、 かなりチェックも甘くなるらしい。
そこで彼が請け負った玄関枠拡張などの細かな工事は、追加工事として、アスベスト除去の申請などしないで、行うのが多いと聞いた。 つまりアスベスト除去工事は手続きを含め流れが面倒なのであり、それにあわせて工事日程を組むと、 工程そのものが成り立たなくなる恐れがある。よってそういう箇所は追加工事として別途申請するのが、現実には多いそうである。
また別の作業で、オフィスビルの床の撤去を請け負ったとき、その工事も追加工事だったらしいが、 床を外したらアスベストが耐火材として敷き詰められていた。それも工務店側は申請もしていないらしい。その撤去工事の中で、 アルバイト学生達がほうきで掃除をしているのを見たとも言っていた。
確証は持てないが彼はおそらく事実を話しているのだろう。
「君には関係ないのはわかるけど、これらの話をすれば俺は怒りの気持ちが抑えられなくなるんだ。 これ以上話すと君に怒りをぶつけるかもしれない。」
おそらく些末な工事であるから、その工事に微量のアスベスト除去が存在したとしても、無視できると現場は考えるのだろう。 でもそれらを押し通すとき、現場で働く者たちを、付近に住む人達を、おそらく全く考えてはいない。それと同時に、「これが現実だと」、 したり顔で話す人の欺瞞さに、友人は腹が立つのかもしれない。
丁度この話と似たような事件がつい最近にあった。「男前豆腐」の大豆がら消却事件である。 産業廃棄物である大豆がら125Kgを会社敷地内で消却したことについて、担当者は「産業廃棄物とは知らなかった」と答えているが、 主業務から出る廃棄物の種類が不明であるとは考えづらい。別の新聞記事では、「量が少ないから問題ないと思った」とあったが、 その方が正確なのだと思う。
「量が少ないから問題ない」と思ったのは担当者個人の感想であり、それは友人が話した追加工事におけるアスベスト除去の話に繋がる。 事の有無を量の多少に単位をすり替えるたのは、自分がしている行為の社会的位置づけが、 個人としても組織としても把握が出来ていない証左だと僕は思う。
しかしそれ以上に、僕が友人の話から最初に思ったことは、友人の怒りの気持ちを僕にぶつければよいと言うことだった。僕には、 「君には関係ないけど」という発想自体が、これらの行為の根本にあるのではないかと、思うのである。
もしかすれば僕自身が、消費者の一人として、これらの事を助長しているのかもしれない。具体的にどう繋がるのかは、 想像力乏しい僕はすぐには思いつかない。でもこの社会で起きる様々な問題に、僕は外部にいたいと願うが、多くの問題はそうではない。
友人とは今度会おう、会ってこの話をしよう、と告げた。でも話を終えた後に、なんとなく寂しいような、そんな気持ちを味わった。
従兄弟のこと
従兄弟が亡くなった。以前に記事で従兄弟が癌と宣告されたことを記事に書いた。それから約一ヶ月で彼は亡くなった。前日には、 それまで寝たきりだったのが急に起きあがり、見舞いに訪れた人に元気な姿を見せていた。声も大きく、 会話に参加する様は周囲に幾ばくかの期待を抱かせるに十分であった。
従兄弟は癌の末期症状から来る痛みにより、鎮痛剤を肉体に注入しているにも係わらず、眠れぬ夜が続いていたらしい。 眠れぬといっても鎮痛剤により意識は朦朧としているのだが、それでも床ずれも含めて様々な痛みが襲う。 そんな彼がひとしきり元気な姿を見せた後、急に深い眠りに陥ったらしい。眠りの初めは自然な姿であり、 夜眠れぬ状態である事を知っている看護士からは、「久しぶりにぐっすり眠っているようで良かった」と言葉に出るほどであった。
それが眠りから昏睡状態にはいり、一度も目覚めぬまま息を引き取った。2006年6月29日午前11時7分の事であった。
僕が彼の死を聞いたのは、丁度亡くなって自宅の母に連絡が入り、その母を通じてだった。ふと身近な時計を見る。 時計は11時半を過ぎようとしていた。これから遺体を自宅に運ぶとの事だった。
この記事は追悼文にするつもりはない。僕は間違いなく彼のことを忘れることはない。 従兄弟にとって僕は弟のような存在だったかもしれない。でも父を幼い頃に亡くした僕にとっては、 彼の姿に父親の姿を僅かながら見ていたのは事実である。身近な者の死は、追悼文などという姿にするまでもなく、 僕が密かに誰に証すこともなく、自分の中の悼みとして一生持ち続けていく事になるのだと思うのである。 人に対する悼みの気持ちとは本来そう言うものだと僕は思う。
ただあまりにも突然の死であった。「癌には語り合う時間がある」などという物言いが空虚に感じるほど、僕は彼と話をしていない。 奥さんの話を聞けば、従兄弟は前日眠る前にまで、自分が十分に治ると確信していたらしい。でも傍目から見る彼の病院での姿は、 食事が出来ないために栄養剤の管が肉体に挿入され、その他に点滴と、腹水が溜まるのでそれを捨てる管、また痛みを抑える鎮痛剤の管、 等が付けられていた。そして医者から家族にはもう長くないことを告げられていた。
腸閉塞の改善の手術は一応成功していた。でも僕から見ればその手術の後、 従兄弟がベットから起きあがり元気に動き回る姿を見たことは一度もない。確かに手術は大きなリスクが伴うものだったとは思う。 医者も最大限の努力をしてくれた。でも僕が誰にも告げずに思うことは、手術をしない方が良かった、強くそう思う。
勿論手術の是非については結果論の話なので、今更の話である。だからこそ僕は誰にも言える話でないこともわかっている。そしてその事は、 いずれ僕自身が彼と同様の立場になったときに、自分がとるべき行動として深く記憶に刻むしかない。
遺体が自宅に戻ったことがわかり、僕は取り急ぎ従兄弟の自宅へと向かった。家では彼の姉妹達が全員来ていて、それぞれに目を赤く腫らし、 彼女たちの悲しみの強さを表していた。特に彼が愛した娘達の姿は、涙が涸れることがないかのように、静かに涙が頬を伝わり続けていた。 従兄弟の家は静かであった。限りなく深く静かであった。
従兄弟の母は別室で横になっていた。従兄弟の妹が老母に付き添っていた。「私が代わってあげれば」と何度も母はつぶやいていた。
彼の顔を覆っていた白いガーゼをめくると、そこには従兄弟が青ざめた表情で、眠っているかのように、静かに目を閉じていた。 娘が従兄弟が横たわる布団の横で顔を埋めている。時折顔を上げて従兄弟の顔を静かに優しく触る。その仕草が痛々しい。僕は微動だにせず、 動くことも語ることも出来ず、じっと彼の顔を見続けている。信じられなかった彼の死が少しずつ、僕の中に受け入れられてくる。
正直に言えば、彼の死を受け入れる、という物言いは正確でもない。おそらく僕は彼の死を認めながらも、 彼の存在を僕の周囲に求めることだろう。彼の顔は穏やかだ。ふと従兄弟を抱きしめたいという衝動に駆られる。 抱きしめる変わりに僕は彼の顔に触れる。柔らかさと冷たさ、彼との思い出が触れることにより僕の中を混乱と共に駆けめぐる。 思わず嗚咽がでる。
一人の男が生き、そして死んだ。死にたいし、安らかに誰にもこれといった迷惑をかけることなく、最期に元気な姿を周囲に見せ、 それこそあっけなく彼は逝ってしまった。彼の人生は、誰もがそうであるように、波瀾万丈であった。波瀾万丈との眼差しは、 勿論他者からの眼差しであろうし、従兄弟自身はそう言うことは微塵も思っていなかっただろうと思う。 それに波乱がない人生など何処にもないかもしれない。 しかしどういう形であろうとも、 一人の男が僕と同時代に生きていたのは紛れもない事実なのである。
いずれ今回の様々な出来事が、個々の記憶の中で一つの符丁となって、新たに蘇ることだろう。例えば死の前日、 あれほどものが食べれなかった従兄弟が、元気な姿に誘われて奥さんが出した好物のお稲荷さんを美味しそうに1個食べたこととか、 それ以前に前日に元気な姿と明瞭な言葉での会話を交わしたこととか。喪失とは彼を取り巻く人々が抱く感情であり、 従兄弟自身のことではない。そして喪失感から来る足りなさを、そうやって埋めていくのだろう。
でも間違いなく今の時点で僕が言えることは、彼は病気を治癒するつもりでいたと言うこと。そして、 この言葉を吐けば悲しさが募るだけなのはわかるが、従兄弟は生きようと、生きたいと強く思っていたということ。 そしてそれが叶わないまま、途中で彼は亡くなったと言うこと。そしてそれらのことは誰彼の区別なく、 僕自身の死に対しても同様であろうと言うこと。 まさしく美化することなく彼は僕にそれを最期にあらためて教えてくれたように思うのである。
いずれ僕は従兄弟の事を書きたいと思う。何も書き残さず、生来無口で多くを語ることの無かった従兄弟は、ただ同性として、 僕とは少しばかりではあるが様々な事を語った。彼と接した人は、それぞれの眼差しの中で従兄弟の精神を思い描いていることだろう。 どれもその方にとっては正しい。でもそれは従兄弟自身のことではない。少しであれば彼に歩み寄れるかもしれない。 そんな思いを僕は持っている。
従兄弟が最期に奥さんと交わした会話は、他でもない僕のことだったという。つまり僕のオートバイの装備の事を気にしていて、 病気が治ったらその装備を買ってやるんだと、言っていたそうだ。自分に対し一所懸命に過ごした彼は、 人に対しても一所懸命な人間であった。
またいずれ逢いたい。逢うだろう。そう思う。
隅田の花火
駅までの道程に紫陽花が見事に咲いているお宅があった。その中で今まで僕が見たことがなかった紫陽花の品種が咲いているので、 一度写真に撮りたいと思っていた。先日その機会を得た。還暦を迎えそうな年齢の男性が庭いじりをしていた。 僕は彼の背中越しに声をかけた。
「すみません」
何事かと思ったのだろう。彼は訝しげに僕を眺める。
「お宅の紫陽花がとても綺麗なので写真を撮らせて欲しいのですが」
僕も少しだけ緊張して言葉を続ける。事が紫陽花のことだとわかったとき、彼は笑みと頷きで僕に答えた。それがこの写真となる。
「隅田の花火」という園芸品種なのだそうだ。最近特に人気が出て品薄状態だという。話を聞いていると、
どうもこのご主人が紫陽花好きで手をかけて育てたらしい。
「額紫陽花の一種ですけど、上から見ると隅田川の花火のようでしょ」
なるほど、確かにそう見える。星形の白いガクが二重三重になっていてとても美しい。それでいてガクの白さが清々とした印象を与える。
夏の花火の姿に似ているのであるが、それ以上に川辺で花火を見るような一種の清涼感がこの紫陽花にはあるように思えた。
写真を撮っていると別の男性が近寄ってきて、友人らしい語り口でご主人と話を始めた。
「見事に咲いているなぁ。家の紫陽花はどうも今年はダメみたいだ」
お互いに紫陽花好きらしく、専門的な単語も幾つか出る。ひときり紫陽花の話が終わったとき。
主人がおもむろに自身の健康のことを語り始めた。
「俺、明日から入院するんだよ」
「えっ、どうして」
「心臓が悪くて、ペースメーカーを埋め込むんだ。今日もね調子悪くて、会社に行ったんだけど途中で戻ってきた」
「そんなに悪いのか」
「ああ、悪い」
僕は写真を撮りながら二人の会話を聞くともなしに聞いている。このお宅は溢れんばかりの植物が家の前で育っている。 そして一つ一つの草花は初夏の陽光を浴びて、その命を謳歌している。きめ細かな気持ちがなければ、 これほど美しく花を咲かすことはないだろう。ご主人の思いを僕は植物を通して感じている。
写真を撮り終え僕はご主人と友人にお礼を述べ、見知らぬ男が厚かましいかとも思ったが、「お大事にしてください」と言って頭を下げた。 それっきり振り返らずに僕は歩き去ったが、「隅田の花火」のイメージとご主人のイメージが重なり忘れ得ぬ紫陽花となったと思うのである。
「隅田の花火」を近寄って花部分を撮ってみた。星形のガクだけでなく、中央の花部も趣があるように思う。
築地に行く
東京で産まれ育ち、それでも築地魚市場に行くことは一度もなかった。別に行かなくてもどうと言うこともない。 それでも一度行ってみようかと思い立ったのは、何日間かはっきりとしない空が束の間の晴れ間をのぞかせた火曜の朝だった。 とんでもない時間に目が覚めた僕は、明るくなり始めた空を窓から眺め、オートバイに少し乗ろうかと考えた。 既に再度寝ようなどとは思いもしないほど、何故か気分は高揚していた。軽い躁病かもしれぬと、自分の姿に少しだけ苦笑する。 でも既にオートバイに跨り都会の喧噪が始まる前の、少し紫かかったビルの合間を走りゆく自分の姿を想像もしていた。
都会の朝は想像以上に静寂さがそこかしこに漂う。それがまたとても良い気分にさせる。カメラを持って行こう。 そして朝日に輝くビルの姿を写すのだ。それが最後の一押しだった。僕は急いで身支度を始める。オートバイのエンジンを始動させたのは、 窓から空を眺め思案してから20分も経ってはいなかったと思う。
さぁ何処に行こうかと、具体的な目的、もしくは方向を考える。銀座などの中央に向かうのは端から決めていた。 その時に何故だか築地も面白そうだと浮かんだのだった。築地であれば、早朝の静寂さなど微塵もないのだから、当初の目的とは全く違う。 一度も行ったことが無くても、活気のあるセリの場を想像するだけで、そのくらいのことはわかる。それでも築地は面白そうだなと、 まずはその方向を目指そうと家を後にした。
築地までの道程は迷うことはない。皇居の方面に向かい、そこから内堀通りから京浜一号線を通り銀座に向かえばよいのだ。思いの外、 車が多い。それでも朝のひんやりとした風が心地よい。空を見上げる。大丈夫だ雨は降りそうもない。
末期のガン患者になった従兄弟
従兄弟が末期ガンの宣告を受けた。実はこういう話をブログに書くこと自体気がとがめる。勿論「僕の従兄弟」と書くことで、 この記事を読む方が誰かと判明出来るとも思えないし、記事に特定の情報を書くつもりもない。 また親戚の誰も僕のブログを読んでいるわけでもないので、僕が従兄弟のことを少し書くのを知るよしもない。 でも彼のことを書いているということを、他でもない僕が知っている。 そして僕は従兄弟のことを題材にしてブログを書く自分に幾ばくかの責めを課しているのである。さらに言えば、 本当に書きたいことは従兄弟のことでもない。末期ガンの宣告を受けたと知ったときの自分の気持ちを書きたいと思うのである。
従兄弟は僕と二回りほど年が離れている。といってもまだまだ若いと僕は思う。彼は僕が幼い頃とても面倒を見てくれた。 映画に連れて行ってくれた。遊園地にも一緒に行った。彼は優しく大きくそして豊かな感性と知性を持っていた。 従兄弟が結婚し二人の娘を授かり、彼女たちに溺愛している姿を見たとき、僕は彼の娘達に軽い嫉妬心を持ったのを覚えている。 それまでは僕の方に目を向けていてくれた彼の変貌に子供ながらとまどいを持ったのだった。そのくらい僕は彼の事が好きだったし、 彼への愛情は今も変わることがない。
従兄弟は医者嫌いで滅多なことでは病院には行かなかった。その彼が最近の不調に耐えかねて病院に行ったのはつい最近のことだ。 そして2週間の検査を経て医者が対応しきれないほどガンが進行しているのが判明したのだった。まずは大腸ガン、 そして患部に腸閉塞の恐れがあった。ガンはリンパ腺を通じ全身に転移していた。肝臓が侵されていた。水も腹膜に溜まっているらしい。 さらに問題は狭心症で心臓が弱く、手術と抗ガン剤に耐えられないとも言われたそうだ。つまりなすすべがないのである。 従兄弟の今の状態では腸閉塞が始まればそこで終わり。医者の経験で言えば、早くても九ヶ月、 過去の事例でもっても2年以内と言われたらしい。
宣告を受ける前に僕は彼の所に見舞いに行った。彼は普段と変わらぬ、穏やかな姿で僕に対応してくれた。「病院は退屈で死にそうだ」 と笑いながら僕に話してくれた。宣告を受けてから僕は彼に会いにいっていない。彼は今どのような気持ちで過ごしているのだろうか、 よく眠れているのだろうか。考えるだけでも心が重たい。
その時、見舞いに行った帰り、僕は彼の家に足を向けた。そこには彼の奥さんと娘さんがいて、 彼女たちと僕は従兄弟のことについて話をした。奥さんによれば従兄弟は昨年から自分の病気が重大なことを知っていたそうだ。 そして医者から「診断書」を渡されていたが、それっきり病院に行かなかったそうである。その出来事に奥さんは「怖がったんじゃないか」 と言い、娘さんは「お父さんは現実逃避するタイプだから」と言っていた。現実を逃避する性癖は僕を含め一族男性の特徴でもあるらしい。 でも僕は二人の女性の話をすぐに頷くことも出来なかった。それにその時点で仮に検査に行ったとしても、 現状が大幅に変わっていたとも思えなかったのもある。
また奥さんは、従兄弟が検査入院をする前に医者から受け取った診断書を見せてくれた。大きく「診断書」 と書かれた紙にはワープロ文字で従兄弟の病気について概略が書かれてあった。その中には「重大な状態(死)」という文字もあった。 その紙を従兄弟に渡し医者は「さぁどうしますか?」と聞いたそうである。それに対し彼は何も答えなかった。 そして検査入院が決まる一悶着までの間、従兄弟はその紙を無視したのである。
「さぁどうしますか?とこの紙をいきなり見せられてもねぇ」と奥さんが言う。僕はその言葉に頷き、 彼が医者から診断書を受け取ったときの状況を想像する。「さぁどうしますか?」の一言は医者として自分の敗北を認める言葉でもある。 でもこの際医者を責めても何の意味もない。この診断書を見つけた奥さんはすぐに病院に行ったそうである。 そして検査入院の段取りを決めた。診断書には「進行性」と書かれてあったにもかかわらず、 病院側が最初に指定してきた日は一ヶ月ほど後の日であった。それを何とか二週間先に交渉した奥さんは、 その話し合いの後で医者からこう言われたそうだ。
「ガンと言ってもすぐに死ぬわけではないですし」
つまりこの時点で担当医は従兄弟がガンの末期であり回復は難しい事を知っていた。医者の言葉は従兄弟にガン患者の属性を付与し、 ついで生者でありながら「死者」の属性も付け加えようとしていた。僕にとって大きくて優しい従兄弟は、いきなり今まで培ってきた個性、 社会的位置、父親、夫、等々の様々なアイデンティティが単一で無個性な「末期のガン患者」に上書きされる、そんな気持ちを僕に抱かせた。 おそらく医者自身はそんな気持ちを見も知らぬ患者の親戚に抱かせたとは知るよしもないだろう。 従兄弟は上書きされた自分の属性に抵抗したのだろうか。多分彼のことだ、 無視という態度を装うことで自分自身を保っていたのかもしれない。そしてその姿が娘さんからは「現実逃避」、奥さんからは 「怖がっている」というふうに見られたのかもしれない。
属性の上書きはある意味正しいともいえる。それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである。 その事実を誰彼とも忘れられないように、ガン患者の周りの人達はすすんで属性を上書きしていく。また、 医者の言った言葉は多くの方が語る言葉でもある。ガン患者の体験記的な書物の題名にもなったことがある。 母が以前に膵臓ガンになったとき、実際僕自身も医者から言われた。つまり十分にお別れをし、 気持ちの整理を付ける時間が持てるというわけである。交通事故で亡くなる場合はそう言うわけにはいかない。交通事故、脳卒中、 脳梗塞などなどと較べて、確かに時間はあるかのようだ。
しかし「気持ちの整理」とは誰に向けての言葉であろうか。例えば従兄弟には明治生まれの老母が健在である。 母にとってはいくつになったも息子は子供であろう。この年まで長らえ、人生の最後の時期に息子を見送る、 彼女にとっては耐えられない事ではないだろうか。その母に向かって、医者の言葉は届かない。 さらにガン患者が幾つもの沸き上がる気持ちを乗り越え、自分を正しく見つめる中で、何かを得る事が出来、その結果において言葉として、 医者が語った言葉を述べるとしたら、それは多くの人が聞くべき言葉になることだろう。医者といえども、 外部の人間が内部に向かって語るべき言葉とも思えない。僕は経験者でしかその経験した事がわからない、などとここで言うつもりはないし、 その様な考えを持っているわけでもない。ただ公共的な事項に抽出できない個人の問題に関しては、 やはり言えるべき事と言えないことがあると思うのである。
つい先日、従兄弟の奥さんから電話があった。何も出来ないで手をこまねいて腸閉塞が起きて終わりでは良くない。 出来れば腸閉塞の改善にむけての手術をリスクは高いが行う、とした医者の話があったとの事だった。開腹して腸閉塞の対処の他、 状況次第では大腸ガン患部の切除も行うそうだ、あくまでも開腹して中を見ての判断だと医者は言っているが、 従兄弟と奥さんにとっては一筋の光明が差し込んだ思いのことだろう。勿論僕も強く彼の奇跡的な回復を願っているし、 出来るだけ長生きして欲しい。そして従兄弟がやりたいことをやり遂げられる事を願う。 たとえそれが老母より一分でも長く生きることであっても。
ゴールドコイン 写真2枚
花の値段というのはよくわからない。このゴールドコイン(学名:Asteriscus maritimus,和名:アステリカス)は一鉢100円で花屋で売られていた。通称ゴールドコインと呼ばれるのは、濃い黄色と丸い花の姿からだと思う。でも花屋では「ゴールドダラー」と値札に書かれているが、コインとは違う種とも思えない。さらに名前としても「ダラー」よりは「コイン」の方が個人的には好きだし、「ダラー」として売っている理由がよくわからない。「コイン」だと何か問題でもあるのだろうか。
ゴールドコインの原生は北米だと聞いている。おそらく向こうでは日本のタンポポのように普通に何処でも咲いているのかもしれない。丈夫な花である。二鉢買ってきて玄関先に置いた。雨が降り花びらに露が丸く残っている様が美しく何枚か写真に撮った。そのうちの一枚がこの写真である。
美しい黄色はあえて白黒にして青みを増した。そうすることで雨で濡れている様を強調したかった。

カラーで見るゴールドコイン。円形の姿を半分に切り取った。花びら一枚一枚の姿の美しさを出したいと思ったからだが、そこは素人、全ては思い通りに行くわけでもない
話は変わるが、サイトの変更を行っては表示の微調整ばかりやっている。DIONのMTフォーマットでのエキスポートは、致し方ないかもしれないが、HTMLコードが厳密ではなく、しかもページ毎のファイル名も生成してくれなかった。MT側もファイル名の自動生成はしてくれても良いと思うが、理由は不明だがうまくいかなかった。さらにDIONだけでなく、Flickrからブログ投稿をする場合も、Flickrが生成するコードも正確でなく投稿後修正する必要がある。そういったことを含め結局多くのページを再確認しコードを書き換えた。
未だ調整が必要なページもかなりあるとは思うが、後は気が付いた時点でその都度直していくことにする。まだまだ読みづらいと思うけど徐々に読みやすくしてくつもり。
一日早いWhiteDay
- Date
- 2006-03-13 (月)
- Category
- 日記
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戸陽軒
戸陽軒は、僕が子供の頃からある中華店だったが、今はもうない。この場から1km近く離れた場所に、中華店ではなく、居酒屋として移ったのである。店の名前もそれなりに変わった。戸陽軒の後は誰も入らず建物は住居としてそのまま残った。
戸陽軒の隣は木々が豊富な邸宅であったが引っ越した、しばらくはそのまま残ったが、いつの間にか整地され、跡地に7階建てのマンションが建った。この写真はその時間的な隙間に、横から見た戸陽軒の姿を取ったのである。
昔、時々家では戸陽軒の餃子とかラーメンを出前で頼んだ。少々油が多いが、なかなかに美味しかった。恰幅がよく陽気でお喋りな奥さんが、スリムで若々しいご主人を引っ張ってる印象を子供ながらに持ったものだ。
会社に勤めてからは、帰宅時夜遅く戸陽軒の前を過ぎると、閉店後の店内からは、夫妻の友達が集まりお酒を飲んで談笑しているのをよく見かけた。奥さんは酒豪である。逆にご主人は一滴も飲めないと聞く。居酒屋を始めたのは、奥さんに引っ張られての話かもしれない。
先だって歩いていたら、戸陽軒の奥さんと道でばったりとあった。相手は僕のことを子供の頃から知っている。今度飲みに来てと威勢良く言われた。既に老年に差し掛かってはいるが元気である。「はい」と答えたものの、僕はお酒は得意ではない。でも一度は行ってみようかなと思っている。
散歩道のオブジェ達
- Date
- 2006-02-19 (日)
- Category
- 日記
家の近くの散歩道(呑川本流遊歩道)に所々置かれているオブジェ達を写真に撮ろうと思い立った。僕がよく歩く遊歩道の行程で遭遇するオブジェを撮影しただけなので、もしかすると別のオブジェがあるかもしれないが、それはまた別の機会にでも探検しよう。
ここに紹介するのは、高さ約1m、直径約20cm程のポールの上に置かれているオブジェである。そのディフォルメされた姿が可愛いと以前から思っていた。
オブジェで現している生き物たちは、多分昔(といってもそれほど昔ではない)の呑川で普通に見ることが出来た生き物たちだと僕は思う。その中の幾つかは今でも観察することが出来るだろう。例えば、セミとかカタツムリとかテントウムシとかバッタとかザリガニとかである。勿論いなくなったもの達も多い。呑川は既に所々下水道化されているからである。
左から
a)アヒル?最初からよくわからない。
b)カタツムリ、これは二番目に数が多かった。なかなか可愛い
c)バッタ、種類はわからない。トノサマ?もしかしてイナゴ?、
d)カエル、愛嬌のある顔が良い。一番のお気に入り。
e)ザリガニ、アメリカザリガニは少し前までどこにでもいた。子供達がスルメで釣っていたのを見たことがある。
f)ナマズ、ヒゲが偉そうで良い。オブジェは一体のみ遭遇
g)セミ、これも種類はわからない。これも一体のみ遭遇
h)コトリ、これも種類は何かよくわからない
i)テントウムシ、これが一番数が多かった
駒沢公園の壁に描かれている人の顔
駒沢公園内には何カ所か人物の絵が描かれている場所がある。そのうちの一カ所の絵をメモとして残す。
全員上を眺めているが、これは公園内の通りと外部の車道が交差している場所なので、公園内ではトンネルのようになっていて、天井にさまざまな形の雲が浮かんでいるのを人々が眺めている構図なのである。それらの雲は、例えばウサギの形をしていれば、「rabbit」と英語で書いてあって、見ていても楽しめる。ただそういうのも見慣れてしまえば、人は絵に興味を持つこともなく通り過ぎているだけである。
この絵がトンネル内に描かれるまでは、そこは落書きの宝庫だった。だから落書き防止のための絵でもあるのだと思う。今回一人一人の顔を写真に収めようと思い立ち、それぞれを意識して初めて見たが、なかなかに面白い。その中で一番のお気に入りが左上のヒゲ男である。とぼけた感じがとても良い。見知っている友人の顔に似ている、ようにも見える。
坪内逍遙の「当世書生気質」が日本において初めて小説にて、人物の描写に顔の描写を入れたと聞いたことがある。つまりはそれまでは人の描写は顔の描写ではなく主に社会的身分を現す服装の描写だったのだそうだ。顔を気にするようになったのは近代以降ということかもしれない。
実を言えば公園の絵を見ながらもう一つ思ったことがある。それは最近は今会記事にした人物の描き方は、公の場所ではあまり見なくなったということである。それは勿論人種の問題であるし、カラーブラインド論の影響もあるのかもしれない。ただカラーブラインド社会の実現が可能かは僕にはわからないが、カラーブラインド論が成立するにはカラーラインが必要なように、両者は同根のような気もするのである。勿論僕はこの公園の絵に人種主義の片鱗さえも見ることはなかったし、楽しげな雰囲気がとても気に入ったのである。
聖夜に
ある人から魯迅を教わった。魯迅の小説は学生時代に何冊かは読んでいた。でも日常の中ですっかりと忘れていた。僕はまだ、魯迅を再び思い出させてくれたその人の本を読んではいない。だから彼が魯迅をどのように書いているかは未だわからない。でも僕は魯迅を思い出させてくれたことに深く感謝する。
静かな夜である。外は穏やかなのだろう。先日まで聞こえた風音も聞こえない。不思議とこの静けさの中で孤独は感じない。この一瞬が過去から何億年も積み重ねの凝縮であり、今後も人間から見ると永劫にも思える時を刻むことを知っていようとも、僕がその狭間で押しつぶされる感覚を持つこともない。不思議なほどの静けさの中で、キリスト教の聖なる恩恵の僅か一欠片を異教徒でもある僕は感じるのである。
そして今僕は彼から教わった魯迅のことを考えている。魯迅の有名な散文詩集「野草」の中の一編「希望」の中で彼はこう言っている。
「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じだ」
この言葉はハンガリーの詩人ペテーフィの詩の一節でもある。真の暗闇を知らなければ光を知ることはない。両者が虚妄だと断定する魯迅の人生は、逆に絶望と希望とを知る人生でもあった。でも両者を知る者は魯迅だけでなく、あらゆる世界のあらゆる人達も、自分を生きていく中で知るのだと僕は思う。
真夜中の暗闇もいずれ明けて朝が訪れる、使い回された歌詞の言葉、でもそれは今を生きる僕等には、信じ裏切られることのない事実でもある。いずれ今年の聖夜も終わり、次の新たな日がくるのだろう。この静かな夜に、紫煙漂う部屋で、僕はたわいのない事をつらづらと考える。
我慢できずにパソコンを買ってきた
- Date
- 2005-07-06 (水)
- Category
- 日記
実はパソコンが3週間ほど前に破損して、しばらくSONY製ノート、しかもC1という誇りをかぶって眠っていたパソコン、を使っていた。でも画面が小さい、遅い、入力がしづらいなどで我慢ができず、このあいだの日曜日に秋葉原に行きパソコンを買ってきた。
以前のパソコンは電源部分が破損してしまっていた。壊れたとき、「パン」と音がしたのだから、その音を聞いただけでも、自分で何とかしようとする気持ちが失せてしまった。案の定、何をしてもどうしようもなかった。でも最近ネットでゲームもやっていなかったし、小さなノートでも我慢ができると思っていた。でもそれは2週間ほど使い無理だと思った。
購入したパソコンは「e-machines」という米国のメーカーだが、とにかく安い。以前のパソコンのディスプレイは残っているので、とにかく本体さえあればそれで満足するのだが、その本体だけ売っているのは少ない。
重たいおもいをして家まで持って帰ってきた。値段の割に性能は良くて、結構満足している。タワー型なだから、旧パソコンのハードディスクも増設するスペースもある。ただ問題なのは、TVチューナーのボードを装着できることはできたのだが、ソフトが起動するごとにシステムエラーになってしまうこと。未だに原因不明だ。
今後は、やはりグラフィックボードの装着だと思う。以前のパソコンにはAGPインターフェースがなかったので、グラフィックボードを装着する事による速度向上が楽しみでもある。さてと、このパソコンでいろいろと遊ぶことにしよう。
猿橋

ツーリングで甲州街道を使うとき、いつも気にしながら素通りしていた山梨県大月の「猿橋」に行ってきた。はじめから猿橋が目的というわけではなく、帰りに橋の事を思いだし、それじゃあついでに寄ってみようと思っただけなので、たいした話ではないが日記のつもりで書いてみる。
猿橋は「日本三奇橋」の一つだそうだ。現地でそんなものがある事を初めて知った。何事も3つを並べるのが好きな国民性からなのだろう、その他にも色々とあるのは知っている。その中の一つなのだろう、でも奇橋までつくるとはと少し可笑しい。ちなみに、日本三○○のこととか、3奇橋についてはこちら、また猿橋についてはこちらをどうぞ。
何も知識も無く、ただ名前が面白いからというだけで寄ってみただけだった。でもそれで、逆にすごく面白く感じた。谷が深い。橋から底まで約30mあるそうだ。橋の左側に下に降りる道があり、猿橋展望場所とか書いた看板が下りる方向を示していた。多分、谷底からの景観を堪能できるのではと、階段ばかりの細い道を下った。階段は途中できれて、ごつごつとした岩場となり、やがて川を真下に見下ろせるところまでたどり着いた。川の流れはゆったりとして、深そうだ。川の色は濃緑色だが、なんとなくミルクぽい。つまり濃い緑色のミルクといった感じの川だった。
底から猿橋を見上げようと振り返るが、猿橋は谷のせり出した岩と木々に隠れ見る事が出来なかった。展望とは何の事だろう・・・。ここまでの苦労を思い出す。
川ではドコモのTシャツを着た中年男性が一人釣りをしていた。もう少し川辺に近づきたかったが、釣りをしている人に迷惑がかかりそうだった。仕方なく、僕はまた来た道を戻った。
猿橋の正面に戻る。大勢の観光客がたむろしている。バスツアーで来たようだ。バスは5?6台とまっていた。ツアーの目的はさまざまだが、猿橋は立ち寄る場所としては同じみたいだ。観光客達は、一通り猿橋を眺め、写真を撮り、それから例の展望場所の指示の通りに左側の道を下っていく。一言いってあげようかなと思うが、これも旅の思い出かもしれないと、そのまま何も言わずに猿橋から離れた。猿橋の隣には小さな祠があり、少ないが土産物屋も何店かあった。国定忠治に関連する屋号の店もあった。国定忠治もここに立ち寄ったらしい。
日本の風景というのは、日本の文化が背景にあるのかもしれない。それ以上に風景が文化というものかもしれない。そういえば、図書館から借りているサイモン・シャーマの大著「風景と記憶」が数ページ読んだだけで積読状態なのを思い出す。読む気は強く持っている。それに、もう少しで読み始める事も出来る。それを読むと、今僕が猿橋を眺める風景も変わるかもしれない。
猿橋は広重の浮世絵でも知られているらしい。その猿橋の浮世絵を分析しているサイトをネットで見つけた。分析をとても真面目にしていて、読んでも面白かった。
サイト:広重再考
2005年6月19日の日記
■今日は久しぶりに朝よりツーリング。行き先を決めずにまずは東名に入る。走りつづける。しかしいやにハーレーが多いなぁとおもうが、気にしない。気になるのは、行き交うハーレー乗りが挨拶をしてくる事だ。昔であれば、ツーリング時は所謂ピースサインがすれ違いざまに交わされていたが、現在ではそういう共同体幻想は既に崩れているので(笑)、滅多に交わす事はない。
それを考えると今日はすごい。
時間を決めず、のんびりと、つまりはPAとSAに止まり止まり走り、御殿場で東名を降りる。箱根に行こうかと思ったが、箱根方面には嫌な雲がかかっている。そこで、山中湖方面にいき、そこから中央道に入って東京に戻る事にする。途中で、昼食を取り、見知らぬ土地を散歩し、またオートバイに乗る。そんな事の繰り返し。
時間と共に、オートバイの何台も見かける、しかも同じメーカー、行き交うオートバイは全て僕と同じと思えるほどだ。少し不思議に思い始める。
途中で右のウィンカーが電装系トラブルと思える状態で、点滅しなくなる。そこでコンビニエンスに立ち寄り状況を確認する。そこにたまたま一緒になったライダーと語る。勿論その方も同じメーカー。
「なんでこんなにハーレーが多いのでしょう」
と聞く僕に、彼は驚いて僕を見る。
「え、貴方はあれに来たんじゃないの}
「はぁ???」
聞けば、年に一度開催しているハーレーの祭典「富士ブルースカイヘブン」が行われていたとの事。そう云えばそういうのあったなぁ、と思い出す。しかも僕は入場券もバイク屋からもらっていたっけ・・・
気がつかずに、開催地と同じ場所に向かっていて、知ったときは終わっていたという、なんというこの身のアホさ加減。まぁ知っていたとしても行かなかったとは思うけど、その物言いが、負け惜しみに聞こえるのが不思議なところ。
■本当は別途記事をあらたに立ち上げたいほど最近気にしている事がある。それはブドウだ!
東京世田谷の自由が丘の近くにぶどう園があって、そこのブドウがたまらなく美味しい。世田谷で昔から果物を栽培していた農家があった。飯田さんといいう方で、その方のブドウは手間隙をかけつくられとても美味であった。その飯田さんのを師匠として、高橋さんがブドウを作り始める。僕が毎年行くぶどう園は高橋ぶどう園である。高橋さんのブドウへのこだわりは大きい。(世田谷ブドウ研究会のサイト)
ブドウの品種は本当に多いが、高橋ぶどう園で食べる事が出来るのは、黒系では「高尾」と「高墨」「ピオーネ」、赤系では「紅瑞宝」「安芸クイーン」と「ハニーレッド」。
殆どの方のお目当ては「高尾」である。「高尾」は東京生まれの巨峰系ブドウであり、巨峰より若干小粒だが、甘味が強く、巨砲より断然に美味しい。種無し。
美味しいブドウを食べたくて、山梨まで行こうと思っていたとき、ためしに高橋ぶどう園の「高尾」を食したとき、他に行く気がしなくなった。黒系でこれに次ぐのは、藤沢のブドウくらいかも。
といっても全国には、食した事がない美味しいブドウがたくさんあると思うので一概には言えないとは思うが。でも出来れば一度「世田谷のぶどう」を食べて欲しい。
8月の一日、今だ決まらぬ日にちだが、指折り数えるブドウの日である。
冬の日光金精峠で幽霊を見たと勘違いした話
昔の事だが忘れられない話がある。会社有志でスキーに行く事になり、僕が幹事になったことがある。色々とスキー場はあるが、僕は自分の趣味から奥日光湯元スキー場に決めた。理由は簡単、冬の日光に行きたかったのだ。本当に我侭な幹事だと思う。自分のことしか考えていない。でも何故だか、その企画を友人達に言ったとき、反対は一人もいなかった。それも面白いんじゃないかと言うのだ。湯元スキー場は雪質が良いといわれていたので、それもあったのかもしれない。
というわけで、僕らは2月頃だと思うが、日光に向けて出発した。実の所、僕はスキー以外にもう一つ計画があった。それは一緒に行く友人達には話さなかったが、湯元から金精峠を越えて菅沼まで歩いてみるということだった。雪がなければ、湯元から菅沼までは観光用の有料道路があり、金精トンネルを抜ければすぐに菅沼だったので、そのイメージがあった僕は割と気楽に考えていた。
着いて翌日早朝に、友人達にちょっと金精峠に行ってくると言って出かけた。気持ちで言えば、本当に「ちょいと」という感じであった。でもそれは、有料道路を歩くといってもやはり冬山であって、雪が浅い場所でも膝くらいまでの深さを、汗をかきながら少しずつ進むといった状況であった。その日は朝から珍しく晴天で、それも行って見ようと言う気持ちにさせた理由の一つだが、一人の雪山を大いに楽しんだ。
金精トンネルの入り口に着いたとき。少し曇り始め、雪がちらほらと降り始めた。でもまだまだ視界はよく、そこから見下ろす冬の戦場ヶ原は、なんというか圧巻だった。また戦場ヶ原のむこうには中禅寺湖も見ることが出来、僕は一人その景色を楽しんだ。
金精トンネルは、雪が中に入り込まない様に、木製の大きな蓋のようなもので塞がれていたが、人が入る事が出来る程度の隙間があって、そこからトンネル内部に入る事が出来た。
トンネルを抜けるとすぐに菅沼だ。菅沼の静かな冬の情景を見ることが出来る。そんな気持ちで、僕はトンネルの中に入っていった。
トンネルの中は、蓋をしているとはいえ隙間が幾つもあり、入り口付近は案外明るかった。しかし、トンネルの出口のほうは全くの闇だった。ほんのり出口の明かりも見えないかと、僕は凝視したが、それは全く見ることが出来なかった。それでも別に構わないと、僕はトンネルの中へと歩いていった。折から、雪と風が激しくなりトンネルの蓋が細かな音を立てた。暫く歩いていると、だいぶ暗闇に目が慣れてきた。それでも出口らしき明かりは全く見えない。後ろを振り返ると入り口は小さく、ほのかな明かりとなっていた。歩く方向は闇であり、立ち止まって周りを見ると一人でやはり闇の中であった。
そのとき、前方に何体かの人影が見えた。えっと思い、目を凝らし見ると確かに人影がある。でもそんなはずはなかった。二月の封鎖された雪山のトンネルの中に、数人もしくは数十人の人がいるとは思えなかった。急に怖くなった。それは背筋から頭に突き抜ける悪寒と共に、さらに強まった。その人影は数体どころではなかった。数十という数で、微動だにせずそこに立ちつくしている。高さにして160から180cmくらい。僕は後ずさりし、そして来た道を戻ろうかと思い始める。でもそれ以上に、その正体が何かが気になった僕は、その人影に向かい歩いた。
それは氷の柱だった。トンネルの上部隙間から漏れ出した水分が下に落ち、それが瞬く間に氷って柱になったのだった。傍に行き、氷の柱を触る。気がつくと、僕が今まで歩いてきたところにも、周囲に何本も立っていた。気がつかずに傍を歩いてきていたのだった。風と雪がさらに激しくなってきたらしい。トンネルの蓋ががたがたと音を立ててゆれ始める。その時だった、僕は自分がこの闇の中に一人でいる事を強く実感したのだった。周囲には無言で立ち尽くす氷の柱。恐怖が僕を襲った。僕はトンネルの入り口に向かい走った。
トンネルを出ると激しい吹雪だった。風が強い。暫くはトンネルの中にいた方が良いかもしれないと少し思ったが、僕はトンネルの中に入りたくはなかった。そこは幽霊達のいる場所で、人がいてはいけない場所、そんな気がしたのだった。とにかくこの場から立ち去りたかった。だから、迷わず有料道路を湯元に向かって歩いた。来るときは楽しかった景色は、雪に覆われた木々があたかも僕を襲うかのように思えた。僕は、まさしく転がる様に、みっともなく、汗でドロドロになってスキー場にたどり着いたのだった。
スキー場で楽しく談笑している友人の一人が、とぼとぼと歩いている僕を見つけ、顔が真っ青だといったが、僕はただ笑うしかなかった。
ここ1週間ほど身体が「だるい」
ここ一週間ほど身体が少しだるい。熱があるわけでもなく、風邪を引いたという自覚もない。ただ、ここしばらく続いていている寒さと暑さに身体の疲れが取れないだけだとは思っている。同じように、季節の変わり目でだるさを感じられている方も多いのではないだろうか。
そう言う状態の時、やはりうブログで書く文章もそれに反映しているようだ。
ブログに書く材料が無くて困ることなど現実社会には少ない。問題はその材料を書くだけの価値があるのかと言うことだとは思うが、それはブログの書き手の判断に委ねられることになる。ただ身体に「だるさ」を感じる場合、そもそも考えること自体億劫なので、何かを書いても通り一遍になりがちになる。そんな文章であれば新聞サイトに行って読めばいいのであって、自分としては書く気にもなれない。
しかし、この「だるさ」の感じは不思議なものだとお思う。何処かに痛みがあれば、その痛みを取り除くべく、なんらかの対策を講じるだろう。たとえば痛み止めの薬を飲むとか、傷口があれば絆創膏を貼るとか。熱があれば、熱冷ましの薬を飲むことだろう。さらに熱が高ければ氷枕をして眠るのも良い。
でも今の僕の場合、多少、手足の筋肉の痛みはあるが、「だるさ」は内から奇妙な泡のようなものが、身体の穴から外に向かって浸み出していくような感じに近い。浸み出す過程の中で、少し筋肉の痛みに伴う張りのような、緊張と弛緩とが同時に出るような、そんな何ともいえない気分になっている。
考えてみれば、僕は「だるさ」も含めて、「痛み」、「吐き気」、「痒み」、等の身体に起こる幾つかの変化を言葉で語るとき、多少のとまどいを持って、上手く表現できないもどかしさの中でしていることを思い出す。体温計、血圧計などのスケールがあれば話は簡単かと言えば、どうもそうでもないように思う。人によって目安にばらつきがあると思うからだ。
身体が幻想的であると語る人は多い。僕もそれに同意する。
昔友人との雑談で、手鏡で女子高校生のスカートの中を覗こうとして捕まった大学教授の話をしたとき、友人は、男は女の身体に幻想を抱く、スカートの中にはパンツがあるだけだが、そんなこと誰もが解ってはいるが、スカートで隠されいる結果、そこにはある種の物語が隠されていると思うようだ、などと言っていたのを思い出す。勿論、破廉恥で反社会的な行為であることは間違いない。でも元々、痴漢とは「アホな男」と書くのであるし、そういう男は自分が造る幻想的世界と現実社会の区別が付かないのだろう。
ただ、女と男の身体が幻想的であるとは僕も思う。自分のことを「おじさん」と語る哲学者もいる。「少年」、「青年」、に続く「壮年」を「おじさん」と言うのかもしれないが、その線引きはあくまで恣意的だろう。間違いなく、その方は「おじさん」と語ることで、語る相手を限定していることになり、それを承知で半分冗句として言っていると思う。大人同士の語らいの中で、自分を「おじさん」と言う人はいないのは間違いない。「おじさん」ということで、自分を曖昧として、語る内容にある種の免罪符を手に入れている。ある意味上手い戦略かも知れない。
「だるさ」を言い訳にして、意味もなくだらだら書き連ねている僕が言うことではないのも間違いない。
2005年5月28日の日記 カットアウト
- Date
- 2005-05-28 (土)
- Category
- 日記
■結晶作用
スタンダールは恋愛論のなかで恋の初めに見られる不思議な現象として「結晶作用」をあげている。
『私が結晶作用というのは、つぎつぎに起こるあらゆる現象から、愛するものの新しい美点を発見する精神作用のことである』
(スタンダール「恋愛論」 訳:前川堅市)
恋する相手をみつめる、息を呑む美しさと切なさ、そして動作のひとつひとつから新たな美しさを発見し続ける。恋する者の家の近くを通るだけで、胸が高鳴り、ふと目を上げると、眼前に立ち我が身を見詰めているかのような錯覚にとらわれる。そうそれは、「マイフェアレディ」の中で「君住む街角」を歌うフレディの様に。
恋愛論を語るつもりではなく、結晶作用で思ったことを書きたいと思っただけなのだ。でもひとたび、この手の話になると筆に勢いが付きすぎて、何かを話してしまいそうになる。
以前に書いたかも知れないが、映画「ドクトルジバゴ」が恋人ララの為に、一晩寝ずに作り上げた一編の詩。あのジバゴは内なる結晶を言葉に紡ぎ出そうとしていた姿だったと思う。そして作り出された詩も結晶化されていた。
その美しい詩を読み、ララは「これが私?」とジバゴに言う。ララの一言は、この詩に書かれている姿は私ではない、と言いたかったのではない。恋人の胸の内に住む自分の姿に、愛を感じ取り感動したのだと僕は思う。
美しく、言葉を結晶化し紡いだテクストを読みたいと思う。論理的でなくてもよい、明晰でなくてもよい、日本語として美しくなくても良い。勿論それらがあることにこしたことはない。ただ、出来ればそれらの言葉は、行為と共にあるべきの様な気がしている。行為、もしくは行為する状況をつぶさに理解できるような、結晶化された言葉。
■今日群馬の友人の所で
今日、モータサイクルで群馬の友人の所まで行ってきた。高速を使えば片道2時間半。近いものだ。彼との話で、お互いに共通する友人の話題になった。その共通する友人は、ここ4?5年まったく音信不通となっている。便りのないことは無事な証拠として、忙しいのだと、気にもとめなかったが、今日行った群馬の彼は最近、その友人が4年前に語った言葉が気になるという。
4年前に、いきなりぶらりと尋ねてきて、話があるからお茶でも飲みに行こうと誘い、なんだろうと思って一緒に出かけると、普段の通りの雑談ばかり。ただ、最後に語った一言が妙に気になるというのだ。その言葉って?と聞き返すと。ありふれた言葉が返ってきた。
「おれはお前のそう言う所を、ずっと尊敬してきたんだ」
もっと大袈裟な言葉を期待していた僕は苦笑する。その苦笑する様を見て、彼は言う。あいつは滅多に人のことを誉めない奴だよな。うん、そうだ。
そのあいつが、俺を茶店にさそって、真面目な顔で別れ際に言ったんだぜ。その時はさほど気にならなかったけど、最近になって急に思い出し、それからは気になって仕方がない。でも電話をかけても音信不通だし。あいつの状況も別の所で聞いているので、電話を掛けづらさもあるし。
たしかに彼の言うとおりだ。話を聞いて、僕の心も妙にざわつき始めてきた。時折、共通の友人の姉さんから状況は聞いているので、それを彼に話すが、でも確かにその友人と直接話をしなくなってから随分とたつ。
散歩ゲーム
- Date
- 2005-05-21 (土)
- Category
- 日記
散歩ゲームを始める。
ルールは100歩毎に写真を撮ること。
この散歩ゲームはブログ「散歩絵、記憶箱の中身」のseedsbookさんから教わりました。できれば、最初にseedsbookさんの「散歩ゲーム」をご覧になって頂けましたら幸いです。その記事がいわば出発点です。
ゲーム開始
こんにちはAmehareです。図書館まで散歩します。
マンションの何かのオブジェ。ニワトリに見える・・・
花壇の花々、色が鮮やかすぎる
まっすぐ進み、車道を横切ったところにあった竹藪。残念なことに中には入れず。
そのまま進むと公園が・・・中に入る。この公園は昔大地主だった人の屋敷がある。中は結構広い。
屋敷の倉。中を覗いたら、農耕具がおいてあった。倉の紋所はどういう意味だろう。
公園を抜け出る手前にあった、巨大なお釜。五右衛門風呂だったのだろうか。このお釜、底に穴が空いている。それが何故だかとても良い。
空を見上げる。天気が良い。電線で仕切られる空。この電線の直線模様で仕切られる空に、しばしば面白みを持ってしまう。
細い路地を見つける。初めての道だ。引き寄せられるように、この道を選ぶ僕。
路地の途中にあった溜め桶。草木に毎日水を与えているのだろう。ヒシャクに人の温もりを感じる。
庭の中の神社。神道をなさっているのだろうか、それとも昔からの土地の鎮守様なのだろうか。
目の前の巨大なマンション。マンションが出来る前は、長く空き地で野良猫たちの王国だった。かつて王国の前では、門番のように、常に数匹の猫がたむろしていたのを思い出す。
マンションの前に立つ松の木とからまるアイビー。マンションより歴史が古い。
車止めの回転灯。
マンション前から横道に入る。壁の落書き。「DISK」とは何を表現したかったのだろう。
鏡に映る風景が好きだ。
まっすぐ歩く。T字路にぶつかる。方向指示通りに左折する。
花壇の花。色味が良かった。花の知識がないことが残念だ。
街の掲示板。沢山貼ってある。
進行方向に向かって左側にあった明神様。小高い丘になっていて、頂上に小さなほこらがあった。
玄関前の植え込み。穴が気になる。ポストだった。
少し歩いて左折する。そこは上水道の道。日差しが強い。日差しが強いと影も濃くなる。
上水道の道を少し歩き、右折。格子とアイビーとの色の組み合わせが綺麗だと思った。
家の跡地。何故だか、無性に入りたくなる。跡地は人の思い出の傷跡が残っている。それに惹かれるのかも知れない。危険な感性だと思う、でも惹かれる。
跡地から左折して少し歩くと、図書館に続く通りに出る。散歩はもう少し続く。
ゲーム終了
はじめてみると、seedsbookさんの言われる、「ヴィデオで散歩道を撮っても見えないものがこの写真と写真の間にある」の意味がよく分かる。面白かった。
散歩をする
散歩でほんの少し遠くへと足を伸ばすと、時折迷子になるときがある。当方としては、意識的に迷子になるので、それは迷子と言わないかも知れないが、そうやって道に迷う自分を愉しむ。
構わずに歩いていくと、急に見知った街路に出て驚くこともしばしばある。その驚きは一瞬で終わるが、頭の中で散歩の経路を反芻し何でこの道にぶつかるのかと、自分の方向感覚に疑問を持つことも多い。人に誇れるほど方向感覚が優れているとは思わないが、未知の街並みはそう言う感覚を失わせるのもあると思う。
それでいて、バイクなどで長距離を走っても道を失うことはない。その時は主要幹線を走っているので当たり前と言えば当たり前なのだが、近所で道に迷い、遠方で道を失わない事に少しだけ不思議でもある。
学生だった頃、母と一緒に近くに住む知人宅まで歩いたとき、僕が近道だと思う道のりを紹介したら、母から「お前は裏道ばかり歩いている。今後の人生を象徴しているようだ」などと言われた。「私は常に大通りを堂々と歩く」と言った母は、確かにそう言う人生を今でも過ごしている。僕はと言えば、散歩をすれば未だに裏道とか見知らぬ細道に入りたがる傾向があり良く道を失う、そして今まで生きてきた過程を考えれば、確かにあの母の言葉は正しかった様に思う。
実際に裏道人生を歩んでいるわけでなく、何とか普通の会社員なのではあるが、それでもやはり盤石な事は一切なく、不安定な危なさを自分の中に常に感じている。それはリストラ不安とか、企業における今後の人事面の動向とか、そういう社会的なことだけでなく、自分の内にあるものだ。自分としては母のあの言葉は忘れられない。
その母はいまから7年くらい前に突如に膵臓ガンと診断され2ヶ月の検診入院の後に摘出手術を行った。あの時、医者から事前に報告を受けた僕は、膵臓ガンの情報を集め母の今後に悲観的な思いを持っていった。人は何というか愛する者に死に近い宣告をする者なのか、などとすっかり自分が宣告者になる者だと思っていたので、その事について勝手に考え深刻になっていた。でも、一週間くらいして、医者の方から母と姉夫婦を含めた家族全員に状況説明をさらっと、それこそさらっとしたときには、実際に凄く驚いたものだった。現実的にそういうときにはどういう風に進んでいくのか少しも知らなかったのだから、「ああ、こんなにも簡単なんだ」などと力が抜けた。当の母は医者から状況を聞いても、内容をすっかり理解していなかったようだ。自分ではガンではないと思っていたし、それは退院しても変わらなかった。また、膵臓摘出手術がいかほど大変な手術であることも認識していなかった。全て楽観的に捉え、大丈夫だとの信念を持ち続けた母が、あの状況を脱し得たのかもしれない等と今では思っている。
このブログで母の話をするのは多分初めてのことかも知れない。僕は時折感じるのだが、男は母の話を語りづらい雰囲気が世の中にはあるように思う。それは最近の事件でも取りざたされているように、親の過保護とマザコン、特に男性はマザコンが多いとの風潮があるのを感じ、自ら言い出しづらい面があるのだ。僕自身は他人から一度もそう言うことを言われたことがないので、男性はマザコンが多いとの論評には少々うんざりする。その点女性はそういうものから解放されている様に見える。ついでに言うが、親不孝も自覚している。憎悪と愛情、嫌悪と好感、無視と尊重、侮蔑と尊敬、それらの感情の境界線の間を揺れずに親を見る事が出来る子供がいるとも思えない。親は子供が最初に相まみえる他者なのだと思う。
散歩をすると様々なことを考える。くだらなくどうでも良いことが多いのは承知しているが、様々な事が浮かんで考えながら歩くのは楽しい。でもその時僕は風景を見ていないのも事実だ。
母は風景を見ながら散歩するようだ。だから道を見失わないのかも知れない。
ランディさんの記事『「ほんとう」の呪い』
- Date
- 2005-05-14 (土)
- Category
- 日記
既に0時を過ぎているので、二日間ブログを書かなかったことになる。まぁこういう事もあるだろうし、それは別に良いのだが、ブログを始めてから多分初めてのことだと思う。
でも今週も終わり、やっと休みだ。明日は東京は曇りのち雨らしい。バイクが戻ってから休みが雨は困る。本当に困る。
久しぶりにランディさんのブログを読む。記事は、『「ほんとう」の呪い』。書く人だけあって言葉に敏感なようだ。記事にあったランディさんの彼の言葉が面白い。
『たとえば彼は「ほんとうにありがとうございました」という文章が嫌いだ、と言うのである。
「ありがとうに、ほんとうをつける必要はない。ありがとうとはすでに偽りない言葉なのだから、ありがとうにほんとうをつけたらありがとうに失礼である」』
(田口ランディブログ 「ほんとう」の呪い から引用)
面白いこと考えるなぁ、と一人感心する。ありがとうの先に「ほんとうに」と付けるのは、言う側の気持ちが「ありがとう」だけでは気が済まないからだと単純に思っていた。その場合、素直にその言葉を受け取れば良いのではないかなと思う。僕の場合それで一向に問題ない。
それに、別に言葉で薄まるのではないと僕は思う。僕などは「ほんとう」のオンパレードである。ランディさんは言葉に「ほんとう」をつけると、付けられた言葉は薄まると言うが、薄まてしまうのは「ほんとう」という言葉でなく、既に薄まっているから、人は「ほんとう」を付けるのでないかなと思ったりもする。そして薄めているのは誰だろう。まぁ、感じ方は人それぞれだから別に構わないが。
でも確かに「ほんとうの仕事」などと考えたことは一度もない。いつも目の前の仕事が大事だと思うし、それと同時にその仕事によって繋がる先を見るのも大事だと思う。これが本当の仕事か、等と考えること自体意味がない。それに答えるとすれば、それが本当の仕事としか言いようがない。逆に言えば、そう言うことを意識して仕事をしているわけでもない。
でもランディさんのブログを読めば、色々なことを考えているんだなぁと感心する。それはそれでとても為になっている。
2005年5月10日の日記
- Date
- 2005-05-10 (火)
- Category
- 日記
■バイクがないがない
バイクが戻って二日目。家の前の駐車スペースに置かれているバイクを見る。
この数ヶ月、そのスペースには「バイクがない」があった。しかしバイクが戻ってそこにあると、今度は逆に「バイクがない」がないに変わっているのが面白い。
■イギリス人の患者
帰宅時に駅の近くのブックオフで本を購入。「イギリス人の患者」が105円だった。映画にもなったこの作品、以前から読みたかった。映画は面白かったが、何処が面白かったのかと自分に問えば、それがよくわからない。しかも、再び見たくないという気持ちの方が強い。この自分にとっては正体不明の感想によって、逆に忘れられない映画ともなっている。だから映画でなく書籍が読みたかった。
■昨日記事の補足説明
昨日の記事「LOVELOGトラブルの行方」について、メモとして補足説明をする。
昨日の記事で結局言いたかったことは、企業一般の事とKDDI独自の事により、トラブル解決はそれなりに時間がかかるということだった。
トラブル対応といえどもコストはかかるわけで、担当者の方は大変だと思う。何故なら彼らには決済をもらう為の説得材料が乏しいと思うからだ。それは彼らのせいでなく、企業としての方針がKDDI側としてブログにないのが最も大きいと思う。ただ、携帯電話用のブログサービスを立ち上げることでもあり、この際設備的にLOVELOGとシェアする方向で動けば、良いのでないかなと愚考する。
auとシェアすることで、トラブル対応も従来よりは素早くなるだろうし、体制も現状よりはましになる様に思う。などと思うが、余計なお世話か。
■図書館での風景(その1)
2才くらいのお下げの女の子が階段を勢いよく下りてきて、僕の隣の長いすに座ろうとしたが、上手く座れずに椅子からころりと床に一回転した。
幸い何処もあたらず、ただころりと一回転しただけだが、間近でのことだったのでビックリした。
女の子は目が点になって、僕の顔を見る。目と目が合う。「大丈夫?」と聞くと、黙って顔全体で何度もうなずき「うん」という。良かったと思ったら、その子は階段ではなくエレベータで下りてきたお母さんを見つけ、「わーん」と泣きながら全力で駆けていき、ひしっとお母さんに抱きついた。そして抱きつきながら「いたいよー」と言っている。でもものの10秒も経たないうちに、けろっとして一緒に図書館の中に消えていった。可笑しくなった。
■図書館での風景(その2)
今度は女子高校生が3人、となりの長いすに座った。一人の子が携帯を気にしている。電波の受信状態が悪いというのだ。図書館は、ホール状になって1階から見下ろせるが地下にある。そこで、その子は階段の地階と1階の中央付近まで行った。そこは丁度階段ガラス越しに、地階から彼女の全身が見渡せる。残った二人のうち、一人が携帯チェックをしている彼女の丁度真下まで行こうとする。すかさず椅子に座っていた子が、階段の途中でメールチェックをしている子に声をかける。
「***、そこにいたらダメ、奧に行って」
真下に近づこうとした子が、長いすに座っているこのところに戻って聞く。
「なんでわかった?」
「私も同じ事考えたから。真下からみえそうだなって」
女の子同士でもそう言うことを考えるのかと、印象に残った。
全て隣の椅子での出来事。昼休み、会社近くの図書館での風景。
連休の終わり
- Date
- 2005-05-08 (日)
- Category
- 日記
とうとう連休も最後の日になってしまった。昨日バイク屋から連絡が入り、これから引き取りに行く。予想通りに連休には間に合わなかった
久しぶりのバイクなので、身体が慣れていないことを思えば、いきなりの長距離は難しいかも知れない、というか休みじゃないので行けないのもあるが・・・
連休中に読んだ書籍をメモしておく
・レヴィナスを読む 合田正人
読むのに少し時間がかかった。合田さんの文章は、なんというか詩的だな。
・近代の寓話 西脇順三郎
詩集に「読む」という動詞を使うことをためらう。詩集は詩の作品の集まりだけど、なんというか、そこには言葉しかない。今回久しぶりに通読して、彼の詩がなんかわかったような気がした。勿論わかった気になっただけだが・・・
・境界線の政治学 杉田敦
杉田敦の他の本も書店で立ち読みしたが、この本が一番面白いかも。どちらかと言えば政治理論書の入門書の位置づけか。全体的なインパクトが薄い様に思う。
・レヴィナスを読む サロモン・マルカ
今までに読んだレヴィナスについて語る本の中で、最も気に入った一冊。マルカはレヴィナスの知人で、学者ではなく、この本も評論でもない。でも一番レヴィナスの近くにいる印象を持った。思わず図書をアマゾンで購入してしまった。
・雑誌
現代思想 5月号 公共性を問う
下北沢問題をこの雑誌で知った。掲載している公共性問題の論文もそれなりだったが、一番読み物として面白かったのが、高祖岩三郎の連載物「ニューヨーク列伝 闘う情動の街角」。かなり面白かった。インスパイアされて書いた本ブログの記事多少在る。あと過去の現代思想を数冊拾い読みをする。
・西脇順三郎の小詩論数編
全集3巻目の中にある、初期の詩論を数編読んだ。これは時折、暇を見つけては拾い読みしている。彼の手紙が凄い。イメージの氾濫。言葉が純粋で美しい。「脳髄の日記」も読んだが、あれはあれで面白いが、感想を書く気力無し。
・現代社会の神話 ロランバトル
やっと全訳されたバトル初期の名作。これも拾い読みで、少しずつ読んでいる。寝る前に読むのが合っている。この書籍も欲しい、思案中
・テクストから遠く離れて 加藤典洋
これは再読。時折読み返す。性分としてテクスト論に偏る傾向がある。それを引き戻す意味で。
・お茶関連の書籍
読んでいるブログに影響され、再びお茶に気持ちが動いている。大学までは、僕はお茶しか飲まなかった。でも店で飲むお茶(特に紅茶)が不味く、珈琲を飲んでいるうちに、次第に珈琲だけになった。自分で造らなくなって久しい。結構お茶は研究したから、好きなことは好きなのだが。影響を受けて、やっぱお茶だなと思う単純な私。
ちなみに、茶道の経験は2年くらい在る。表千家だが、これは、和菓子を美味しく食べたいとの欲求から入門したのだけど。やってみて表千家の男手前は美しいと思った。茶道はやっぱ男の世界かな。
総じて言えばヘタレの毎日であった。読まずに積まれている書籍が心地良い。ジジックの「斜めから見る」まで行きたかった・・・
宛先のない手紙
拝啓
いかがお過ごしですか。僕は意外に元気で過ごしています。二匹いた家猫のうち、一匹が行方知れずになってしまいました。それ以外は特に変わりないです。
そういえば、先日警察署に行き盗難にあったバイクを引き取ってきました。そのままバイクの修理工場に直行で、現在組み立てと、丁度車検が切れていたので、車検の両方を一緒におこなっています。随分とお金がかかったと心配されている顔が浮かびます。でも大丈夫です。なんとか保険とかで、こちらが払う金額は少なくてすみそうです。
実は、ぎりぎりGWまでにバイクは元通りになると思っていたのですが、どうも間に合わなそうです。ということで、久しぶりのバイク無しのGWとなります。
間に合わなくなると思ったのは、ナンバープレートの再発行のさい、陸運局で未だに盗難バイク扱いになっていることがわかったときです。そのためにナンバープレートの再発行が出来ない状態です。警察からの返却連絡が陸運局に届いていないようなのです。
といっても図書館から読めそうもないくらいに沢山の本を借りてきているので、多分読書のGWになりそうな感じです。貴方はどんなGWを計画されていますか。
そういえば、警察署で分解されたバイクを前に、証拠写真を撮られたのですが、その際にどういう表情をしたらと良いのかわからなくて、本当に困ってしまいました。笑うわけにはいかないし、かといって怒るのもなんだし。かなり複雑な表情になっているように思えます。
考えてみたら、僕は写真を撮られるのが苦手で、学校などの記念写真では、いつも表情が途方に暮れた感じを出しています。それをみると、撮されるたびに、余計に自分の表情が気になり、どうもみっともよくありません。だから進んで撮す方になるんでしょう。それって、下戸がお酌専門になるのと同じですよね。
バイクが戻ると言うことで、実は年々の計画が今年も実行できるのだと喜んでいます。それは上高地訪問です。盗難にあったとき、まず考えたのが、「これで上高地に行けなくなるのか」、でした。
勿論GWにバイクが間に合っても、上高地に行くつもりはありません。逆にGWこそ、地元は人が少なく落ち着いた日々が過ごせるかも知れません。そう考えて、読書計画を考えています。
最近あいも変わらず嫌な事件が続きます。特に先日の列車脱線事故の凄惨さに驚きました。
貴方は感受性が強く、それが逆に人の悲しみに飲み込まれやすくなっているように思えます。確かに列車事故で、事故に遭われた方の顔が見えてくると、余計に身につまされてしまうものですよね。その気持ちもわかりますし、だから平静にって言うつもりもありません。心って難しいですから、流れるまま漂う時もあると思うのです。でも出来れば、漂っても最後は落ち着くところに戻って欲しいのです。老婆心ながら、それが僕からの精一杯のお願いです。
梅雨入る前、油断すると体調を崩してしまう事もありますので、くれぐれもご自愛していただきたくお願いします。そして、貴方の愛する人たちにもよろしくお伝え下さい。
敬具
心を込めて。 Amehare
田口ランディさんブログ記事「中道」を読んで
▼田口ランディさんのブログ記事「中道」を読んだ。面白かった。彼女の以前記事「反日デモ」が掲載されたとき、こういうテーマは苦手なんだよなぁ、という思いの中でろくに読まなかったが、「中道」を読んで読む気になった。
▼最近自分のブログ記事に毒がないなぁとしみじみ思う。まぁそんなことを考えて書くことはないけど、でも笑いの中で毒を出す文体は確かにあると想うし、そういう文体に憧れを持ってしまうが、いかにせん僕には果てしなく無理だ。じゃあ、逆に「善いこと」を全面に出しているかと言えば、勿論そんなこともないわけで、要するに、どっちつかずの中途半端と言うことかもしれない。ただ、僕はそう言うのも嫌いではない。
詩を書く
つくづく才能がないとおもう
だから笑止できる人にだけ公開します。
amehare
少し憂鬱
- Date
- 2005-03-28 (月)
- Category
- 日記
少し憂鬱である。その原因とかをなにやら話すこと自体愚痴モードになりそうで怖い。それに自分の仕事に対する出来事を本ブログに書くのも少しためらいもある。まぁ、でも書いてしまおう。その方が自分にとっては精神衛生上良いかもしれない。
人が憂鬱になるときはどういうときだろう。僕の場合、概ね面倒が眼前に在るときである。そしてその面倒を避けて通れぬ状況にあるときでもある。
あれこれと手順が想像できるが、その手順の1つ1つが面倒で適わない。えてして、こう言うときに憂鬱になる場合が多いのではないだろうか。少なくとも僕の場合は概ねそうだ。
その手順を行えば成功するのは分かっている。頭が良ければ、もう少し簡単で最小の手数を考えることが出来るかもしれないが、如何せん僕の知識と経験ではたかがしれている。
今回の憂鬱の内容は「ナレッジマネージメント」だ。会社員であれば一度は聞いたことがある単語だと思う。そんなに新しい考えではないし、どちらかと言えば言葉として使われすぎ、既に鮮度はかなり落ちている。
昼と夜の狭間

図書館に行く道程に高圧電線の鉄塔が立っている。
見慣れている風景。
このまま電線は公園を抜ける。
ただ僕はこの高圧電線がどこから来て何処に向かうのかを知らない。
疑問に思ったこともない。
見慣れた風景の中に埋没する素朴な疑問。
この鉄塔も住宅も、そして眼前の空き地も全て人が造った物。
それを覆うかのような黒い雲が低くせまる。
一抹の不安。
先ほどまで明るい光の中にあった家が、闇の中にとけ込む。
昼と夜の狭間は表象として存在しない。
昼は夜があり区別され、夜は昼により区別され、
その線引きは曖昧故に個人に委ねられる。
でも狭間は昼から夜への時間の流れの中に、
僕の中では確かにある。
最初に僕らが住む地表が闇に閉ざされる。
薄闇の中で、天空の蒼さを僕らは仰ぎ見、
夜の到来を不安、期待、焦り、安らぎの中で待つのだ。
テレビ三昧
- Date
- 2005-03-12 (土)
- Category
- 日記
夜は久しぶりのテレビ三昧だった。まず、19時からの「億万のココロ」、続けて「世界一受けたい授業」、「世紀の天才・ダビンチ最大の謎の暗号」、最後に「スマステ4」。
途切れることなく、面白さに釣られて見てしまった。あらかじめ予定していた訳ではないけど、面白かった。
最近のこういうテレビの番組構成って、なにかトレビア的な内容を、短くしかも沢山提示するみたいだ。だから飽きることなく、次は何と言う感じで最後まで見てしまった。でも、見終わった今となって、残っているものは実は少ない。
「世界一受けたい授業」では国語がテーマで、様々な問題が出た。でも内容は特に覚えていない。ダビンチの番組は話題のベストセラー「ダビンチ・コード」を元に作られていたけど、欧米の人ってキリスト絡みだとナーバスになるんだなぁ、という感想しか持たなかったし、スマステ4での日本人移民の話は、大変だったんだろうなぁが一番の感想。
次から次の番組から与えられる情報で、頭を整理する前に次の情報が来る感じで、感想まで浮かぶには至らず、先に感情がきてしまう。笑い、悲しくなり、文句を言い、と忙しかったかも。
でもまぁ、楽しかったのだから良しとしよう。
KDDI光プラスの販促DMが届いた
- Date
- 2005-02-20 (日)
- Category
- 日記
一昨日KDDIから「KDDI光プラス」への加入促進DMが届いた。KDDI光プラスで提供しているサービスは電話・ネット・TVの3つで、基本サービスとしてはネットサービスとなる。簡単に言えばKDDIのFTTHサービスと言うことだ。
その加入促進DMをみて、随分とFTTHも安くなったと思った。
それにADSLと違いNTT局と自宅との距離とかノイズの影響を受けないのが良い。しばし考える。問題はそれでも月額利用料が高くなる分との兼ね合いだろう。
で、結局時期尚早と見送ることにした。それでもいずれはFTTHに切り替えたいとは思っている。(たぶん・・・)
図書館からメールが届いた
- Date
- 2005-02-11 (金)
- Category
- 日記
▼図書館からメールが届いた。本の返却期限が過ぎているというのだ。そこには期限が過ぎた4冊の本が並んでいる。借りる期限は2週間。最初は2週間もあると思うけど、きてしまうと結構短い。しかもその中の何冊かは未だに読んでいない。図書館に問い合わせると、既に予約が入っているとのこと。後に続く人がいるから早々に返却しなければと少し焦る。
▼本を読む時間があっても、落ち着いて読む気持ちになれない。でも読む気持ちだけは十分にある。言っていることが矛盾しているかもしれないが、実際にそんな感じに近い。
▼読む時間が減ったのは、ブログで記事を書いている時間が増えたのと無縁ではないように思う。誰かの言葉だったか忘れたけど、最近の出版分野における不況の一因として、誰もがみんな本を書く側になろうとして、読む側が少なくなったのだそうだ。今の僕の状況はそれに近い様な気がする。
▼でもやはり才能があり、内容のある本を書ける人は、どんどんと前に進んでいって欲しい。生涯一読者の僕としては、その方が嬉しいというものだ。
▼ランディさんが作家になってから5年が過ぎたとのこと。実はもっと作家生活が長いと思っていた。作家になる前となった後では生活の変化はかなりの物だったに違いない。ランディさん自身はちっとも変わらないと思うけど、回りが変わった、もしくは変わったように見えたと思う。
▼作家は自分の考えていることを、世の中に公表する手段を得たと言うことだ。逆に何よりも職業として品質が要求される事にもなる。それは自分のブログで何かを書くのとは次元が違うと思う。品質を求められるのは、それぞれの仕事でも同じだと思うが、作家は書く内容にそれを期待されている。
▼以前は、会社員と作家、教授、弁護士などの職業は並列に並べることがなかった。今でも多少その気配は残ってはいるが、それでも昔に較べると殆どないに等しい。いつから同じになったのだろう。誰でも地位とかクラスとかレベルとかの高低を言わなくなった。言われなくなったのは、そんなに昔のことではない様に思う。
▼それは良い面も悪い面もあるかもしれない。まずは所謂知識人と言われる人達の言葉をみんな信じなくなったと言うこと。彼らにしてみれば、言ったところで何も変わらない、もしくは言うべき言葉が見つからない。
その代わりに、これからの進むべき方向は、各人がそれぞれの立場で考えなくてはいけなくなった。
▼そうなると各人が状況に応じて、その場の最適主義で決断し行動する事になっていく。うまく動くこともあるかもしれないが、長い目で見れば失敗することも多い。
▼そういえば、ランディさんの記事の中で、システムは人じゃないから責任を追求できないとNGOの方が言っていたとの記事があった。今から思うと、それはシステムの問題じゃなく、システムをどの様に造ってきたのかの過程の問題のような気もしてくる。
▼でも社会システムに責任が持てないのに、市民1人1人の自己責任を求められる社会ってどこかやはり変な気がする。別に自己責任を回避するつもりはないけど、やっぱし変だと思う。
バッドな日
- Date
- 2005-02-11 (金)
- Category
- 日記
▼ランディさんのブログを毎日読んでいる。ほぼ習慣化しているかもしれない。でも毎日読んでいると変な感覚に囚われる。その感覚は、動物園で虎とかライオンとかクマ等の動物を観察している感覚に近いかもしれない。時にランディさんの記事「バッドな日」を読んだときにそんな気持ちになった。
▼でもこれってランディさんに対して、もの凄く失礼なことなんだよなぁ。だから勿論この記事はトラバはしない。でも考えてみれば、ランディさんは自分の思いを晴らすために、書き続けているのかもしれない。だから「バッドな日」のような記事も書けてしまう。
▼勿論、悪い意味で言っているわけではない。何しろ僕はファンなのだから、ランディさんのやることは殆ど総て好意的に見てしまうのだ。逆に僕には間違いなく書けない記事だと思う。じゃあ、僕には「バッドな日」の記事のような時がないかと言えば、全くそんなことはないわけで、ただその事を書けないだけだ。
▼別に格好を付けているわけでも何でもない。それに、どんな記事でも読めば、在る程度のことを人は読み取ってしまう。実際に顔をあわせれば、隠してもその人の気持ちが伝わるのと同じだ。勿論顔を合わせる程ではないけど、少しはわかってしまう。
▼どこかのブログで、1つのブログにトラバをし続けるのはネットストーカーみたいなだと書いているのを読んだ。それはそのブログを書いている人自身に対して言っている内容だったけど、そんな風に考える人もいるんだなぁ、と妙に感心した。
▼でも僕が思うに、ストーカーとはちょっとは違う。多分ストーカーになり得るトラバというのは、それだけで書くのに凄いパワーを必要とする様な気がする。自分の欲望をトラバするブログに対して果たそうとするのだから、これってある意味凄い。今までにそういうトラバって見たこともない。よく聞くのは、スパムトラバとかスパムコメントくらいの物。
▼勿論実際のストーカーを認めているわけでは決してない。あくまで、ブログにおいてストーカー行為はあり得るのかという話にしか過ぎない。よく「荒れた」と聞くが、実際にブログのコメントで荒れた現場も見たことがある。あれはやる方は一種の「お祭り」としてやっていた印象を受ける。被害に遭われた方は大変だと思うが、ネットストーカーとは少し違うような気がする。うーん、やはりよくわからない・・・
▼まぁ、理解できないくらいが丁度良いのかもしれない。
海の底
青空に一本の白い線。見ればそこに「ひこうき」が飛んでいた。
雲1つない青空だ。冬の空は薄く、昼過ぎとはいえ、少し灰色が入っている。
そこには、まるで海面を走るボートのような航跡。
一瞬不思議な感覚に囚われる。
そうなのだ、僕は海の底で貝のように、殻を少し開けて、隙間から海面を見上げる。そこには一本の航跡がある。
僕はさらに目を凝らして眺める。「ひこうき」と僕との距離が縮まる。
写真を撮ろう。そう思った。
でもそう言うときに限ってカメラがない。
日曜の公園は人が多く、家族連れの晴れやかな笑い声が響く。気が付けば見上げているのは僕だけのようだ。
「ひこうき」は既に遙かに過ぎ去っている。
突然に航跡に向かって祈りたい衝動に駆られる。それは一瞬夜空の流れ星と同じ感覚になったのかもしれない。
そんな自分の姿に、どこかの海の底で貝達が航跡をみて祈りを捧げている姿を想像し、少しだけ笑う。
au携帯「A5509T」
伊勢旅行のスナップ4枚
思い立って伊勢に行ってきた。風が強く寒かったが、天気が良く、清々しい旅行を味わった。
夫婦岩では波が高く、波しぶきが通路にかかる。でも夫婦岩ではイメージとして静かな波は似合わない。そんな風に思う。
夫婦岩の優しい言葉の響きに似合わず、厳しい自然環境の中でじっくりと佇む姿をそこに見た。でもそれが夫婦と言う事なのかもしれない。
地球上を巡る「思い」
「電話の濃い思いを受け取った人は、中和させるためにさらに電話する。こうして、どんどん伝言ゲームのように、思いは拡散していく。人に伝播するほど、恨みも憎しみも悲しみも薄くなるのだろうか」
(田口ランディ「電話日」から引用)
▼本当に電話は集中する。昨夜の家がそうだった。それこそ矢継ぎ早に電話がなった。父の法要のこと、友人の近況報告、旅行の話、甥からの「今度遊びに行くよ」報告、等々。それを受け取るのは僕だけではないが、あの電話の呼び鈴だけでも気持ちがそわそわする時がある。
▼無論いつも電話の音に「そわそわ」するわけではなく、僕の心が妙に落ち着かないときに、電話の音に少し過敏に反応してしまうようだ。全く気にしない人もいるのかもしれないが、僕の場合そう言うときが月に1?2回はある様な気がする。そして、そう言う状態にいる日に限って、電話日になる様な気がする。実際はその逆だとは思うけど、そう思ってしまう。
▼電話に出てしまうと、どうってことがない。問題は「電話の音」なのかもしれない。そう思って、何度か音を換えてみた。今の音はビバルディの「春」、好きな音楽だ。でも「春」でさえ、やはり「そわそわ」は変わらない。
▼つまりは、音の問題ではなく「電話」そのものなのだ。電話は、かけてくる人の思いを相手に(つまりは僕に)伝えようとする。「そわそわ」するときの僕は、今日は家で落ち着いていたいと思う。ビバルディの「春」は、そんな僕のささやかな願いを、揺さぶる音として意識してしまう。
▼相手からの「思い」を受け取った僕は、自分の「憂さを晴らす」為に、誰かに受け取った「思い」を伝えることになる。
▼ランディさんの言うとおりだ。「思い」は確かに伝播すると想う。でも、その思いは薄まることはない様にも思える。「思い」は人を経由する毎に変換され、別な「思い」として増幅される場合もある。薄まらずに変質していく「思い」、それが電話線に乗って世界中を巡るような気がする。
▼以前に米国の学者が、見知らぬ国の見知らぬ人から何人で自分に繋がるかを試した。確か7人か8人くらいで、自分に繋がったそうだ。それを聞いたTVが実際に番組で実験をしたところ、果たしてその学者と同様の結果を得た。
▼つまりは、アフリカの行ったことのない国の、全く見知らぬ夫婦のいさかいで発した「思い」が、巡り巡って僕の所に変質した「思い」となって伝わったのかもしれない。ランディさんのブログ記事を読んで、そんな荒唐無稽な思いに馳せてしまった。
▼そう考えると「電話日」は、1つの良い結果として、世界中の個人の「憂さを晴らしている」事になる。伝播する「思い」の終端が何処にあるのか、僕には計り知れない。でももしかすると終端なんて何処にもないのかもしれない。一カ所に「思い」が蓄積されていくよりは、永遠に地球上をめぐっていて欲しいとも思う。
バイク窃盗団からの手紙
- Date
- 2005-01-23 (日)
- Category
- 日記
クリスマス
もうじきクリスマスですね。
皆様が素敵なクリスマスを迎えられますように^^
友人事務所のサイト構築
- Date
- 2004-12-02 (木)
- Category
- 日記
今年の春頃、友人の建築設計者の事務所がサイトを立ち上げたいと言うので、サイト構築の相談に乗った。彼がサイトのホスティングの会社を決め、その会社がホームページ作成も行うので、何回か僕も友人に付き添って話を聞いた。独自ドメインも取得し、あとは実際にサイトに載せる原稿を渡すだけどなった段階で友人も僕も急に本業(友人は勿論設計の仕事、僕は会社の仕事)が忙しくなり、しばらく間が空いてしまった。
天体望遠鏡が届く

DIONの月月倶楽部で申し込んでいたら、天体望遠鏡が当たったらしく、今日届いた。
結構ネットの懸賞って当たりやすいのかな?
そう言えば今までに何回か当たっている。
天体望遠鏡といっても勿論本格的な物では全くない。遊び程度。でも嬉しい。早速月でも見に行こうかな。
水の話
以前、家では井戸水を使っていた。今では水道も引いてるけど、それは近くにビルが建ち水脈と水質が変わったせいだった。
台風がやってくる
- Date
- 2004-10-09 (土)
- Category
- 日記

こんな記事があった。思わず笑ってしまった。余計なお世話だ(笑)
「日記つける人は不健康?」 日記をつける人は、つけない人に比べて不健康な人が多い?。こんな研究結果が英国心理学会で発表され、話題になっているという。(以下略、日刊スポーツより抜粋)
そこで日記をつける事にした。といっても僕は日記を続けた事がない。それを言うと、根気がないからだと人から言われ自分でもそう思っていたけど、ある時、父の日記を見たら姉の誕生少し前から始まる日記はちょうど三日間で終っていた。これを見たとき、根気以前にこれは遺伝なのだと自分の根気のなさのルーツをしり、少し安心した事があった。
何か本題とは全く関係ない話から始めている。本題でいきなり「日記をつける人は不健康!」とする事に抵抗があったからだけど、自分がそう思っていない題名は付けたくない気持ちも強かった。
台風がやってくる。今東京で降っている雨は秋雨前線の雨だそうだけど、昨日から降り続けている。しかしどうもいまいち頭がすっきりしない。明け方まで起きていたのも原因の一つだと思うけど、台風が近づいていることも原因の一つかもしれない、低気圧に弱いのだ昔から。こう言うときは何をしようか、家で猫と一緒に戯れていようか、いやいや、やっぱし日記を書こう!
昨日塾をやっている友人のAさんが、ペットの癒しについてその方面の方々を集めて講演会を開いて成功したと聞いた。Aさんは塾の他に心理学の研究もされているので、その副業の方でのお仕事だったらしい。そのAさんとペットの癒しについて話をした時に、「人によってそれほど癒しになるのだったら、逆にペットが亡くなったときの喪失感も強いのだと思うけど、その対処はどうするの?」と聞いたら「うーん」とうなっていた。やはりこれは本当に難しい問題なんだろう。僕にとって家の猫達がそうなったらどういう気持ちになるのだろうか?考えた事もないけど、自然のままが気持ちも身体も一番良いとは思っている。
とここまで書いたら、家の猫たちの事が気になった。探してみると2匹とも丸くなって寝ている。やはり猫たちも低気圧に弱いのかもしれない。それに根拠がない事だけど、雨の音と低気圧は眠りに関連性があるのかもしれない・・・・「うーん」やっぱし少し寝ようかな・・・・何か支離滅裂な内容になってしまったけど、これも低気圧の影響だと思ってご容赦勘弁。今回の台風は東日本直撃の中では過去最大規模との事。何事もなく通り過ぎて欲しいと思う。
写真は本文とは全く関係ないバイク。1949年のノートンの広告。登場しているバイクは「モーターサイクル・ダイアリーズ」のNorton500と同じ感じです。 ノスタルジックな感じがして、Nortonはこの広告で言いたかった、人とバイクの関係がわかるような気がします。これ以前のNortonの広告は戦争中と言う事もあってか、とても軍事色が強い感じがします。










東芝から発売するau携帯「A5509T」は、携帯端末機能の今後の方向性を示していると思う。勿論それは1つの方向性に過ぎないが、ニーズは間違いなくあるように思える。