音楽

Entries

aikoのアルバム「彼女」における一つの解釈

Date
2007-02-11 (日)
Category
memo | 日記 | 音楽

aikoのアルバム「彼女」を何回か聞いてみて、歌詞の曖昧さにも関わらず、 アルバムに含まれている曲に説得させられている自分に気が付く。それでは言葉で現してみようとすれば、それが全くうまくいかない。 このギャップはどこから来るのか、僕はアルバム「彼女」に収められている曲の何をどの部分をどういうふうに理解しているのだろう。 それがこの記事の出発点である。

まずアルバムタイトルの「彼女」からして曖昧である。「彼女」とは特定の彼女なのか、それとも不特定の彼女なのかがわからない。 しかも、アルバムに収められている曲の中で、「彼女」を示すタイトル曲はない。唯一歌詞の中で一曲だけ「彼女」が使われている。

勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように

「気付かれないように」と名付けられたこの曲は、おそらくアルバム「彼女」の中でもキーと思える曲でもある。 何故キー曲なのか、それは他の曲が「あなた」と「あたし」の語り合いの中で為されているのに対し、この曲だけが「あなた」と「あたし」 の他の第三者が登場するからである。以下、「気付かれないように」の解釈を中心にアルバム「彼女」を読み解こうと思う。

まずaikoの作詞はとても曖昧であり、それが解釈を拒んでいる。おそらく女性であれば、解釈など必要とせず、 ただ肌で実感できるモノなのだろう。僕はそのこと、つまり女性であれば実感できる歌詞であること、を想像できる。であるならば、 aikoの歌詞の中にあるのは男性になく女性にある「何か」と言うことになる。別に性差を強調するつもりもなく、 肌で実感できる男性もいるかも知れない。でも少なくとも僕はそのように思う。

「気付かれないように」を素朴に解釈すれば、以前につきあっていた男女が出会い、 一緒に街を歩きながら会話をしている情景を思い浮かぶ。「あたし」である女性は、「あなた」である男性の声を聞き泣きたくなる。 しかし泣きたくなる理由が、昔の恋人関係に戻れない悲しみなのか、久しぶりに出会えたことの喜びなのかが、自分でもわからない。

声を聞いて泣きそうになるけど 何故だか解らない
もう戻れない悲しみなのか出逢えた喜びなのか
気付かないように 気付かれないように

問題は次の箇所である。「気付かないように 気付かれないように」、「気付かれないように」のみであれば、 「あたし」が「あなた」を今でも好きなことを、「あなた」もしくは今の「彼女」に気付かれない気持ちが現れ理解しやすい。しかし、その前に 「気付かないように」が、誰に対してなのかが曖昧となる。おそらくそれは、前文の泣きたい理由が判明しないことに掛かっている。 「気付かないように」「気付かれないように」は「あたし」もしくは「あなた」と今の「彼女」、さらには「あたし」 を含む3人に対して向けられている。そして誰に向けられているのかにより、その内容も変わってくる。

しかし僕はこの曲で重要なキーワードはやはり「彼女」だと思う。

ジラールのいう<欲望の三角形>、あるいは<模倣的欲望>は、男女の愛が直接的・ 無媒介に生起するのではなくて、つねに間接的に触媒され、三角関係という迂路をたどることのグラフィックな顕現である。 愛の対象への欲望は、同じ対象を欲望する第三の人間の存在をまって初めて生じるのであって、わたしの欲望と思えるものは、その実、 他者の欲望(あるいはその模倣、反映)にほかならない。 (中略) ふたりいるところ、 かならず第三の人物がいる。2は3であって、 恋愛とは三角関係なくして生じない。
(「ユリイカ」 平成8年11月号 「ご主人を拝借」  大橋洋一 から引用)

ジラールのいう<欲望の三角形>とは、ルネ・ジラールの「欲望の現象学」からとなり、内容は上記の通りである。 「あたし」が「あなた」の今の「彼女」を意識していないはずはなく、逆に「彼女」の存在が、「あなた」への恋慕を増幅させる。「あたし」が 「あなた」に一番聞きたいことは無論「彼女」のことである。そして、「あなた」と「彼女」との間では「あたし」が不特定の「彼女」 の一人となる、そのことも「あたし」は気が付いている、しかし「気付きたくはない」のである。

「あたし」が「あなた」に向ける恋愛感情は、「彼女」を登場させることで際立たせている。 そしてそれは歌詞の中に「彼女」が入っていない曲に対しても、アルバムタイトルに「彼女」を用いることで、すべての曲に反映させている。 なんという才能だろうか。僕はただ恐れ入る。

もう一つ思うことは、aikoの歌詞の中で性を感じさせるのも「彼女」のみとなる。aikoが女性であるが故に、 「あたし」も女性で、恋愛感情を抱く「あなた」は男性であると、暗黙のうちに了解されている。それゆえに、突然の「彼女」 という言葉に僕は少し驚く。

勇気を出して笑って問いかけた 今の事 今の彼女
すごく好きだよと照れて髪を触る 昔のあなたを見た
気付かないように 気付かれないように

しかし、歌詞の中で「あたし」が女性であることは、作詞者がaikoであるため状況的に間違いないとは思うが、 「あなた」が男性であることを示すモノはなにもない。「あなた」は女性かも知れない。同性愛的な状況でもこの歌詞の解釈は可能となる。いや、 むしろ同性愛的な状況下の方が理解しやすくはないだろうか。例えば、「あたし」のことかもしれないが髪を触る仕草、そして指輪、 久しぶりに出会った状況。なによりも「あなた」と「あたし(女性)」のどちらが主体としても通じる歌詞の曖昧さ。「あなた」 が男性であるとしても問題はないが、女性と置き換えた方が僕にとってはさらに自然で、歌詞の曖昧さも少なくなるように思える。

同性愛的な解釈はアルバム「彼女」全体を通しても言えるかもしれない。 歌詞の曖昧さは解釈を拒んでいるのではなく、その視点での内容であることからくる曖昧さなのかもしれない。徐々にではあるが、 僕の耳にはそのような内容となって聞こえつつある。

Phllips Glassの音楽 「Einstein on the Beach」の「knee1」

Date
2007-02-03 (土)
Category
memo | 音楽

Einstein on the Beachフィリップス・グラスの音楽の情報量の多さに僕は耐えられなくなる。 それはひとつの拷問に近い状況に一瞬陥る。でも聴かずにはいられない。例えば「Einstein on the Beach」の 「knee1」、これはもう僕の感性では音楽と認められない。

僕の思考がネット上を駆け回り、その際に様々な思考、それも数十億規模の思考が僕の中に入り込み、 それらの情報を処理せずにはいられない状況、理由不明にも関わらず突然の焦燥、処理しきれず勝手に動き回る手足、 制御できない思考のうねりの中で、僕はただもがき続ける。それから逃れるにはストップボタンを押せばよい。でもそれが出来ない。

思考上の言語ゲームの中で革新的な人はいる、僕はそれに理解を示し受け入れることが出来る。 表象のゲームの中で衝撃的な視覚現象を創造する人もいる。でもいずれそれも慣れる。思考することと見ること、 それは同じ線分上にあるのかもしれない。強度はいずれ、さらなる強さを持つ何かによって変わられると思うのだ。でも聴くこと、 それに僕は慣れない。

グラスの反復は、単なる繰り返しではない。無限に繰り返されるように思えるフレーズも、一番目と二番目、さらには三番目・四番目・・・ ・とは違って聞こえるのである。音符という記号の組み合わせは同じだろう、でも僕の耳には違って聞こえる。突然に、ドゥルーズの 「反復とは差異」の言葉を思い出す。そうかも知れぬ。グラスの音楽の中で、僕は何かが閃く。そうなのだ、時折グラスの反復は、 僕の思考の波長と同調し、そこから何かが訪れる。その何かを期待して僕は彼の音楽を聴き続ける。

時には昔の話を by 加藤登紀子

Date
2006-07-12 (水)
Category
映画・TV | 音楽

宮崎駿監督作品の中で一番好きな作品が「紅の豚」である。監督の空に対する果てしない憧れとロマンチシズム。 おそらく主人公が人間であれば、これほど格好良く描くことは難しかったのではないかと思えてくる。見方にもよるが、 このアニメは好き嫌いがはっきりと出るかもしれない。僕自身がこのアニメが好きなのは、 ロマン主義的な傾向が僕の中に根強くあるからだと思う。

加藤登紀子作詞作曲の映画エンディング曲「時には昔の話を」は映画以上にその傾向が現れている。 誰かが映画とは痕跡の表出であると言っていたが、それであれば自己回帰する作品は映画とは言えない。それでも、常ではないが、 時としてそういう映画と歌を無性に見て聞きたくなるのである。

これから盛夏だというのに、今夜は既に秋の気配。時には煙草の紫煙の中で思いに耽るのも良いかもしれない。

高倉健さんの「南極のペンギン」を聞く

Date
2005-09-24 (土)
Category
愚考 | 文学・書籍 | 音楽


20050924935ddd17.jpg高倉健さんのエッセイCD「南極のペンギン」を図書館から借りてきて聞いた。朗読は高倉健さん、音楽は宇崎竜童さん。このCDは高倉健さんが制作し図書館に寄贈したと聞いた。だから非売品となる。何故高倉健さんはこのCDを制作し図書館に配布したのだろう。詳しい経緯は僕にはわからない、でもこのCDを聞けば、その理由が何となくわかる。

冒頭のエッセイ「アフリカの少年」で高倉健さんは砂嵐を身を屈めてやり過ごそうとしている少年を見て心の中で語りかける「夢を見ろよ」と。高倉健さんが乗る車を止めて少年を乗せるのは簡単だ、でもそれは少年の為にはならない。厳しい自然の中で砂嵐に耐えるすべを身をもって知らなければ、この地で生きるのは難しい、だから高倉健さんだけでなく現地の人も助けない。それで高倉健さんは心の中で語りかけるのだ。「夢を見ろよ」と。

正直言えば、僕はこのCDを聞いた当初、高倉健さんの声に張りが無いと感じ、これは途中で飽きてしまい、最後まで聞かないかもしれない、などと思った。でもそれは全く間違いであった。高倉健さんの表現力は素晴らしかった。どこか押さえた感がする高倉健さんの声は、この朗読でも感じることが出来る。押さえた感というのは、僕が発する言葉の裏に様々な思いを持っていることを感じたということでもある。

このエッセイ集を書くときに、高倉健さんは題材となったエッセイ一つ一つの記憶の中で、書き足りぬ思いと、書き過ぎることを抑える難しさ、を感じたと僕は思う。本では伝えられないことが沢山あり、それらは声であれば伝えることが出来る、高倉健さんはそう考えたのではないだろうか。CDにしたのは、流通の問題、コストの問題ではなく、おそらくそういった理由で、声でなくてはならなかったからど思うのだ。

人が話す言葉を聞くというのは、彼が書いた文章を読むこととは違う、と僕は思う。特に話す内容が自分の体験からくることであればなおさらであろう。語る言葉、トーン、強弱、間合い等から、語る人の意識を、読むときよりも強く感じ取ることが出来る、と僕は思う。そういう意味で、僕はCD「南極のペンギン」を通じて彼の意識を感じることができたようにも思う。
さらに高倉健さんの語りを遮ることなく、表現力をさらに伸ばしている宇崎竜童さんの音楽も素晴らしかった。

「夢をみろよ」と語りかけているのは「アフリカの少年」だけではない。この本を読み、もしくはこのCDを聞く人に語りかけているのである。さらにエッセイのなかで、「どんな土地にうまれるのか、どんな親に育てられるのか、誰にもわからない、子どもは何も選べず、ただうまれてくる。だが夢なら自由に見ることが出来る」と語っている。

高倉健さんが「アフリカの少年」に向かって言う「夢を見ろよ」は、厳しい自然の中で暮らしたとしても、その中で生きる術を取得するのは必要なことだが、ただそれだけでは人は生きていけない。そんなことを言っているのだと思うのだ。

少し前に子ども達の「夢」がより現実的になったとの、それが残念とも読み取れる記事が新聞に掲載されたのを思い出す。また「夢」は大きいほど良いとも聞くこともある。それらは僕が持っている考えとは少し違う。人はうまれた瞬間から自由に生き、自分がなりたいものになろうと努力する。その意識の具体的な姿が「夢」だと思う。だとすれば、「夢」は人が持っている本質的な欲望の一つであるのは間違いない。僕は多分死ぬその直前までそれを持ち続けることだろう。最後の願いは「もっと生きたい」ということで、元気な姿を夢見るのだろう。

「南極のペンギン」では多くの魅力的な人達(もしくはペンギン)が登場する。高倉健さんのまなざしは、「優しさ」という、見方によっては一段高い目線からではなく、共にこの地に生きる、一緒にがんばろう、といったそういう風に感じる。エッセイの中で、高倉健さんが涙を流す話がある。それはオーストラリアで撮影の合間に鞍をつけずに乗馬を試み、それによりホースメン達から認められた時である。その時彼はぼろぼろと涙をこぼす。お互いを認め合う心、それがお互いがなりたいものになる為の土俵とも言える、と僕は思う。高倉健さんのエッセイでは常にその姿勢を崩すことなく語られているように僕には思えた。だからこそ僕は「南極のペンギン」に共感したのかもしれない。

音楽のバトン

Date
2005-06-30 (木)
Category
web | 音楽

図書館員の愛弟子」のroeさんからMusical Batonがまわってきた。とても光栄でうれしい。そう思いながら、6月22日に受けて、だいぶ日にちが経ってしまった・・・

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

iPod用として6.42GB(1266曲)。PCでは全く音楽は聴かない。iPod用としてMP3ファイルに変換して保存しているのみ。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

"Heroes"Symphony by Philip Glass
こうやって文章を考えているときはPhilip Glassを聞くことが多い。"HEROES"はGlassの第4交響楽で、彼の交響楽の中では気に入っている。Glassの曲は聴くと心中穏やかならざる気持ちになる。その不安定さが逆にいろいろな事柄について発想を僕に与える。

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

GLENN GOULD 「...And Serenity」
GOULDに凝って何枚か買った。その中の一枚。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

1)「Bach The Goldberg Variations」 Glenn Gould
曲ではないのだが、1曲として扱っても許してくれると思う。本当によく聞く。Bachも大好きだし、Gouldも大好き。何かをしながらでも良いし、僕にとっては読書がすすむ、音量を低めにして静かにただ聞くだけでもとろけてしまいそうになる(笑)

2)「Forgetting」 Linda Ronstadt Philip Glass
「songs from liquid days」(Philip Glass)の一曲。Glassの曲は全般的に大好き。その中で一曲を選ぶこと自体難しいのだが、iPodの中で一番聴く回数多いこの曲を選んだ。Linda Ronstadtの歌声が素晴らしい。このアルバムは好みが分かれるところだと思うが、僕は面白いと思う。GlassのCDとして一番好きなのは、月並みだが「THE HOURS」。映画も好きだが、原作の邦訳「めぐりあう時間たち」を読み、映画は商業的に主題が少し偏り過ぎて造られたと思えた。そのほうがわかりやすいと言えばそれまでだが、やはり原作を読んでしまうとって感じがする。

3)「コーラルリーフ」Cocco
「サングローズ」の一曲。活動停止したときの最後のアルバム。Coccoの曲も全部好き。この曲を選んだのは、Coccoの曲の多くは沖縄への片方向の思いを語っているのだが、「コーラルリーフ」でなにか吹っ切れた感じを受けたから。彼女にとって沖縄は「沖縄」であり地理上の島の名称ではない。でもそれはあの沖縄だと感じる。勿論聴く側にとって、それは変わるのだろう。一時期夢中になって聴き続けた。僕にとって、Coccoが唄う「沖縄」は何に思えたのか、実は今ではよくわからない。

4)「Change Your Mind」 Neil Young
「Sleeps With Angels」の一曲。数多いNeil Youngのアルバムの中で一番好き。曲としてみれば、彼の曲で好きなのは多い。「Tonight's The Night 」、「Like A Hurricane」などなど。アルバムとしては「Mirrorball」とか、映画「デッドマン」のサントラも凄い。以前にNeil Youngの評伝ものを何冊か読んだ。その中で特に気に入った1冊があったが、最近無性に再読したくなり探したのだけど、どういうわけか見つからない。その代わりに、ロバートキャパの写真集なんかが出てきて、それをしばらく眺めていたら、もうどうでも良くなった。

5)「Estreila」Kitaro
5曲目が一番迷った。Mary Blackの「Wonderchild」もよく聴くし、Jackson Browneの「The late show」も名曲だと信じて疑わない・・・。J-POPではLOVE PSYCHEDELICOの「Last Smile」も好きだし。このジレンマを実は楽しんでいたりする。
でもiPodで聴いている回数からKitaroを選んだ。「Thinking of you」の一曲。このアルバムでKitaroは念願のグラミーをとるのだが、確かに良いアルバムだと思う。このアルバムか初期の「絲綢之道」か迷うところ。

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

・「今日が楽しく明日が楽しみ」のすなハハさん
・「ココロのポスト」のジャスパーさん
・「水色の空」のgrey_wagtailさん
・「庭子の部屋」の庭子さん
・「ほえほえぷに」のぷにさん

事前のご連絡もなしに選んでおります・・・いかがでしょうか。
勿論、パスでもかまいません、その時は無視してください(笑)
といっても、上記の方々がここまで読んでくれている保障はまったくないのですが(笑)
それから、僕は止めませんでしたけど、別に自分のところで止めても構わないです。僕としては皆さんが聞く音楽の話を聞きたいなぁっと軽い気持ちからです。

アートに関する「もやっ」とした思い

Date
2005-06-24 (金)
Category
memo | 愚考 | 文学・書籍 | 美術 | 音楽

杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読んだが、自分なりの感想が思いつかない。それ以前に、杉田敦とのアートに関する考え方の違いが、一つの想いとなって行ったり来たりしている。リヒター、グールド、ベルンハルトの3人の個別の論評が面白かっただけに、それが少し残念である。僕の読みが足りないのかもしれない、そんな気持ちにもなる。再読しようかと思う。

考え方の違いは、杉田敦氏がプラトンのイデア論を持ち出した時点から明確であった。彼はイデアを目的因として、それに隷属するアートをイメージしている。アートはアートとして自己回帰的にし、そこに物語を産み出すことを否定する。
確かにプラトンのイデア論は実念論として、時として批判されている。僕にとっては、竹田青嗣氏が語るように、イデアとは、共通了解事項としての本質であり、もしくは芸術家が個々に求める美である。だから、リヒター、グールド、ベルンハルトにしろ、彼らが思い浮かべるアートがあり、それをアートとして追求する、そこにイデアがあるのでないかと思うのだ。

『物語の死というポスト・モダニズムが目指してきた地点。アートは、そこに向かって牽引的な役割を果たしてきた。しかし、その役割を成し遂げつつあるいま、最後に自分自身のなかに巣食う物語を解体して姿を消さなくてはならない。アートは存在の理由を失い、いや存在理由として列挙されたものをすべてやり尽くし、死を迎えつつある』
(杉田敦「リヒター、グールド、ベルンハルト」から引用)

杉田氏の考えが導く先は、上記の通りに「アートの死」である事は必然だと思う。でもそこには大きな錯誤があるのでないだろうか。僕はまだアートは死んでいないと思う。死を迎えたのは、フランス思想としてのアートの死だけでないのだろうか。
そんなことを色々と考えてしまう。ただ、杉田氏の意見に対し反発する自分の論拠は、実は心もとない。

僕はなにゆえに反発するのだろう。ただ一つの意見として、杉田氏の考えを承認できない自分がそこにはいる。それは一つの情念に近いかもしれない。
忘れてしまったものは、アートがアートとして目指す本質のように思える。つまりアートが一つの思想の牽引車を任じてしまったことが、いや牽引車として引きうけてしまったアートだけが、その身を袋小路に陥らせてしまったように思えるのだ。でもそれ以上先へと言葉が続かない。頭の中では幾つもの考えが巡っているのに。

やはりこの本は再読しなければならない。

グレン・グールド雑感

Date
2005-06-15 (水)
Category
人物 | 文学・書籍 | 音楽

■グールドに興味が尽きない。『「草枕」変奏曲』(横田庄一郎)と『漱石とグールド』を読んだ。『漱石とグールド』は8人のグールドに関する評論を、しかも「草枕」を通じて、集めたものだ。特にその中で、グールドが漱石の「草枕」に傾倒した事実を早くに発表した、翻訳家のサダコ・グエン氏の文章があり、彼女の文章が読みたかった。横田さんの『「草枕」変奏曲』も面白かったが、サダコ・グエン氏を含めた8名の評論の方が、それぞれ個性的でより楽しめた。

■そういえば、グールドが百数十回も見た映画があるとかで、それが安部公房原作の「砂の女」だというので、正直驚いた。グールドの愛読書「草枕」といい、映画といい、日本のものに興味があったようだ。でもグエン氏が評論で言うように、グールドの演奏、もしくは解釈に東洋的なものは感じる事はできない。東洋的な憧れというより、もっと直接的にグールドの肌に合ったということなのかもしれない。

■安部公房の「砂の女」は僕にとっても印象的な作品である。高校時代に安部公房に僕は熱中していた。それは一種の格好付けの熱中でもあったかもしれないが、動機はどうあれ、「砂の女」は本当に面白かった。勿論映画も見た。勅使河原宏監督作品だが、監督を気にするよりも、岸田今日子の演技が印象的だった。しかし、百数十回も通してみる事は僕には出来ない。

■その他、「文藝別冊 グレン・グールド」も読んだ。2000年4月に出版したこの雑誌で一番面白かったのは、伊東乾さんの評論であった。その中で、伊東さんは、グールドが率先して活用したレコードが、現在のコンサートビジネスにおいて収益の一つの柱であり、その結果楽団に頻繁なる特定楽曲の演奏を強い、練習などの修練をする時間不足による、全体を見ての技術の低下があることを示唆していた。また、各登竜門としてのコンクールの発展も、このコンサートビジネスとともに発展してきたとも述べていた。音楽といえども、市場経済を背景にした、コピーによる低品質だが低価格の大量販売という、工場製品的な製造から逃れられないのは事実なのだとあらためて考えた。さらに、現在のデジタル編集技術では、売れる音楽へと、いかなる音楽も編集可能なのかもしれない、そうなると必要なのは、ブランド化した演奏家もしくは指揮者を造る事なのだと思い至った。これもグールドが先鞭をつけたことなのだが、彼にとっては自分の音楽を完璧にするためでもあったはずなのに、流れとしてはその逆に流れている様に少し思う。

■グールドがコンサートから撤退した理由、グールドに関する評論で様々に語られる理由はそれぞれに理解はできるが、どうも腑に落ちることが少ない。その中でも一番わかりやすかったのは、ある一人の演奏家の言葉だった。彼は逆にグールドが聴衆の反応に影響を受けやすかったのでは、と言っていた。彼は、「まじめに受け取らないでくださいよ」、と前置きをいれていたのだが、同じ演奏家としての言葉が、なんだかんだといっても一番グールドの気持ちに近いのではないかと思う。

■この演奏家の言葉は説得力があるが、やはりレコード技術の発達がなければグールドのコンサート撤退は実現不能だと思う。それは音の録音と編集の技術であり、コピーアンドペーストの技術といっても良いのかもしれない。

■グールドが撤退したコンサートとは、コンサートホールという場での聴衆と音楽家とのコミュニケーションであり、そこでは同一時間と同一空間を共有し合う。グールドにとっては、聴衆とのコミュニケーションは、自分の音楽を追求する上で不必要であったということだろう。コミュニケーションをとる場合、相手に対する配慮とか気遣いを人は意識せずに行っている。その結果、自分の意見を相手に受け入れられるように少し変える事もある。それが普通といえば普通の話ではあるが、グールドにとっては耐えられないことでもあったようだ。

■別の云い方をすれば、グールドは音楽に完璧を追求するために、不純物を削ぎ落としていったのだ。そしてその不純物の一つに、聴衆との直接のコミュニケーションがある。それはある意味、演奏家として、聴衆との会話の断絶を意味している様に僕は思っている。ではグールドは個人として友人・知人との会話も苦手だったかといえば、そうでもない。グールドはユーモアを交え楽しく明るい会話をする。少なくとも表面上はそうだったようだ。でも彼は、例えば彼の書簡・著作物で語る程は、自分の信念を会話において吐露している様には思えない。

■完璧を追求する時、人は孤独の中で、自己の思考の中で、それを求めるのかもしれない。完璧でなく、成熟もしくは円熟をグールドが求めたのであれば、多分コンサートとは決別する事はなかったと僕は思う。成熟もしくは円熟は人との会話の経験・体験を必要とすると思うからだ。

■実はグールドを考える時、僕の中では「会話の喪失」という状況に思い至るが、それらはまだうまく説明できない。まさにその点でグールドは僕と現在の社会を考えるときに繋がっているように感じる。

極上のソファーあるいはグレン・グールドの椅子

Date
2005-06-12 (日)
Category
人物 | 音楽

6年ほど前に僕は自分にとっての極上のソファーを探し続けた。ある1つのイメージが僕にはあった。それは僕にとっての理想のソファーだった。自分の読書専用のソファー。僕はそこに座り、時には包まれるように横たわり、本を読むのだ。ソファーと一体になり、僕自身を無くすのだ。そうすれば至福の読書をすることが出来る。

部屋の大きさからおけるサイズは自ずから限界がある。二人用の大きさ、所謂ラブチェアと呼ばれているサイズで少し大きめのソファ。構造は木枠フレームでがっしりしているもの。張り地は、出来れば牛革が良いのはわかるが、合成皮革を選択する。布張りは長期間の使用に不安を残すし、何より至福の読書をするためのソファーには布張りは似合わない。肘掛けは、横になったとき枕代わりであり、足を乗せる台になるので小さめが良い。なるべくソファーとの一体感を得るために、ロータイプは選ばない。ロータイプは部屋の環境に調和し、逆にそれが読書に没頭するために疎外になるように思うからだ。

しかし何よりも大事なことは、もちろんのこと、ソファーの座り心地にあるのは間違いない。そのために購入検討対象となるソファーには、店の方が嫌がる迄、長時間座り続ける必要がある。逆に言えば、それでソファー売り場の質というのが解る。短時間であれこれと説明をし続ける店員がいるところではソファーは買うことが出来ない。ブランドは最初から考えていなかった。それはなんというか、ソファーは個性的なものなのだ。自分に合うソファーというものが世の中には必ずひとつはある。それを見つけるには、ブランドは逆に選択する目を覆ってしまう事になる。だから、僕にとってはブランドは邪魔だと思った。

そうやって手に入れたのが、今の読書用のソファーである。ただ購入しただけでは、そのソファーは完璧とはいえない。あとは育てなければいけない。育てるために、まず自分が気に入ったソファーを購入する所から始まるのだ。「本を読む」という行為は、環境を必要とする。環境はその人の身体がそこに受け容れられることから始まるような気がする。違和感がある環境の元では「本を読む」こと自体難しい。その環境として、自宅で本を読む場所としてのソファー、勿論それは必ず読書はそのソファーですべきと言う話ではなく、選択肢としての場所のひとつでもあるのだが、それらインテリアを「本を読む」という行為を基準にして選択すること、それが僕にとっては何かひとつのまとまりをもった、自分の空間を作ることでもあるような気がしている。

カナダの演奏芸術家グレン・グールドには愛用の椅子があった。それは彼の父親が造り息子に与えたものだった。グールドにとってピアノを演奏すると言うことは、ピアノと一体になることだったと思う。まさに演奏するための機械になること。それはバッハを演奏する際に、バッハ?グールド?ピアノの連鎖の中で、出来るだけグールドをなくし、バッハ?ピアノに持っていくことでもあった。そのために必要だったのが父親が造った椅子であった。その椅子がなければグールドはピアノを演奏することは出来なかった。

写真集「グレン・グールド写真による組曲」では、様々なグールドを見ることが出来るが、最後に掲載していた写真は「グールドの椅子」であった。もしくは、CD「アンド セレニティ」では、彼が音楽に求めたのは絶えざる響きとおだやかな心として選曲しているが、CDを取ったときに現れる画像も「グールドの椅子」であった。まるでその椅子は、1982年に脳卒中で亡くなったのはグールドの体だけであり、あくまで精神はそこに顕在しているかのように、そう、まるで真のグールドのように写っていたのだった。つまり僕にとっては、グールドの椅子は象徴ではなく、変なことを言うが、グールドそのものの様な錯覚に囚われているのだ。

極上のソファーを探し回った僕は、グレン・グールドとは較べることさえできない凡人であるが、グールドが何故その椅子にこだわり続けたのかが、なんとなくだけど理解できる。身体が触れるもの、たとえばそれはパソコンのキーボードだったりマウスだったりも含めて、それらはまさに触れることで、単なる物質的なものから自分の身体の一部になると思う。身体は慣れるという。それは間違いないと僕は実感する。慣れるのであれば、それらを選ぶ必要はないのかも知れない。でも無理矢理に身体を慣らしてまで受け容れる必要性も僕に感じられない。

自分にとって極上のソファーは、まず慣れるという点で、既に自分の身体が自発的に受け容れている。あとはそこで数多くの書籍に出会う体験を得ることなのだ。そうすることで、ソファーは育てることが出来る。書籍1冊1冊の記憶と思い出によって。

グレングールド著作集で見つけた謎の紙片

Date
2005-06-10 (金)
Category
memo | 人物 | 写真 | 文学・書籍 | | 音楽


200506109a2dbea0.JPG

図書館から本を借りたとき、その本に赤ペンで線引きがされていたり、思いつくままの言葉が書き込まれていたり、マーカがついていたりと、前回もしくはそれ以前に借りた人の痕跡が残っている時がある。図書館の書籍なので、それは様々な方の手から手に伝わっているのは間違いないが、それらが頁をめくるその刹那に眼にはいると、本の内容から少し離れ、その方の思いを僕の目を通して伝わってしまうのだ。以前に読まれた方の思いが伝わる。その形は様々だ、赤ペンで線引きをされた人は、その箇所をどういう思いで読み取ったのであろうかとか、頁の隅に書き込まれた言葉は一体何を伝えたかったのだろうかとか、そんな事だ。

ある時は、「日本の巨樹」という図鑑のある頁に、鉛筆で「後で連絡すること」と走り書きがされてあった。栃木の日光街道の杉並木のあたりだったと思う。書き込んだ人は日光街道の杉並木の写真を見ているときに、何かを思い出したのかも知れない。そんな想像をする。

今回借りた「グレン・グールド著作集2」(みすず書房)には、今までにない痕跡が残っていた。それは本ブログの写真として掲載したので見て欲しいが、横10cm・縦14cmの紙片に書き込まれた謎の絵柄である。グレン・グールド著作集の頁220と221の間に栞の様にして挟まっていた。その箇所は「音楽としてのラジオ」というタイトルで、グレン・グールドがラジオでの活動をしていたときのインタビュー記事の所であった。

紙片は栞として挟み込んだのか、もしくはわざとなのか、僕にはまったく解らない。また、紙片に書き込まれている内容も、単なる落書きなのか、もしくは何らかの意味があるのかも不明だ。そんなに突っ込んで考えることはしない質だが、面白いので少し興味がわく。書いた人の思いを想像する。その中でこの紙片は、彼(彼女)がグレン・グールドに思いを馳せる際に湧き出たアイデアのイメージとして現れる。そのアイデアは、この絵、しかも点対象で描かれるべき、ものだったのだろう。中の絵は人の顔の部分だと思う。「見る」と「語る」、「嗅ぐ」と「すぼむ」だろうか。それらは相互に関連している。様々な事柄が現れては消える。もしこれがわざとであれば、僕は見事に彼の術中にはまってしまったことになるのだろう。

丁度その謎の栞が示していた頁で、グレン・グールドは彼のドキュメント番組「北の理念」を通じて、モノラル放送とステレオ放送の技術的な長所短所を語っている。このインタビューのグレン・グールドはさながら優秀なプロデューサーの印象を受ける。
今読んでいるトーマス・ベルンハルトの小説「破滅者」で描かれているグレン・グールドは音楽そのものの存在として描かれていた。「破滅者」は小説なので、現実に存在したグレン・グールドとはまったく違うかも知れない。ただ、読み始めたばかりではあるが、僕はこの小説に、正確にはベルンハルトの小説に圧倒され続けている。この小説については読後感想は無理だと思う。読んだその都度僕は感想をメモしていきたい。

バッハの自筆楽譜がドイツのワイマールの図書館で見つかったと新聞報道していた。バッハ関連のことなので思わず新聞記事に目がいく。勿論、世の中の出来事は偶然で起きているのは間違いない。ただ、このような記事に、ベルンハルトの小説に、そしてグールド著作集にはさまれていた謎の栞に、僕自身が出会うのは、現実に客観に存在する世界への僕の見方が、大袈裟でなく以前とは少し変質している、そんな気がしている。

グレン・グールド、はじめのいっぽ

Date
2005-06-07 (火)
Category
web | 人物 | 音楽 | 音楽

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。
また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。
『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』
バッハ?演奏者?聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。
勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。
でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。

グレン・グールド、はじめのいっぽ

Date
2005-06-07 (火)
Category
web | 人物 | 音楽 | 音楽

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。
また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。
『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』
バッハ?演奏者?聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。
勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。
でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。

阪神大震災から10年目、河島英五の唄

Date
2005-01-17 (月)
Category
音楽

2005011727bb0f40.png産経新聞に毎日連載している記事に「凛として」がある。既に亡くなられた著名人をエピソードを中心に、その人となりを紹介している。今連載している人は「河島英五」だ。その中で、彼が「復興の詩」を始めるに至った話が出ていたので、少し紹介します。

Continue reading

iPod Shuffleは売れるか?

Date
2005-01-13 (木)
Category
ビジネス | 音楽


200501137d401bc8.JPG今年のMacworldで「iPod shuffle」が新たに発表された。(アップルサイトでの紹介はここ

「Apple Computerは米国時間11日、大方の予想通り、高い人気を誇る同社の携帯音楽プレイヤー、iPodの新バージョンを発表した。iPod shuffleという名前のこの新製品には2つのモデルがあり、99ドルのモデルには約120曲の楽曲を、また149ドルのモデルには240曲をそれぞれ保存できる。 」(CNET.com

Continue reading

ニールヤングからのとりとめない話

Date
2004-12-12 (日)
Category
映画・TV | 音楽

20041212969ad13e.jpgニールヤングが大好きだ。自分がどのくらい彼のCDを持っているのか試しに調べてみた。そしたら17枚のCDが出てきた。自分でもビックリした。そのCD一枚一枚を見てみるまでもなく、実はヤングと同じ時間の中で聞いた曲は一曲もない。全部後から購入した物ばかり。ヤングを聞き始めたきっかけはパールジャムから。パールジャムと競演した「ミラーボール」が何とも素晴らしかった。その時にパールジャムが何となく萎縮して演じている感じがして、逆にヤングが目立ってしょうがなかった。「何だこれー、ニールヤング凄い!」これが始まり。だからかなり遅れてきたファンと言ってもいい。まぁいつもの事ですけど。

Continue reading

朝日新聞のコピーコントロールCD総括記事

Date
2004-12-05 (日)
Category
ビジネス | 音楽


200412059d2e10bd.jpgasahi.comの記事「コピーコントロールCDを徹底的に総括する 」を読んで、あらためて音楽著作権協会と利用者およびアーティスト達との溝の大きさ深さに驚いた。

Continue reading

「SING A SONG」を聴いて

Date
2004-11-27 (土)
Category
memo | 音楽

「SING A SONG ?NO MUSIC,NO LOVE LIFE?」を聞いて不覚にも涙を流してしまった。Coccoの曲を聴いてこんな事後にも先にもない。僕の気持ちが不安定だったこともあるかもしれない。それにこの曲はCoccoの曲の中でも最もチャーミングな曲の1つだし、およそ「泣く」とは無関係な位置にあるのに。なんで僕はこんなに気持ちが揺さぶられたのだろう。

以前、このブログでこの曲の事を書いた。もともとこの曲は歌詞が英語だったのを、くるりの岸田さんが編曲し、Coccoが歌詞を日本語にして、タワーレコードの日本25周年記念テーマソングとして新発売した。
以前の記事の中で僕はこの曲を単純に和訳しただけの曲だろうと思ってた。だから拙い和訳を載せ、発売した時の実際の歌詞を較べるのも面白いと思っていた。これは一種の遊びだったし、僕はCoccoの歌詞が単純な訳でないだろうとも思ってもいた。
でもここまで違うとは思ってもいなかった・・・
僕は今回の遊びで、当たり前の事を再び味わった、それは歌は詞だけでなく音も含めて総合的なものであるということ。僕が感動したのは岸田さんの編曲が素晴らしかったかもしれない、それもあると思うが、編曲もこの曲を1つの方向に向かわせる要素に過ぎないと思う。そう言う当たり前の事を無視して、歌詞を独立させて考えていた僕は愚かだった。

絵本の付録CDを別として、この曲はタワーレコード限定発売という枠があるが、Coccoの久しぶりの新曲と言っても良いと思う。その久しぶりの曲に「SING A SONG ?NO MUSIC,NO LOVE LIFE?」を選んだこと、そしてCoccoでなく「こっこちゃんとしげるくん」とした事には意味があると思うが、それらはこの曲を聴けば一目瞭然ならぬ一聴瞭然だ。

僕はこの曲を聴いて大袈裟でなく、僕のある部分が「癒され」そして「救われた」様に感じた。「何を」癒され、「何に」救われたのか。その「何」を考える事が僕の感想となるのだろう。そしてそれが僕にとってのこの曲が総合的に向かっている方向でもあると思う。

この曲の全ての要素が総合的に向かっている方向は、全ての音楽がそうであるように、この曲を聴いた人が感じる様々な事で良いと思う。それに僕がここでこの曲の感想を書くこと自体無意味だと思うほど、僕の思考は停止している。多分この曲を聴いて感じたことは、別の記事で表に現れるような感じがする。それまではこの曲にどっぷりと浸っていたい。

ボーダフォンの音楽ダウンロードサービス

Date
2004-11-18 (木)
Category
音楽


2004111883967c58.jpgボーダフォンは米国時間10日、世界13カ国で3Gサービスの提供を開始した。3Gサービスの中には音楽のダウンロードサービスも含まれている。現在日本での展開は未定だが、ターゲットとする国の中に日本がはいっているので、いずれサービスが開始する可能性は高いと考える。(関連記事)

Continue reading

Coccoの新譜

Date
2004-11-09 (火)
Category
音楽


2004110917c70810.gif今日CoccoのCDが届いた。絵本「南の島の恋の歌」を購入すると買うことが出来るシングルCDを申し込んでいたのだ。シングルCDの中には2曲(ガーネット/セレストブルー)入っている。久しぶりのCoccoの新曲と言うだけで嬉しい。それに、「ガーネット」って名曲?って感じがするくらい好きになった。

Continue reading

フィリップ・グラス

Date
2004-11-02 (火)
Category
人物 | 音楽

20041102663d35c3.jpg「めぐりあう時間たち」を知ることによりフィリップグラスを知り得たことは僕にとってはとても大きい。「めぐりあう時間たち」を筆頭に、数多くのグラスの音楽を聴いている。

僕にとって幸いなことに、最近(多分映画の影響だと思うけど)、グラスの曲が初期のものを含めてCDが多く売り出されたことだ。しかも比較的安い(アルバム1枚が1500から1800円くらい)。

最初、渋谷のタワーレコードでグラスのCDがどこにあるのか探すのに苦労した。初めから係の人に聞けば問題はなかったのだけど、始めて聴いた曲が映画音楽なので、イージーリスニングか、ポップ音楽のコーナーだと思いこんでいたからだ。探しても見つからなかったので、係の人に聞いたらクラシックの現代音楽コーナーだとのこと。クラシック扱いになっているのに驚いた。でも今では彼の経歴を含めて知っているので、それが自然だと思っている。

渋谷タワーレコードの現代音楽コーナーの隣には、バッハコーナーが置かれていたのには、なにか面白さを感じた。それと同時に、「めぐりあう時間たち」の原作者マイケル・カニンガムの話を思い出した。
彼に言わせると、仮に宇宙人がいて、その宇宙人に地球人の事を理解してもらう為には、小説ではなく、絵画でもなく、音楽が最適だと言っていた。しかも彼は音楽の中でもバッハを差し出すと言っていた。このコメントに僕は素直に同意をする。
勿論カニンガムはグラスの曲も好きで、本の執筆中は音楽を聴きながら行うとの事だが、その音楽の中にグラスの曲も入っていると言っていた。

グラスの曲を聴いてみると、彼の意見はお世辞でも何でもなく実際の話だと実感する。つまり、グラスの曲にはなにかしらイメージを喚起させる力があると思うのだ。身体ではなく心が動く音楽、その心は安定の方向でなく何かを生み出す方向に動いている。一言で言えばそんな感じがする。

今日グラスのCDを3枚買ってきた。「コヤニスカッティ」「ポワカッティ」「ナコイカッツィ」のカッティ3部作と呼ばれるグラスの代表的な映画音楽だ。ちなみに全てアメリカ先住民ホピ族の言葉で、コヤニスカッティは「バランスを失った世界」、ポワカッティは「自己の繁栄のために他人の生命力を食い物にする生き方」、ナコイカッツィは「お互いに殺し合う生活」の意味とのこと。この三作はゴッドフリー・レッジョ監督の映画で、かなりの話題を呼んだらしい。でも僕はまだ観てはいない。
音楽だけでも、イメージが溢れていて凄いと思うのに、それに映像が加わった時を考えると、正直言って受ける影響が怖い。それが観るのをためらわせている。

僕にとってグラスは好みに合うが、嫌な人も多いような気がする。音楽は嗜好性があるので、どの音楽に対しても、人によって好みが別れるところとは思うが、グラスの場合特にその傾向があるような気がする。それだけ個性が強い音楽だと思う。

今日行き帰りに「ナコイカッツィ」を聞き続けた。特に好みは2曲目「Primacy of number」テンポの良い曲だ。何かが疾走している様をイメージできる。ヨーヨーマのチェロも素晴らしい。

良い音楽は時代を超える力があるから、そこに古いも新しいもないと思う。グラスを知ったのは人から見ると、今更と言われるかもしれないが、バッハだって現代の人は全員後から聞いているのだ。古い新しいを接頭語に付ける音楽は多分そこまでの音楽だと言うことになる。まぁ、それはそれで時代を現していると言えばそれまでの話だけど。

南の島の恋の歌

Date
2004-10-27 (水)
Category
文学・書籍 | 音楽

200410270caf62af.jpg

既に本年8月15日に発売していたCoccoの絵本「南の島の恋の歌」を昨日買ってきた。

実を言うと不覚にも発売を全く知らなかったのが本当の話。知っていたらもっと前に買っていたと思う。この本を買うとCoccoのCdを別途買う事が出来るのも購入の大きなポイントになった。いまからCDが届くのが楽しみ。

Coccoの絵本はこれで2作目になる。絵がとっても綺麗だけど、何か生々しさが残る感じの絵だと思う。生々しさと言うと悪い印象を受けると思うけど、そう言うのではなくて、Coccoの歌がそのまま絵になったという感じが一番近いかもしれない。

ああ、Coccoは絵を描いても、やはりCoccoなんだなと思ったのが僕の素直な感想だった。
もう一つ思った事がある。Coccoは人魚の視点で南の島(沖縄)を見ていたのではないだろうか、と言う事。

人魚は海をすみかにしているので、陸(沖縄)にはあがれない。陸に住む僕等とは異世界の生き物だ。当然に視点も違ってくる。人魚が陸の人間を好きになるアンデルセンの「人魚姫」の物語は、恋を得るために人魚は大きな代償を支払う。口がきけないのだ。その結果好きだった人は別の人と結婚する。

その時の人魚の心情をCoccoの「あなたへの月」の歌詞に見るとしたら、それは考えすぎだろうか?

「あなたが忘れ去った夜空 私が呼んだ雨雲 そして知ることはないでしょう 今もあなたの頭上 高く高く 流れた 宇宙(おそら)は天の川に溺れて」

この「あなたへの月」のイメージは、最初の絵本「南の島の星の砂」に似ている気がする。
人魚は泡となり海に戻る。Coccoの「遺書。」の中の死では「灰」になるのであるが、海に戻る事には変わりはない。

「そして灰になった  この体を  両手に抱いて、  風に乗せて  あの海へと  返して下さい。」

人魚とCoccoの事については、もっと考えてみたいと思う。今回は絵本を買って、読んでみたときに、Coccoは人魚なのでは?と思った事を書いてみた。でも、もし僕のイメージに近かったとしたら、Coccoはまだ沖縄には上がる事が出来ず、周辺の海で切ない思いを抱いている事になる。それはそれで少し悲しい。

追記:人魚の話と言えば、僕が一番心に残っているのは、小川未明作「赤い蝋燭と人魚」だ。冒頭の書き出しから引き込まれる。

「人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります」
 

The Hours

Date
2004-10-25 (月)
Category
音楽


041025_0152~01.jpg

借りてきて、iPodで聞いてます。フィリップ・グラスは良いですね。
彼の音楽を聴いていると、気持ちが落ち着くと言った感じではなくて、何か次から次へとイメージが産まれてくるって感じです。
主旋律が繰り返す音楽です。こういうタイプの音楽は、ボレロとかホルスト「惑星」を含めて、結構好きです。

携帯はiPodを超えられない

Date
2004-10-16 (土)
Category
ビジネス | 音楽

携帯に様々な機能が付く事は利用者としては嬉しい事だと思う。選択肢が広がるし、その中で使いたい機能だけを使えば良いと思うからだ。その立場にたてば、今回の「EZ着うたフル」のサービスに対し僕がこんなにもこだわる必要はないのかもしれない。サービスを受けたい人が受ければ良いし、失敗しても利用者には痛くも痒くもない。

本サービスが1X WINとダブル定額の新規獲得の為の位置づけである事は間違いないと思う。またiPodがPC所有が前提である事を考えれば、本音楽利用の期待値はPCは持ってないが携帯は持っている層となり、それなりの利用者数を確保できるかもしれない。

でも現段階では携帯は決してメインの携帯音楽プレイヤーにはなり得ないと思う。それは人は最新音楽ばかりを追い求めているわけではないからだ。心に残り好きな音楽は既にCDとして、もしくはMDにして聞いている事だろう。そして新旧織り交ぜて音楽を楽しんでいると思う。これはコーディックとか著作権保護とかの問題ではない。音楽の持つ情緒面の問題なのだと思う。
ある新曲は携帯電話で、自分の好きな曲はMDかCDでと人は使いこなすであろうか?僕はそうは思わない、人は出来るだけ途切れることなく好きな音楽を聴き続けたいと思う。そういう情緒面をKDDI側は考えてくれていないように思えるのだ。

米国ではiPodに収納した音楽のプレイリスト自慢があると聞いた事がある。iPodの場合、途切れることなく自分の好きな音楽を聞く事が出来る。だからこそプレイリスト自慢がはやると思うし、iPodがメイン携帯音楽プレイヤーになり得ていると思う。音楽をビジネスとして捉える事は別に良いけど、音楽の情緒面を考慮しない限り音楽はビジネス面でも成功しないと思う。

iPodの場合、利用者の好みに合わせてコーディックもレートも変える事が出来る(元々Appleの標準MP3レートは160kbpsである)。iPodは何故大容量のHDDタイプとなったのかは上記の通りだと思う。

「携帯はiPodを超える」?auが狙う音楽配信ビジネス
KDDI社長小野寺氏は、着うたフルは人を感動させるクオリティを持つとして、auは「感動ケータイ」を目指すとコメント。「auは感動ケータイへ。これからも進化を続ける」とうたった。
ITmediaより抜粋

こうして考えてみると、僕が「EZ着うたフル」にこだわる理由が見えてきた。僕はこのサービスに対してこだわりがあるのではなく、音楽の持つ情緒面を理解することなくサービス化しようとするビジネスマン達に対して憤りを感じているのだと思う。そう言う目で見ると、小野寺社長のいう「感動ケータイ」も陳腐な響きに聞こえてくるから不思議だ

EZ「着うたフル」 ケータイが音楽プレーヤーに

Date
2004-10-14 (木)
Category
ビジネス | 音楽

20041014dd6b196f.jpg

KDDIは2004年11月下旬から音楽配信サービス EZ「着うたフル」を開始すると発表した。「着うたフル」のサービスは、1楽曲を全てダウンロードする配信サービスで、「HE AAC」コーディックでの高音質楽曲を1曲数百円で提供するというもの。またこのサービスに対応した新携帯電話を4機種発売する。


同様にKDDIはこのサービスに対応した携帯向け音楽ポータルサイト「EZ Music!」を新たに立ち上げる。このサイトでは「着うたフル」の楽曲販売(現在提供している「EZ FM」と連携しての購入も可能)と共に通信会社として初めて通常の音楽CDも販売するとの事だった。
詳細はKDDIニュースリリース参照

本サービスが同社が提供する最大2.4Mbpsの通信速度とパケット通信料定額サービス「ダブル定額」を前提にしているのは間違いない。同社にとって本サービスがキラーサービスになり得るかは現時点ではわからないけど、僕はこのサービスが成功して欲しいと願っている。それは別の見方をすれば、この試験的?なサービスの成否で今後のモバイル音楽の展開が左右されると考えるからだ。勿論ユーザの立場から言えば成否に関係なくサービスの選択肢が増える事は嬉しい事だ、でも多くのユーザに支持されるかは現段階で未知数である事は間違いない。

今回のKDDI発表を見れば、同社はAPPLE社が運営し成功している「iTunes Music Store 」と「iPod」を意識していると思われる。「iTunes Music Store 」は「EZ Music!」であり、「au携帯端末」が「iPod」という図式が出来上がる。KDDIの小野寺正社長は、「日本もiPodのおかげで音楽配信サービス市場が拡大しつつある」と述べ「iPod」を意識している事がわかる。確かに米国ではこのAPPLEのビジネスモデルは成功した。

KDDI側が述べるには、今回のサービスは携帯に直接配信する事で顧客の利便性は増したとなっている。つまり「iPod」の様にPCが仲介する必要がない事を言っているのだと思う。でも僕の考えは違う、時としてPCの仲介も必要な時があるのだと思う、レンタルCD業界がうまく機能している日本では特にそう思う。iPodMiniが「iTunes Music Store 」提供を行っていない日本で好評を得た理由は端的にそれを物語っていると思う。人は自分が買った音楽を自由に色々な環境と道具で聞きたいものなのだ。

「EZ Music!」では購入した楽曲を外部大容量メモリーに格納する事が出来るとなっているが、一般に使用する外部メモリーの容量はせいぜい256MBだと思う。つまり外部メモリーに格納できる楽曲は100曲未満だと思う。この100曲は「EZ Music!」で購入する曲数としては多いと思うが、仮に何らかの方法で購入したCDをその外部メモリーに格納することが出来る場合、個人的には何か物足りない。その為に外部メモリーを新たに購入する事になると思うけど、外部メモリーは高価だ。

今回著作権保護技術を何を使うかわからないけど、発表によれば購入した携帯端末でしか聞く事は出来ないらしい。また別途PC等を使って個人が貯めた音楽データを携帯端末側(もしくは外部メモリー)に転送して聞く事が出来るのかは明らかになっていない。
仮に携帯端末が故障もしくは買い換えた時、購入した楽曲の保証はされるかも気になるところだが、その点も明らかになっていない。

色々と脈略もなく書いてしまったけど、僕が考えるサービス成功の為の条件を書くとすれば以下の感じになると思う。

・ポータル音楽サイトで提供する音楽はCDSで販売している曲だけでなく、CDの中の一曲も行う。(CDレンタル利用者の取り込み)
・楽曲数は少なくともApple提供と同程度。
・1曲は100円程度(Appleの1曲99セントの感覚は日本では100円から120円くらいの感覚に近いと思う)
・PCに楽曲のバックアップを可能とする。
・PCでフォーマットした楽曲データを携帯端末(もしくは外部メモリー)に格納し聞けるようにする。(EZ Music!で購入したCDをau端末でも聞ける様にするのは自然だと思う。)
・出来れば携帯側で聞けるフォーマットは「HE AAC」以外に「MP3」も対応して欲しい。
・音楽を聴いている時に着信があったとき、設定で一旦音楽が停止し着信終了後に自動再開することが出来る。勿論ヘッドホン着装しているときはヘッドホンを通して着信がわかるようにする。
・携帯で一般利用しても2時間位は音楽が聴けるようにする。

このサービスがビジネス的に成功するか否かは通信会社だけの問題ではないと思う。携帯メーカの努力もあるだろう。でも最もキーとなる業界は音楽業界だと思う。Appleが成功した理由で最も大きいのは、制限のやや緩い著作保護システム(デジタル権利管理システム)と安い著作権料で5大メジャーレーベルと契約成立が出来た事だと思うからだ。
日本と米国では音楽業界の考え方も背景も違うと思う。コピープロテクトCDの順次撤廃を行う事を決めるなど、徐々に変化は見られるが、ネット配信の広がりの為にはさらに踏み込んだ変化と対応が必要に思える。

個人的な感想をいえば、多分携帯のみを利用対象とした今回の音楽配信サービスは成功が難しいと思っている。
でも、その中でKDDIがどのようなアイデアで対応していくのかは大いに期待している。冒頭に言ったように、僕はこのサービスが成功して欲しいと願っているのだ。

Coccoの新CD発売

Date
2004-10-14 (木)
Category
音楽


2004101441e3a8cd.jpg

2001年2月に突然の活動停止宣言をしてから、絵本2冊出版とゴミゼロ活動等の活動を行っているCoccoがプロデューサーに岸田繁氏(くるり)を迎えてタワーレコード日本25周年記念としてタワーレコードのレーベル“bounce records” から11月23日にCDSが発売される。タワーレコードで現在予約受付中

曲は「SING A SONG?NO MUSIC, NO LOVE LIFE?」(英語詞はここに)

たしかこの曲は「ベスト+裏ベスト+未発表曲集」のDISC2に収録されている英語の曲だけど、今回日本語訳で新たに収録している。実はこの情報は友人ブルーから教えてもらいました。感謝感謝です。勿論予約します^^

Coccoが活動停止宣言を行った時、彼女は「沖縄」への思いを吐露している。その時に彼女の詞にある断絶感と強く求める愛の対象が「沖縄」である様に思えた。「沖縄」を愛し、しかしその「沖縄」から拒絶されている孤独感のようなものを感じたのだ。そのCoccoが沖縄に戻る事を決めた心中を推し量ることは難しいけど、沖縄に戻ってからの彼女の活動の中心はやはり「沖縄」だった。Coccoと「沖縄」はお互いが受け入れあうことができたのだろうかと願わずにはいられない。

Coccoの曲は今でも心が揺さぶられる。作り手の動機は様々だけど、多分人はその気持ちを感じ、自分に投影して感動するのかもしれない。試聴ではなく全てを早く聞いてみたいと思う。

Coccoの公式サイトはここ。ただし彼女は大のインタネット嫌いで知られているのでサイトの内容は淡々としています。

Coccoの活動停止までの全タイトルをまとめました。1ページだけの拙いサイトですが、参考までにどうぞ。ここから。


iPodの話

Date
2004-10-13 (水)
Category
memo | ビジネス | 音楽


2004101371074868.gif

iPodを使っている。と言っても最新式ではなく2世代目だ、本当は1世代目から欲しかったがWindows版はなかったので購入できなかった。後からXplayというソフトでWindowsでも使える事がわかったけど、その時は既にiPodは2世代目になっていた。ただ個人的な趣味では1世代目のより機械的なギミックの方が好きだった。

(注)Xplay日本語版は現在Xplay2への期間限定(2004/11月末まで)の無償バージョンアップ中。

そのiPodは今までに2回全ての音楽データがなくなった事がある。1回目はiTuneの使い方がわからなくて、2回目はiPodドライバーの更新で・・・・

今まで苦労して貯めてきた音楽が消える事が、これほど悲しいとは想像も出来なかった。僕の場合、音楽収集はとりあえずiPodに取り込む事から始める。そして気に入らなければそれを消していく。そうすれば最後には好きな音楽だけのライブラリーができあがるという事になる。そうやって時間をかけて作り上げたライブラリーは大げさな言い方をすれば僕のアイデンティティと言えるかもしれない。

でも2回の消去で気がついた事もある。最初と次、そして現在の収集している音楽は微妙だけど同じではないと言う事。新しくて好みに合う音楽は常に出てくるとはいえ、やはり好みも少しづつ変化して言っていると言う事なのかもしれない。その変化を見るのも自己満足の世界だけど面白い。

こういうパーソナリティがでる機械とか道具は時代を現している様にも思える。確かに全ての道具は長く使う事で自分の個性が出てくると思う。例えばトンカチでも長く使えば自分の持つ手形にあう形になるかもしれない。車でも人の車を借りたときは所有者の癖が出て運転しづらい時もある。特に人の身体に密接な関係にある道具は昔からそうだった(メガネとか歯ブラシとか補聴器とか・・・)。でもそれらの道具とiPod(同じ範疇に携帯電話、パソコン等々、勿論iPodと同じ内容のプレイヤーも含みます)は、何かしら少し違うように思えてくる。

その違いは、道具の持つ本質的な部分では同じだとしても、道具に個性が表れる時間と無関係ではないと思う。なにしろiPodは買った最初からそこに自分の個性を入れる事から始めるのだから。それに、仮にiPodが故障したとき、僕が気にするのは故障したハードの事ではなくiPodの中に入っている音楽データである事は間違いない。そして音楽データは僕のアイデンティティの一部なのだ。うまく言葉で表現できないが、道具が表す個性には外面的個性と内面的個性の両面があり、iPodは内面性の割合が高い様に思える点で、他とは違うような気がする。勿論この意見はiPodの所有者の自己満足的意見かもしれないけど(笑)

iPod関連サイト

ありがとう iPod

iPod Style


Late For The Sky

Date
2004-10-08 (金)
Category
音楽

20041008381247af.gif

不思議と秋になると聞きたくなるアルバムがある。その中の一枚がJackson Browneの「Late For The Sky」だ。1974年の発売だから相当に昔のアルバムだけど、ロック名盤に数えられているタイトルでもあるので聞かれた方も多いと思う。

ピアノやアコースティックギターの素朴なサウンド中心なので秋の夜に合っているのかもしれない。「Late For The Sky」以降のアルバム(「The Pretender」「Running On Empty」「Hold Out」)もすばらしいと思うけど、僕にとっては秋のイメージではないし。
2003年発売のベストにも「Late For The Sky」が入っているけど、多分新しく録音した曲だと思う。曲の感じが全く違って聞こえる。どちらが好きかと問われれば、僕にとっては断然に1974年盤の方だ。

アルバムの中で特に気に入っている曲は4曲目の「The Late Show」。曲の終わりに一旦メロディーが止まり、それから車のドアの閉まる音と出発する排気音が出て、それから再びメロディーが始まる、この部分は何度聞いても良い。恋人同士が新たな出発をするイメージがよく出ていると思うし、挿入する事が必然と思われるほど自然で心地よいと感じる。

古くても長く聞かれる音楽にはそれなりの理由があると思う。理由は個人に帰属するのか、それとも人が共有する何かに帰属するのか僕にはわからないけど、その理由が年月に風化しない強さを与えているように感じる。僕にとっては「Late For The Sky」は、後から知った音楽ではあるけど、その中の一枚であるのは確かだと思う。

Jackson Browneは1948年10月9日産まれだから、明日が誕生日。
Happy Birthday Jackson Browne!

「Late For The Sky」の歌詞はここにあります。

Return to Page Top