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JR渋谷ハチ公リーフレット前の露天商
最近の話だ
JR渋谷駅ハチ公口にあるハチ公のリーフレット。それに面して昔から新聞・雑誌を販売する露天商がある。ずいぶん昔から営業していると思う。僕が渋谷に行き始めた頃、つまり学生時代には既に営業していた。その頃はその店だけではなく他に2~3店は営業していた記憶もある。今から数十年も昔の話だ。
渋谷駅から降りる人、もしくは利用する人達でハチ公リーフレット前は本当に多くの人が通り過ぎる。その店は年月と共に周りの景色に溶け込み、新聞・雑誌を買う人以外は、つまりは殆どの人は、その店に見向きもしない。人々は、黙々と、談笑しながら、携帯電話で話ながら、時計を見ながら、待ち合わせのために、バック・買い物袋・手ぶら、そして思い思いの服装で、少しもその店に気づくそぶりも見せずに、実に多くの人がその店の前を同じ速度で一群となって過ぎてゆく。勿論、意識し合わないのは一群の一人一人もお互いに同様だろう。でもその店から見れば、それら多くの人達は一人一人というよりは大きな川の流れのように見える。
店には一人のお婆さんが黙って座りその流れを見ている。時折何か書き物をしている。彼女の後ろには、幾つもの布製の袋がぶら下がっている。その袋の中は、おそらく長年その場所で営んできた何かの集積なのだろう。袋はいつも同じ数が同じようにぶら下がっている。僕はと言えば、カメラを携えハチ公のリーフレットと人の流れを撮ろうとその露天商の横に立っている。僕にとっても露天商は川の岸辺にある小さな岩のような物だ。その小さな岩は流れに影響も景観の美しさも与えはしない。露天商の老婆は、その店と一体化し、隣で立っている僕でさえ意識することもない。
僕がこの露天商の女性を意識したのは、たわいのない彼女の一つの行動からだ。その行動を劇的に描写する力を僕は持たないし、そういう行動でもない。単に彼女は使い捨てカメラを構え目の前を通り過ぎる一群に向けてシャッターを押したということだけだ。でもその動作が速くとても自然だったので、偶然にその行動を見てしまった僕でさえ彼女の行動を把握するのに時間がかかった。カメラは露天商の外からは見えない机の上に常時置いてあるようなそんな印象をもった。それほど何気なく、仕入れ台帳に鉛筆で数字を書き込むような、ありふれた毎日の仕事の様に、するりとカメラを取り出しファインダーを少し覗きシャッターを押して、こちらからは見えない露天商の棚に置いたのだった。
無論、何故彼女が使い捨てカメラで目の前の人通りを写真におさめたのかは知らない。でも一連の慣れた動作から、その場で何らかのタイミングで何回も撮影している様に思えた。そこから幾つもの物語を造る誘惑にかられる。物語は彼女の撮影を行う理由への興味が発端となる。でも理由(意味)を考えることはそれこそ無意味だろう。実際に彼女から聞けばよいのだ。彼女の行動に興味を持った僕は直接に理由を聞きたいという衝動に駆られた。でも客観的に見れば、カメラを持った見も知らずの男性からいきなり「写真を撮っていたのを見かけました。何故写真を撮っているのですか?」などと聞かれれば誰だって警戒する。僕は彼女への聞き方についてあれこれと考えた。で、しばらく彼女の様子を見ることにした。彼女が再度カメラで写真を撮ったとき、僕が彼女の写真のファインダーの中に入り彼女に対し微笑む、もしくは僕も彼女に向けてカメラレンズを向ける。今から思えば途方もない愚策だが、その時は真面目にそれが一番良いと感じたのだった。
僕はハチ公リーフレットの前で、彼女の視界から少し外れた位置に陣取り露天商を注視した。幸い彼女は僕には気が付いていない様子だ。僕と彼女の間はとぎる事がない人の流れが続く。時折、ほんとうに稀に露天商に人が立ち寄り雑誌を求める。その都度彼女は客に会釈をするわけでもなく淡々と仕事をこなしていく。カメラで人を撮るとは想像さえ出来ない。
僕の隣で女性が歓声をあげる。待ち人が少し遅れてやってきたのだ。謝る男性に女性はわざと少しふくれてみせる。先ほどまでの表情とは全く違う。露天商の横では男性が四・五人固まって談笑している。誰かをからかっているらしい。その隣では女性の顔を覗き込むようにして男性が何かを語っている。また、急ぎ歩く女性に勧誘の男性が近づいては断られている。露天商の女性は何も変わらない。
30分くらいがそうやって過ぎた。僕は露天商を見ている。見ながら、何か彼女がカメラで写真を撮ったことは聞くべきでも意味を考えるべきでもないと思えてくる。勝手な物語を造ることさえはばかれる。僕がたった一回見た撮影の仕草で十分なのかも知れない。ただ一つだけ僕は思う。おそらく彼女の家には数千枚の露天商から撮った、いわば定点撮影の写真があることだろう。多くの写真は量では測れない一枚一枚のその写真の集積なのだろう。この一枚、あの一枚、年月日と時間が記録された、この場面、あの場面。写るハチ公リーフレットは同じでも、流れゆく人々は誰一人として同じではない。ただ彼女だけがそこにいて撮したという事実が大事なのだ。
しばらくして僕は首を振りその場を離れた。実はこっそり彼女の写真を撮った。でも掲載は何処にもするつもりはない。
ダイアン・アーバス さまざまな神話
裕福な家にひとりの女の子が産まれた。両親は厳格だったが忙しく、彼女の養育に関わる時間が持てなかった。だから彼女は使用人によって育てられた。ある時期まで彼女にとって世界は完全であった。欲しいと思うものは特になかったし、何かが足りないと感じることもなかった。
彼女は大人になり写真家になった。そして同じく写真家の男性と結婚し、二人の子どもを授かった。そこでも彼女の世界は完全であり続けた。完全な世界、それは逆に言えば壁に閉じられた世界でもあった。壁の中で、何かに守られながら彼女はその世界を全てであると感じていたし、何から守られているのか、という問いが脳裏に浮かぶこともなかった。
異質なものへの興味は元々持っていた。しかし異質なものは壁の外にあり、それらが存在することは感じていたが、見ることも聞くこともなかった。夫妻の仕事はファッション業界の写真撮影だった。ファッション写真、それは演出と構図を重要視する。それはイメージの強調であり、人が共有する美に基づいての作画でもある。ここで学んだことは、彼女の写真の礎となったのは間違いない。ある意味、造られた美は、裏面に元々備わっている美が刻印されている。造られた美を追求することは、そうではない美を追求することに繋がると思えるのだ。何故なら、造られた美には写真に本来写し出される決定的な何かの厚みが薄く、ファッション写真を撮るごとに、写真家はその足りなさを意識することになるように思えるのである。
彼女がその世界から離れ、異質なものに向かうきっかけとはいったい何だったのだろう。様々な要因のなかで、ひとつあげるとすれば、それは写真家として彼女の独立があげられる。彼女の写真の先生は言った。「今までカメラを向けたことがないものを撮りなさい」
カメラを向けたことがないもの、しかしそれは有意識に在ったものでもある。意識にないものはカメラを向けることさえ適わない。壁の外には何が在るのか、尽きせぬ興味、行ったこともなく見たことがないものは彼女には沢山あったのだ。そしてそこにこそ決定的に足りない何かがある可能性があった。
だからといって、彼女が写真家として独立しても、幼い頃に構築した世界(フレーム)から抜け出たというわけではない。彼女を守る壁、それは多少小さくなり「盾」と呼ばれるようになったが、いまでは首にぶらさげたカメラであった。彼女は街で見かける興味深い人たちを多く撮った。小人と巨人、双子と三つ子、サーカス小屋の芸人、諍う夫婦、泣き続ける赤ん坊、女装癖のある男性、多くのヌーディストたち、おもちゃの手榴弾を手にし興奮気味の子ども・・・・・・
彼女が撮った者たち、確かに彼らは今までに彼女がカメラを向けたことがない者たちであった。でも決して撮られない人たちもそこにはいた。例えば経済的に貧しい者たちとその生活、人種的マイノリティの人たち。その視点で見ると、彼女の多くは白人たちであったのは事実だ。ただ多くの写真で共通することは、彼女がカメラを向けた人たちの多くは産まれたときから苦悩を、それが彼女の世界からの視線であったのは事実だと思うが、背負わされていたということ。
彼女は言った。「彼らは産まれながらの貴族なのです」と。彼女は興味を持つ人たちを写真に撮るときは時間をかけた。彼らの世界に入りこみ、彼らの秘密を聞いた。親密な関係を結び、その上で彼女が望む写真を撮った。彼女の手法は正方形とストロボだった。それにより被写体の陰影をより強調させるのである。それらは恐らくスタジオ撮影からの技法を取り込んだのだろう。ファッション誌におけるモデル撮影と本質的には変化がないと言えば言い過ぎかも知れない。ただ、彼女の「貴族」という言葉から、彼らといかに親密な関係を築いたとしても、所詮は彼女にとって彼らは外部の人であるという事実を拭うことはできない。
彼女は彼女のフレームで重ねた世界をコレクションし続けた。彼女の一連の撮影までの行為は写真家と言うよりも、コレクターと言ったほうが近い。彼女が写し、公開と言う場のために選択した写真群はいわば彼女の世界の確認であるように僕には思える。いわば、自然に備わった美を写すことは一つの矛盾でもある。だからこそ被写体に対し「貴族」と言うフレームワークを与えるしかない。そしてその中で写す行為を自分に対し納得させるのである。それでは彼女は何をコレクションしていたのだろう。それは写真に写る何かである。そしてその何かは彼女にとっては、彼らが生まれながらの境遇を代償にして手に入れていたようにみれたのだ。彼女はそれを発見したのである。「貴族」とはフレームではあるが、別の言い方もできる、それは単なる写真に命を吹き込むもの、「写真性」である。
たとえばこんな逸話が残されている。あるとき彼女は巨人症の男性を彼の家で彼の両親と一緒に写真をとった。彼とその両親の三人が写った写真を彼女は友人に見せ次の様に語る。
あるとき、ダイアンは興奮した声で『ニューヨーカー』のジョン・ミッチェルに電話をかけた。「どの母親も、妊娠しているとき悪夢に悩まされることをご存じ? 生まれてくる赤ちゃんが怪物だったらどうしようという? わたし、エディを見上げているお母さんの顔を見てはっと思ったの。彼女はこう思っていたのよ。『ああ神様、あんまりです!』って」
(「炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス」 パトリシア・ボズワーズ 名谷一郎訳 文藝春秋)
彼女が写したかったものは巨人の男性とその比較としての彼の両親の組み合わせではない。彼女が写したかったものは、写真に残され、彼女が後付で気がついたものだ。それは巨人の男性の母親の表情だった。さらに厳密に言えば、母親の表情も明確には彼女の言うようなももではない。でも明らかにそこには母親の残酷なまでの思いが不可視なフィルターとなってその写真にかぶさり、鑑賞する者の気持ちを揺さぶるのだと思う。そういう写真はダイアンが彼らの日常に入り込むことによってでしか得ることができないものであった。そしてその不可視のフィルターの有無が写真にとって不可欠だったのである。
彼女の写真で僕が一番に印象深いのは総合失調症の人びとを撮った一連の写真である。強烈な印象は、彼女の思惑を越えて存在していた。彼らを撮ることで彼女は自分の撮影を見失う。彼女は常々「撮影とは誘惑です」と話していた。その「誘惑」が彼らには通じなかったのだ。彼女にとって彼らは真の意味で異質な者たちだった。秘密の共有も、そこから来る親密な関係も、彼女が望むポーズも、けっして彼らは彼女に与えなかった。ここではカメラは「盾」には成り得なかった。彼女が自殺をした時、これらの写真は焼き付けられることなく、従ってタイトルをつけられないまま残った。
ファインダーから被写体を眺めるとき、カメラアイが身体の一部に拡張されることはない、それは逆に身体がカメラと言う機械の一部に取り込まれる感覚に近い。そのとき自分はもはや人間ではない。写真を撮る一個の機械となり、身体はファインダーとカメラアイとの間に置かれるのである。そしてその場所は彼女にとって安全な場所だった。しかし、その安全な場にいてはカメラを制御することはできない、と彼女は感じ始めていたのかもしれない。一般論でいえば、「写真性」の制御は撮影者にも被写体にも可能ではない。「写真」は撮影者にも被写体にも属してはいないのである。彼女は頻繁にカメラを使いこなせない難しいと友人に語り始めていた、まさにそのとき彼女は制御不能な「写真」を制御しようという、解決不能な問題を抱えたように僕には思えてくる。
それ以外にも、彼女は生前多くを語った。しかし、それらを時系列的に並べみても彼女の精神活動を顕わにすることはできないと思う。ひとつの言葉は、新たな言葉によって打ち消される。残された一群の写真は彼女がかつてそこにいたことを証明づけるが、果たして彼女を現しているのだろうか。写真群は印象が強ければ強いほど、彼女を実体とは違うあらぬ方向に流そうとしているかのようである。そしてそこから神話が産まれる。神話は自己生産的にあらゆるヴァージョンが誕生する。多くの者は神話を利用し自分の欲望を満足させる。どれもが正しく、そしてどれもが正しくはない。
スーザン・ソンタグは著書「写真論」の中の「写真で見る暗いアメリカ」のなかで彼女の事を多く割いて書いている。しかしソンタグの描き方はホイットマンの流れをくむアメリカ文化史の中に彼女を組み込んでいる。ソンタグにとって彼女の文脈はアメリカの中に位置している。藤田省三は一般論の積み重ねで彼女を描く。藤田の描く彼女は人間の各層の境界線を打ち砕くものとして描かれる。日本で刊行した彼女の作品集には拙くも無個性でそれゆえ愛の福音書のような語り口の彼女が登場する。パトリシア・ボズワースの彼女の伝記はまるで聖書(ボズワース伝)のようでもある。
彼女の自殺の事実が、彼女の作品は誠実なものであって覗き趣味ではなく、 またいたわりのものであって冷たいものではないことを証明するかのように見える
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 P46 近藤耕人訳)
写真が覗き趣味であるか、そのような疑問をいまさら呈する者などどこにもいない。覗き趣味といえばその通りだが、これ程までのデジタルカメラ普及を考えれば、時代はその言葉を陳腐化させている。街角では監視カメラが僕らの日常を撮し続け、携帯に装備された小型カメラで人々はところ構わずシャッターをきる。それは写真を撮るという行為では既になくなっている。自動機械としての撮影機、街角の監視カメラとなんら変わりない行為に写真を撮る行為は変化している様に思える。それはダイアンなどの写真家といわゆるアマチュアの間に引かれた一線ではない。むしろそれらの一線があいまいになっていく過程が写真を撮るという行為の変化過程でもあるように僕には思えるのだ。
たとえば、月探査衛星「かぐや」が写した月から観た地球の出と入りは美しく感動を覚えた。「かぐや」の写した映像は、「かぐや」に装備された機械と制御するプログラムによって写されたものである。それと人間が写した写真との違いは何もない。写真が写真足らしめるには、誰が写すというのは関係ないのである。むしろ写真を撮る行為はある意味人間でいることをやめさせる。写真は人間の経験の拡張でもある。既に僕らは、馬の走る姿もミルクの一滴に生じる王冠も経験している。ダイアン・アーバスの写真は相対性を「違和感」を露にすることで我々に新たな視点を(多くの人にとっては不快感と共に)もたらした。でも時代はその概念を既に受け入れ、流れの中で「貴族」たちは消えていった。
彼女の写真は、彼女個人の問題から発しているのだろうか。多くの識者たちはそのように彼女のことを語る。彼女の写真とは彼女自身でもあるかのように。でも それは少し間違っている。彼女が撮った写真に彼女はいない。彼女とは「彼女の見て構造化した世界」であるが、それらは決して写真に内在してはいない。被写体を選んだのは間違いなく彼女ではある。でもそれと写真が写真として成り立たせることは関係性がないと思うのである。彼女が撮った写真は、彼女に関係ない場所で写真として存在している。
ダイアン・アーバスの伝記を元に作られた映画が今年公開した。惜しくも僕は見る機会を逸してしまった。逸したのは僕の臆病さから来る躊躇なのは知っている。商業的に造りだされるアーバスに画面を通してとはいえ対峙することが僕は怖かった。ただ映画も新たな彼女の神話になることに変わりはない。映画は個人と写真との乖離をなおさら難しくすることだろう。でもそれは写真本来の問題というより、著作権の問題からと言うほうが正しいように思えるのである。
ル・コルビジェ展の短い感想

先々週だったか日にちは忘れてしまったが、僕は六本木ヒルズの「ル・コルビジェ展」 に行ってきた。 もとより建築関係に造詣が深いわけでも関連業界にいるわけでもない。 でもフランスがユネスコ文化遺産にコルビジェの作品群の一括登録に動いている、という話題が出るほど、 彼は普通に知られている歴史上の人でもある。その彼の単独展を開催しているというので興味があった。僕の感覚では、ル・ コルビジェは確かに偉大な建築家だが、日本で単独展が出来るほど知られているとも思えなかったから、 どのような展覧会を企画者は見せてくれるのだろうか、という点が特に興味があったのである。
友人の設計者と少し前に色々な話をした。 その中で建築関連の話でもないのに普通にコルビジェの話が出てきた。 彼は設計技師なので当然にコルビジェのことを知っていて不思議はない。 でも、その時多少の違和感を感じたのは、 コルビジェという名前が建築関係者ではない人でも知っているのが当然という「自然さ」だった。
僕の場合、学生時代からデザイナーとか建築関係とかを志す人が回りにいたので、 その影響もありコルビジェの著書を何冊か読んだことがある。だからこそ知っていると自分では思っていた。だから、彼が「近代建築の始祖」 と呼ばれている理由とかはまったく知らないし、そのような目で見たこともない。一つ言えばテクノロジーとして人間を見つめ建物を設計した、 その事がおそらく発端ではないかと思うくらいだ。
でも、例えばジョサイア・コンドルとか辰野金吾、曽禰達蔵、 片山東熊などの日本近代建築の始祖と呼ばれる人たち、 もしくは堀江佐吉などの大工棟梁たちと、 コルビジェが何が具体的に違うのかは正直に言ってよくわからないのは事実だ。 彼らもコルビジェと同様に、 建築する際に必要な基礎データ値は経験則として持っていたはずである。 さらにフランスが世界遺産登録申請したというのもフランスというお国柄があるからだと思っていた。つまり、 あくまで一般的には知られていない人であり、展覧会の来場者は少ないと思っていた。 人が少なく静かな美術館での鑑賞を僕は当然の事として期待していたというわけである。
でもその期待は六本木ヒルズで入場券購入の待ち行列を見てあっという間に吹き飛んでしまった。そこには老若男女が、 乳母車に乗っている赤ん坊から杖を突いているお年寄りまでの方々が、長い行列を作りながらじっと鑑賞券購入の順番を待ち続けていた。 その状況は僕にとっては想定外だった。後からわかったことだが、展覧会の入場券は六本木ヒルズの展望台への入場券と兼ねていた。 だから多くの方の目的は展望台だったに違いない。ただ兼ねているのだから、 展望台のついでに展覧会を観て行きましょう的なノリの方も多かったと思える。だから、展覧会の総括をすれば、「騒々しかった」がまず浮かぶ。 子供は走り回り、赤ん坊は泣く、それらは致し方ないことだ。それはわかる、 でも静かな鑑賞を期待していた僕にとってその光景の落差は大きすぎた。
では展覧会の内容はどうだったのかと聞かれたら、意外に面白かったのも間違いない。 意外とは、 コルビジェの様々な側面を観る事が出来たことから、展覧会の内容が近代史を振り返る機会になったということで、 それはコルビジェの建築面だけではおそらく知る事が出来なかったと思うからだ。また「面白かった」 の根底には僕のコルビジェへの固定観念が偏っていたことの表れでもあるかもしれない。展覧会での表現が企画者の意図を的確に伝えていたし、 それに対しては違和感はおきなかった。確かにコルビジェは「近代建築の始祖」と言えるのかも知れない、 順路を辿りながら僕はそういうことを考えていた。
まさしく当該展覧会ではコルビジェと近代が離れがたく密着していた状況を的確に現していた。でも逆に言えば、 彼の活動が近代という枠組みに組み込まれているのを理解すること自体が、 近代そのものが現代とは違った時代であったことの証左になりえたようにも思えるのである。彼の作品には、根に僕らが失ってしまった 「大きな物語」が確かに横たわっていた。だから僕はコルビジェの作品群を近代史を見るように順路を辿ったのだった。 子供たちと赤ん坊の喧騒が、近代という時代の音色にも聞こえ、そこに一つの不思議な空間を作っていたように思えた。その中で僕は、展示物を、 何故かしら懐かしさが伴った感覚の中で眺め続けたのである。
特にコルビジェの都市計画はそのことを如実に表しているように僕には思えた。 コルビジェの都市計画には、 人間工学というテクノロジーに含める要素ひとつひとつの選択が「大きな物語」 を背景にして行われているように思えたのだ。 だからコルビジェの計画した都市は、現代におけるそれと著しく景観が異なる。 例えば現代では要素としてバリアフリーとセキュリティが加わるだろう。でもそれ以前に「大きな物語」が喪失している以上、 それは単にテクノロジーに必要な要素の1つにしか過ぎない。その結果、日本のどこに行っても同じ都市景観になるというわけである。 だからといってコルビジェの都市計画を称賛するつもりもない。彼の都市計画には逆にそれだからこそ排除された人たちも多いはずである。
コルビジェ展が今年開催された理由は何だろう。 それは1つには回顧できる時代になったということがあるように思える。 僕らはコルビジェを外部から眺め批評出来る立場にいるのである。 そしてその立場からコルビジェから受け取れるものはなんだろう。 それは僕らが無くしてしまったものへの郷愁だけではないはずである。でも、 この展覧会はコルビジェと近代との結びつきの強さを表現することは成功したとしても、それ以上の射程は持ち得なかったように思える。 現代におけるコルビジェの意味とは何なのか。 おそらく今回の展覧会にあわせ多くの美術誌もしくは建築雑誌がそのことを特集に組んでいることだろう。僕はそれらを全く知らない。 ただ1つ言えることは、既に時代はコルビジェの時代に戻ることはない。コルビジェが実践した建築設計の各要素を、 背景無くしてバラバラに取捨して利用するしか僕らには出来ないのである。
補足1:一般的に知られていない、 といっても当然に多くの方が知っているとは思っている。ここでの比較は、たとえばレオナルド・ ダヴィンチの「モナリザ」と較べての話。 無論混雑具合はモナリザ程ではないにせよ、僕的にはそのくらいの落差があったということである。
補足2:写真は六本木ヒルズの展望台から眺めた東京タワーと街並み
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 写真を撮ると言うことについて
「PHOTO IMAGING EXPO 2007」に行った時のことを語ろうと思う。内容は主に写真を撮るという「行為」 に偏るかも知れない。でもそれは致し方がない。何故なら僕自身が写真を始めた動機がそれについて知りたいと思ったからだ。
展覧会に行くのは久しぶりだ。一時は頻繁に出かけ事もあった。無論、それらは会社関係での話だ。ただ行くと言っても、 ビジネスショー以外は、殆どが技術関連のセミナーに出席することが目的であり、 同時開催している展覧会があればついでにさらっと周囲を歩くといった感じである。
それらの展示会と今回の「PHOTO IMAGING EXPO 2007」を較べてみると、時代の趨勢なのか、 もしくは展示会の内容そのものが影響するのか、僕には全く不明なのだが、兎にも角にも、カメラを携えての見学者が多かった。 現在では携帯電話にカメラが装着しているので、殆ど全員がカメラを携帯している状態であるのは間違いないのだが、 殆どの方が携えているカメラは大概がデジタル一眼であった。
と言っても、僕自身がカメラを携えての見学だったので人のことは言えない。それでも、家を出る際には、 カメラを携えて行って良いものか、展覧会場で撮影は禁止されているのではないか、 どうせ写真を趣味とする人たちが集まるのだから企業の出展も派手ではなく落ち着いたものだろう、 等などと思案し勝手に想像していたりもしていた。しかしそれらの思惑は尽く外れた。雰囲気はミニビジネスショーといった感じで、 コンパニオンガールは大勢いるし、映像と大音量の音楽による騒々しさ、さらには見学者の多さに、内心かなり驚いた。さらに驚いたのは、 カメラを携えている人が、当たり前のように、何でもどこでもカメラを向け、写される側も、 それを期待しているかのような行動をしていることだった。
発端はコンパニオンガールの写される側の対応を見たことだった。彼女たちはカメラを向けられると、瞬間にポーズをとった。 笑みを浮かべ、首をかしげ、もしくは少し体を傾け、場合によっては足を交差し、手を頬に付け、 まさしく写される態勢に瞬時に彼女たちの顔と身体は文字通り固定された。その固定は、 例えば顔の細かな筋肉さえも自在に管理しているかのように感じさえした。さらに固定する時間も、 計ったように撮影者がシャッターを押すまでであり、押された後は、即時別のポーズを別の撮影者に向かってとり続けていた。
彼女たちの仕事(労働に近い)は、写真に撮られることも入っているのだろう。魅力的な姿で写真を撮られることは、 その写真がネットで多く流通する事となる。その際、彼女たちが身につけている衣装(それらは大抵、雇われている企業のロゴが描かれている) によって、企業の宣伝効果は高まる。
それでも僕にとっては、その様子は驚きだった。間違いなく、彼女たちは自分たちがどのように写されているのかを知っている。 そしてその結果、その様子を見る僕にとっても、写真となった時に眼にするものが想像が出来た。つまりは、僕にとっては、彼女たちのカメラ・ アイを向けられた時に固定するポーズは、既に写真に撮る意味のないものと感じられたのであった。
コンパニオンガールたちはほとんどが若く美しかった。でも僕には、そのカメラ・アイに向かってポーズを変えながら、 なおかつその都度固定する様子は、何故かしら生理的な嫌悪感が先に立ったのである。無論、彼女たちに嫌悪感を持ったのではない。 うまくは言えないが、彼女たちの仕事は、人間性をなくしているような、例えば自由自在に動く魅力的なマネキンロボットが在れば、 それに対し人間の外面にそっくりなことに対し抵抗感を持つような感触の逆転、そんな意味での嫌悪感のように自分には思えた。
おそらく彼女たちの仕事は、自分の身体をある意味切り売りしている。それはスーザン・ソンタグが彼女の「写真論」で、 人間の写真を撮ることの悲惨さを語ったと同じ次元で、自らの命を大げさではなく投げ出している。しかし、彼女たちは本能的に、 撮されることの意味も感じ取っている。それ故、カメラ・アイを向けられた時に演出するポーズは、自分の身体にマスクで、 恐らくそれは不可視のマスクであるが、覆っている様態なのかもしれない。ポーズは撮影者に対する、彼女の仕事の一環であると同時に、 自分自身を守る鎧でもあるのかもしれない。そんなことを僕は漠然と考えた。
それでは写真を撮る側はどうかといえば、僕が見かけた、コンパニオンガールたちを撮る全員が男性だったのだが、そこには「撮る」 という行為以外何も存在しなかった。コンパニオンのポーズは、別面で見れば、撮影者(全員男性)が望む姿でもある。その姿は、またカメラ・ アイを向けシャッターを押すだけの動機を、男性である撮影者に与える。故に、この場では「撮るという行為」は、彼女たちの姿に促されて、 何もなく、そこに在るのはただ瞬間的にシャッターを押すという行為に凝縮されていた。
写真を撮るという行為には大雑把に言って3段階在ると僕は思う。一つめは被写体にカメラを向けシャッターを押すまで、二つめは現像、 三つ目はプリントするという段階。一度現像し、さらにプリント(焼き付け)すれば、それは写真となり、長く人間世界に滞在することになる。 それゆえ「写真」自体は消耗品ではない。しかし、シャッターを押すまでの過程は消費ではないだろうかと、 僕は自分と彼らの姿を見てそう思った。
例を挙げよう。僕が「PHOTO IMAGING EXPO 2007」で男性である撮影者が、 女性であるコンパニオンガールにカメラ・アイを向けて撮影する姿に連想したものは、日本の都市に存在するパチンコ・パチスロホールで、 ゲーム機種に向かい無心で操作を続けている人たちの姿であった。まるで展示場そのものが巨大なパチンコ店で、 コンパニオンガールがパチンコのゲーム機であり、そこで何も考えずパチンコ玉となるカメラのシャッターを撮り(ショット) し続けている姿と重なったのである。
恐らく、コンパニオンガールである彼女たちにカメラ・アイを向けてシャッターを押す時、撮影者である男性は何も考えてはいない。 そこにあるのは、ただ時間を消費する姿である。パチンコ店でパチンコをする人は、同じ連続する行為の中で、 擬似的な労働をしていると言ってもよいかも知れない。それと同様に、撮影者がシャッターを押すのも擬似的労働の一環である。 目の前に差し出された彼女たちの動きをルーチンワークをこなすように思考も何もなくただ本能に促されるようにシャッターを押し続ける。 消費されるのは、パチンコ店と同様に時間である。退屈な時間を過ごすよりは、何か一つの労働を、ルーチンワークのようにこなす。 そこには新たな創造を作り出す過程は微塵も感じることはなかった。ただ退屈な時間を過ごすために、 死すべき人間の有限な時間を消費し続ける行為があるだけだった、と僕には見えた。シャッターを押す行為が消費過程によってなされる以上、 耐久性を持つ写真も、消費過程の中に組み込まれる他はない。
消費過程で得られた多くの写真は、恐らく殆どの写真は、鑑賞されることはない。それらの多くは現像された後、特別な一枚を覗いて、 顧みられることはない。もしくは多くの写真はシャッターを押すだけで、現像もされないでただメモリー上、 もしくはフィルム上に残り続けることになるのではなかろうか。シャッターを押す行為が、消費過程によって生み出されるのであれば、 シャッターを押すことでそれは大部分が完結することになると思うからだ。
それらは、ポーズを撮るコンパニオンガールと対をなす行為でもある。そうそれはあたかも、 パチンコ台とそれを操作する人との関係にも似ている。
スーザン・ソンタグの「写真論」冒頭では、「写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、見ることの倫理である」とある、 しかし同じ「写真論」の中で彼女は次のようにも語る。
「写真撮影は本質的には不介入の行為である。ヴェトナムの僧侶がガソリンの罐に手を伸ばしている写真とか、 ベンガルのゲリラが縛り上げた密通者に銃剣を突きつけている写真のような、 現代写真ジャーナリズムの忘れることのない偉業のもつ恐ろしさも、ひとつには、写真家が写真と生命のどちらを選択するかというときに、 写真の方を選択することが認められるようになったのだという感慨に根ざしている。」
前者の「見ることの倫理観」を後に続く文章で無効化している。しかし、どのような場合にも「写真の方を選択する」 ことへの批判的な問いを消去することは出来ない、と僕は信ずる。その写真が無思慮で身体の欲望のおもむくまま撮られた写真であっても、 やはりそこには撮影者の倫理観が在るのは事実だと思うのである。そのうえで、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 での撮す者と撮される者との関係は、僕にはとても新鮮な状況として目に映ったのである。
僕は結局コンパニオンガールの彼女たちを正面から撮ることが出来なかった。彼女たちがポーズに、なにかしら惨さをかんじたのだった。 だから僕が撮った写真は、斜めからと背後からの写真が必然的に多くなった。さらに僕自身が興味の対象となったのは、 写真を撮る側の姿でもあった。それ故、「PHOTO IMAGING EXPO 2007」 で写された写真はそういう光景も多くなってしまい、その展示会の様相を的確に網羅しているとは言い難い。 しかしそれも良くも悪くも僕の倫理観で他ならない。
写真よ、ブレろ!

最近自分が撮ろうと思う写真は、美しさを排除したい、叙情性を排除したい、感傷を排除したい、色彩を排除したい、明るさを排除したい、 空気感を排除したい、そんなことを願う。あるがままの現実など信じない。ただ写真にあるのは写真でしかない。自分が見た色を信じない。 自分の写真のピントを信じない。僕はおそらく自分の撮った写真を信じない。
帰り道になんでもない月夜を撮った。ビルとビルの狭間にある暗い道。空には煌々と光る月。写真を撮る動機こそが、 僕にとって重要な問題であり、根本はそこにある。写真を撮る価値を認めない写真を撮りたい。 後々詰まらぬと自分自身が見向きもしない写真を撮りたい。それらの写真の集積に、おそらく僕は僕を見つける。商品価値のある「自分」 ではなく、その真逆の自分。もっとブレろ!、意識せずに写真よブレろ!
Tokyo Tower、その陰影

東京タワーを撮りに行く。一年に数回、無性に東京タワーを間近で観たくなる。そして、その欲望が発生する季節は何故か冬に偏る。 着いた時間は、既に中には入れない時間で、駐車場にも車は数台しかみえない。数組のカップルがベンチで寄り添うように座り、 じっとタワーを見上げている。寒い、東京タワーは吹きさらしの高台に建っているせいか、風が強い。カメラを持つ手が凍える。
何回か通っていても、思い通りの東京タワーが撮れたことは一度もない。じっとタワーを見上げると、 そこには見慣れたいつもの姿が照明を浴びてたっている。見上げ続けながら、僕は周辺を歩き回る。
僕はどうやら遠景の東京タワーの姿が嫌いと言うほどではないが好みじゃないらしい。遠見に見える東京タワーは、 上空に昇ろうとする意志を現す曲線、そしてオレンジと白に輝くロマン的な姿、それらが強調されすぎる。 その姿は東京タワーの本質を見失ってしまう様に思える。
東京タワーの本質? それは相対化が一般的な状況では、それこそ、それぞれの思いの中で相殺されてしまう。でも多くの映画、 TVドラマ、もしくは写真などで表象されるその姿は、概ね一つに固定化しているかのようだ。そしてそれが遠景のタワーの姿である。そして、 僕はその姿に抗う気持ちが強いのである。
反作用としての東京タワーという意識からの見方ではない。もともと鉄筋を組み立てて造られているのは事実である。 タワーの直下で見上げると、その様が手に取るようにわかる。そんなに美しいモノではない。そう思う。
では何故、僕は東京タワーを見に行くのか。おそらくその質問が逆に僕をこの場に向かわせているのである。 約一年前に東京タワーについて書いた記事がある。今回読み返してみて、イメージが変わっていないことに少し驚く。逆に言えば、 前段の質問から僕は止まったままでもある。さらに今は質問が一つ増えている。何故現在において、映画・ TVなどで東京タワーのイメージの固定化が行われているのだろうかと。
スーザン・ソンタグ「写真論」読書以前に
飯沢耕太郎氏は彼の著書「デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか? 」(2004年)で、 デジタル画像をフィルムによる写真と区別するため、「フォトグラフィ」ではなく「デジグラフィ」と呼ぼうと提唱している。 幸いなことにその言葉が一般に流布することはなかった。
タイトルに惹かれ読もうと思ったが数ページ読み本を閉じた。「デジタルが写真を殺すのか?」という副題を付けるのであれば、 著者にとって「写真」の定義を明確にする必要がある。 そしてその定義がデジタル化により崩される状況を読み手に説得させなかければならない。それがなければ、 その刺激的な副題は単に商業的な意味しかないと判断されても致し方あるまい。無論、 最後まで読み切れなかった僕が言うことではないのではあるが。
フォトグラフ(photograph)のフォト(photo)はギリシャ語の「ひかり」を意味する「φωτοs」(フォートス) を語源に持つのは知られている。写真術が、光とそれに感応する物質との化学と物理作用がその技術の根本にあることを考えれば、「光の画」 を意味する言葉「フォトグラフ(photograph)」の命名は適切なのかも知れない。
でもその単語「フォトグラフ」の命名が技術的な理由でのみ語られるとすれば、これはあくまでも僕の想像の域を超えてはいないのだが、 単純すぎるようにも思える。
「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。」
旧約聖書の創世記1章冒頭の一節である。
神の最初の言葉は「光(フォートス)あれ」であった。神と共に言葉 (「λογοs(ロゴス)」があり、その言葉から「光 φωτοs
(フォートス)」が産まれる。ヨハネ福音書では神と共にあった言葉 (ロゴス)と光(フォートス)
にはキリストが宿っていたと語られている。写真術が開発されたとき、そしてその術が「フォトグラフ」と名付けられたとき、
キリスト教圏の人びとが旧約聖書の、もしくはヨハネ福音書の言葉を意識しなかったとは僕には思えない。
そして幾ばくかの神に対抗する意識が「フォトグラフ」への命名に繋がった、そういうこともあったように思える。
神の真の光「フォートス」は、近代の技術により写真術となった。それでは「ロゴス」はいったい何になったのであろうか。
写真術が開発された1839年から現在に至るまで写真が求めることは変わらない、と僕は思う。それは「ただそこに在る何か」 を写し撮ることである。そしてそれにより人間が「世界」を収集しえた、現実を把握しえた、と感じ取れるまで、 おそらく写真は撮り続けられるのであろう。そして写真を撮る眼差しの根本には神の眼差しが潜んでいるようにも思えるのである。
しかし日本において、写真の登場は西洋とは違っていた。江戸末期、写真術が日本に入ってきたとき、既に「写真師」 と呼ばれる人たちが存在していた。明治の始まりと共に日本の近代は突然に始まったのではない。 それは江戸末期から徐々に社会の変化はあったのである。当時はちょっとした旅行ブームで、旅行代理店なども存在していたという。 旅行者は、旅行する際に自分の似顔絵を細密画絵師に描いてもらった。そしてそれを「写真」と呼んだ。元々、「写生」と「写真」 は中国の画論から派生した言葉であって、そこには明確な違いがあった。西洋からの「写真術」渡来により、「写真師」 は徐々に絵筆からカメラに道具を変えていった。そして「写真」という言葉が残った。
「もちろん「写真」という言葉は、いわゆる写真、すなわちフォトグラフィーの訳語となるずっと前から、物の「真を写す」 という意味で用いられていた。もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、 道釈人物を対象とするこの 「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、 日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。」
(「幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに」 ぺりかん社 編者:辻惟雄)
日本の「写真」黎明期に忘れてはならない人物がいる。下岡蓮杖や横山松三郎、内田九一のことである。彼らが「写真術」
に至る経緯はその後の日本の「写真」を考える際に極めて象徴的である。一人は化学者から、一人は写真師(絵師)からの転職なのである。
つまりは、日本において「写真」とは「科学的」な見方と「芸術的」な見方の双方が、
時代と共にどちらかが重みを持ちながら歩んできているのだと思う。一方は、フィルム・レンズそして露出と絞りなどの化学・
物理的要素に重みを置き、もう一方では構成と色と被写体深度に重きを持つ。両者とも重要ではあるが、西洋との決定的な違いは、
「フォートス」の意味に対する重みであろう。日本には幸か不幸かそういう呪縛はなかった。「写真師」
の仕事に使う絵筆に変わる道具として登場し、それ故「フォトグラフ」は「写真」と訳され現在に至ることになる。
「フォートス」の意味に対する呪縛が無いことは、別の見方をすれば、日本の写真術発展史の中に、
西洋における一つの革新的な意識の変化はなかったことも意味する。それが日本の今に通じる写真の状態が現れていると、
僕には思うのである。つまりは、江戸後期に登場した「写真師」の延長線上に「写真家」は存在している。
無論これは根拠無い僕の直観ではあるが。
飯沢氏が言うように、「デジタルは写真を殺す」ことはない、と僕は思う。もともと西洋が意識する「写真(フォートス)」
はなかったのだから。世界にある数多いカメラメーカーの中で、日本のメーカーがデジタル化への移行が速やかに行われたのは、
単に技術的もしくはビジネス面だけで捉えられるべきではないと思うのである。ただ、デジタル化への移行により、
日本において殺されたものは確かにある、そしてその中に「写真家」が入るのは間違いないとも思っているが、大したことではあるまい。
ただデジタル化により、数量面及び技術面から、写真の位置づけに大きな変化が行われ続けているのは事実だとは思う。
スーザン・ソンタグの「写真論」が捉えた射程の長さは、
本評論が現在の日本における写真評論家達に与えている影響の強さを考えれば事足りる。2004年出版の書籍「写真との対話」
(近藤耕人編)の中で、「あらためてソンタグの「写真論」を読み返してみて、現代においても少しも古びていないことに驚いた」、
みたいなことが書かれてあった。少なくとも誰彼の著作に関わらず写真に関する考察が日本に乏しいことは事実ではあるが、
その理由として僕は前段で述べた、ソンタグの「写真論」に捕らわれ続けている日本の写真評論の現状が垣間見ることが出来る。
ただ僕が言うのは僭越ではあるが、仮にソンタグが現在に存命で活発な活動を続けていたとしたとすれば、おそらく「写真論」
の内容は大きく変わったに違いない、と思うのである。それはソンタグが冒頭の語り、それがソンタグの出発点である限りに置いて、
変わらずはおえない状況が現代にあるからだと僕には思える。
「この飽くことを知らない写真の眼が、洞窟としての私たちの世界における幽閉の境界を変えている。 写真は私たちに新しい視覚記号を教えることによって、なにを見たらよいのか、 なにを目撃する権利があるのかについての観念を変えたり、広げたりしている。写真は一つの文法であり、さらに大事なことは、 見ることの倫理であるということだ。そして最後に、写真の企画のもっとも雄大な成果は、 私たちが全世界を映像のアンソロジーとして頭の中に入れられるという感覚をもつようになったということである。」
(スーザン・ソンタグ 「写真論」 近藤耕人訳)
ネットおよびそこに展開するWEBの状況を鑑みたとき、現在において「写真」にそこまでの力があると実感は出来ない。問題なのは、
その写真に辿り着くまでのアクセスなのである。アクセスへと及ぼす行為にこそ、そこにイデオロギーがあり、そして何を見たらよいのか、
つまり何を知ったらよいのかを規定している。
現代においても「写真」は一つの文法であろう、でもそれはそれに付随するキャプションにより変化もする
(これについてはソンタグも語っている)。でも如何に優れた写真とキャプションであっても、人に見られなければ何の意味もない。
現在において文法となり、我々の倫理観を規定しているのは、日夜垂れ流されるネット上の情報であり、
蓄積されネット上でいつでも参照可能な映像である、それへのキャプションとなるブログを含めた各種メディアの存在なのだと思う。
忘れていけないのは、グーグルなどのネットにおける検索システムが、展開する国家の要請によりフィルターをかけている事実である。
そのフィルターは検索システムを提供する企業自体でもおこなう場合もある。例えば、二十世紀の代表的な写真の一枚である天安門事件の
「戦車を止める男」の写真は中国国内からアクセスは出来ない。無論、
チベットなどへの侵攻における惨状も写真などが検索できるとは思えない。
またソンタグも言っているが、写真の意味は、常にその写真の後からついてくる。写真の意味を変えるのも国家を含めた権力であり、
もしくはその時点で主流となるイデオロギーに他ならない。アクセスへの方向を左右する力とイデオロギーが意識的に結びついたとき、
おそらく我々の進むべき道は、選択が与えられているかのようで実際は操作されている、そんな状況に陥るのだろう。
しかも写真自体、本来的にバイアスがかかっているものなのだと思う。しかもそのバイアスは無自覚なことが多い。写真を撮るとは、
写真に撮られない現象があると言うことであり、その現象を撮さなかったということから写真家は逃れることが出来ないのだと思う。
「さらに、忘れてならないのは、「ナショナル・ジオグラフィック」誌が創刊から8年目の1896年に、 果敢な決断を下している点だろう。この年、本誌は世界の人々をありのままの姿で伝え、 写真に細工を加えるようなことをしないという方針を打ち出している」
(「ナショナル・ジオグラフィック傑作写真ベスト100」 編集長 William L.Allen)
「写真に細工を加えない決断」がそこにあったとしても、数万の写真の内から編集者が選択しキャプションを付けた時点で、 その写真はメディアが意図するイデオロギーを補強する部品となる。「世界の人々をありのままの姿」とは一体どういうことなのだろう、 それが一つのオリエンタリズムに陥っている可能性を誰が否定できるのだろう。ナショナル・ ジオグラフィック誌は確かに良質な写真を世界に送り続けている、でも僕にとってはそれはあくまでも写真の「リーダーズダイジェスト」 なのである。そして、僕にとって最も恐ろしいのは無自覚な思考である。
だからといってソンタグの「写真論」が、もしくは写真について語ることに意味が無いとも思わない。逆に各先達者を踏まえて、 現状における「写真の考察」を新たに行う必要があると思っている。そして、そこに考慮を加えるとすれば、 ソンタグの活躍した時期には想像も出来ないほどのデジタルカメラの普及だと思う。デジタルカメラはあらゆる道具に装着可能であって、 携帯電話に付いたデジタルカメラはネット上の一つのノードとなり空間を瞬時に無効化する。 ネットワーク的な視点での写真論の登場が必要なのだと、僕は思う。そして、前段の僕の意見に矛盾するかも知れないが、 少なくともソンタグの「写真論」の解釈次第で、それらも射程に入るか糸口が存在する可能性があるように、僕は思っている。
冒頭に戻るが、「デジタルは写真を殺すのか?」という質問は適切ではない。そもそも現代の日本に置いて「写真」 を語ることに意味があるのかという質問の方が、写真評論にとっては重要なのだと僕には思える。しかし現在でも写真評論家は、 写真専門誌上で「写真」だけを語る。彼等の射程の短さは、単に「写真」が人間の趣味の一つとしてしか、 その位置が許されていないかのようである。故に「写真論」は現在の日本では全く浸透していない結果となってしまったとも思えるのである。
「写真の考察」をなおざりにしてきた日本の現状が、諸外国の各著作者達の「写真論」の邦訳が滞っていることにも現れている。 2004年出版の書籍「写真との対話」(近藤耕人編)で中心となるのは、ベンヤミン、バルト、ソンタグの写真論御三家でしかない。 そしてその中での対談で、写真家畠山直哉氏は語る。写真家の存在自体が無くなっているのではないかと。求められているのは、 現代に即した、新たな写真への考察であり、その理論に基づき撮された写真なのである。 それには写真のことばかり考えている状況から脱しなければならない。そしてそれが現代の「写真家」 に求められていることなのではないかと、僕には思える。つまりは人間にとって重要なモノの一つである写真の状況を堕としているのは、 写真の専門家達なのだ。
この拙い記事は、僕が写真のことを考える出発点にする思いで書いている。だから僕が「写真の考察」を行う際の問題とする面をあげ、 僕なりの答は殆ど書いていない。「何故写真を語ることに意味があるのか」という問いに対してもなおざりにしたままだ。ただ「見る」と 「知る」はギリシャ語では語源を同じにすると言うことと、「知る」ことが人間の「活動」の元だと思うのである。それに写真とは、 それを人に見せた段階で多かれ少なかれ政治的なものに変化するのだとも僕は思う。答えになっていないが、 出発点としてはそれで十分だろう。
捨てられるから良いんです

近くの公園には梅林があり、ちらほらと花が咲き始めた。その中でも桃色の梅は花が早い。殆ど満開状態となっている。 小正月が終わったばかりだというのに、梅花は春の到来が確実にくることを僕に教えてくれる。
見ると年の頃60代と思える婦人が、両手でデジカメを持ち、背伸びをし少しでも梅花に近づこうとして写真を撮っていた。 僕はその姿を写真に撮る。するとそれに気が付いたのか、婦人が僕の方に振り向く。少し目線が合う。 そして僕の方に近づき話しかけてきた。
「梅はどうやって撮れば良いんでしょうか?」
質問の意味がわかるのに数秒かかった。どうやら梅花を撮っても画面全体が暗くなり、自分が思ったイメージにならないようだった。
「日を背にして、日が当たる梅の花を撮られると良いと思いますよ」、と答える。彼女はふむふむと聞いている。 きっとデジタルカメラを購入したばかりなのだ、そんなことを僕は推察する。続けて彼女は僕のカメラを見て、 「私も以前はフィルムのカメラを使っていたんです。でも今はこれ。写ったものが捨てられるから良いんです」と話してきた。
「あ、これもデジタルカメラなんですよ」、と僕は答える。その答えに彼女は驚き、そして「ああ、
今はこういうデジタルカメラもあるんですねぇ」と感心する。
それからはお互いのカメラ談義となった。婦人のデジタルカメラは、今使っているので2代目なのだそうだ。
その前はコンパクトのフィルムカメラを使っていたとのことだった。
「デジタルカメラは便利ですよね、捨てることが出来るから」、そう彼女は話す。気が付けば、彼女のカメラ談義の中で何回も 「捨てられる」という言葉が出ていた。どうやら婦人にとって、デジタルカメラの最大の利点は「画像が捨てられる」ことにあるらしい。 その意見が面白いなと思う。
話を聞いていると、どうもフィルムカメラを使っているときは、自分が気に入った写真もそうでない写真も両方とも焼き付けるので、 写真だけ溜まってしまいその処置に困っていたらしい。それがデジタル化することにより、気に入らぬ写真はその場で消去できる、 そのことが彼女にはとても良いことと思えるのである。
「パソコンはやられるのですか?」、と僕は聞いてみた。残念そうに彼女は首を横に振る。「もうこの歳では無理です」
「そんなことはないですよ」、と僕は言いながら、確かに今のパソコンのマンマシンインターフェースは、
ある意味、老齢を迎えられている方々には優しくないだろうなとは思う。
(マンマシンインターフェースには色々と思うことがあるが、それはまた別の話)
では彼女はデジタルカメラをどのように使っているのかと言えば、デジタルカメラに差しているメモリカード(256MB)は1枚だけで、 写真をある程度撮り画像が溜まれば、それを持って写真屋に行き、気に入った写真のみプリントアウトするのだそうだ。そしてその後、 メモリカードの画像は全て消去する。
フィルムカメラはフィルム代・現像費・プリント料などお金がかかる。でも気に入った写真は何枚も複製が出来るという利点があった。 デジタルカメラは、お金はかからないけど気に入った写真の複製が出来ない。そう彼女は語る。僕は面白いなぁと思う。
複製のしやすさ、画像の保存のしやすさ、画像管理のしやすさ、 それらは一長一短はあるもののデジタル化の方に軍配が上がると僕は思っていた。それが彼女にとってはどうやら逆らしい。
どうやら彼女にとって「写真」とは、紙に焼き付けられた(もしくはプリントアウトされた)状態を言うらしい。その前の状態は「写真」 とは言わない。それらは写真以前のもの、つまりはフィルムで言えばネガのような、そういう状態のようだ。そう考えれば、 婦人の写真への対応の仕方には一本の筋が通っているし、パソコンを利用しないデジタルカメラの楽しみ方としては、 ある意味合理的かもしれない。
婦人にとっては、フィルムもデジタルも関係ない。できあがる写真が気に入るか否かである。実を言えばその点で、僕は彼女に賛同する。
さらに「写真」とは紙に焼き付けられた状態のもの、との意見にも別に異論をはさむつもりもない。
「捨てられるんです」の背景に、「捨てられなかった(プリントアウトした)」貴重な一枚の写真が見えるからである。
個人が撮す「写真」とは「捨てられなかった」貴重な一枚の積み重ねにあるのかもしれない。そんなことを思う。
そのほかにも彼女から様々なことを聞いた。60代と思っていたけど、実際は70代だそうだ。夫が数年前に亡くなったこと。 自宅は四国の高松であること。娘夫婦が東京に住んでいて、年の三分の二はこちらで暮らしていること。 高松への往復時には必ず京都に途中下車し写真を撮りまくること。写真旅行で色々な場所に行ったこと。写真仲間の最年長で80代の方がいて、 その方の写真がプロに褒められ、とても嬉しいと言っていたこと。四国に行くときは、瀬戸内海の小豆島がお奨めであること。 カメラの他は手芸の趣味もあること。公園の近くに長渕 剛の邸宅が建築中であること、等々・・・。
だいたい一時間近くは話を聞いたかも知れない。でも話は面白かったし、第一僕は人の話を聞くのが大好きなのだ。 それに同じく写真が好きな僕にとって、年齢とは関係なく、彼女の話が自分に思い当たることも多かった。
自分が気に入った写真を、自分の友達に見せ、同好同士が見せ合い、色々なコメントとか評価をもらう。 褒められれば嬉しいに違いない。そしてそれら全てが楽しくてしょうがない。それは僕が頻繁にネットを通じてしていることと同じことでもある。 色々な人の意見を実際に試すことで、他人が喜ぶ写真が見えてくる、あとはそれと自分の感性との折り合いであろう。
さらに彼女はデジタルカメラの操作を覚えたことから、携帯電話の操作、特にメールについて、違和感なく習得出来たそうである。 人生を楽しんでいるなぁ、僕は彼女の話を聞きそう思った。そしてその中心にカメラがあることが何故か嬉しかった。
読書計画というか、もう少し弱い意志を持っての目標
年頭において僕は今年を如何に過ごすかを大雑把にイメージした。無論、今年は僕の人生にとっては去年の延長線上にあり、 年末年始の間に明確な境界線があるわけではない。 そもそも僕自身が今まで思い描いていた境界という状況事態が在るかとかいった疑問は持っている。境界を状況と僕は咄嗟に書いてしまった。 漠然とではあるが、ある種の実感が論理的ではないが、両者が関数的にイコールで結びつくような、例えば行動と状況がそうであるように、 そう思えているのである。しかしまた僕はこうも考えている。境界と状況が関数で結びつくのであれば、その境界事態はエセでもあると。
今年の読書計画と言っても、それは昨年来からの興味の対象である「写真」について、 もう少し集中的に考えてみようということを備忘的に記録するという事に過ぎない。出来れば写真についての多くの書籍を読もうと思うし、 映画に関してもそれは同様である。しかしその中でも、特に月間で集中的に読む書籍を定めようと思っている。 その本は出来ればレジメまでも書こうと思っている。以下に現在考えている写真関係の書籍をリスト化する。
- 「写真論」 スーザン・ソンタグ
- 「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ
- 「図説 写真小史」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「複製技術時代の芸術」 ヴァルター・ベンヤミン
- 「明るい部屋」 ロラン・バルト
- 「絵画、写真、映画」 ラースロー・モホイ=ナジ
- 「露出過多」 キャロル・スクワイアズ 他
- 「アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ」 アラン トラクテンバーグ
- 「写真の哲学のために」 ヴィレム・フルッサー
- 「視線の権利」 ジャック・デリダ
- 「写真論―その社会的効用」 ピエール ブルデュー
- 「写真と社会」 ジゼル・フロイント
写真について考えるとき、僕は芸術としての写真、もしくは写真を撮る技術に興味が全くないのに気がつく。そういうことよりも、例えば写真と社会、
もしくはもっと個人的な次元での写真について考える事に興味がある。
丁度12冊になったが、おそらく1年間と考えたとき12冊は厳しいと思う。何冊か落とすことになりそうだし、
全く別の書籍が入り込むかもしれない。しかし、前記の意味合いでの範囲なので、ソンタグ、ベンヤミンは欠かすことは出来ない。と言っても、
それらは既に以前に読んではいるのではあるが。でも今回は再読書であろうと、新たに読むつもりだ、それも何回も。
それに、例えばフルッサーの書籍を読むとき、彼の重要なエッセイ「サブジェクトからプロジェクトへ」の再読も必要になると思うし、
それはソンタグの「反解釈」も同様かもしれない。
ちなみに上記リストの順番は優先順位ではない。
ソンタグは彼女の「写真論」の中で以下のように語っている。
「ひとつの事件がまさしく撮影に値するものを意味するようになったとしても、
その事件を構成するものがなんであるかを決定するのは、(もっとも広い意味で)やはりイデオロギーなのである」
(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳)
写真を考えるとは、現世界と歴史を考える事なのである。一枚の写真が撮られた当時の意味はイデオロギーと共に変化する。 それは現在に住む僕にとっては自明の事だとは思う。でも写真を通じてあらためて考えてみたい。
そのほか昨年から読み続けている書籍(ハンナ・アーレント「精神の生活」)がある、これは難物だ。アーレントが亡くなったとき、 タイプライターに挟まった紙には「精神の生活」の第三章タイトルのみが書かれていたという。彼女の「思索日記」をパラパラとめくってみると、 「思考」・「意志」・「判断」について、つまりは彼女にとっての「精神」について、「精神の生活」執筆以前から考えていたことがわかる。 「エルサレムのアイヒマン」で悪についての考察で彼女は自分の考えを纏める気にさせたらしい。
アーレントは「エルサレムのアイヒマン」で「陳腐な悪」と語る。それに対し彼女の師でもあるヤスパースは次のように語る。
「アイヒマンが陳腐なのであって、悪は陳腐ではない」と。
また別の人は次のように指摘する。仮に法廷で被告人となっているのがアイヒマンではなくゲッベルスの時、アーレントは「陳腐な悪」
と言えたであろうか、と。
そのどちらの質問にアーレントは答えてはいない。しかしアーレントは次のように言う。「思考」が無いゆえにアイヒマンの行為があるのだと。
「精神の生活」は今年一年をかけて読もうと思う。その都度、このブログの中で何らかの姿で、僕が受けた影響が出るとは思う。
小説に関しては取り立てて読みたいと思うものは少ない。強いて言えば、「ジョイラッククラブ」(エミィ・タン)、「消去」 (ベルンハルト)くらいか。ただし、写真の話題が登場する小説は積極的に読んでいこうと思ってはいる。
ただそこに在るものを撮す

7日の東京は風が強かったがすこぶる快晴だった。この3連休の天候は荒れると人から聞いていたので、 連休二日目の快晴は正月休み最後のプレゼントに思え、僕はカメラを抱え表に飛び出した。
写真を撮ると言っても何も大袈裟な出来事を記録するということでもない。どんな写真でも、その人の、 おそらくは審美的な価値観より発する、写真を撮るだけの価値が対象にあるのは事実だと思うのだが、それ以前に写真に収める対象は、ただ 「そこに在る」何かであるのは間違いない。

そこに在るものを、そこに在るがままに撮す。ただそれだけ。それなのに何故これだけ熱中できるのだろう。
でも今回写真を撮りながら一つだけ、些末なことだけど、気がついたことがある。それは、そこに在るものを撮すにしろ、 カメラを構えるとき、対象がそのままでいることを強く願うことである。風よ少しの間止まれ、と僕は願った。猫が愛らしい表情を見せたとき、 その表情のままでいて欲しい、と祈ったりもした。
普段では、つまりカメラを構えていないときは、意識しないような感覚。仮に意識するにしても、例えば風になびく草花の姿を見るとき、 爽やかな風を肌に感じ、風音を聞き、ほのかに甘く漂う花の香りを嗅ぐ、それら人間の五感から受ける感動は花の姿だけからではない。 まして風に対し止めと願うこともない。
対象と僕の間にカメラを置くだけで、僕の感覚は少し変わる。それは良いか悪いかの価値判断などでは無論ない。
そして良い写真を撮りたいと望む。良い写真とは何かを知ることはない、でも僕はそれを知っているかのように、 写真を判別する

写真は、誰かが言ったように中毒性があると思う。その中毒性は、一つには対象を選択し、撮影のイメージを造り、 そのイメージに合わせ機械を設定し、シャッターを押す、それら一連の流れが自己完結することにある。それでいて対象との関係を構築し、 その関係に参加する、幻想とはいえ繋がりをそこに感じるのである。自己への引きこもりと他者への繋がり、 それらの両感覚が写真を撮る際に持ち、ひいては中毒性が生じるのではないか、と僕は思う。
お雑煮の話

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お雑煮は毎年食べる。大好きだ。と、言ってもこれは自宅での話ではない。毎年行く親戚宅でのお雑煮がすこぶる美味しい。
親戚の奥さんが造る雑煮は、彼女が東北の青森出身であることから、その土地の味であると思っている。
実を言えば僕の母も青森出身。家は昔下宿屋を営んでいて、母は毎日学生のために夕食を造っていた、だから言わばセミプロである。それでもお雑煮だけは造ってくれた事がなかった。
一度だけ、何かテレビの影響だと思うが、子供の時にお雑煮を食べたいと母にせがんだことがある。その時に初めてお雑煮を食べた。でもそんなに美味しくはなかった。初めて食べたと言うのもあり、お雑煮とはこういう食べ物なのか、という落胆と共に自分を納得させたのは、お雑煮とは一種の儀式に近い食べ物である、という無理矢理の発見でもあった。
無論、日頃学生のために食事を造り続けている母への遠慮も、子供ながらあったのも事実だった。だからか、
それ以降一度もお雑煮を造ってくれとせがんだことはない。
親戚のお雑煮を初めて食べたのは10年ほど前のことだ。初めて食べた時、今までのお雑煮に対するイメージがことごとく誤っていたのを知った。母が料理が得意であるのは間違いないが、お雑煮は苦手だったようだ。母が実はお雑煮が好きでなかった、ということを知ったのもその頃だった。
お雑煮はお国毎の味がある。お雑煮に決定版などはないと思う。単一などではなく複数の日本の正月の象徴のようにも思えてくる。
この国は思った以上に懐が深く、各人のイメージの日本を常に超えている、と僕は思う。勿論、それは日本だけの話ではない。
ただ自分が住む国の複数性を知ることが他国の複数性を理解できる要だと思えるのである。
PS:食べ物を写真に撮るのは慣れていない。少しも美味しく写っていない。でも僕にとっては最高のお雑煮である。
僕が撮りたいと望む写真

写真の一枚一枚には必ず5W1Hがついて回る。そしてそれらが写真の内容を示しているのなら、
写真の一枚はどんなものであれユニークな存在でもあると僕は思う。
しかし写真は内容よりも様式(スタイル)の方が重みがあるとも僕は思う。様式を中心に見れば、僕が写す写真はどれも似たような写真に見える。
しかもそれらはテクニック的に言えば、どれもこれも今までの写真の真似でもある。だからこそ、
その中で自分のスタイルを確立することの難しさが見えてくる。
今から80年ほど前、「新即物主義」という美術運動があり、写真の世界も少なからぬ影響を受けた。彼らは「世界は美しい」 との標語の元、様々な写真を写した。「新即物主義」の精神は、表現方法の道具としてのカメラと相性が良かったと僕は思っている。 主観を廃した物の美しさへの表現はまさしく写真にとっておあつらえ向きだったにだったに違いない。
「世界は美しい」という発想は、今でも脈々と写真家の中に生き続けているように思える。ただアルベルト・レンガー=パッチュの写真集 「世界は美しい」に掲載されている写真は、彼の主観を伴う美意識と構成したスタイルで貫かれている。それらを「新即物主義」 の美術運動に組み込むこと自体、正直に言えば多少の抵抗が僕にはある。
さらにこれもよく言われることだが、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」からの 「世界は美しい」に対する批評は、写真の対象への意味を露わにせず、またその現実さえも無視することを痛切に切り込み、 未だにその力を失っていない。
僕自身が写真の内容(意味)よりスタイル重視と語る先に、「新即物主義」 への再帰が当然の帰着として在るのだろうか。いやそういうことではない、 おそらく写真のイズムの中にスタイルへの道程が導き出されるように思える。そしてその写真のイズムには、 人間の現象界の境界線を乗り越えることは難しい。写真における新たな地平への模索は、僕にとっては悲観的なのである。おそらくそれは、 新たなスタイルの構築だけではなく、人間を核とした新たなテクノロジーとネットワークを持ってしか実現可能性はないのでなかろうか。 そんな気さえしている。
誰もが単純に「美しい」と思える写真ではなく、衝撃的な報道写真でもなく、 それでいて人間の感性の枠を広げてくれるような写真。現有するカメラのシステムで、偶然でも良いし、一枚だけでも良いので、 奇跡的な写真を撮してみたい。僕が密かに願っている事である。
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どうも自分が気に入った写真というのは、他の人からは大したことがない様に感じられるようだ。根拠としてはFlickrのVIEW数なのだから、根拠がないと言えばそうなのだけど、これは自分の他の写真と較べての経験則から来る実感なので、当たらずといえども遠からずだろう。
この写真も気に入っている。最近、カメラを向ける対象が光りと色彩の多い方に偏ってしまう。やはり写真も様々な光と色だろうと思うからである。
できれば、被写体深度が浅いレンズが一本有れば、もっと自分のイメージに近い画像が得られると思うが、無い物ねだりは無意味な事だと思う。それぞれに今ある環境で行うしかないのは何事にも言えることだ。
ただ、僕の思考の中では、この写真はもっと違う。もともとこの写真を撮る際に持ったイメージ、こう撮りたい、があって、それと較べてみるとやはり違う。(写真は人に見られるためにあるのは間違いないと思う。僕のイメージ通りであれば、もっと多くの人に見てもらえたかもしれない。)
カメラが表象の世界を有り体に写すしかないのであれば、僕はこれほどにカメラに熱中することはなかった。逆に、カメラは世界の表象と僕の精神を繋ぐ事が出来る道具だと思えばこそ、できれば、結果的に表象を出力するのであっても、どちらかといえばより精神的な方に偏っていて欲しいと願うし、そういう写真を撮りたいと思うのである。
勿論、僕の精神が表象することはない。さらに上記のカメラに抱く願いも幻想に近いことかも知れない。ただ、例えば、美しさの意味を知らなくても、それを指し示すことが出来るように。哀しみの意味を言葉で伝えることが出来なくても、それを指し示すことが出来るように。僕の精神の僅かな一片でも、写真で指し示すことが出来たらと思うのである。
指し示すことに、どのくらいの意味があるのか、僕には解らない。ただ多様な世界の多様な人々の中の私の多様を知ることが、人間の複数性を知ることに繋がると思うこと、そして各々がその一助を行うことで、世界は少しずつ良くなるような、そんな気がしている。
写真はスタイル

写真にとって一番重要な事は何かと問われれば、僕は「スタイル」であると答える。どの様なモノでも、 写真家はファインダ越しに対象を捕らえるとき、スタイルを考えざるを得ない。光線の加減、構図の模索、色彩の配置、 等々と写真家が考えることは多い。
写真の内容が重要視される場合でも、スタイルの重みが消えることはない。無論、写真の内容に重みが行くほど、 選択するスタイルの幅は少なくなるとは思うが、決してスタイルの重みが軽くなると言うことではない。
写真に内容が求められるのは、いかなる場合だろう。例えば、親密度が高い関係の者の写真はそれに該当する。 誰でも自分の愛する者の写真は、写真のスタイルの善し悪しとは関係なく、常にそれを見る者にある種の情感をもたらせる。
風景写真を内容重視でみれば、それは絵葉書に近いものになる。女性の裸体はポルノとなり、 ある種の状況を撮した写真は内容重視で報道写真となる。いずれにせよ、そのスタイルは内容をより際だたせる方向となるのは間違いない。
写真は表象した世界を対象としている。よって写真のスタイルは、あくまでもその表象を崩すことには向かわない。例えば、 椿の葉を撮すとき、写真家によっては葉の色をオレンジにするかも知れない、しかしその場合葉の形を変えることは殆どないだろうし、 他者が撮された写真を見ても「椿の葉」であることが理解できるように配慮することだろう。
写真を撮す対象が表象した世界である限り、その枠を越えることは難しく、 あくまでもスタイルは表象界の中で常識の範囲を超えることはない。Flickrなどの写真サイトで多くの人が「美しい」と感じる写真は、 それ故に民族を越えて美しいと感じられることになる。
僕が写真を撮ることに熱中してからしばらく経つ。始めに興味を持ったのは「写真を撮る」という行為であった。 だから結果としての写真には、それほどの興味がなかった。
ある対象を写真に撮りたいと思い、それにカメラを向ける。そしてカメラを通して対象の見つめ、色々と構図を決め、 その中でピントを合わせるポイントを定める、実際にシャッターを押すかどうかは、それらの試行錯誤が、 対象を見たときに抱いた朧気なイメージに近く、より具体性を帯びた内容になったと確信してからである。
スタイルが定まったとき、僕はシャッターを押す。無論、それで写真が出来たとは思えない。現像という処理が後ろに控えている。つまり、 写真を撮るという行為には、写真に撮りたいという情動、その対象をどの様に撮すかの模索と確定、そして現像処理、 の3つの段階が有ると言うことになる。そしてそれぞれに、写真家は「思考」と「意志」と「判断」という精神活動を行うことになる。
カメラという不思議な機械は、表象界(及びその身体性)を対象にしながら、強く精神活動にも結びついていることにあると、 僕は思っている。時々僕は、「写真を撮るという行為」は「行為」もしくは「行動」と言えるのだろうかと疑問を持つ時がある。よく聞く、 「写真は対象と語りながら撮っている」という言葉、それは実際面では、一体誰と語り合っているのだろうか。
これらのことを含め、僕は写真についての思索を、時折、本ブログに書いていこうと思う。つまらぬブログで、さらにつまらぬ内容、 でもカメラ、写真について、その技術面以外の話は僕にはとても大事なことのように思える。
写真に撮されると言うこと
誠に勝手な話だが、僕は撮されるのが苦手だ。だから出来れば撮す方に回りたい。カメラを構える人に、おそらく同様の意識を持ち方も多いかも知れない。いわば、酒を飲みたくないが故に、酒を人につぐということと同義だと思う。
カメラを向けられると、所在のなさに、落ち着かない。いわば、自分の思考の世界に退き安住しているのに、強制的に内容もわからぬ舞台にいきなり放り込まれたような、そんな気分。台本があり、自分の役割が明確であれば落ち着くことも出きるのだろうが、それさえもない。そして、カメラを構えいる観客、その目を意識する。
一番良いのは、観客であるカメラを構える人を無視すればよい。自分の舞台をあくまで崩すことなく、その中で自分を演出する。丁度この写真の、花屋の主人のように。
でもどうしてもカメラを向けられると意識が過剰となる。こればかりはどうしようもない。だから、カメラを向けられる嫌気もわかる。しかし、カメラを構えると人を撮りたい衝動に駆られ、そしてその衝動に負けてしまうのである。誠に勝手な話だ。
公衆電話ボックス
Flickrからのテストを兼ねたブログ投稿。
携帯電話がこれほど普及すると、公衆電話を利用する方を見ることが滅多にない。たまに見かけると、ボックスの中で公衆電話を利用するのではなく、自分の携帯電話で話している。ボックス内の明かりを、電話で話しながら何かを読むために利用しているのだ。
それでも夜歩くとき、特に人通りも明かりも少ない時、公衆電話ボックスの明かりが嬉しくなるときもある。
そう言えば家の付近は公衆電話ボックスが意外に多い。この写真は、その中の一つ。普通に見かける明るい緑色の電話機ではなく、ウグイス色の電話機が、ボックス内の明かりに照らされ、より色が映えて見えた。
ボックスの横を少なからぬ車が通りすぎる。人が使わぬ公衆電話は何故か寂しく見える。いずれこの公衆電話も撤去されていくかもしれない。時代によって産まれ、時代の流れの中でなくなっていく。それは致し方ないことだのだろう。
それでも、流れゆく時代の中で、立ち止まって会話し思考する、そういうことが必要なのも間違いない。公衆電話の写真を撮りながら、そんなことを思う。
駒沢公園の紅葉

駒沢公園の紅葉が終わりを迎えようとしている。トウカエデの多くは、その葉を朱に染めることなく散り始めた。 それでも何本かは葉の先端が朱色に染まる姿を見せ、緑と黄色、そして朱色の混じった美しさを見せてくれる。
公園にはイロハモミジもしくはオオモミジは少ない。イロハモミジはトウカエデと較べ紅葉する温湿度の境界が低いようだ。 彼らは美しい紅の色を誇るかのように、見事な姿を惜しげもなくさらしている。しかし、どうだろう、他の土地のイロハモミジと較べて、 少し黒い様にも思える。

何故に彼らは紅葉するのだろう。その問いは昔から持っている。答えとして、葉緑素がどうかとか、化学変化を中心とした仕組みとか、 そういう事ではなく。彼ら、つまりカエデは何故赤く、イチョウは黄色く、その他の全ての紅葉する植物はそれぞれの色で、 紅葉するのかと言う質問なのである。
その質問は、何故世界は多様性に満ちているのか、という問いかけと同種だし、 そして損得を中心とした考えでは答えることが出来ないように思える。多様性とは外部の事であり、多様な外部への表象の為に、 器官などの内部が機能するとすれば、生命とは表象そのものとは言えないだろうか。そう考えると、カエデ等が紅葉するのは、 世界に表象するため、という思いが浮かんでくる。
無論、紅葉は人間のためだけではない。「美醜」の概念は人間にとっては恣意的だと思うが、世界に投じられた人間が、 表象的な世界の中で「美醜」の概念を形成したとすれば、ある意味、人間の「美醜」を含む「審美的価値」の成立にカエデの紅葉が、 一翼を担っていたともいえる。
六義園
駒込にある六義園に行ってきた。東京でも紅葉で知られている公園である。紅葉の盛りの時に限り、夜間ライトアップがなされる。 幻想的な夜の紅葉は一見の価値があると思い、出かけたのだが、この時期でも紅葉しているイロハモミジは半数くらいで、 例年と較べると少ないとのことだった。
でも初めての六義園に僕はじっくりとその世界を堪能した。人は多かったが、細い道を行列が出来る程ではなく、 所々知られている鑑賞ポイントが多少の人混みがあるくらいだった。おそらく、 僕が言った日では紅葉は十分ではないことを多くの人が知っているのだろう。
来場者の半数以上が何らかのカメラを持っていた。三脚を持っている方も多い。 確かにこの暗さでは三脚を使わずの撮影は苦労することになる。しかし時折の園内放送によれば、歩道の幅が狭いが故に、 三脚での撮影を禁止しているようでもあった。僕自身はK100Dにメインカメラをしてから三脚は殆ど持たなくなった。 K100が搭載するブレ補正が強力で多少の暗さでは手持ちでも十分に耐える。
ただ六義園の暗さではそれも適わなかった。そこで歩道の足下を照らす証明の上にカメラを置き、それを三脚代わりにして撮した。 ライトアップする証明の影響で、明かりに照らされた紅葉は輝いて美しい。しかし写真では、その箇所が白飛びしてしまう。その為には露出補正をプラスの方向で変更しなければならないが、その時は確実に三脚を必要とする。
道々に安全のために立っている係員が、今年は昼に来た方が紅葉の赤を堪能できますよ、と話していた。それでも道を照らす明かりは細々で、全体ではとても暗く、その中でライトアップされた樹木を眺めているだけでも、その樹が紅葉していなくても、幻想的なその姿は十分に楽しむことが出来た。
今回は初めてと言うこともあるが、ライトアップされた紅葉が、写真となったときにこれほど色が白跳びするとは思わなかった。そして園内の暗さ。これら撮影時における問題への対応を考えれば、写真でさらに様々なイメージを構築することが出来るかも知れない。
写真において、自分が見たままを基本に画像を調整することは、僕には違う。僕が見たままというのは、それは誰が見ても、 脈路自体が変わることはないが、細かに言えば僕にしか見えないイメージでもある。僕の目は、肉体的に言えば、 眼を動かす6つか7つの筋肉が衰えているかも知れない。また眼球にあるレンズの解像度も悪いし、 色彩に関する感覚も識別に関して多少自信のなさもある。それら実態を加味すれば、眼から脳内に流れる情報量とそれに基づいて作られる像は、 僕自身だけの像であるのは間違いない。
故に、僕が見たそのままを忠実に写真イメージとして構築することは意味がない、と思うのである。逆の考えもあることは無論理解するが、個別から普遍性なイメージに昇華し、それを作ること、具体的には、現実的な可能性の中で、印象的な写真を作ること。それが今のところ、僕の現像時の方向となる。
六義園では比較的年配者が多かった。しかも一人での鑑賞は殆どいなかった。思いのほか寒く、シャッターを押す手が冷えてかじかむ。 途中で、休憩所が幾つかあり、そこでは焼き団子とかうどんとか暖かい食べ物が売っていた。焼き団子を食べる。 タレはどうするかと聞いてきたので醤油でと答える。美味しかった。
その休憩所から少し歩くと、六義園のメインとも言える大きな池があり、池の周囲に植えられている、松、モミジ、 等がライトアップされて鮮やかに色が浮かび上がる。しばし見とれて眺めている。人が多くても話し声は殆ど聞こえない。音があっても、 この風景の静寂の中に呑み込まれていったような、そんな感じを持つ。
六義園への道程
- 交通 JR山手線・地下鉄南北線駒込徒歩7分/地下鉄三田線千石徒歩10分
- 開演時間 9:00~17:00(入場は16:30まで) ライトアップ期間は21:00まで。
- 入園料 一般:300円 65歳以上:150円
- 休み 年末年始
K100Dを使い始めて約2ヶ月

ペンタックスK100Dを使い始めてから約2ヶ月経つ。それまで使っていたSONYのサイバーショットが不調となり、 もともとデジタル一眼が欲しかった事もあって購入した。その間にK100Dの上位機種であるK10Dが発売され、そのカタログを見たり、 実機に触ったりして、それまで思いもしなかったK100Dの不足部分が逆に浮かび上がってきた。と言っても、 K10Dに買い換えるという話でもないのであるが。
K100Dは、使い始め早々から二点ほど不満があった。一つはファインダーの倍率がカタログ値0.85とあり、 現行最新機に較べ若干低いこと、二つめがISO感度をAUTOにした時、露出補正を行うとISO200に固定されてしまうこと、だった。
一つめはK10Dでは倍率0.95倍に改善されている。でも後日、ファインダーオプション「O-ME53」 を装着すれば倍率がさらに1.18倍することがわかった。僕の眼が近視のうえ乱視も混じっているからか、ピントを合わせるのに苦労していた。 だから、このオプションは僕には必須だと思っている。
二つめは、K10Dで改善されているのか確認していない。その他、細かな点では、 デジタルフィルターがRAWでの撮影時には使えないとか、RAWファイル形式がペンタックス独自形式しか使えないとかあるが、 それらは別途現像処理などで加工が可能なので、特に不満を感じているわけではない。
上記二つの不満を見る限り、僕にとってK100Dは、殆ど満足しているカメラであることが逆にわかると思う。でもK10Dが登場し、 その仕様を知り、羨ましくなるのが二つあった。それは解像度の話ではない。防塵防水対策が施されているフレーム、 RAWへの一時的な切り替えボタン、これらはオプションなどでは如何ともしがたい機能なので、K10Dを触った時、 一瞬買い換えようかという思いが浮かんだ。
K100D購入時は、練習も兼ねて色々なモノを撮った。その時はJPEG形式での撮影が殆どだった。 RAW形式は以前のコンパクトデジタルでは機能としてなく、正直言えばRAWがどういうモノなのかも全くわからなかった。 でも試しに一度RAW形式での撮影をし現像処理を行ってから、その面白さ、写真を自分のイメージに近づけられること、 等から離れられなくなった。今では殆どRAW形式となった。
そうなるとK100Dに標準添付していたRAW現像関連ソフトの性能が気になってきた。一言で言えば、 標準添付ソフトは最低限の機能しかない。撮影だけでなく、現像処理によりイメージを構築していくのも、デジカメでの面白さの一つだと思う。 少なくとも僕はそうだ。その点で標準添付ソフトは不満が多い。そこで別途にSYLKYPIXを購入した。
後は折角の一眼なので、色々なレンズを使っていきたいと思う。今のところレンズキットのレンズしか持っていない。 レンズ購入で狙っているのは、とりあえずは固定焦点で明るいレンズ。出来れば被写体深度が浅く、絞りバネ枚数が多いモノが良い。 昔のレンズも視野に入れ、色々とネットで情報を見ている。
その他、撮影対象としてネコが多いせいか望遠ズームも欲しい。それは200mmもあれば十分。 それらもぼちぼちと揃えていければと思っている。
moo mini cards
Flickrには投稿したユーザの写真を楽しめる様々な外部印刷サービスがある。 その中の一つ「moo mini cards」 が事業開始キャンペーンとして、FlickrのProユーザー向けに無料で10枚作成できるというので依頼していた。
実を言えば、依頼したのが一ヶ月近く前だったので完全に忘失していた。だから英国からのエアメールを見たときは、 覚えがないので、何か新手のDMか何かだと思った。でも好奇心から開封し中を見たとき、依頼したことを含めてすっかりと思い出した。
期待していなかった分、僕にとっては素敵なプレゼントだった。
「moo mini cards」については、上部の写真を見ればどの様なモノかがわかると思う。写真が印刷されているが、それらは総て僕がFlickrに投稿した写真となる。「moo mini cards」では、申し込みの際に、Flickrに投稿した写真を選択し、印刷範囲を決め、そして裏面に何を印字するかを決める。
「moo mini cards」の一枚はちょうど少し幅広のガムという感じの大きさ(28mm x 70mm)で、厚みがあり、裏面の印字欄を上手く使えば、ちょっとした名刺代わりになる。表面の写真と相まって、受け取る方も普通の名刺よりは、受ける印象もより強いかも知れない。
写真の印刷品質は、光沢なしの絹目調という雰囲気で、品質も高く(極めてというわけではない)、名刺代わりのカードの用途として使うのであれば十分だと思う。
何よりも、カード一枚毎に自分が撮した写真が表面を飾るのであるから、愛着はひとしおで、それは名刺と較べようがない。
ただ「moo mini cards」にすべく写真を選択する際、写真はカードの大きさに縛られることになる。28mm x 70mmの大きさは、通常であれば、撮した写真が総て印刷出来ない。つまり、選択した写真の何処を印刷するかを決めなければいけなくなる。そこで問題となるのが、写真全体を使って構成し撮した写真は、カード化したとき、思った以上に良い結果にならないと言うことだ。
結論から言えば、良く見える(美しい)カードを作るには、カードの大きさに則した構図の写真を選択した方がよい。まぁ、それほど悩む問題ではないが、多少の考慮が必要ということである。
それに「moo mini cards」の写真選択から発注までの流れが、しっかりと造り込まれていて操作がとても気持ちよかった。勿論途中で選択写真の変更なども直感的にできる。この操作感を興味が有れば実際に味わって欲しい。
すっかりと「moo mini cards」を気に入ってしまった僕は、こういう事だったら、裏面に印字する内容をもっときちんとすべきだったと後悔した。そこで再度発注(有料)することにした。100枚で19.99ドル、しばらく送料は無料とのこと、僕は満足感を考えれば決して高いとは思わない。
今度は忘れることはないだろう。発注したのは昨日だが、今から首を長くして待っている。
追記:無料10枚作成キャンペーンは既に終了していました。
メタセコイアにまつわる雑感 「戦後におけるメタセコイアの意味」

駒沢公園にはメタセコイアが4本植えられている。いつに植えられたのかは定かではないが、 多分公園が出来たときに一緒に植えられたのではないだろうか。そうすると約40年以上は経っていることになる。
少し前まで僕は第一競技場(陸上競技)脇に植えられている樹木は落松だと思っていた。
明らかに針葉樹で、秋に紅葉し冬には落葉する樹木と言えば落松しか思い浮かばなかったのである。
メタセコイヤ、和名「あけぼの杉」などは名前さえ知らなかった。
勿論今となってはメタセコイヤが広く知られわたっている樹木であることは知っている。
それでも以前、 例えば戦後間もない時期と今を較べれば、知名度は雲泥の差があるかもしれない。
80万年前に日本列島を最後に絶滅したと思われてきたメタセコイアが、中国に現存しているのがわかったのは、 太平洋戦争直後のことだった。
それまで多くの化石遺体として発見されてきた木は、米国などで現存しているセコイア属の一種だと思われていた。 それを日本植物学者三木茂は別の属であることを化石から証明し、1941年の論文の中で「メタセコイア」と命名した。
そのメタセコイアが1946年に中国で見つかり、中国植物学者から米国植物学者へと標本が送られる。
そして1948年に中国現地に米国植物学者が訪ね多くの標本・種子を採取する。その中の一部が1949年に日本(小石川植物園、昭和天皇)
に届くのである。
齋藤清明著「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中央公論社)によれば、日本にメタセコイアの苗木及び種子が届いた時の状況を 「戦後復興のシンボル」と題して次のように語る。
「ところで、「生きた化石 米から苗木 日本で栽培へ」の記事が載った『毎日新聞』大阪本社版1949年(昭和24年) 11月11日付の同じページに、「ノーベル賞受賞 その日の湯川博士」も載っている。(中略)
ちょうど1週間前の11月3日、ストックホルム特電で送られてきた「湯川博士にノーベル賞」は、日本中を沸かせたビッグ・ ニュースだったが、その続編がまだ紙面を飾っていた。」
「またメタセコイアが載った同じページの下のほうに、 「古橋らの南米行きは見合わせ」というベタ記事もみえる。
(中略) 「フジヤマの飛び魚」とはやされた古橋たちも、当時の日本の誇りだった。 (中略) 夏の「水泳ニッポン」に続いて、秋の 「文化の日」に飛び込んだ湯川博士ノーベル賞受賞、そしてメタセコイアだった。」
「日本人科学者が戦中に命名した化石植物が、 中国で戦後すぐに生きた大木で見つかり、アメリカ人科学者が日本に苗木を届けてくれる。まず天皇に。そして日本各地に植えられる。
メタセコイアもまた、日本の誇りのように思えた。戦後の明るいニュースだった。」
(上記総て 齋藤清明著 「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中公新書) から引用)
敗戦直後の状況で、水泳における古橋たちの活躍と湯川博士のノーベル賞受賞が、 当時の人達にとって誇りに思えるのは僕にも理解できる。でも何故メタセコイアの苗木が日本に届くことが誇りに思えるのか、 この本を読んでも、正直言えばよくわからなかった。
確かに明るいニュースであることは間違いない。でも誇りに思えるという、
強い情動を持ち得る程とも思えなかったのだ。
昭和天皇に届けられた事だろうか。確かにそれもあるだろう。日本人がメタセコイアを命名したと言うことだろうか。
確かにそれは強い動機となるだろう。
でもそれだけではないように僕には思えた。
こう捉える事は出来ないだろうか。古橋らの活躍は「肉体」における自信回復、 湯川博士のノーベル賞受賞は「頭脳」における自信回復、そしてメタセコイアのニュースは「日本」そのものの「再生」への希望を。
メタセコイアの記事により、多くの人は、
列島で100万年~80万年前まで繁殖していたのを知っていたことだろう。そして、中国を除いて、
メタセコイアにとって日本が最後の繁殖地だったことも。
おそらく「メタセコイアが日本に届く」ということは、メタセコイアが故郷に戻るような、そんな感覚を持ったのではないだろうか。
そしてその事は、荒廃した日本の復興へ向かう時期に合わさることで、一度絶滅したと思われていた木が現存していた、と言う事実と共に、
そこに「日本」もしくは自分たちの将来を重ねたいという願いもあったかもしれない。
勿論、メタセコイアが繁殖していた時、「日本」などは存在しない。 人も住んでもいない。でも例えば「富士山」に日本のイメージを重ねるように、 メタセコイアに日本のイメージを重ねたとしても不思議でもない。
メタセコイアは、まず小石川植物園、次に皇居に植えられた。
昭和天皇はこの木を愛されたらしい。
メタセコイアの和名は「あけぼの杉」と言う。古くからあるという意味で「あけぼの」を付けたらしいが、僕にとっては「あけぼの」とは
「始まり」の意味もあるように思う。
昭和天皇は、メタセコイアではなく、和名の「あけぼの杉」 での呼称を重んじられた。勿論、昭和天皇の御心を知ることは出来ないが、日本の復興と「あけぼの杉」 の成長を重ねた御心は察することが出来る。
このとき、日本の歴史の中でも希なほど、天皇と人々の気持ちが近かった。 僕にはそう思える。
昭和天皇の巡幸と時期をほぼ同じにして、メタセコイアの栽培ブームが始まる。
桜で言えば「ソメイヨシノ」が戦後に多く植えられたように、メタセコイアも各地に植えられていく。
天皇の巡幸と「ソメイヨシノ」及び「メタセコイア」の栽培。それを繋げてみることは考えすぎだろうか。
「ソメイヨシノ」が日本の風土を一つのイメージにする為の栽培と較べると、
メタセコイアの栽培は一過性のブームでしかなかったかもしれない。
ただ、当時の人達にとっては、人間の手により汚されていない時代の彼方から、突然に現れたメタセコイアを植えることにより、
そこに現れる姿は、維新後・戦前の姿でなく、もっと遙か昔の「日本」誕生以前の姿であること、そしてそこから「始める」のだという思いも、
そこにはあったように僕には思えるのだ。
それは戦争で荒廃した場所に「ソメイヨシノ」を植えることにより、
イメージとしての「日本」を再生する行為とは異質の物だと思う。
しかし結局メタセコイアの栽培ブームは、ほぼ東京オリンピックの少し前あたりから冷めていくことになる。そうそれは「白書」で
「既に戦後は終わった」と宣言がされたのとほぼ同時期でもある。僕が駒沢公園で見たメタセコイアの木は、
ブームの終わりに植えられたのである。
僕も含めて、人々の記憶から「メタセコイア」は、「戦後の復興の象徴」
としてでなく、単に「生きた化石」として残るようになっていく。
多分、戦後間もない時期に人々が思い描く「メタセコイア」のイメージと、現代人が「メタセコイア」に向ける眼差しは、
全くと言っていいほど違うものだろう。
しかし昭和天皇は違っていた。昭和天皇がご健康な時に出られた最後の歌会始 (昭和62年)で、お題「木」の御製は「あけぼの杉」を歌われている。
「わが国の たちなほし来し 年々に あけぼのすぎの木は のびにけり」
(齋藤清明著「メタセコイア-昭和天皇の愛した木」(中央公論社)から引用)
また昭和天皇は吐血後の小康状態の時、侍従に「あけぼの杉」 の事を訪ねられたとも書いてあった。一人昭和天皇だけは、メタセコイアへの眼差しは戦後から変わることがなかった。
僕は、昭和天皇の日本の復興への思いの深さを知ると共に、
それ以上に感じることは、日本は昭和天皇を置いて別の道を歩き始め、昭和の終わりにおける、その両者の距離の遠さである。
昭和天皇が踏みとどまったのではない、置き去りにされたのだ。そして最期の時は、装置として、メンテナンス報告を受けるかのように、
毎日体温などの数値データを人々に提示し続ける存在として。
メタセコイアは、天皇と人々の気持ちが近づいた戦後の物語に登場する。
そしてそれは語り続けられることのない物語かもしれない。
僕は公園に植えられているメタセコイアの木が好きだ。真っ直ぐに、
上に行くほど細く、遠望し見れば綺麗な円錐の姿、幹は無骨で木肌はささくれ立ってはいるが、堂々とした姿をしている。
四季折々に姿を変えるのも楽しい。しかしやはり緑が美しい初夏がよい。
樹木の話をすることは人間の話をすることでもある、と僕は思う。 メタセコイアの新たな繁殖も、人間の力を借りなければ成り立たなかった。それでも人間の思惑を越えたところに、樹木は存在している。 メタセコイアを眺めるたびにそう思う。
犬の散歩、それは恐ろしい体験
公園に行くと犬連れの人が目立つ。犬を飼うというくらいだから、連れて歩いている人は皆犬好きなんだろう、などと愚にもつかぬ事を思う。
犬好きは、公園の散歩などで、お互いに犬好きであることがわかる。猫好きの場合はそういうわけにはいかない。自ら「私は猫が好きです」、 と宣言をしなければ、互いに知るよしもない。だからといって、そんな宣言をする人もいない。
一度だけだが、家で飼っている猫を公園散歩レビューさせようと思ったことがある。冗談ではなく真面目にそう思った。 そして猫の散歩用の紐(ちゃんと売っている)を買ってきた。でも試みる以前に、しばらく猫と過ごし、それは叶わぬ夢であると思った。
でも今では、猫が犬の様に散歩をしなくても良いことが何よりも嬉しい。猫との生活は、必要以上に干渉しないこと。干渉せずとも、 見ているだけで、側にいるだけで楽しい。
一度友人宅に行ったとき、その家で飼っている犬の散歩を頼まれた。何で僕がと思ったが、夫妻はそろって用事があるという。 お互いに気心が知れた仲だし、別に頼まれたことで嫌な気分になることもない。
外では黒くて大きな犬が、「キャンキャン」と散歩に連れて行けと吠え続けている。聞けばここ2・3日散歩をしていないらしい。
「ストレスが溜まっているんだなぁ」、などと友人が他人事のように言う。
「おいおい、それを僕に連れ出せと言うのか」、少しだけ怖じ気づき僕は言う。
友人はにやにやと笑っている。その顔で僕は苦笑し、なんて奴だと友人を見る。
一応歩くコースを教えてもらったが、見知らぬ土地で具体的に言われても、言われた方が困る。 まぁ犬が帰り道くらい覚えているだろうと高を括る。
僕はその時まで一度も「犬の散歩」なるものを経験したことがない。公園などで見かける姿は結構優雅である。 しかしこの犬は凄かった。今までの僕の犬の概念が根底から覆されたのである。
犬の散歩があれほど力を必要とするとは知らなかった。おそらく犬にとっては見知らぬ人間、 つまり僕などは初めから眼中になかったのだろう。静止の言葉も聞かず、逆に俺に続けとばかりに、僕を引っ張り、自分の行動を譲らない。
これじゃあ犬の散歩か僕の散歩か区別が付かない。しかも友人宅からどんどんと離れていく。そんな時、不意に犬は立ち止まり、 鼻を地面にこすり臭いを嗅ぎ始めた。そしてその後の小便。そしてまた僕を引っ張り歩き始める。そして止まり臭いを嗅ぎ小便。 その組み合わせを5回以上は繰り返したと思う。僕はただ呆れるばかりである。
まずは、よくもまぁこんなに小便が出るものだという驚き。この犬は必要な時に小便を出す特技でも会得しているのだろうか。 もしくは出すと止るを自分の意志でコントロールできるのだろうか。それともこれが犬の特性なのかもしれない。 もしそうだったらこいつは凄い。
犬の行動は、多分、自分の縄張りを小便で宣言していると思う。しかし公園での見かける犬の散歩で、同じ仕草を見かけたことがなかった。 逆に動物として縄張りを宣言するのは必要なことなのかもしれない、などとあらためて僕の前で臭いを嗅いでいる犬を見てそう思う。
そうすると今まで僕が公園で見てきた犬たちは、あれは一体なんだったのだろう。
見知らぬ土地で、犬に引っ張られ、どんどんと友人宅から離れ、しかもあたりは夕闇が近づいている。そんな中で僕は、 そんなことくらいしか考えられないほど、この犬の従者になりつつあった。
この話の結末はどうなったのか。それはありきたりの話だが、友人がいつまでも戻らぬ僕等を気にして、 犬が行きそうな場所に来てくれて僕は解放される。
二度と犬と散歩はしたくない・・・
癌について少し考える
僕は「末期の癌患者になった従兄弟」という話の中で、「それこそ生死をかけ、彼の持っている力の全てをもって戦うのである」、と書いた。 その眼差しで従兄弟のことをみれば、なすすべもなく崩れていった彼の姿しか思い浮かばない。癌との戦いは消耗戦であり、 少しずつだが確実に彼の肉体を侵略し、ついには完全に屈服させられる。彼は癌との戦いに負けたのだ。
上記の眼差しは、 僕は知らぬ間に従兄弟が癌に罹った聞いた時点から、自分の気持ちの中にあったのだろう。そしてその癌への見方が、 「戦う」という文章になったと僕は思う。しかし今ではその見方が違うのではないかと思っている。
「癌との戦い」、癌治療に対し軍事用語が頻繁に使われる。癌は肉体を地図としたとき、まず人知れず橋頭堡を確保し、 そこを起点として勢力を徐々に拡大していく。目立たずに侵攻する様は見事としか言いようがない。それに対応するには、進行(侵攻) を止めるべく行う化学療法、もしくは癌が在る部分(橋頭堡)自体の切除となる。
「戦い」と言うからには、双方に戦う相手が必要となる。片方は病気としての癌と言うことになろうが、もう一方は誰なのであろう。 おそらく患者自身は、癌との戦いに参戦している意識は薄いのではないかと僕は思う。人は誰でも重い軽いの隔てなく病に罹る。その時、 例えば単なる風邪であっても高熱であれば、病人はただ朦朧とした意識の中で横たわるしかなく、後は自分自身の免疫力と、 周囲の介護に身を委ねるしかない。意識の上での病人はただ無力である。
ただ、病としての癌のイメージとして、そこに戦争が在る限り、患者は突然の医師の宣告により戦場に投げ出されることになる。 ただ実際に戦う意識を持つのは医療関係者と患者の家族かもしれない。そして双方の狭間で、患者は「癌との戦い」の兵士ではなく、 単に戦場としての地図であることを意識し、人として無力感を持つに至るように思える。
従兄弟が腸閉塞と患部切除の手術を受けた後、医者は彼に対し食事と運動を強く促した。おそらく具体的に「戦い」 に参戦せよとの要請であったに違いない。しかし彼は両者とも出来なかった。食事と運動、それが程度の問題に関係なく、 その行為自体においても人間は力を必要とする。気力の問題以前に彼にはその力がなくなっていた、おそらく手術がその力を奪った、 僕にはそう見えた。
癌以外にも人間はそれこそ多くの病気に罹る。でも「戦い」と公然に呼ばれる病は意外に少ないと思う。例えば「老人性痴呆症」 は病であるが、だれもそれを「戦争」とは言わない。もしかすれば介護はそれこそ「戦い」に近いと思う。ただ仮に「戦争」と呼ばれたとき、 戦うべき「敵」とは一体何を示すことになるのだろう。
病としての「癌」のイメージは「戦争」に結びつく。そして誰も好きこのんで「戦争」に飛び込みたくはない。 だから検診などで癌マーカーが出ていない事を祈り、癌予防に効くと云われればそれを試し、 発癌性物質があると言われる製品からその身を遠ざける。 でも企業などが行う定期検診の殆どは、 法令で定められた最低限のことしか行っていず、そこでわかる病もあるが、 それ以上に見逃してしまう病のほうが圧倒的に多いのではないか、そう思っている。
実際は「癌」は人間が罹る病の一つでしかなく、重大ではあるが特別な病気ではない。 しかも早期発見をすれば完治する率が高い病気でもある。 しかし何故未だに多くの遅れてくる癌患者の多いことか。 問題は病理学的な癌以上に、 癌という病いのイメージそのものにあるように思える。 そしてそのイメージが社会に蔓延することで、 人は癌検診を受けるのを避けるようになるのではないだろうか。
社会に蔓延している癌のイメージとは、一つは上記に述べた悲惨な戦争のイメージであり、一つは長期入院を余儀なくされることから、 競争社会の中でそれまで築き上げてきたキャリアをなくす恐れであり、 一つは患者として社会から隔絶した病院の管理下に入るということである。 しかし癌と言えども全てが同じ症状になるとも限らない。 癌の部位と程度、または肉体的な個体差により症状はまちまちだと僕は思う。
もしかすれば自分の身体を顧みて癌かもしれないと一人戦々恐々としている人が多いかもしれない。人は不調を続けて感じたとき、 まず癌ではないかと疑う。しかし癌のイメージが病院に行くことを押しとどめる。そしてもうすこし様子を見ようと言うことになる。 その不安感は、人を健康へと目覚めさせる。身体によいと聞けば様々なことを試し、暴飲暴食を慎み、生活態度を改めさせ、 適度な運動を心がける。もしくは色々とある健康器具類をそろえる方もいるかもしれない。しかし、 自分の健康への目覚めは良いことではあるが、それ以前にまずは病院での検診こそが必要だと僕は思う。
また病気に罹るということ自体で、患者は罪悪感に囚われる場合もある。まずは多くの場合、病院で医者から言われる 「何故もっと早くこなかったのですか」という一言が患者に罪があることを意識させる。そうでなくても患者は、「何故自分が」 という不公平感に囚われているのである。そして過去を振り返り、生活が乱れていたとか、暴飲暴食をしたこととか、家系のこととか、 様々な要因を自分から引き出し、気持ちを納得させようとする。でもそれは本当のところ難しい。癌の発生理由の根本的なところは、 様々なことを言われているが全ては仮説であり、本当のところは誰もわからない。
癌は罪でも、ましてやその人の罰ではない。 癌に罹った理由を自分自身に求めることは、 病いに対して社会が造りあげた虚妄に乗るということだと僕は思う。また癌は外来的な原因によることも十分に考えられる。 いずれにせよ患者に罪は全くない。ここで患者が自分に罪をかぶせると、それは先々医者とのコミュニケーションが、 医者からの一方通行になる恐れがでてくる。自分の命(人生)を判断するのは、医者ではなく最終的には自分でありたい、 僕はそう思っている。
病いとは人間の肉体に及ぼす物理的な作用であり、だからこそ本来は癌への対応は技術的側面を持ってすべきだと僕は思う。 よって病いに関しては、心理学的、 社会学的見地からの意見は必要ないのかもしれない。技術的側面とは、 定期検診による自分の肉体の現状を知ること、癌に罹った時のために医療保険に検討加入すること、 また信頼のおける病院を幾つか知っておくこと、医者とのコミュニケーションを円滑に行うべくノウハウを知っておくこと、 自分の身体を守る為に時として疑問は残さないこと、また時として自己主張すべきであること、等のいわばハウトゥーである。
上記の事柄は当たり前のように聞こえるかもしれない。でも癌への様々なイメージは、隠喩として使われ、感動的な美談として映像化され、 ロマンチックな悲恋物語の結末として小説化され、その他様々な状況・メディアにより再生産され続けている。現在では、 癌を死と結びつけて考える人は少なくなったと思うが、それでも昔のイメージとしての癌はしぶとく生き残っている、と僕は思う。 だからこそ、それらに付随する商業化した健康ビジネスの中で僕等は消費活動を続けているのである。
実を言えば僕も医者・病院嫌いで、滅多なことでなければ病院には行かない。だから上記の話題を書く資格はないのは自覚している。 でも今回従兄弟のことを通じて僕が感じたことを少し書きたいと思った。まだ書き足りないのであるが、 それらはまた別の機会に書こうと思う。
ジュニアの年齢
帰宅時に玄関を開けると足下にジュニアがいた。出迎えてくれたのかと内心喜んだが、そんなことはなく単に表に出たいだけだった。 おそらく僕の足音で玄関がすぐに開くのがわかり、しばらく玄関前で待機していたのだろう。
5月頃からジュニアは何かといえば表に行きたいとせがむ。本当は表なんかに出したくはないのだが、 扉もしくは窓の開き閉めなどで隙を見てするりと表に飛び出す。家の中にいればいいのに、今の時代は猫にとって表は危険だよと、 ジュニアに向かって語りかけるが、彼は聞かぬ振りをして足早に塀を伝ってどこかに消えていく。
家の中でのジュニアの姿は主に寝ている姿である。それはそれで見ているだけで安らかな気持ちになるから不思議なものだ。
たおやかな蜂のような背中。
ときどきぴくりと動く耳。
丸まった足の裏からのぞいている肉球。
おれの無口なペン先で
とても描写出来ないほどとらちゃんは愛らしい。
彼女がおれの罪を
洗い流してくれるのかもしれない。
そんな予感めいたものも、
ちらりとだがある。
(「おれの罪を洗い流せ」 中島らも から引用)
中島らものとらちゃんに対する気持ちは僕に真っ直ぐに届く。そして猫のこと、ジュニアのことを沢山書きたいのに、 変に気取る僕は容易にブログに猫達のことを書かないのに気が付く。
ジュニアは既に10歳を越えていると思うが、実は指折り数えなければ正確な年齢を普段は言い当てられない。 人間であれば年齢と共に容姿もそれなりに変わっていくが、猫の場合も変わっているのだろうが、 僕にはよくわからない。 常に僕の前にいるジュニアは、成長が止まった時から何も変わっていない。そんな風に思っていた。
ところが若い頃の写真と較べてみると、確かにジュニアは歳をとった顔になっているのがわかり、少し愕然とした。「愕然」 とは大袈裟なように聞こえるかもしれないが、確かにその時の僕は「愕然」としたのだ。上の写真は現在のジュニアの写真である。 昔に較べ白髪が確実に増えている。
愕然としたのは、丁度子供が親が老けたのを知り内心狼狽える心境と同じだった。僕の悲しみ、喜び、 様々な事象の中での気持ちの拠り所として、知らぬ間にジュニアに寄りかかっていた。そういうことなのだろう。
お前も歳をとったんだなぁ、とあらためてジュニアを見て僕は思う。 僕の罪をお前は洗い流してくれるか。 いやいやお前はもう十分にしてくれた、僕が頼りなくて悪いなぁと声をかける。その時のジュニアはきょとんとした表情をして、 それから煮干しをくれとせがんだ。
追記:今月(2006年7月)、中島らもの三回忌を迎える。
関連:中島らも オフィシャルサイト
従兄弟のこと
従兄弟が亡くなった。以前に記事で従兄弟が癌と宣告されたことを記事に書いた。それから約一ヶ月で彼は亡くなった。前日には、 それまで寝たきりだったのが急に起きあがり、見舞いに訪れた人に元気な姿を見せていた。声も大きく、 会話に参加する様は周囲に幾ばくかの期待を抱かせるに十分であった。
従兄弟は癌の末期症状から来る痛みにより、鎮痛剤を肉体に注入しているにも係わらず、眠れぬ夜が続いていたらしい。 眠れぬといっても鎮痛剤により意識は朦朧としているのだが、それでも床ずれも含めて様々な痛みが襲う。 そんな彼がひとしきり元気な姿を見せた後、急に深い眠りに陥ったらしい。眠りの初めは自然な姿であり、 夜眠れぬ状態である事を知っている看護士からは、「久しぶりにぐっすり眠っているようで良かった」と言葉に出るほどであった。
それが眠りから昏睡状態にはいり、一度も目覚めぬまま息を引き取った。2006年6月29日午前11時7分の事であった。
僕が彼の死を聞いたのは、丁度亡くなって自宅の母に連絡が入り、その母を通じてだった。ふと身近な時計を見る。 時計は11時半を過ぎようとしていた。これから遺体を自宅に運ぶとの事だった。
この記事は追悼文にするつもりはない。僕は間違いなく彼のことを忘れることはない。 従兄弟にとって僕は弟のような存在だったかもしれない。でも父を幼い頃に亡くした僕にとっては、 彼の姿に父親の姿を僅かながら見ていたのは事実である。身近な者の死は、追悼文などという姿にするまでもなく、 僕が密かに誰に証すこともなく、自分の中の悼みとして一生持ち続けていく事になるのだと思うのである。 人に対する悼みの気持ちとは本来そう言うものだと僕は思う。
ただあまりにも突然の死であった。「癌には語り合う時間がある」などという物言いが空虚に感じるほど、僕は彼と話をしていない。 奥さんの話を聞けば、従兄弟は前日眠る前にまで、自分が十分に治ると確信していたらしい。でも傍目から見る彼の病院での姿は、 食事が出来ないために栄養剤の管が肉体に挿入され、その他に点滴と、腹水が溜まるのでそれを捨てる管、また痛みを抑える鎮痛剤の管、 等が付けられていた。そして医者から家族にはもう長くないことを告げられていた。
腸閉塞の改善の手術は一応成功していた。でも僕から見ればその手術の後、 従兄弟がベットから起きあがり元気に動き回る姿を見たことは一度もない。確かに手術は大きなリスクが伴うものだったとは思う。 医者も最大限の努力をしてくれた。でも僕が誰にも告げずに思うことは、手術をしない方が良かった、強くそう思う。
勿論手術の是非については結果論の話なので、今更の話である。だからこそ僕は誰にも言える話でないこともわかっている。そしてその事は、 いずれ僕自身が彼と同様の立場になったときに、自分がとるべき行動として深く記憶に刻むしかない。
遺体が自宅に戻ったことがわかり、僕は取り急ぎ従兄弟の自宅へと向かった。家では彼の姉妹達が全員来ていて、それぞれに目を赤く腫らし、 彼女たちの悲しみの強さを表していた。特に彼が愛した娘達の姿は、涙が涸れることがないかのように、静かに涙が頬を伝わり続けていた。 従兄弟の家は静かであった。限りなく深く静かであった。
従兄弟の母は別室で横になっていた。従兄弟の妹が老母に付き添っていた。「私が代わってあげれば」と何度も母はつぶやいていた。
彼の顔を覆っていた白いガーゼをめくると、そこには従兄弟が青ざめた表情で、眠っているかのように、静かに目を閉じていた。 娘が従兄弟が横たわる布団の横で顔を埋めている。時折顔を上げて従兄弟の顔を静かに優しく触る。その仕草が痛々しい。僕は微動だにせず、 動くことも語ることも出来ず、じっと彼の顔を見続けている。信じられなかった彼の死が少しずつ、僕の中に受け入れられてくる。
正直に言えば、彼の死を受け入れる、という物言いは正確でもない。おそらく僕は彼の死を認めながらも、 彼の存在を僕の周囲に求めることだろう。彼の顔は穏やかだ。ふと従兄弟を抱きしめたいという衝動に駆られる。 抱きしめる変わりに僕は彼の顔に触れる。柔らかさと冷たさ、彼との思い出が触れることにより僕の中を混乱と共に駆けめぐる。 思わず嗚咽がでる。
一人の男が生き、そして死んだ。死にたいし、安らかに誰にもこれといった迷惑をかけることなく、最期に元気な姿を周囲に見せ、 それこそあっけなく彼は逝ってしまった。彼の人生は、誰もがそうであるように、波瀾万丈であった。波瀾万丈との眼差しは、 勿論他者からの眼差しであろうし、従兄弟自身はそう言うことは微塵も思っていなかっただろうと思う。 それに波乱がない人生など何処にもないかもしれない。 しかしどういう形であろうとも、 一人の男が僕と同時代に生きていたのは紛れもない事実なのである。
いずれ今回の様々な出来事が、個々の記憶の中で一つの符丁となって、新たに蘇ることだろう。例えば死の前日、 あれほどものが食べれなかった従兄弟が、元気な姿に誘われて奥さんが出した好物のお稲荷さんを美味しそうに1個食べたこととか、 それ以前に前日に元気な姿と明瞭な言葉での会話を交わしたこととか。喪失とは彼を取り巻く人々が抱く感情であり、 従兄弟自身のことではない。そして喪失感から来る足りなさを、そうやって埋めていくのだろう。
でも間違いなく今の時点で僕が言えることは、彼は病気を治癒するつもりでいたと言うこと。そして、 この言葉を吐けば悲しさが募るだけなのはわかるが、従兄弟は生きようと、生きたいと強く思っていたということ。 そしてそれが叶わないまま、途中で彼は亡くなったと言うこと。そしてそれらのことは誰彼の区別なく、 僕自身の死に対しても同様であろうと言うこと。 まさしく美化することなく彼は僕にそれを最期にあらためて教えてくれたように思うのである。
いずれ僕は従兄弟の事を書きたいと思う。何も書き残さず、生来無口で多くを語ることの無かった従兄弟は、ただ同性として、 僕とは少しばかりではあるが様々な事を語った。彼と接した人は、それぞれの眼差しの中で従兄弟の精神を思い描いていることだろう。 どれもその方にとっては正しい。でもそれは従兄弟自身のことではない。少しであれば彼に歩み寄れるかもしれない。 そんな思いを僕は持っている。
従兄弟が最期に奥さんと交わした会話は、他でもない僕のことだったという。つまり僕のオートバイの装備の事を気にしていて、 病気が治ったらその装備を買ってやるんだと、言っていたそうだ。自分に対し一所懸命に過ごした彼は、 人に対しても一所懸命な人間であった。
またいずれ逢いたい。逢うだろう。そう思う。
夢の如く
小学生の頃、眠る瞬間を知りたかった。でも気が付けばいつの間にか寝てしまい、 自分が明確にその瞬間だと意識できたのは一度もない。 まどろみの中で周囲の物音が遠ざかり、 安心感と共に何か吸い込まれるような感じを持っても、僕はまだ起きていると感じていた。 でも次に気が付くのは決まって朝だった。そして僕はもう少し頑張れば眠りの瞬間を知ることが出来たのにと悔やんだ。
そういうことを何回か繰り返した後に、僕は眠りの境界線をまたぐ瞬間を知ることをあきらめた。 そして漠然と起きている状態と寝ている状態の間に境界線はないか、あるとしてもそれは曖昧模糊とした、 線ではなくてエリアのようなものではないかと子供ながらに思った。
今の僕は子供の頃とは違った見方をしている。両者の間に境界線もなく緩衝域というグレーゾーンもない。勿論それらは、各々の意識、 もしくは何らかの数値 (例えば脳波など)によっての決め事なので、人によってはそれらは在るとするかもしれない、 専門的なことはわからないが、 少なくとも僕にとっては両者への移行は緩慢な流れの中にあり、 分け隔てるものなどない。
「邯鄲の夢」を持ち出すまでもなく、人生を夢如くと捉える物言いは多い。それは単なる洒落た言い回しではなく実感を伴う言葉でもある。 何故人生が夢であると人は実感できるのだろう。この問いは何を示すのであろうか。 人は実社会の中で現実と夢の世界を明解に切り分けている。それは日常の会話の端々に現れる。「それは夢であって現実ではない」云々。 その物言いによれば人生は夢ではないはずである。
しかし起きている状態(覚醒)と寝ている状態(睡眠)の違いが何処にあるのか僕には正直わからない。目を閉じ、僕自身を見つめていくと、 僕は宙に浮いている感覚を持つ。 その感覚は子供の頃によく見た夢を思い出させる。僕の周囲に遮るもの無く、 僕は宙に浮いているのか地に立っているのか全くわからない。周囲は手を伸ばせば届きそうだが、実際は全く届かない。足下も同じである。 無数の帯状の光が僕の行く手に流れている。そんな夢だ。
時としてそのような夢を、人は覚醒時に見ることもある。また過去の思い出に浸るとき、それは夢を見ているかのような、 そういう錯覚に捕らわれる。覚醒状態と睡眠状態の厳密な区別など出来ないのではないか、そんなことを考える。
例えば病気・怪我などで昏睡状態の人がいるとする。僕はその人を外部から見て覚醒している状態とは思わないだろう。 でも昏睡している人自身は一体どうなのであろうか。想像でしかないが、その方はそういう状態の認識があろうがなかろうが、 その方自身の現実を体験しているのではないかと僕は思う。だからこそ身近な方の、 昏睡状態の人への語りかけが求められるのでないだろうか。
あくまで僕の勝手な想像だが、おそらく以前は、 現実と夢との区分けは今ほど明確ではなかったように思える。 近代における産業構造の変化、社会の誕生により、人間の条件は覚醒時においてのみ考慮されるようになった印象を受ける。 そしてそれに該当しないものは、病院もしくは刑務所などによって社会から隔離される。
僕は前に夢など見ない深い眠りの状態が「死」の状態に近いと誰からか聞いたことがある。でもそれは違うと僕は思う。 根本的に眠りは深かろうが浅かろうが「死」ではない。確かに睡眠の瞬間がないように、「死」の瞬間もないとは思う。 また両者は意識の中において似ている部分もあるかもしれない。でも睡眠時であろうとも彼の(彼女の) 複合的な肉体では様々な気管が活動をしている。少なくともその活動がある限り、人間の条件の大きな一つは満足している。 そういうふうに思う。
花の写真、フクシマセツコ(seedsbook)個展の紹介
趣味として写真を撮ることが頻繁になり、以前より植物の名前を知るようになった。特に樹木の識別についての知識は、 つい数年前と較べたら雲泥の差があるように思う。といっても以前の僕は全くと言って良いほど植物に対して無知であったのだから、 知ったと言っても程度は推して知るべしである。
実はこの2枚の植物の名前も未だ知らない。初夏の緑が美しく、それを撮りたいと思った。二種類ともツボミの写真であるが、 植物が花を咲かせる力を身に蓄え時期を待つ姿が、時として満開時の花より美しさを感じる。
実を言えば僕が植物に興味を持った原因は写真を撮るという行為だけではない。以前より読んでいるseedsbookさんのブログ 「散歩絵、記憶箱の中身」 の影響も大きい。seedsbookさんはドイツ在住の方で美術を生業にしている。彼女のブログには頻繁に様々な植物が登場する。 勿論僕などは初めて識る物ばかりである。彼女からは植物と人間の関係について、他の書物では味わえない事項を色々と教わった。
seedsbookさんから教わった物はもう一つある。それはレオ・レオーニの「平行植物」という本である。 現在ちくま文庫で出ているが、僕が欲しかったのは文庫版でなく単行本としての、しかも最初に出版された本であった。最初に出版した 「平行植物」の装丁デザインが優れていて、書物の内容ととても合っていた。そこでそれを求めるべく、ネットで中古本を購入したが、 届いたのは初回版ではなかった。それで少し読む気がそがれ、未だに読み終えていない・・・
実はseedsbookさんが久しぶりに日本に来ている。静岡で個展、東京で二人展を開催するのである。 静岡での個展は既に始まっている。僕は東京の二人展を見学しようと思っている。
seedsbookさんの個展については追記に記しておきます。
(追記の個展内容の記事は全てブログ「散歩絵、記憶箱の中身」から引用しています。)
蜂の写真、再び写真を撮るということ
初夏になり蜂が忙しく花々の間を飛び回る。蜂を写真に収めるのはそれほど難しいことでもない。ただ彼等は花の蜜を収穫するので、 花に留まっている姿は、常にお尻を撮影者に見せることになる。
僕は一度彼等の正面から写真を撮りたかった。 何度か試みたが予想以上に僕のカメラでは難しい。というのは連写機能がこのカメラは弱く、 秒あたり1枚にも満たない速度なのである。 しかも連写枚数は3枚固定となっている。
そこで連写は諦め、焦点距離を固定し瞬間を感に任せることにした。これは結構うまくいったが、 今度はピントが合わない。 それでも何枚か適当に撮した。それらの中で、比較的ましな写真はこの一枚だけであった。 構図的には至らなさが目に付くが、 自然を相手に僕の都合に合わせてくれるとも思えない。これで良しとしよう。
写真を撮るということは、常に撮影者は「主客一致」の難問を抱えているようなものだと最近思う。ある対象をみて僕は美しいと思う。 そしてその美しさを、僕が感じる美しさのまま写真に留め置きたいと思う。しかし後で見るその写真は「美しく」はない。 何が間違ったのだろうかと僕は思う。僕の見るという行為に、何らかの問題があったのだろうか。 つまりその時の感情の流れから対象がより美化されたのであろうか、等と思うのである。
でも確かにあの時は「美しい」 と思ったのも事実である。その時の感覚は今でも生々しく記憶している。 その記憶が対象の姿をより美化しているとしても、較べる当てのない僕にはどうしようもない。
またはカメラの問題であろうか。 確かに僕の使うデジタルカメラは古い。フィルムでの撮影と違い、ハード・ ソフト両面でデジタルカメラは技術面に大きく影響を受けるのも事実かもしれない。でもそれはあくまでもハード・ ソフトの両面で限界まで駆使しての話でもある。自分なりには駆使している自負はあるが、それだって毎回の撮影というわけでもない。 さらに僕は現代人らしく、機械そのものよりは人間の方に誤りが多くあると、 心のどこかで信じている部分もある。
とどのつまり、おそらくカメラで撮影した姿は、ほんとうの姿とは思わぬが、人の思惑が入らぬより客観的な対象の姿だと思うのである。 でもそうは思いながら僕の主観は納得することもない。 そしてそれはおそらく永久に解決されない。 何故なら人はほんとうの対象の姿を撮りたいなどと思わないのである。カメラを構えるとき、 願うのは主客一致ではなく主画一致なのだと思うのだ。
思うにカメラという不思議な物は、極めて近代思想が具現化した道具であるが、どこかでスコラ的な思考と繋がっている。
画像処理ソフトが市場にこれほど出回っているのは、多くの人がカメラから素のまま出力された画像を信じていない証左かもしれない。 自分の主観の命じるまま画像を編集加工する。それはフィルム現像時の調整と同様の姿でもある。
ただ撮影者の編集は最終的に色彩・色調が偏る傾向があるように思う。「美しい」と感じた何かを強調したいが故に、試行錯誤の後で撮影者 (編集者)は何かを踏み越え、さらに自分の記憶を補強することで、結果的にまた新たな対象の姿となるのである。踏み越えた何かとは、 僕の、撮影者の対象を見た主観にほかならない。だから最終的にできあがった写真を見ても、以前よりは「美しい」のではあるが、 何か全体的に違和感を持つ、そんな奇妙な感覚に囚われるのである。
最近僕の写真はそういう物が多くなったと感じている。自分の主観と画が一致する(主客一致ではなくて)写真よりは、 画の方により強度がある傾向。それは対象を自分の主観の世界に取り込むだけでは飽きたらずに、 さらに対象を消費しようとする姿も垣間見て、時折嫌気が指すのである。まぁそういう感覚が残っている限り、 僕の写真はまた変化していくことだろう。
この記事に掲載した蜂の写真は、適用に撮してたまたま写った画なので、そういう違和感から解放されている写真でもある。(笑
追記にもう一枚写真を掲載する。題は「かくれんぼ」。
隅田の花火
駅までの道程に紫陽花が見事に咲いているお宅があった。その中で今まで僕が見たことがなかった紫陽花の品種が咲いているので、 一度写真に撮りたいと思っていた。先日その機会を得た。還暦を迎えそうな年齢の男性が庭いじりをしていた。 僕は彼の背中越しに声をかけた。
「すみません」
何事かと思ったのだろう。彼は訝しげに僕を眺める。
「お宅の紫陽花がとても綺麗なので写真を撮らせて欲しいのですが」
僕も少しだけ緊張して言葉を続ける。事が紫陽花のことだとわかったとき、彼は笑みと頷きで僕に答えた。それがこの写真となる。
「隅田の花火」という園芸品種なのだそうだ。最近特に人気が出て品薄状態だという。話を聞いていると、
どうもこのご主人が紫陽花好きで手をかけて育てたらしい。
「額紫陽花の一種ですけど、上から見ると隅田川の花火のようでしょ」
なるほど、確かにそう見える。星形の白いガクが二重三重になっていてとても美しい。それでいてガクの白さが清々とした印象を与える。
夏の花火の姿に似ているのであるが、それ以上に川辺で花火を見るような一種の清涼感がこの紫陽花にはあるように思えた。
写真を撮っていると別の男性が近寄ってきて、友人らしい語り口でご主人と話を始めた。
「見事に咲いているなぁ。家の紫陽花はどうも今年はダメみたいだ」
お互いに紫陽花好きらしく、専門的な単語も幾つか出る。ひときり紫陽花の話が終わったとき。
主人がおもむろに自身の健康のことを語り始めた。
「俺、明日から入院するんだよ」
「えっ、どうして」
「心臓が悪くて、ペースメーカーを埋め込むんだ。今日もね調子悪くて、会社に行ったんだけど途中で戻ってきた」
「そんなに悪いのか」
「ああ、悪い」
僕は写真を撮りながら二人の会話を聞くともなしに聞いている。このお宅は溢れんばかりの植物が家の前で育っている。 そして一つ一つの草花は初夏の陽光を浴びて、その命を謳歌している。きめ細かな気持ちがなければ、 これほど美しく花を咲かすことはないだろう。ご主人の思いを僕は植物を通して感じている。
写真を撮り終え僕はご主人と友人にお礼を述べ、見知らぬ男が厚かましいかとも思ったが、「お大事にしてください」と言って頭を下げた。 それっきり振り返らずに僕は歩き去ったが、「隅田の花火」のイメージとご主人のイメージが重なり忘れ得ぬ紫陽花となったと思うのである。
「隅田の花火」を近寄って花部分を撮ってみた。星形のガクだけでなく、中央の花部も趣があるように思う。
築地に行く
東京で産まれ育ち、それでも築地魚市場に行くことは一度もなかった。別に行かなくてもどうと言うこともない。 それでも一度行ってみようかと思い立ったのは、何日間かはっきりとしない空が束の間の晴れ間をのぞかせた火曜の朝だった。 とんでもない時間に目が覚めた僕は、明るくなり始めた空を窓から眺め、オートバイに少し乗ろうかと考えた。 既に再度寝ようなどとは思いもしないほど、何故か気分は高揚していた。軽い躁病かもしれぬと、自分の姿に少しだけ苦笑する。 でも既にオートバイに跨り都会の喧噪が始まる前の、少し紫かかったビルの合間を走りゆく自分の姿を想像もしていた。
都会の朝は想像以上に静寂さがそこかしこに漂う。それがまたとても良い気分にさせる。カメラを持って行こう。 そして朝日に輝くビルの姿を写すのだ。それが最後の一押しだった。僕は急いで身支度を始める。オートバイのエンジンを始動させたのは、 窓から空を眺め思案してから20分も経ってはいなかったと思う。
さぁ何処に行こうかと、具体的な目的、もしくは方向を考える。銀座などの中央に向かうのは端から決めていた。 その時に何故だか築地も面白そうだと浮かんだのだった。築地であれば、早朝の静寂さなど微塵もないのだから、当初の目的とは全く違う。 一度も行ったことが無くても、活気のあるセリの場を想像するだけで、そのくらいのことはわかる。それでも築地は面白そうだなと、 まずはその方向を目指そうと家を後にした。
築地までの道程は迷うことはない。皇居の方面に向かい、そこから内堀通りから京浜一号線を通り銀座に向かえばよいのだ。思いの外、 車が多い。それでも朝のひんやりとした風が心地よい。空を見上げる。大丈夫だ雨は降りそうもない。
都会に住む猫を見つめる視点で
ここ数日は雨が続き、今日久しぶりに晴れた。しかも日曜日、公園は今までの憂さを晴らすかのように人で溢れかえった。犬連れの人も多く、様々な種類の犬たちが飼い主と一緒に歩いている。楽しい一時を過ごす彼等の中で、おそらく公園に住む猫たちのことを気にかける方は少ない。
平成の教育法改正により日本の伝統音楽を学ぶ時間が増えた結果、猫泥棒が横行した。彼等は和楽器の材料として猫たちをさらった。動物愛護改正法が施行されてからは猫泥棒は少なくなったが、それでも猫たちを動物実験などの為に連れて行く人は今でもいる。
2001年から2年、公園では猫の殺害事件が頻発した。それを憂慮する有志が警察に被害届を提出した。しかし時は祖師谷の世田谷一家殺害事件捜査の真っ最中で、猫たちの殺害事件どころではなかった。
今でも時折公園で猫は殺される。傾向としては快楽殺害的な方向にいっているらしい。猫は殺され、そして人目の付くところに放置される。猫の死骸を目にした人の反応を楽しむのである。他にも犬に噛まれて殺される猫も多い。猫たちの動向は人間社会の動向に敏感に反応する。むしろ真っ先に影響を受けてるのかもしれない。猫が殺される社会。そして今では幼児が殺される。その関係を結びつけるのは考え過ぎかもしれない。年間数万人が行方不明になるこの国で、猫が殺される事を過大評価するつもりもないが、やはり何かが繋がっているかのように僕には思える。
公園横の大学の先生が毎日決まった時間に猫たちの餌を与えに来る。その方によれば、多いときで15匹以上の猫が食事をとりにきたそうである。今日は2匹しか来ていなかった。「公園の猫の天敵は犬と人間です」、先生はそう語る。
猫が人間と生活し、今では人間と共に暮らさなければ猫は生きてはゆけない。公園の猫にとって天敵は人間かもしれない、でもやはり共に助け合い生きてゆけるのも人間なのだと僕は思う。
ゴールドコイン 写真2枚
花の値段というのはよくわからない。このゴールドコイン(学名:Asteriscus maritimus,和名:アステリカス)は一鉢100円で花屋で売られていた。通称ゴールドコインと呼ばれるのは、濃い黄色と丸い花の姿からだと思う。でも花屋では「ゴールドダラー」と値札に書かれているが、コインとは違う種とも思えない。さらに名前としても「ダラー」よりは「コイン」の方が個人的には好きだし、「ダラー」として売っている理由がよくわからない。「コイン」だと何か問題でもあるのだろうか。
ゴールドコインの原生は北米だと聞いている。おそらく向こうでは日本のタンポポのように普通に何処でも咲いているのかもしれない。丈夫な花である。二鉢買ってきて玄関先に置いた。雨が降り花びらに露が丸く残っている様が美しく何枚か写真に撮った。そのうちの一枚がこの写真である。
美しい黄色はあえて白黒にして青みを増した。そうすることで雨で濡れている様を強調したかった。

カラーで見るゴールドコイン。円形の姿を半分に切り取った。花びら一枚一枚の姿の美しさを出したいと思ったからだが、そこは素人、全ては思い通りに行くわけでもない
話は変わるが、サイトの変更を行っては表示の微調整ばかりやっている。DIONのMTフォーマットでのエキスポートは、致し方ないかもしれないが、HTMLコードが厳密ではなく、しかもページ毎のファイル名も生成してくれなかった。MT側もファイル名の自動生成はしてくれても良いと思うが、理由は不明だがうまくいかなかった。さらにDIONだけでなく、Flickrからブログ投稿をする場合も、Flickrが生成するコードも正確でなく投稿後修正する必要がある。そういったことを含め結局多くのページを再確認しコードを書き換えた。
未だ調整が必要なページもかなりあるとは思うが、後は気が付いた時点でその都度直していくことにする。まだまだ読みづらいと思うけど徐々に読みやすくしてくつもり。
モノクロと言う名前の猫
彼女は美しい。座っている姿、佇んでいる姿、どの姿にも僕には気品を感じさせる。見ていて飽きない。そして僕が見ていると、モノクロもじっと僕を観察している。
名前の由来は白黒の「モノクローム」からだと、名付け親である方に聞いた。モノクロは公園で生まれ育った。片方の眼は生まれて間もない頃に事故にあったという。事故の内容は聞いてはいないが、外で暮らす猫にとって大きなハンデであるのは間違いない。
どことなく家のジュニアに似ている。だからこそ僕はモノクロに愛着を持つのかもしれない。白黒の猫は身体が大きくならない、端正な顔立ちをしている、あまり泣かない、等と聞いたことがある。その言葉に漏れずモノクロも身体は小さい方だ、そして無口である。モノクロがじっと僕を見る目線に耐えられず、僕は思わず目線を外す。そして外したことに少しだけ戸惑う。
モノクロは生きている。懸命とか頑張ってとかの形容詞は彼女には無縁の話だと思う。それは人間達の思い込みでしかない。生きる、とりあえずそれだけ。でもその他に何が必要なのだろう。
またモノクロに会いに行こう。今度こそ約束の食事を持って。
公園の猫
目の前を走り横切る猫がいた。梅林のほうに向かっている。梅花の時期は当に過ぎ去り、葉が生い茂る梅は白や紅の花を咲かせたことなど想像もできない有様である。勿論それはそれで葉と葉の間に実る梅を含め風情を感じるのではあるが、初春のころとはまったく違う。
葉で密集した梅の木は、幹が支柱となった旧式のテントのように、中は適度な空間がある。公園の猫はそこに身体を休めに来るのであろう。
僕はその猫の後を追いかけた。やはり猫は梅の木の中に入って行き、根元から2mくらいの高さにある太い枝で落ち着いている。忍び足で近づく。でも猫は持ち前の鋭い嗅覚と聴覚で僕の侵入を見逃しはしない。ぱっとこちらに振り返る目は、驚き以上に恐怖がそこに宿っていた。
「怖がらなくてもいいよ。写真を撮るだけだからね」と言いつつカメラを向け写真を撮る。それがこの写真。これを撮った後、猫は素早い動作で別の梅へと移動していった。悪かったかなぁとその姿を見て少し思った。
新たなAmehare's MEMO
ジュニアが扉が開くのを待っている。扉の向こうには何が待っているのか、勿論ジュニアは知っている。内には雨露がしのげる場所があり、暖かく、食事も出来る。何よりもジュニアにとって内は重要なテリトリーでもあるのだ。しかしジュニアはドアを自らの力で開けることは出来ない。ジュニアにとって不条理な状態なのは間違いないが、しかし彼はそれを受け入れているかのようだ。でもこの状況は僕にとっても同様だと思う。扉は大概は自分以外の誰かの手によって開けられる。ジュニアと違うのは、僕は扉の内に何があるのかを知っていない。
今回自分のブログを本サイトに切り替える事に決めた。決めた理由は色々とあるが、つまるところ写真と文章の二つのブログの投稿規模の偏りをなくすために一本化したかったという自分の趣味でしかない。写真ブログは写真を撮るという行為を考えるために立ち上げた。それは写真のコメントを綴ることにより見えてくると僕は思ったのである。でもこのことはその他についても、人間の行為の基となる原理を模索するという点では同様なのは間違いない。つまり写真専用のブログを進める中で、自分の中にある種の欲求不満が芽生えてきたということなのだろう。
現状の二つのブログの今後については迷うところではあるが、結果的には本サイトに少しずつ移行しようと考えている。何事も少しずつ、長く続けること、それにより何かが見えてくる、今の僕にはそれしか言えない。
おそらく
生命には多くの反復と少しの逸脱があるように思える。それが端的に表れるのが植物であり、特に葉なのではないだろうか。その姿には心地よい反復と色彩がある。だから見続けても僕は飽きることがない。
この植物はマダガスカル島南部に自生するハイビスカスの一種と聞いている。何故葉がこのような姿になったのか僕にはわからないが、必ずそこには理由があるとも思う。「進化の過程」という文脈で語ることは僕は好きではない。今の形は今の環境に適している、そう考える方が良いと思うのだ。想像で木の葉の形を言えば、葉で全天を覆っても必ず日が差し込む隙間が出そうだと言うこと。それは雨水に対しても同様だと思う。
実はこの葉の姿で最初にイメージしたのは雪の結晶だった。緑の結晶、それは僕にとって悪くないイメージだった。
同じ事の繰り返しは人を退屈にさせる。それは反復により意味が減少するのも理由の一つだと思う。例えば流行語が繰り返し使われることで意味が喪失し、そして無意味な場所で無意味に消費されるに至る。最期は苦笑と共に言葉が語られることで、かつては新鮮な言葉だった流行語は退屈な言葉となり、次第に使われなくなる。それは反復により飽きられる過程でもあると思う。
しかし葉の造形に僕は飽きることがなかった。ただおそらく上のように写真に撮り、それをパソコンのデスクトップ画像にすれば、僕は1ヶ月もすれば飽きてしまうだろう。実際の葉と写真画像の葉と何が違うのだろう。それは画像の葉は意味を含め固定されてしまったが故だと僕は思う。それに較べ、実際の葉は環境の変化で新たな意味を創り出していく。
勿論、同じような反復は人間も創り出すことが出来る。ラヴェロの「ボレロ」は僕の好きな音楽の一つでもある。
花を撮る
以前に僕の姉が会社に勤めていた頃、生け花を習いに行っていた。ある時、彼女が生け花を始めてから半年くらいたったときだと思う、急に「生け花をやめたい」と言い出した。理由を聞いてみると、「花の気持ちがわからない」と意味不明のことを言う。
つまり彼女にとって「生け花」とは文字通り「花を活かす」事にあるらしく、花の気持ちがわからなければ、先生と同じように活けたとしても、客観的にみると明らかに全く違うのだという。つまり彼女の生け花は「死んでいる」のだそうだ。
言っている意味は何となく通じる。でも僕には本当のところはわからない。でも最近写真で花を撮るときに姉の言葉を思い出した。そして思った、果たして僕の撮る草花・樹木は写真の中でも生きているのだろうかと。
写真の中でも生きるなんて、当然の事ながらあり得ることではない。写真は対象からの光を集めて記録する機械であるから、命を吸収するなどと言うことはあり得ない。でもそこに一抹の共通する理があるような気もしている。
形もしくは構図の美しさより、写真に写った対象の内からくる美しさ。技術論が先行する中で、前記の僕の物言いは矛盾があるのは明らかである。内からくる美しさは、やはり構図によって出てくるのだと僕の頭の片隅でそう囁く。では構図を決めるのは何だろう。それがもしかすると姉の言った「花の気持ちを理解する」ということかもしれない。などと少しだけ思う。
写真の花が何という名前なのか実は知らない。思い出すたびにネットなどを使って検索するが未だに正体不明である。名前は大事だけど、花の美しさ(本質)の前ではどうでも良いことだ。でも僕にとっては対象、それが植物であったとしても、語りかけるにはやはり名前が必要なのである。語りかけとそれに対して自分の内からくる応答との会話によって、僕は彼ら(彼女ら)を少しだけ知ることが出来るのだ。
「花の気持ち」は僕にはわからない。でも同じ生命を持つもの同士、歩み寄る事は可能かもしれない、などとも漠然と思う。
追記:この植物の名前を知っている方、是非とも教えてください。
2006年4月28日追記: eeeeeeさんから「トウダイグサ」の仲間であることを教えてもらった。調べてみると確かに僕もそうだと納得した。 eeeeeeさん、そして eeeeeeさんのご母堂様に感謝します。
Flickrにはまるということ
いまさら言うまでもないが僕はFLickrにはまっている。
写真を撮ること、例えば町を歩いているときふとしたことで事で立ち止まりカメラ持参していないことを悔やむ時、僕は一体対象の何を見て、 もしくは何を感じてそれを撮りたいと願ったのだろうか、その感情と写真を撮ることは僕の中で一直線につながっている。
写真は記憶と密接な関係にあるとは思う。以前は歴史性とつながっていると思っていた。写真は記録であり、 僕の歴史を貫く確かな証拠として在ると思っていた。でも今では歴史よりは記憶により密接だと思うようになった。
写真は、うまくいえないが僕にとっては歴史と断定するには何かが違うように思える。 写真を撮る行為が、 何を撮るかでなく何を切り落とすかということだと僕は思う。人は撮りたい対象への思いを意識することなくカメラを構えるが、 ファインダー越しに構図を定める際に、彼は彼女は自問自答することになる。 対象の何を撮りたいのかが意識することなく構図を決めることは難しい。自問自答は対象の何を撮りたいのか、 つまりは結果的に何を切り落とすのか、ということでもある。そして彼は彼女は知るのである、自分が撮りたかった対象の何かを。 写真は記憶と密接な繋がりがあると思うと先に述べた。つまりこれらの流れは僕にとって何を記憶したいのか、 それはカメラを構えることとは関係なく、そのような意識の流れに近いと思うのである。
Flickrを語るとき、僕が知る上で一番近い存在は「はてな」かもしれない。「はてな」 について語るさまざまな事柄はFlickrについても当てはまる。Flickrにはまることと、 写真を撮るのが好きなこととは意味は全く違う。FlickrにはFlickrの場で共有する気分というのがある。 その気分はFlickr担当者が選択する登録会員の写真によって醸し出される。具体的に言えば「Explore]と「FLickr Blog」に掲載された写真のことであるが、それらがFlickrに写真を登録する人たちの模範となり、 そして彼らは似たような写真を撮り、いつかは Flickr担当者に選択されるのを待ち続けるのである。
似たような写真といっても、その種類は膨大でもある。だから人は自分の写真がFLickrによって影響を受けているとの認識は薄い。 でも確かに彼らの(僕の)写真の中心にはFlickr担当者が存在しているのは間違いないと思う。勿論、Flickr を単なる写真倉庫として使われている方も多いと思う。僕もはじめはそうだった。でも今はどっぷりと浸かっている。 そしてこれがFlickrにはまるということでもある。
勿論影響を受けることが悪いことだとも思わない。聞き飽きた言い分だが、人は他者との関係によってアイデンティティを造ると思うからだ。 でもそうなると主体とは一体なんだろうという疑問が出てくる。その問題は自らに課した問題として後に残すが、ここで語りたいことは、 写真が記憶と関係が深いとすれば、Flickrでの写真掲載はつまるところ記憶の共有化、 そしてその後に続く記憶の均質化ということになるのかもしれない。
それは一種の記憶のグローバル化とでも言うような状態、言語・宗教・食料・衣料・遊び・性行動という文化の諸要素が違っていても、 何を記憶するか、もしくは記憶した対象の意味の同質化が、写真というテクストで行われていく課程といってもよいような、 そんな思いを持っている。 Flickrで行われていることは、つまりは写真に強度を求めることになっていく。 写真に強度は必要かと問われれば、個人的な記憶に委ねていけばそんなことはないと言えるだろう。
でも意識の上では職業化しているFlickrの投稿者たちは、過剰なまでの強度を求める方向に流れていると僕には見える。 差異のない均質化した個性の発露から抜け出るのは、より強い構図と過剰なまでの露出とデジタル加工技術に頼った強度を求めるしかない。 でもそれは個人に分化した結果、差異がなくなるというパラドックスに見舞われた現代人の通常の行動でもある。
しかし強度を求める人も結局は差異のない個性と同根でもあるのだと僕は思っている。なぜなら両者はお互いに補完関係にあるからだ。 Flickrにはまっている僕はいずれはFlickrをやめるときがくることだろう。それは間違いない。 そして僕自身の記憶を歴史と他者との関係に埋没することなく、 一個の自立した創造性を持って別の仕方で歩んでいきたいと密かに願っている。
たんぽぽ
タンポポが好きだという方は多い。Googleで「たんぽぽ」を検索したら約273万件がヒットした。植物としてのタンポポを調べようと思ったのだが、結局あきらめた。
人は「タンポポ」に何を投影しているのだろう。イメージとしては都会で人に管理されることなく、わずかな場所に自生する姿が雑草の強さをそこに見ているのかもしれない。タンポポがキク科であり、花の姿が菊に似ているのも大きいだろう。菊とタンポポを対項することにより、そのイメージがくっきりと浮かび上がる様に思える。
実際に関東で見かける殆どのタンポポは外来種のセイヨウタンポポと国内種のカントウタンポポの雑種なのだそうだ。(95%以上とのこと)
つまりは、セイヨウタンポポが種の存続を計るために、国内種のタンポポと結びつく戦略をとったということなのだろう。
日本列島は植物相の観点から見れば、終端に位置していると僕は思う。この列島から彼らは自らの力で海を渡ることができない。だから日本列島では生物は同種で交わり続けた。純粋のカントウタンポポはおそらく絶滅しかけていると思う。動物に対しては注目する人間もタンポポまでは目が届くことは少ない。
ここで純粋とは何かと問いかけすることは無粋かもしれない。カントウタンポポも元をたどれば何かの雑種かもしれないと思うからだ。だからといって消えてゆくのが自然とも僕は思わない。何故ならセイヨウタンポポをこの列島に持ち込んだのは他でもない人間なのだ。でもカントウタンポポを守ることは現状としては限りなく難しい。
僕はタンポポの何を自分に投影しているのだろう。タンポポを擬人化することでわかるのは自己の信念だけだろう。勿論僕はそれを承知の上で、それでもタンポポの姿に何かを求める。
折り鶴
神社仏閣にはそれぞれに神木と呼ばれている巨樹があるのが多い。それらの木々は概ね都もしくは区の保存樹として大事にもされている。だからといって神木としての趣が薄れているかと言えば、僕にとってはそういうこともなく、巨樹を前にして神聖な心持ちを感じるから、自分のそういう「心の構え」に対し不思議でもある。
また多くの神社仏閣は都会にありながら多くの樹木が残されている場所でもある。それ故僕は外にいる時、それらを見つけると思わず境内に参拝したくなる。信心なき突然の来訪者でもある僕がその都度思うことは、どんな小さなお社でも、そこにはそれを信じ守り続ける人がいるという事実である。
買い物帰りの主婦、犬を連れた若い女性、学生らしい若者、散歩中の老夫婦、会社帰りの中年男性等とそこで手を合わせる方々は様々である。
自宅の近くの五叉路には通称「首なし地蔵」と呼ばれるお地蔵様が鎮守されている。そこには誰彼ともなく供物と花が副えられ絶やされることがない。またお地蔵様の周囲も毎日誰かが掃除しているかのようにゴミが落ちていることもない。
写真は散歩の途中で出会ったお地蔵様のお社に副えられていた折り紙の鶴であるが、誰がどのような気持ちで折ったのであろうか。既に色が落ち灰色となった鶴もみえる。その方の祈りは適ったのであろうか。そもそも「適う」とかの次元で物事を考えている自分からして、この折り紙の気持ちを見誤っているのかもしれない。それでも写真を撮るとき、この鶴を折った方を少しだけ思った。
桜の季節 散る桜 咲く桜
散っていく桜の傍で今を満開に咲く桜がある。公園では散りゆくソメイヨシノの下で花見の宴がいまだに続く。大学の歓迎会の時期でもある。 楽しげな笑いの輪の傍、満開のオオシマザクラの下を人が急ぎ足で通り過ぎる。八重の桜も含めてこれから見ごろの桜も多い。 桜の季節は実際には一ヶ月続く。でも僕の気持ちの中では「桜の季節」の終わりが近づいている。
「散る桜」「咲く桜」それは春の出会いと別れに重なる。そしてやがて街は落ち着き梅雨の季節となる。
桜の参考サイト
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桜の季節 桜語りとは
今回僕が「桜の季節」と称して桜語りの連作を思い至ったのは、自分の中にある桜の特別な位置づけが、 いかにして成り立ったのかを幾分かでも知りたいと思ったからだった。自分にとっての鍵語は「ざわつき感」であったが、 桜を思えば思うほど「桜語り」の難しさを痛感する結果になった。桜語りの難しさは、 理念化した桜が己の信念と結びつき易いことにあると思う。すなわち桜は擬人化されやすいし、擬人化したことに、 僕自身も気がつかない場合が多いのである。
「桜語り」はまるで信念という光源によって映し出された影を語ることに近いかもしれない。 つまりいくら語ろうが桜に辿り着くことは難しい。それでいて自分が語る桜が影であることに気がつき、 光源の外部に立って桜の実態を見たとき、そこにあるのも一つの理念化した桜ではないと誰が言えるのであろう。 その堂々巡りの言説の中に現在の桜があるとすれば、僕は桜を語ることができない。
おそらく「桜」を題材に「日本」と「日本人」について何でも語ることができることだろう。それはまさしく望みのままに「桜」 を消費することが可能である。
「桜がでてくると、なぜか突然「古来から」や「日本人」が呼び出されてくる。でありながら、 昭和十年代の桜の精神論のような明確な観念や思想はない。むしろ、ないからこそ安心して呼び出せるのかもしれない。なんというか、 虚数空間を強引に跳躍するようなものだが、実定的(ポジティブ)な大きな物語なしに、 個人化し拡散していく感情や記憶をただ一つの桜らしさへつなげていくには、たしかにこれが唯一の語り口なのかもしれない。」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)
今回の連作で佐藤俊樹氏の著作「桜が創った「日本」」を参照することが多かった。たぶん今後多くの「桜語り」 はこの書籍を参照されていくことになるように思える。この中で「ざわつき感」について面白い話が載っていた。
よくソメイヨシノはヤマザクラの自然とくらべ人工的と多くの「桜語り」のなかでいわれる。でもソメイヨシノから見ると、自然・ 人工の区別はなく、「種の保存」の観点から見れば、単にソメイヨシノが人間の力を借りて種の拡大をはかったと言うのである。 そのためにソメイヨシノは人間が喜ぶ姿へと進化した。ソメイヨシノが人工的という語りの中にも、 語る側の信念としての自然観があるのだと思うである。
「ソメイヨシノは彼らを取り巻く日本列島の生態系、その一部に人間社会をふくむ生態系全体にうまく適応して、 空前の大繁栄を勝ちえた。それを「不自然だ」「俗悪だ」「醜い」と非難する方が、よっぽど傲慢だと思う。・・・(中略)・・・ 私たちはソメイヨシノに深い不気味さや気持ち悪さを感じる。美しいにもかかわらず、どこかひどく心をざわつかさせる。 それはどこかでこの自然・人工の反転に気づいているからではなかろうか」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から)
今年、ソメイヨシノを昨年以上に多くを観賞し写真にも撮った。美しすぎると僕はあらためて思った。 でもその感覚は梶井基次郎とも坂口安吾とも違う。話は脱線するが、 なぜ坂口安吾のあの小説がこれほど高い評価を得ているのかも僕にとっては不思議だった。勿論よい作品だと思うが、少なくとも僕は、 評論家の奥野健男氏が評価するほどとも思えなかった。
「グロテスクの極致がこの世のものではない美をつくり出した傑作で,民族の深層意識をえぐり,未来的な芸術を暗示している」 (奥野健男氏)
「民族の深層心理」とは一体何なのだろう。それは理念化した「桜」がそう思わせているだけではないのだろうか。 この評価が成立する時代を僕らはとうに越えてしまったのではないか。そう思えるのである。
では僕の「ざわつき感」とは一体何かと問えば、それは僕の自己中心性からやってくるのだと思う。おそらく僕は春を待ち望んでいるのだ。 自己の不全感が、春になり変わっていくような期待感の具体的な姿として「桜」があるように思えるのである。 自己の不全感を解消するのは他力ではない、それは当然に知っている。でも「桜」により動かされることもあると僕は思うのである。 ゆえに梶井と坂口の感じる桜を、そういう部分もあることを少しは内心認めていながらも、 僕はそれを自分から受け入れているのだと思うのである。
桜の季節 坂口安吾「桜の森の満開の下」
梶井基次郎の「桜」の美しさは屍体から養分を吸い取ることで成立するが、 それを感受出来たのは結核という身体性と大正から昭和への時代性にあった。それは「生」と「死」が二項対立的に存在するのではなく、 「生」は多くの「死」の上に成り立ち、しかも「生者」は「死者」からの養分を吸い取ることで「生」を謳歌できる、という梶井の「気づき」 であった。その「気づき」は、いずれ自分も「死者」に仲間入りをするという自覚でもあり、 それゆえ梶井は花見の酒を酌み交わす権利を持ったと感じたのだと僕は思う。
「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。」(梶井基次郎 「桜の樹の下に」から)
梶井基次郎の「桜」はソメイヨシノの群桜からのイメージと僕は見ているが、それはタイトルで示されたように、 対象としては一本一本の個別の桜でもある。それが戦後の坂口安吾では「桜の森の満開の下」となり、「桜の森」 として集団の桜を一つとして展開することになる。この変化は単にそれぞれの作家個人の感覚に委ねられている部分が大きいとは思うが、 多少ではあるが時代の変化もあるように僕には感じられる。
昭和22年に発表した坂口安吾の「桜の森の満開の下」に登場する「桜」について少し語りたいと思う。 安吾の作品を集中して読んだのは随分と昔のことだ。でもその中でも幾つかの作品は印象的で今でも記憶に残っている。安吾は「現実」 を描写する自然主義文学を嫌い物語性の強い作品を数多く残した。「桜の森の満開の下」も物語性が強い。 特に説話文学形式を取っていることで寓意性と物語性はさらに強調されているかのようにも思える。
説話とは作者不詳の口承により伝えられてきた物語である。そして主に説話はふるさとの年寄り達が子供に語り継ぐ物語でもある。勿論 「桜の森の満開の下」を語るのは坂口安吾に他ならないが、この物語を読む中で安吾の姿が見えなくなっていくのである。 「桜の森の満開の下」に登場する「桜の森」とは同じ種類の桜が群れて咲く場でもある。 だから山賊は花の蕾の状態を見て満開時を予測できる。桜の自生の場合、森を形成することは難しい。概ねというか殆ど、桜の森は、 吉野の桜も含めて人間が植えている。また単種類を集中して植える桜はソメイヨシノでもある。
「前も後も右も左も、どっちを見ても上にかぶさる花ばかり」の桜にもソメイヨシノを連想させる。つまり「桜の森の満開の下」の「桜」 もやはりソメイヨシノのイメージがそこにはあると僕は思う。
安吾が生きた時代は全国的にソメイヨシノが広まった時代でもあった。ソメイヨシノは軍隊・公園・ 役所等の公共施設中心に植えられていくが、さらに様々な媒体により「桜」と国家の同一性が結びついた時代でもあった。 安吾が生まれた時と新潟という場所では、ソメイヨシノはそれほど植えられていなかったと僕は想像する。 おそらく安吾がソメイヨシノの桜の森を見たのは17歳で東京に家族とともに転居した後だったのではないだろうか。
僕の想像はそれを起点として続く。大正11年ごろであれば九段の桜も十分に育っていたことだろう。安吾は東京で初めて「桜の森」 を体験したと思う。佐藤俊樹氏の「桜が創った「日本」」に拠るところの「デフォルメした桜」であるソメイヨシノの美しさは、 安吾が故郷で見慣れた桜と較べると、圧倒的な美しさを感じるが、どことなく不自然さが漂って見えたかもしれない。
「アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、 それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、 決してふるさとへ帰ることではないから。だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。 文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。」(坂口安吾 「文学のふるさと」から)
僕が「桜の森の満開の下」を「桜」の視点て読めば、そこにあるのは「ふるさと」に戻ろうとする山賊が「桜の森」 に阻まれて辿り着けない物語でもある。つまりは、山賊が女の誘いにより「ふるさと」を離れ都に行くが、都の生活に馴染めず、「ふるさと」 に戻ろうとする。でも「ふるさと」の前には「桜の森」が立ちふさがっている。
森の中で女は鬼に変わる。山賊はその鬼を殺してしまうが、殺した後は普段の女の姿に戻っていた。そして桜の花弁が舞い落ちる中、 二人は虚空の中に消えていく。 女の美しさ・残酷さが安吾の女性観に拠るところが大きいとはよく言われている。
確かに「桜の森の満開の下」に登場する女は理念化された女性像だと思うし、 そこに彼が過剰なまでのプラトニックで愛した矢田津世子の存在があるとも思う。ただ「桜の森の満開の下」に現れる「森と都」「山賊と女」 「残酷さと美しさ」「果てのない欲望と退屈」などの鍵語は、僕にとって「桜」の存在の前では陰が薄くなるのも事実なのである。
「ふるさと」になぜ戻れないのか。そしてなぜ「桜」は戻るのを阻むのか。 それはこの小説が敗戦後早々に書かれたことと無縁ではないように僕は思う。また坂口安吾の「桜の森の満開の下」の「桜」 とはいったい何かという問いにも繋がっていく。 ソメイヨシノは日本の近代化と密接に結びついた桜でもあった。 それは敗戦直前までは日本の同一性に結びついた存在でもあり、日本人もしくは日本国家を象徴する記号になっていた。 その変化は新潟県民である一人の男が、地域に関係なく同じ日本人として、一つの壮大な物語に参加することでもあった。
しかし敗戦で一気に状況は変わっていく。その中で安吾は、「ふるさと」を見失ったのかもしれない。もしくは「ふるさと」を想起する毎に 「桜」に結びついた物語の記憶が立ち塞がるのかもしれない。そして「ふるさと」とはいったい何かと問われれば、「桜の森の満開の下」 の物語では「存在の根拠」ではないかと思うのであり、「空想」は「現実」であると言い切った安吾にとって、 自分の現実の姿をそこに見たのではないかとも思うのである。
「桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう」(坂口安吾 「桜の森の満開の下」から)
「桜の森の満開の下」の「桜」とは恐ろしく人を狂わせる場所であり、「虚空」でもあった。 それはこの物語を語る安吾自身が見えなくなっていくことと、「ふるさと」での語り方でもある説話形式での構成と相まって、 さらに印象深くしているように僕には思える。
追記:坂口安吾は没後50年を過ぎ著作権が失効した。現在「青空文庫」 で多くの作品を読むことができる。上記の僕の感想は言葉足らずのところがただあると思う。 いずれ彼のほかの作品の感想文で埋め合わせをしたいと思う。
桜の季節 梶井基次郎の「桜の樹の下に」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる梶井基次郎の「桜の樹の下に」に登場する桜の品種を想像することは全く意味がない。 それは梶井基次郎が造り上げた観念上の桜である、即ち現実の桜ではない。でもその無粋なことをあえて行えば、 やはりソメイヨシノだと僕は思っている。それは「爛漫と咲き乱れている桜」、そして「一つ一つ屍体が埋まっている」から、 一面の花の姿で群桜の状態で植えられている姿を想像するからなのだが、 大正10年以降に日本全国にソメイヨシノが展開していった事実を思えば、あながち外れているとも思えないのである。
梶井は桜の信じられない美しさに、「不安になり、になり、空虚な気持」になったが、「一つ一つ屍体が埋まっていると想像」することで、 彼を「不安がらせた神秘から自由」 になった。桜の信じられない美しさは、花という生殖の営みの美しさであり、それは「生」に結びつく。 そして小説中に挿入した薄羽かげろうの生殖直後の死が現す様に、梶井にとっては「生」の美しさは「死」に密接に関係するのである。
この小説に登場する桜は、爛漫に咲き乱れ散りゆく桜ではない。梶井は、信じられない美しさで爛漫に咲き乱れるからこそ、 その美しさに原因があるとした。それは「檸檬」の化学反応に似た感覚でもある。また梶井は結核により死と常に隣り合わせで生きていた。 時として体調が芳しくなく、不快な発熱と発汗が身体に現れるときもあったことだろう。そのいいしれぬ憂鬱の中で、生が謳歌する春の中で、 ひときわ美しく咲き乱れる桜に信じられないという心情を持ったのではないだろうか。
仮に梶井基次郎が感嘆した桜がソメイヨシノであったとしたら、これも僕の想像だが、京都で生まれ育った梶井にしてみれば、 ソメイヨシノは新しく派手な桜と受け取ったことだろう。梶井にとっては見慣れぬ桜であったからこそ、 その美しさにこの世のものとは思えない何らかの理由を求めたとも思えるのである(見慣れている桜であれば、 おそらくここまでイメージできなかったのではないか)。さらに大正から昭和にかけて、社会は「桜」 に日本との同一性を求め始め始めている。梶井にとっても、当時の日本の社会状況について感じることもあったと思う。 それはソメイヨシノの新しさ、ある意味において屍体を持ち出すほどの不自然な美しさ、 を重ねてみる日本の姿でもあったのではないだろうか。それを考えてみれば、 梶井の想像はあながちロマン的なものでもなかったとも思えてくる。
僕はソメイヨシノを見たとき、確かに美しいと感じるのであるが、桜の樹の下に屍体が埋まっているとの想像を喚起することは難しかった。 つまりは梶井が感じた、ソメイヨシノの不自然な程の美しさを感じる事も出来なかったということでもある。 それは僕にとって毎年必ず訪れる見慣れた風景でもあった。しかしその事自体、ある意味感覚の麻痺があるのかもしれない。 もしくは梶井も含めた数々の桜に関連する言説を無効化した地平の彼方に現在のソメイヨシノが立っているのかもしれない。 そんなことを思った。
桜の季節 ソメイヨシノの光景
僕がヤマザクラを「発見」したのは高校の頃だった。近くの公園でソメイヨシノ満開時に一本だけ赤い葉と共に咲いている桜を見つけたのだった。木に吊された札には「ヤマザクラ」と書いてあった。桜の歴史について何も知らなかった僕は、逆にある意味幸運だったかもしれない、ソメイヨシノと較べ葉と共に控えめに咲くヤマザクラに好感を持ったし、何よりもヤマザクラを歴史性で結ぶことなく全く別の桜だと認識したのだった。その認識は今でも続いている。
昨年の春に僕はそのヤマザクラの木を思い出し、公園のその場に行ってみたがヤマザクラの木は無くなっていた。移動したのか伐採されたのかは今でも不明だが、凄く落胆したことは覚えている。
今年、僕は公園内で何本ものヤマザクラを見つけた。それらは僕が通勤時に毎日通っている道の脇に植えられていた。数にして6・7本で、それぞれが根元から幹が数本別れた高木であった。それを契機に公園内でどのくらいのヤマザクラがあるのか実際に数えてみた。僕にとっては驚くべき事に、ソメイヨシノとほぼ同じであった。高校時には1本しかないと思いこんでいたが、単に今まで気が付かなかっただけの話なのである。どうして今まで気が付かなかったのか、それは桜を見る僕の視線によると思う。桜の姿を思い浮かべると、どうしてもソメイヨシノに集約される視線が、他の桜を見えなくさせていたと思うのである。
勿論昔からソメイヨシノ以外にも桜があるのは知っていた。例えば八重桜、枝垂れ桜、彼岸桜、等々。しかしそれらも僕にとって「桜」として見えなかったようだ。公園においても、実際はソメイヨシノ・ヤマザクラ以外にもオオシマザクラ・カスミザクラ・ヤマベニシダレザクラ等が植えられているようなのであるが、何処に植えられているか正直今でもわからない。
前の記事で僕は、ソメイヨシノには「桜」の観念としての側面を持っているが故に時として「妖しく」見えるのだ、と書いた。でも花の付き方も満開時の雰囲気も他の桜と全く違うのも事実である。ソメイヨシノを基準にすれば、ヤマザクラ群の桜は満開時でも葉桜と見間違えてしまうのである。それほどソメイヨシノの満開時の姿は絢爛で、群桜によりさらに圧倒的な姿で鑑賞者に迫ってくるのである。枝いっぱいに咲く状態、どこを見ても花・花・花の光景、花で木全体を埋め尽くしてしまうかのような花の勢い、見上げればそこは花の天蓋、それらのソメイヨシノがつくり出す光景を僕は「桜」という言葉と共に毎年見続けている。
ソメイヨシノが造り出す光景は、別の見方をすれば空間の付加価値とも言えるかもしれない。単品種集中型の公園景観が中心的な現在において、文字通り冬季の裸木から全身花の衣を身にまとう変化は空間そのものを変える力がある、と僕は思うのである。そしてその付加価値は非日常性の場をそこに創出している。しかもその空間は10日間という期限付きなのである。10日間という短さが、多くの人を飽きさせないぎりぎりの期間となっているし、飽きさせないことが冬になり春を待ちわびる気持ちに春のイメージと結びついたソメイヨシノが現れるのだとも思う。
少なくとも一カ所に多品種が植えられていれば、桜の品種の多様なる事実と共に、その中での好みもでたに違いない。でもそれはあくまで仮定の話である。今の僕はソメイヨシノの光景に縛られ続けている。
桜の季節 桜の本質とは
佐藤俊樹氏の「桜が創った「日本」」では、「桜の美しさの理想(イデア)として、もともと存在していたのである。」とある。 しかしこの文章は誤解を生みやすい。何故なら「桜」のイデアがあるとして、それは外部に存在するものでもなく、 ましてや日本民族だけが追い求めたわけでもない、と思うのである。
勿論個別事項として「桜」に特化してイデアを考えれば、日本のアイデンティティ及び日本の風土に結びつき、僕らが記憶する「桜」 はナショナリズムの近代歴史観の中で大きく咲かすことも可能であろう。それに「桜」の美しさを求め、園芸品種として新たな「桜」 を造り続けてきたのも事実であろう。でも地域ごとに自生する植物があり、 その地域に生活する人間がそれを愛でたとしても自然なことであると思う。つまりは「桜」という個別事項ではなく、 人間が他の生物を愛玩する本質にこそ、「桜」を愛でる本質があると僕は思うのである。 そしてこの本質は人間のエロス性に深く結びついていると僕は思う。
「桜」の美しさの理想(イデア)は「もともと存在していた」とは、近代日本の文脈の中で過去の詩歌の中から発見したに過ぎない。 もしくは「書き言葉」の中から造りだされた「吉野」のイメージが増幅され、それがたまたまソメイヨシノの特性に多く合致したのだと思う。 イメージが増幅された「桜」の美しさは観念化していくことになる。それはソメイヨシノ登場後に、 実体として逆に集束されていくことになるが、もともと観念化した「桜」の側面を持っていたがゆえに、 今でも妖しげな姿を僕らに見せているのだと思うのである。
佐藤俊樹氏はソメイヨシノが日本各地に植えられた理由として、成長が早いこと、目新しいこと、価格も安く丈夫、をまずあげられている。 まず「公園」の景観を考慮して植えられたとする視点は、 ソメイヨシノの全国展開に日本の同一性という乏しい想像力しか持っていなかった僕に別の姿を与えてくれた。この書籍については 「桜の季節」の記事シリーズの中で別途感想文を書きたいと思っている。でも今はまだそこまで辿り着いていない。僕は自分の「ざわつき感」 の正体を見極めていないのである。
桜の季節 ソメイヨシノのことなど
「桜の季節」と題したこのブログ記事の「桜」とは、ソメイヨシノのことに他ならない。僕自身が生まれたときから「桜」 とはソメイヨシノであった。僕の「桜」のイメージはソメイヨシノによって形成されたものであって、 逆に言えばソメイヨシノの特徴をあげることで「桜」のイメージが具体的に示されることになると思う。ここでソメイヨシノについて、 一般に知られていることを整理することは今後の展開にとって大事なことだろう。勿論、 整理といってもそれが正しいかどうかは僕にはわからない。特に歴史的なことについての言及はここでは一切行わない。 概ねはWikipedia「ソメイヨシノ」を参照、または引用した。
- 江戸末期から明治初期に、江戸/東京の染井村の植木屋が「吉野桜」として売り出した。
- 1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名。
- エドヒガンとオオシマザクラの交雑種。
- 花弁は5枚一重で、葉が出る前に花が開き、満開となる。
- 満開時には花だけが密生して樹体全体を覆う。
- 花色は、咲きはじめは淡紅色だが、満開になると白色に近づく。
- 花見の期間は概ね10日間
- 接ぎ木や挿し木で増やすクローン植物。
- クローン植物として全て同じ木であるがゆえに、一斉に開花し、一斉に散る。
- 成長が早い(見栄えまで10年)が、寿命も短い(60年説がある)。
(但し弘前市には樹齢100年を超えるソメイヨシノも現存する) - 単品種集中で植えらている場合が多い。いわゆる群桜状態。
- サクラ前線の対象桜(一部地域を除く)。
- 東京での開花宣言は靖国神社にある基準木3本のうち2本の開花で宣言する。
- ソメイヨシノが最初「吉野桜」で売り出したのは宣伝効果のため。
- 現在の日本で植えられる桜の7割潤オ8割を占めるといわれている。
- 人間の管理を大きく必要とする。
- 他のサクラよりてんぐ巣病(てんぐすびょう)にかかりやすい。
僕がソメイヨシノ(桜)を考える際に、どうしても囚われてしまうのがナショナリズムとの関連性である。 しかしその関連以前にも桜はこの国に好まれていた。ソメイヨシノが新参の園芸品種だとしても、 それは長年桜を好んできたこの国の人たちにとって、桜だと認めたからこそ、ここまで栽培されてきたのだと思うのである。 現代においてその関連性を導き出すことは、事実かもしれないが、極めて簡単であり、あまりにも単純かつ安易でもある。そして僕の 「ざわつき感」を考える際に不要のような気もしている。
「吉野桜が普及する前に、「吉野の桜」という名が日本語の世界で普及していた。そういう名の地層、想像力の地層の上に、 ソメイヨシノは根付き、広まっていったのである。」
「ソメイヨシノが広まることによって、ソメイヨシノの咲き方に特にあう言説が選択的に記憶され「昔からこうだった」 と想像されるようになる。いわば想像が現実をなぞっているわけだが、義政や芭蕉や東湖の句はもう一つ重要な事実を教えてくれる。 ソメイヨシノの出現以前に、ソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが詠っていたのだ。この桜が現実にした光景は、 想像上ではすでに存在していた。桜の美しさの理想(イデア)として、もともと存在していたのである。」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から引用)
「ざわつき感」の要因の一つと言えるかもしれないのは、ソメイヨシノの花見期間の短さである。佐藤俊樹氏はその著書の中で、 加えて群桜の結果、鑑賞する場所が狭いのもあげていた。つまり一度に大勢の人が狭い場所に集まる。短期間だからこそ、 そこで催される風景は一種狂乱じみてくるのである。その文章を読み、僕の中に単純に浮かんだものは「祭り」であった。もしかすれば僕の 「ざわつき感」は、「祭り」が同じ場にいる人に与える感覚に似ているのかもしれない。まずはそんな事を思ってみた。
桜の季節
見知った人に好きな季節はと尋ねると、季節は春、桜の咲くころ、と答える方が多いように思う。 それぞれの季節にはそれぞれの趣があると思うが、やはり僕もこの季節が一番好きである。
でも桜の季節が好きという気持ちは、例えば自分の趣向に合ったものを思い浮かべる気持ち等とは何か異なるようにも思える。生活する中で、 この季節になると自分の奥のほうから、少しずつざわつき始めてくるのを感じるのであるが、 そのざわつき感は趣味のものを目の前にする感覚とも違う。
このざわつき感は一体どこから来るのだろう。満開に咲く桜の樹の下で、外面は落ち着き払ってベンチに佇むとは裏腹に、 僕は一向に集中できない。
「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。 それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、 いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。」
(梶井基次郎「桜の樹の下には」から引用)
この一文は、桜を比喩としたあるイメージだけの産物ではない、と僕は思うのである。おそらく梶井基次郎の発想の根底には、 僕と同じざわつき感があるように思える。そしてそのざわつき感が沸き立つ理由を梶井基次郎は桜の樹の下の屍体に結びつけたのだと思う。
勿論この感覚は僕だけのものではないはずである。でも桜が淡い桃色の花弁を、誰に見とがれることもなく、それこそ一斉に咲き乱れる姿は、 僕の思考を混乱させ麻痺させるに十分である。このざわつき感をしばらく考えてみたいと思う。
剥がされた文字の跡
元は幼稚園だった。かつてここでは子供達の歓声が住宅地の中で明るく聞こえていたことだろう。それが今では静かで、静けさが一つの音となって薄暗い光と影の狭間に吸い込まれている。何があったのかは知らない。でもこの文字が剥がれた跡はその「何か」があったことを雄弁に語っている。
文字は、言語は、壁に刻まれる。刻むのは年月、時間という塵の集積で計れる一つの概念。昼下がりの陽光を浴びて、それは浮かび上がる。
それぞれの日本問題
小松左京がSF小説「日本沈没」を書いたのは今から30年以上も昔の話である。小松左京は見事に僅かな科学的可能性を基に日本を沈没させた。でもそれ以前に日本では多くの識者による「日本問題」の洪水に見舞われている。
それぞれの識者達の「日本」はその後どうなったのであろうか。危機感を募らせる書籍の標題は商業的でしかなかったのであろうか。図書館でこれらの書籍の背表紙を見るだけで、そういう思いにとらわれる。
小松左京が描きたかったのは、「日本沈没」のその後であったと、後のインタビューで彼自身が語っていたのを覚えている。つまりはこの小説は序章でしかない。ただ残念なことに「日本沈没」第二章は書かれることがなかった。そして、それぞれの「日本問題」でも、同様に、その後の「日本」を書いている書籍は少ない。
そして今年7月に「日本沈没」が新たな映画として放映される。その時点で多くの方が何を語るのか想像するのは容易い。それぞれの「日本問題」は欲望のままに語られ、さらに商業的に消費されることで、逆に問題としてのリアリティがなくなっていくことだろう。
でもそれを懸念することもない。今までがそうだったように、「日本」は消費尽くされることなく、僕等に課題を投げ続けているからだ。それぞれの「日本問題」とは、それぞれの生の欲望への不全感が元にあると僕は思う。
扉に置かれた花束
扉に立て掛けられた花束が人の痕跡を、しかも近い時間での痕跡を僕に印象づける。
花束を持ってきた人は、誰もいない家、呼びかけても応答しないその状況に、しばし立ちすくんだことだろう。
扉に立て掛けられた花束に、花を持ってきた方の思いが、白い紙に包装した姿を大きく見せる。手渡しできない思い、言葉を交わせないことに、その方は一瞬の後悔の念を持ったかもしれぬ。
もしかすると、家には人がいるのかもしれない。花束を持って訪れた人を無言の拒否で応じたのかもしれない。そして持ってきた方はそれを感じていた。だから花束を扉に立て掛けることがなかった。扉を開ける勢いで、花が傷つくことを畏れた。それは僕の真昼の夢語りでもある。
Tokyo Tower-3
日本の文化は何かと問われれば、僕は東京タワーだと答える。この構造物に結実した姿はまごうこともない一つの戦後であり、新たな日本の近代の落し子でもある。「日本文化」について僕は否定的な態度を持つが、それは有史以来の連続とした姿をそこに見せるからである。文化そのものを否定しているつもりはない。ただ「文化」を語る際には、それが近代以降に誕生した言説であるがゆえに、「人種」「民族」「国家」と複雑に絡まり、特に「人種主義」の再生産に加担しないよう、慎重に言葉を選んで話さなければならない、と僕は思っている。
東京タワー公式ページには創業者前田久吉の心情を以下のように書いている。
「科学技術が伸展した現代では、300メートルの塔をたてるくらい、あえて至難の業でもあるまいと考えた。やれば必ずできる、と私は膝をうつ思いだった。つまり私の東京タワー建設に対しての自信と決意は、京都東寺の五重塔からあたえられた、ともいえる。」
京都東寺の五重塔は現存する木造建築の中で最長の塔である。東京タワー建築の背景に東寺五重塔が入り込むことに僕は不自然さを感じるし、「東京タワー建設に対しての自信と決意」が何故東寺五重塔から得られるのかもわからない。ただそこには敗戦国日本の復興と国民の自信喪失からの回復が、高さを追求するだけでなく、維新を遡る歴史に求める心情が見え隠れするのである。仏教建築の五重塔はもともと釈迦の舎利を納める場所である。つまりはお墓なのである。よってその意思は地下への指向性にあり、決して高みへの意思ではない。五重塔に高みへの指向を見るのは近代の思想でもある。
「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔 (320m)をしのぐものでなければ意味がない」
まず東京タワーに求めたのは高さである。それはモノづくりから自信を回復してきたこの国にとって、建築途中を目で見えることで具体的な自信回復の姿となったと僕は思う。そして具体的な数値として、エッフェル塔の高さが与えられる。「エッフェル塔をしのぐものでなければ意味がない」、その言葉は、東寺五重塔から自信と決意を得られたとの言葉よりもリアリティを持って僕には受け取ることができる。それはエッフェル塔が当時自立鉄筋塔で世界一の高さを誇っていたことだけではない。何よりそれはドイツに占領されたとしても、戦勝国の一員でもあるフランスの、しかも欧州を代表する古都パリを表象する建造物である。さらに東京タワーのデザインはエッフェル塔に似ている。エッフェル塔よりも高い「エッフェル塔に似た塔」を敗戦国の首都東京に建築する、その意味を思う。
「東京タワーがエッフェル塔との対比においていかにも東京とパリという二つの都市の関係を、ひいては日本とフランスないし西欧との関係を、表象し象徴していることだ。具体的には、九割の模倣と一割の臆病な逸脱。」
(池澤夏樹「読書癖4」より)
高みからの展望は都市を一つの自然風景にする。眼下にある建築物に、通りに、家々に、人の生活感は薄まる。地上における感覚とは異なる感覚、さらにそれは夜景によって増幅する。映画化された江國香織氏の小説「Tokyo Tower」は、21歳の透と41歳の詩史、21歳の耕二と35歳の喜美子という二組の純愛を描いていると聞く、実は小説も映画もどちらも知らない僕が言うことではないが、江國香織氏の題名の巧みさに、この物語の内容がそれを知らない僕にでさえ伝わる。
Tokyo Tower-2
この写真は前記事の方の影響を受けて僕が撮った写真である。力ではなく脆さを出したいと思った。でも未だに従前からの僕の中にある東京タワーのイメージを崩せずにいる。
僕は自分のオリジナリティというものにはあまり拘らないが、人のは大事にしたいと思う。それにこの写真はあくまで真似であるのも認める。何を真似たかと言えば、彼の見方である。でも模倣することにより、そこに自分の視点も加わり、変質して新たな表現が作り出されると僕は信じる。例えばクラシック演奏家は繰り返しの練習の中から自分の世界を構築していったように。
ただこの考え方は別の問題も含んでいる。そのことも含め徐々に考えていきたい。
Tokyo Tower-1
この写真は僕の写真ではないが、僕に新たな東京タワーの視点を与えてくれた写真である。この写真の現場が何処か知りたくて、夜、東京タワーに行ったことがある。そこは思った以上に普通の場所だった。そして僕は同じ場所で、出来るだけこの作品とは違う様に何枚か写真を撮った。
東京タワーには殆ど行かない。といって嫌いな場所かと問われれば、決してそういうわけでもない。ただ僕のイメージの中にある東京タワーは間近に見るタワーではなく、ビルの隙間からかろうじて見える姿なのであり、なだらかな曲線が尖端に集中するデザインは空に向かう強い意志を感じるが、それは同時に幼い頃の思い出と共に懐古的な感傷も伴うものであった。
しかしこの写真の東京タワーには、僕の懐古的なイメージは微塵もない。むき出しになり交差する鉄筋、オレンジ色の光の陰影、それらから受ける印象はあくまで現代的なものだ。そこにあるのは力の誇示と権力、と言えば大袈裟だろうか。
僕の写真でない一枚をここに掲載したのは、オリジナルへの敬意に他ならない。それはありふれた場所からの視点であったが、その場所への到達は僕には出来なかった。この一枚は視点を変更することにより、東京タワーの現実的な姿を新たに見せてくれた。そういう意味でも印象的な一枚になった。
今後は僕の写真だけでなくFlickrで気に入った写真も掲載するようにしたい。それを見る僕の印象を綴ることも、自分の写真(視点)から脱却する点で面白いと思う。
戸陽軒
戸陽軒は、僕が子供の頃からある中華店だったが、今はもうない。この場から1km近く離れた場所に、中華店ではなく、居酒屋として移ったのである。店の名前もそれなりに変わった。戸陽軒の後は誰も入らず建物は住居としてそのまま残った。
戸陽軒の隣は木々が豊富な邸宅であったが引っ越した、しばらくはそのまま残ったが、いつの間にか整地され、跡地に7階建てのマンションが建った。この写真はその時間的な隙間に、横から見た戸陽軒の姿を取ったのである。
昔、時々家では戸陽軒の餃子とかラーメンを出前で頼んだ。少々油が多いが、なかなかに美味しかった。恰幅がよく陽気でお喋りな奥さんが、スリムで若々しいご主人を引っ張ってる印象を子供ながらに持ったものだ。
会社に勤めてからは、帰宅時夜遅く戸陽軒の前を過ぎると、閉店後の店内からは、夫妻の友達が集まりお酒を飲んで談笑しているのをよく見かけた。奥さんは酒豪である。逆にご主人は一滴も飲めないと聞く。居酒屋を始めたのは、奥さんに引っ張られての話かもしれない。
先だって歩いていたら、戸陽軒の奥さんと道でばったりとあった。相手は僕のことを子供の頃から知っている。今度飲みに来てと威勢良く言われた。既に老年に差し掛かってはいるが元気である。「はい」と答えたものの、僕はお酒は得意ではない。でも一度は行ってみようかなと思っている。
千客万来
伊勢に行ったときにどうしても撮りたいものがあった。それはこの土地に伝わる注連縄で、中央に「蘇民(そみん)将来子孫家門」と書かれた符がついているものだった。ただ時間がなく撮れたのは「千客万来」の符だけだった。伊勢の一部では一年を通じてこの注連縄を門に飾っているとのことだった。この話は友人から事前に話を聞いていたので、実際に見てみたいと思ったのである。
言い伝えによれば、スナノオノミコトが旅の途中にこの地方に立ち寄り、一晩の宿を求めたそうである。最初に巨旦(こたん)将来の家に行ったがすげなく断られた。ミコトの身なりが貧相だったからである。次にミコトは巨旦の兄の蘇民将来の家に行った。蘇民は貧しかったがミコトを手厚くもてなした。その姿にミコトは感激し、この地方に悪い疫病が流行るからその時は蘇民将来の子孫と書いた符を家の門に貼りなさい、さすれば疫病から子孫を守ってあげましょうと言い残し去っていった。そこで早速蘇民は言いつけを実行し、その年に流行った疫病から身を守ることが出来た。逆に巨旦将来の一族は疫病によって滅んでしまった。
伊勢以外の多くの土地にも蘇民将来伝説が伝えられている。例えば京都とか信州などであるが、大筋ではそれほど内容は変わらないらしい。でも厄除けとしての姿形はそれぞれの土地毎で違うと聞いている。
この伝説の発祥元がどこなのかは僕には興味がない。僕が思うことは、その土地に伝わりその土地にあった形に変わって行ったと言うことは、蘇民将来伝説として一つにくくれる様に見えながら、実際はその土地毎で違うのだと言うことである。この国の単一性ではなく、複数性をそこに見るのである。
伊勢の「蘇民将来子孫家門」の注連縄を幾つか拝見することができたが、表札なども一緒に写ることから写真は控えた。それでも注連縄を見ながら、この伝説は文字の持つ力に何かを感じたからこそ成立したのではと思えた。文字が書かれた符があって注連縄は完成する。一つの部分の何が欠けても全体は成立しないが、やはり一番重要なのは文字であろう。当時の人がこの文字を理解し得たのかは僕にはわからない。でも自然に対する畏敬の念を、自然の象形から成り立つこの文字にも見たのではないかと僕は勝手に想像するのである。そしてその念は僕には本当のところでわからない部分でもある。
図書館にて
図書館はモノクロが似合うと何故だか思う。日本と諸外国の書籍の装丁を較べれば、以前は日本語の書籍デザインにセンスが感じられないことが多かった様に思う。でも最近ではそんなことはなく、色とりどりで優れたデザインの装丁が施されている。
だからカラーで書棚に収まった様々な色の書籍を撮ったほうが良いのかもしれない。でもモノクロが似合うと感じる僕がそこにいるのである。
図書館ではデジタル化が進んでいる。利用者によるパソコンでの検索は当然で、ネットワークによってつながり、例えば東京都全体でひとつの仮想的な図書館を構築している様な印象を持つ。さらにインターネットを通じて個人宅で検索と予約ができることで、以前に比べ格段と利便性が増したと思っている。
ただ図書館の分類は旧態依然のままである。おそらくそれは時代に追いついていけないのではなかろうか。例えば文学において、何々文学とのカテゴリ分けは、現代ではもはや通用しない。新たな学問も雨後の筍のように現れていることも、それを助長している。
結局図書館分類学は、書籍のデータベース化とパソコンでの検索システム導入によって、無効化しているのかもしれない。つまりは、図書館のデジタル化は、利用者だけでなく、図書館自らのためでもあるのだと思うのである。あとは書籍のデジタル化とネットを通じた貸し出しであるが、それは著作権の問題で実現はかなり難しそうでもある。
Yokoso! Japan Weeks
例えば僕がイタリアに旅行をしたとする。僕は様々な著名な場所に行き、そこで遺跡と風景を見ることだろう。夜は夜で評判のお店に行き美味しいイタリア料理を食べる。色々な人との出会いがあるかもしれない。写真も沢山撮るし、行く先々で得る些細なものも記念として大切にとっておくだろう。そして1週間くらいして僕は東京の自宅に戻ってくる。戻ってイタリア旅行を振り返り楽しかったと思う。そして明日から続く日常にまた頑張ろうと思うのである。
でもと思う、僕は果たしてイタリアに行き見てきたのだろうか。もしかすると僕は自分の中にあるイタリアのイメージを追体験し確認してきただけなのかもしれない。たかが1週間でその国を見たとも思えない。その国に産まれ一生過ごしたとしても、自国のことを知ったとは言えないのである。そもそもイタリアとは、国とは何をさしているのだろう。
でもその様な旅行が悪いとは全く思わない。あらかじめ計画した旅行とはそういうものだと思うし、イタリアに行くと言うことより、日常の中で徐々に感じる閉塞感をのり越えるために、僕はイタリアを利用しただけなのだから。そして目的は達することができた。
国土交通省が「VISIT JAPAN」(Youkoso Japan キャンペーン)を展開している事を最近まで知らなかった。知ったのは通勤時の満員電車の中吊り広告からだった。
サイトにおける日本は旅人が求める「日本のイメージ」で構成されていた。それはそれでよいと思う。僕自身も、例えでイタリアを持ち出したが、今まで訪れた場所に自分の中にあるイメージをその場で探し続けたのだから。それに「もてなし」の気持ちは大事だとも思う。
でも僕はこのキャンペーンには多少の偽りを感じてしまうのである。まずは日本人という民族的同一性をそこに求めていることである。人が困ったときに、その側にいるとき、自分に出来ることを探すのは自然な感情だと僕は思う。わざわざ「もてなしの心」とか、日本を持ち出すまでもない。
また「外-国人」が旅行に行きたいと思うとき、その国に魅力を感じているからだと思う。つまりは、多くの人にとって日本が魅力的な国になれば、旅行者は自然と多くなっていくということだろう。ただ、「魅力的」には、そこにヒエラルキーが存在する様にも思える。誰に旅行者として来てもらいたいのか、誰が「外-国人」なのか、それはどういうヒエラルキーに組するかと言うことでもある、と僕は思う。
このサイトを見たときに感じたことだが、キャンペーン用の広告は「外-国人」のイメージが西欧系に偏っているように思える。
中国を含め東アジアの年始休暇に的を絞って1/20から2/20迄を特にキャンペーン期間としてを設定したらしい。本キャンペーンにおいて4枚の広告が作られたが、そのうち3枚は西欧系の人が登場している。残りの一枚はアジア系か西欧系か不明であった。日本に旅行で訪れる人の多くは韓国人と台湾を含む中国人である。特に年始休暇に的を絞っているのであれば、広告に登場する人は東アジアの方々にするのがビジネスにおける常套だと僕は思う。逆にビジネスであればそうしたであろう、でもこのキャンペーンはビジネスでなく、政府が行っているのである。
もとより以前から日本における様々な「善い」イメージは欧米系のイメージで造られている。例を挙げるまでもなく、マスメディアを含む様々な露出物はその証左の宝庫である。でも今回のキャンペーン広告ではそれだけでない印象を持つのである。
どこでも事件は起きる。日本でも様々な悲惨な事件が起きている。ここで多くを語る必要もないくらい、人は見知らぬ人に警戒心を強めている。さらには、韓国と中国における反日運動とそれに対応する日本での動き、東アジア・南アメリカからの外国人労働者との関係、外国人犯罪グループの活動とそれに対するメディアの報道等々、そのような状況下において僕等の気持ちにどこまで旅行者に近寄ることが出来るのか、正直言えばよくわからない。ただ一つだけ感じることは、これらのキャンペーン様ポスターに東アジア系の人々を登場させなかったことは、「外-国人」=「欧米人」だけの単純な構図だけでなく、現状においては違う側面を持っていると思えてくるのである。
この記事に載せた写真は、「Yokoso! Japan Weeks」を知ったときに皮肉を多少込めてコラージュした。一枚だけ色つきの写真があるが、それは僕が携帯電話のカメラで撮ったキャンペーン用の中吊り広告である。
二枚の夫婦岩の写真(二枚目)
干潮時に夫婦岩が陸続きになることを初めて知った。風もなく波もない海を背景にして、前回の夫婦岩との風景の落差に一瞬違うのではないかと錯覚した。でもそれは満潮時を想像するまでもなく確かに夫婦岩である。
根元が露わになった姿は頼りげなく、僅かな力で崩れ落ちそうな印象をもたらせる。この印象は前回のそれを対象として想起させ、僕にとって「夫婦岩」の存在の意味を新たに考えさせる。
全国には幾つもの「夫婦岩」がある。それらの共通項は、大きい岩が「男岩」であるということ。そして双方の岩はしめ縄で繋がれ鳥居だということである。勿論それら全国の「夫婦岩」は伊勢二見の夫婦岩を模したものであろう。でも幾つもの「夫婦岩」に抱く人々の願いは模したものではない、と僕は思う。
岩の大小にこだわるのが僕の中の近代教育の賜物であれば、それらは何の役にも立たない。それよりも僕の問いは、なぜ僕の中では物事に対して純粋性を求めるかということである。
例えば、夫婦岩に対する歴史的誕生の意味は現在のそれとはまったく違うと僕は感じる。おそらく単なる普通の岩が夫婦岩として造られたとき、その動機の中に潜む宗教性・政治性・社会問題を正確に解明することは不可能だと僕は思うが、現在のそれとはまったく違うとは容易に想像できる。ただ人は利用し続け現在に至ったのかもしれない。つまり現前する夫婦岩は様々な人の思いの中で交わり雑種化した存在なのだと思う。でもあたかも「夫婦岩」の発生当初の純粋性が損なわれていないかのように、僕は見たいと願うのである。
雑種性は純粋性に論理的に先行する。僕はその意味を深く理解しなければならぬ。
二枚の夫婦岩の写真(一枚目)
始めて伊勢に行った時の写真。風が強く、波が参道まで押し寄せた。波しぶきを体に浴びながら、見学者たちはコートの襟を立て、立ち止まることなく夫婦岩を一瞥し写真を撮り足早に移動する。
荒々しく岩にぶつかり白く砕け散る波、岩同士の接近から流れが速く渦を巻く土色の海。空は透明感を持った青さで、そこに点在する雲は海とは対照的な穏やかさを持って時を過ごす。
夫婦岩は相互をしめ縄で繋ぐことにより鳥居でもあると聞いた。対岸より約600m程沖合いの海中に御神体があるのだそうだ。また夏至にその鳥居の中心から日が昇り、その美しさは例え様のないほど荘厳なのだとのこと。そんなことを同行者から聞きながら、僕はただ身近に見るこの二つの岩に、徐々に圧倒されるのを感じる。
祀られているサルタヒコは善導の神様と言われている。また「夫婦岩」の愛称から夫婦円満のご利益もあるという。どのような人たちが、この岩を信仰し守りそして慈しんできているのかを僕は知らない。でも間違いなく夫婦岩に僕が感じたのは、それらの時空を超えた人の思いであった。
人の思いは途切れることなく一本の線となって繋がっているのだろうか、とういう問い。繋がっているのであれば、繋ぎとめる力はどこから湧き上がり、どのように維持しているのだろうか。それを幻想とか誤解だと言うのはたやすい。歴史から物事を相対化する癖は近代思想の一つの病かも知れぬ。そこから何かを「告発」したと感じることこそ、僕にとっては一つの幻想なのである。
おそらく「夫婦岩」では何かが繋がり、ここに「夫婦岩」として成立している、と僕は思う。
招き猫
様々な招き猫たちが「おいで、おいで」をしている姿に、足を止めしばし見とれる。招き猫の効果は僕にとっては絶大だ。特に白い招き猫はジュニアを思い出す。
招き猫の仕草は、猫が前手で顔を洗う動作を擬人化したものだと思う。
猫が人間に初めて飼われたのがエジプトで、収穫した穀物を鼠から守るために、比較的大人しい山猫の子供を人間が育て始めてからと伝えられている。中国から仏教伝来と共に日本列島に渡った猫は、初めはかなり貴重な生き物だったに違いない。おそらく当時は紐に繋がれ室内で飼われていたのではないかと思う。これは僕の勝手な推測だが、徳川綱吉の「生類憐れみの令」により猫が紐で繋がれることが禁止され、それから猫は大いに外で繁殖していったのではないかと思う。
農耕を主としてきた場所では、猫は大事にされ可愛がられてきた。魔女の黒猫とか、化け猫とか、人間に誤解されたことも度々あったが、人間は猫を必要とし、長い時間の中で猫も人間を必要としている。
現在、猫にとって家の外は、病気・車・いじめ等々と危険に満ちている。東京の野良猫の平均寿命は3年から4年とも聞く。家の中で飼えるのなら、それが一番かもしれない。
木を撮るということ(2)
以前の記事「木を撮ると言うこと」で僕は写真を撮るという行為の侵略性について少し感情を交え語ったが、その続きを書きたいと思う。
僕にとっては「人を撮れない」事が僕自身の主体を構築しているのも事実である。だからその主体は「人を撮る」という行為自体が観念として在ることにより存在できているのである。しかしその主体は定立するのでなく、「人を撮る」という欲望と「撮らない」という欲望の間を、カメラを構えるときに激しく振動しているのである。つまりは侵略性について語る僕は、「人を撮る」人たちと同根であるのも間違いない。だから、前回の記事は「人を撮る」事が出来る人たちへの批判では決してない。
もっと気楽に写真を撮れば良いではないかとの助言を与えたくなる人もいるかもしれない。その時僕は逆に聞きたいことがある。人を撮る時、躊躇なく撮れますかと、一瞬でもためらいはありませんかと、聞きたくなるのである。
仮にためらいなく撮れる場合、対象が家族・恋人・友人などではないとき、それは一種の盗撮行為に限りなく近いのではないかと思うのである。
ためらいがあるとき、そのためらいの元は何かと僕は続けて聞くことになる。そのためらいこそが、僕が言いたいことなのである。何故ためらいが出てくるのだろうか。何故人以外はためらいがないのであろうか。
でも僕は人を撮る構えの時以外はお気楽モードで遊んでいる。写真を撮るのは楽しいと思っている。
木を撮ると言うこと
僕はおそらく人の代わりに木を撮している。だから僕が撮した木々の写真には人の姿を感じられるものが多いことだろう。この写真は枝の伐採の行為と切り取られた後が瞳に見える二重の意味で人を感じることが出来た。
写真を「撮る」と言うことは、「取る」に繋がるように思う。何から何に取るのか。それはまずは被写体の物語を自分の物語にずらすことから始まる。写真に撮られた姿は、被写体本来の物語を語りはしない。そう見えるかもしれないが、それはあくまで僕の世界に組み込まれた物語なのだ。被写体は抵抗も対話もなく突然に自分の主体をはぎ取られる。そう取ったのは、被写体の主体なのだと僕は思う。
だからこそ僕は人にカメラを向けることが出来ない。木々であれば、花であれば、猫などの動物であれば、山などの風景であれば、人とは交渉すべき術を持たないが故に、僕は彼らの世界に侵攻することが出来るのである。
ジュニア
11才、雄、雑種、好奇心旺盛、短気、潔癖、完全主義者、おちょこちょい、寒がり、風呂好き、自尊心高し、頭脳明晰、偏食あり、きびなごを特に好む、主人の帰りを待つ、扉を開ける、作業の邪魔をする、無口、鳴き声が可愛い、美男子、100才まで生きる予定、種は違っても愛している。
赤福本店
伊勢の銘菓「赤福」本店。宝永四年創業と看板に誇らしげに刻まれている。
宝永四年とは西暦に変換すれば1707年となる。宝永の前は元禄でわかるように江戸町民文化が華やからしき頃となる。裕福な町民の登場と「赤福」創業とは無縁ではない。
勿論当時に赤福を食する事が出来たのは僅かな特権階級であることも間違いないだろう。
夜へ
昼と夜との境界線はどこにあるのだろう。でも昼と夜とを対立的に考える問いは間違っているのかもしれない。 昼は徐々に夜へと移行する。
8月11日のツーリング記録、オートバイで「走る」ということ
2005年8月11日早朝、僕は夏休みの一日を使ってオートバイでのツーリングに出かけた。日帰りツーリング、それは日常から数センチほど飛び出した程度のたわいのない話だと思う。それでも人は数センチの違いでも、様々なことを考えるものだ、と僕は思う。1ヶ月も経ち、忘れることは忘れてしまった、今残っているのはそのツーリングの肝みたいなものである。出来るだけ簡潔に記述したいと思う。
東北道を下るつもりで家を出た。ところが思わぬ環八の渋滞に嫌気がさし中央道に切り替えた。その時点で、目的地は未定。気ままな、いつも通りの無計画の旅となった。
途中のサービスエリアで地図を広げる。このまま諏訪湖にあたりに行くのも良い。しかし、地図で中央道を辿ると大月JCから富士吉田市にのびる支線がある。この道は以前に友人と富士急ハイランドにスケートに行くために使ったことがあるが、その時はバスであった。オートバイにとっては初めての道である。今回のツーリングの起点はこうして決まったのである。
猿橋

ツーリングで甲州街道を使うとき、いつも気にしながら素通りしていた山梨県大月の「猿橋」に行ってきた。はじめから猿橋が目的というわけではなく、帰りに橋の事を思いだし、それじゃあついでに寄ってみようと思っただけなので、たいした話ではないが日記のつもりで書いてみる。
猿橋は「日本三奇橋」の一つだそうだ。現地でそんなものがある事を初めて知った。何事も3つを並べるのが好きな国民性からなのだろう、その他にも色々とあるのは知っている。その中の一つなのだろう、でも奇橋までつくるとはと少し可笑しい。ちなみに、日本三○○のこととか、3奇橋についてはこちら、また猿橋についてはこちらをどうぞ。
何も知識も無く、ただ名前が面白いからというだけで寄ってみただけだった。でもそれで、逆にすごく面白く感じた。谷が深い。橋から底まで約30mあるそうだ。橋の左側に下に降りる道があり、猿橋展望場所とか書いた看板が下りる方向を示していた。多分、谷底からの景観を堪能できるのではと、階段ばかりの細い道を下った。階段は途中できれて、ごつごつとした岩場となり、やがて川を真下に見下ろせるところまでたどり着いた。川の流れはゆったりとして、深そうだ。川の色は濃緑色だが、なんとなくミルクぽい。つまり濃い緑色のミルクといった感じの川だった。
底から猿橋を見上げようと振り返るが、猿橋は谷のせり出した岩と木々に隠れ見る事が出来なかった。展望とは何の事だろう・・・。ここまでの苦労を思い出す。
川ではドコモのTシャツを着た中年男性が一人釣りをしていた。もう少し川辺に近づきたかったが、釣りをしている人に迷惑がかかりそうだった。仕方なく、僕はまた来た道を戻った。
猿橋の正面に戻る。大勢の観光客がたむろしている。バスツアーで来たようだ。バスは5?6台とまっていた。ツアーの目的はさまざまだが、猿橋は立ち寄る場所としては同じみたいだ。観光客達は、一通り猿橋を眺め、写真を撮り、それから例の展望場所の指示の通りに左側の道を下っていく。一言いってあげようかなと思うが、これも旅の思い出かもしれないと、そのまま何も言わずに猿橋から離れた。猿橋の隣には小さな祠があり、少ないが土産物屋も何店かあった。国定忠治に関連する屋号の店もあった。国定忠治もここに立ち寄ったらしい。
日本の風景というのは、日本の文化が背景にあるのかもしれない。それ以上に風景が文化というものかもしれない。そういえば、図書館から借りているサイモン・シャーマの大著「風景と記憶」が数ページ読んだだけで積読状態なのを思い出す。読む気は強く持っている。それに、もう少しで読み始める事も出来る。それを読むと、今僕が猿橋を眺める風景も変わるかもしれない。
猿橋は広重の浮世絵でも知られているらしい。その猿橋の浮世絵を分析しているサイトをネットで見つけた。分析をとても真面目にしていて、読んでも面白かった。
サイト:広重再考
グレングールド著作集で見つけた謎の紙片
図書館から本を借りたとき、その本に赤ペンで線引きがされていたり、思いつくままの言葉が書き込まれていたり、マーカがついていたりと、前回もしくはそれ以前に借りた人の痕跡が残っている時がある。図書館の書籍なので、それは様々な方の手から手に伝わっているのは間違いないが、それらが頁をめくるその刹那に眼にはいると、本の内容から少し離れ、その方の思いを僕の目を通して伝わってしまうのだ。以前に読まれた方の思いが伝わる。その形は様々だ、赤ペンで線引きをされた人は、その箇所をどういう思いで読み取ったのであろうかとか、頁の隅に書き込まれた言葉は一体何を伝えたかったのだろうかとか、そんな事だ。
ある時は、「日本の巨樹」という図鑑のある頁に、鉛筆で「後で連絡すること」と走り書きがされてあった。栃木の日光街道の杉並木のあたりだったと思う。書き込んだ人は日光街道の杉並木の写真を見ているときに、何かを思い出したのかも知れない。そんな想像をする。
今回借りた「グレン・グールド著作集2」(みすず書房)には、今までにない痕跡が残っていた。それは本ブログの写真として掲載したので見て欲しいが、横10cm・縦14cmの紙片に書き込まれた謎の絵柄である。グレン・グールド著作集の頁220と221の間に栞の様にして挟まっていた。その箇所は「音楽としてのラジオ」というタイトルで、グレン・グールドがラジオでの活動をしていたときのインタビュー記事の所であった。
紙片は栞として挟み込んだのか、もしくはわざとなのか、僕にはまったく解らない。また、紙片に書き込まれている内容も、単なる落書きなのか、もしくは何らかの意味があるのかも不明だ。そんなに突っ込んで考えることはしない質だが、面白いので少し興味がわく。書いた人の思いを想像する。その中でこの紙片は、彼(彼女)がグレン・グールドに思いを馳せる際に湧き出たアイデアのイメージとして現れる。そのアイデアは、この絵、しかも点対象で描かれるべき、ものだったのだろう。中の絵は人の顔の部分だと思う。「見る」と「語る」、「嗅ぐ」と「すぼむ」だろうか。それらは相互に関連している。様々な事柄が現れては消える。もしこれがわざとであれば、僕は見事に彼の術中にはまってしまったことになるのだろう。
丁度その謎の栞が示していた頁で、グレン・グールドは彼のドキュメント番組「北の理念」を通じて、モノラル放送とステレオ放送の技術的な長所短所を語っている。このインタビューのグレン・グールドはさながら優秀なプロデューサーの印象を受ける。
今読んでいるトーマス・ベルンハルトの小説「破滅者」で描かれているグレン・グールドは音楽そのものの存在として描かれていた。「破滅者」は小説なので、現実に存在したグレン・グールドとはまったく違うかも知れない。ただ、読み始めたばかりではあるが、僕はこの小説に、正確にはベルンハルトの小説に圧倒され続けている。この小説については読後感想は無理だと思う。読んだその都度僕は感想をメモしていきたい。
バッハの自筆楽譜がドイツのワイマールの図書館で見つかったと新聞報道していた。バッハ関連のことなので思わず新聞記事に目がいく。勿論、世の中の出来事は偶然で起きているのは間違いない。ただ、このような記事に、ベルンハルトの小説に、そしてグールド著作集にはさまれていた謎の栞に、僕自身が出会うのは、現実に客観に存在する世界への僕の見方が、大袈裟でなく以前とは少し変質している、そんな気がしている。
モータサイクルに乗り豪雨に遭う

少々寒いが慣らしを兼ねてモータサイクルで第三京浜(世田谷・横浜間)を走る。第三京浜は直線が多く、制限速度80kmを守る車など皆無に等しい。久しぶりの自動車専用道路でもあるので、速度を出すのが少し怖い。左端車線を制限速度内で走行する。
第三京浜の終点料金所を抜けてすぐに休憩施設があり、そこには多くのモータサイクルが集まる。その姿を長椅子に座り珈琲を飲みながら見るのが楽しい。初めて見るモータサイクルがあった。水冷6気筒と思われる巨大なエンジン。エルキュワーレと呼ばれるホンダのモータサイクルがあったが、その改造版の様な姿に目が奪われる。それにしてもBMWのモータサイクルがやけに多い。
モータサイクルを眺めていたら、いきなり目の前に稲光が走った。ゴロゴロという音。空を見上げると黒い雲が低く流れている。「やばいかも」と雨を想像する。また稲光。一本のギザギザの光線が瞬間に現れ消える。
「自宅に戻った方が良さそうだ。途中で雨に遭うかも知れないが、とにかくここを出よう」
そう思い、再びエンジンを回す。
帰りの第三京浜に入る直前に、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。「おっくるな」と思ったとき、突然にスコールとなる。それはバケツに満杯になった水を上からかけられたような感じに近かった。ヘルメット越しの視界が効かない。道の端は小さな濁流となって流れている。雨具の準備はしてこなかった。ただ風を防ぐためにマウンテンパーカを着てきたのが、数少ない正解だった。しかし、ズボンを含めなにもかもがあっというまに濡れる。それはいきなり服を着たまま川に落とされる感じに近かった。
モータサイクルに乗っていると、突然の雨は当たり前のことだし、さらにひどい豪雨にもあったこともある。だから、それもまた楽しいと思う。雨に濡れながら走るというのが、楽しいと言うのは、かなりの開き直りがあるのだが、濡れるのが嫌であればモータサイクルには乗れないとも思う。
雨が降って怖いのは、何より車道の中央にあるマンホールの蓋である。あれは濡れると滑る。しかも、丁度モータサイクルの通り道にあるから不思議だ。コーナリングの途中で濡れたマンホールの蓋に乗ると転倒するリスクはかなり高い。
さらにトラックの水しぶき、速度を控えめにする事による後続車ドライバーのいらつき、等々と危険は色々とある。
だから、第三京浜にそのまま入らずに、雨宿りをする場所を探した。丁度良い場所があったのでモータサイクルを止め、雨が弱まるのを待つ。激しい雨だ。上空を眺めれば、西の方は雲が切れて青空が見える。激しい雨は長くは続かない。それは時間にすれば大抵は短い。だから僕も雨が弱まるのを期待して待つことが出来る。そうこうしているうちに、雨が弱まり太陽が顔をだす。
着ていたマウンテンパーカを見れば細かい埃が沢山付いていた。あの激しい雨は、空中に漂う塵を洗い流してくれたのかも知れない。太陽が雲間から日差しを差し込んでいるが、雨はやまない。でも雨は日を浴びてキラキラとしてとても綺麗だ。虹を期待したが、それは見ることが出来なかった。
久しぶりのバイク

バイクに乗った。久しぶりだった。
最初渋谷のバイク屋で自分のバイクを見たとき、一目でそれだとわかったけど、何か自分のバイクじゃない感じを受けた。何かが違う。側に行ってタンクからシートにかけて触れる。艶やかなメタリックな濃いグリーンのタンク、なめらかな曲線、タンクからシートにかけて流れるライン。タンクに残る細かな数本の線は見覚えのある傷跡だ。シートのほつれから、少し恥ずかしそうに覗く素材。それは紛れもなく僕のバイクでもある。
でもこの違和感は何だろう。以前よりグリーンがくすんだような気がする。以前はもっとエンジン回りがピカピカ光っていたような気がする。
バイク屋からエンジンキーをもらいエンジンを動かす。セルスイッチを入れた瞬間に、まるで疾走前の馬が筋肉を振るわせるように1450ccのV型が2・3回大きく揺れ、地響きのような低音を轟かせた。その感触、身体に伝わる音とエンジンの振動は身に覚えがある。
それは確実に僕のバイクであった。でも実感として目の前にあるバイクは、全体が少しずつずれていた。タンクはタンクとして少しズレ、シートはシートとして少しズレ、その他の箇所もねじ1本に至るまで奇妙なほど同じ分だけズレていた。
多分、久しぶりで慣れない事による感覚的な問題かも知れない。もしくは、数ヶ月の間で、僕の中でバイクのイメージが膨らみ、それと実際のバイクとの間で、少しズレが出たのかも知れない。まぁ、どこにでも良くある話だと、一人合点する。
バイクにまたがる、思った以上にフロントとリアのサスペンションが沈み込む。クラッチを握り、ギアをローに入れる。スコーンと音を立てローになる。半クラッチにしてバイクを少し動かす。良い感じだ。
通りに出て、ローからセカンドにセカンドからサードに、連続してアップする。クラッチとの繋ぎも良い。信号だ、ブレーキをかける。ブレーキのききも遊び具合も悪くない。
徐々に、初め感じた違和感が払拭していく。
246号線は車は多いが流れている。路肩駐車をしている車が怖い。流れに乗りながら慎重に走行する。それでも後方から数台のバイクが僕の横を追い抜く。
総重量300kgの車体は、思った以上に軽い。ロングホールの為、直進性も悪くはない。それ以上にロングストロークのV型オーバーヘッドバルブエンジンが奏でる3拍子の排気音と、シートを通し、もしくはハンドルから伝わる震えが心地よい。
フォーサイクルエンジンなのに3拍子のエンジン。それは一つの、そしてそれぞれのハーレー乗りにとっては、伝説への一つの鍵でもある。(一人泥酔状態)
以前、このバイクで様々な所に行った。風を受けながら、それらの幾つかを思い出す。その時、僕はいつも信号などで止まるたびに、タンクをぽんぽんとたたいた物だった。それは馬の首を触り、感謝を捧げる仕草に似ていた。わざとでなく、自然とそう言う動作をしてしまうのだ。
でもまだそこまでは、関係は戻ってはいない。
人によっては奇異に感じることかも知れない。たかが道具で機械である。その通りであるが、自然と長距離ツーリングするとそう言う気持ちと動作が出てくるのである。機械であっても道具であっても、人はそれらに感謝する事が出来る。そう思う。
家に着く。渋谷からとろとろ走って約30分。再度バイクを眺める。幾分ズレが少なくなったような気がした。
風を撮りたい

風を撮りたい。風の強い日にそんなことを思う。カメラを持って表に出る。晩春の風は、身を切られるような痛みは感じないが、それでも十分に圧迫を受ける。木々は先端になる程、風で大きくたわむ。マンションの鯉のぼりの矢車がカラカラと音を立て、まるでちぎり飛ばされそうな勢いで回っている。
桜の写真

少し変わっている桜の写真かもしれない。近くに桜並木があり、満開だったので写真を撮りに行った。花見をしている方が多かった。その中で何枚か撮る。枝でなく幹に咲く桜が、何かのブーケのように見えて、春の贈り物という感じがした。
桜ではないが、近くの公園の入り口に見事なこぶしの木がある。桜が咲く前、まだ木々に緑がない時期に、白いこぶしの花が一面に咲く。見事としか言いようがない。そしてこぶしの匂い。傍を通るたびに気持ちが安らぐ。
桜が咲き、ケヤキに緑が多くなる頃、こぶしの木は後をそれらに任せるかのように、ひっそりと佇む。
昼と夜の狭間

図書館に行く道程に高圧電線の鉄塔が立っている。
見慣れている風景。
このまま電線は公園を抜ける。
ただ僕はこの高圧電線がどこから来て何処に向かうのかを知らない。
疑問に思ったこともない。
見慣れた風景の中に埋没する素朴な疑問。
この鉄塔も住宅も、そして眼前の空き地も全て人が造った物。
それを覆うかのような黒い雲が低くせまる。
一抹の不安。
先ほどまで明るい光の中にあった家が、闇の中にとけ込む。
昼と夜の狭間は表象として存在しない。
昼は夜があり区別され、夜は昼により区別され、
その線引きは曖昧故に個人に委ねられる。
でも狭間は昼から夜への時間の流れの中に、
僕の中では確かにある。
最初に僕らが住む地表が闇に閉ざされる。
薄闇の中で、天空の蒼さを僕らは仰ぎ見、
夜の到来を不安、期待、焦り、安らぎの中で待つのだ。
I PHOTOGRAPH TO REMEMBER
- Date
- 2005-02-16 (水)
- Category
- 写真
伊勢旅行のスナップ4枚
思い立って伊勢に行ってきた。風が強く寒かったが、天気が良く、清々しい旅行を味わった。
夫婦岩では波が高く、波しぶきが通路にかかる。でも夫婦岩ではイメージとして静かな波は似合わない。そんな風に思う。
夫婦岩の優しい言葉の響きに似合わず、厳しい自然環境の中でじっくりと佇む姿をそこに見た。でもそれが夫婦と言う事なのかもしれない。
忘れられない詩

以前「現代教養文庫」という文庫があった。名前は凄いけど、結構面白い品揃えで、生来すこしずれていた僕としては気に入っていた文庫だった。残念なことに平成14年に倒産した。でも教養文庫を復刊して欲しいと望む声って結構あるんじゃないかな?少なくとも僕はその一人だ。再度手に入れたい一冊の本が「現代教養文庫」の中にあるので特にそう思う。
その一冊のタイトルは忘れてしまった。内容は「夭逝」した若い詩人達の解説と詩を集めた本だった。その中で特に気になっている詩人は二人いる。勿論、名前も忘れてしまっているけど・・・
一人は自由が丘学園の生徒で感性豊かな、書いた詩の内容も覚えていないのだけど、感性豊かな詩であった印象をもって覚えていた。
もう一人は、詩の断片だけ覚えている。住所が羅列している詩だった。その羅列の狭間に時折手紙の言葉が挿入されている。
手紙の内容の片方は女性で在日韓国人。もう片方は日本人男性。その男の方から女性に出す手紙と返事のやりとりの詩なのだ。
手紙のやりとりは、男性の内容は書かれていなくて、住所だけ書いてある。女性からの返事は、短いけど限りなく優しい。
手紙は時折宛名不明での返送があり、また宛先の住所も頻繁に変わる。月日も一緒に記載されているので、その間隔が短く住所が変わっていくのがわかる。そして手紙は届くことが無くなる。
僕が書くと詩のイメージが逆に損なわれると思う。また、長い詩のような印象を持たれるかもしれない。でもいまだに心に残る良い詩だった。
その男女の関係が何だったのかはわからないけど、男はいつも彼女のことを気にして心配し、女は優しくそれに応えていた。お互いにとって、とても大事な人間関係の様に思えた。 住所と住所の空白はその女性のつらい生活が想像できる。そして度重なる転居は何かから逃げるようだった。そして消える・・・・
詩人が何をこの詩に残したかったのかはわからないけど、今となっては名前も知らない、しかも廃刊になった文庫の(そのうえ人気も無かった本)中に載っていた詩が、僕は忘れることの出来ない。
追記:現在以下のサイトで何冊かの現代教養文庫を電子本として購入することが出来る。「妖精の誕生 フェアリー神話学」「海の奇談」などを購入することが出来る。また、NTTドコモのPCサイト本屋「M-stage book」では「現代教養文庫」を電子化して復刻を計画しているらしい。
画像は今年バイクで行った上高地の写真です。これも忘れられない風景。
ジュニア、その育て方
家には猫が2匹いる。2匹とも雄の雑種。最初の猫はジュニアといいミルクから育てたけど育て方に失敗してしまいもの凄く神経質な猫になってしまった。
ジュニアは白く黒の斑点が所々にあるとても綺麗な猫だ。仕草一つ一つにも醸し出す色気がある。僕はこのジュニアを育てる事ですっかり猫にはまってしまった。
どちらかというと最初ジュニアの育て方は、猫という事もあり放任主義だった。獣医さんのところで予防接種を受けた時に猫エイズの話を聞き、あまり表に出さない事が良いと言われた。家にずーっといるとストレスがたまるようで、それを家の中で発散する事になり色々と問題を引き起こした。襖は何回か張り直したし、障子はもう張り替えるのもあきらめたほど。物は壊すし、しかも木綿のTシャツは食べるし。
そこに登場したのがAさんだ。Aさんは母の知人で猫の育て方に一家言持っている人だった。Aさんは小振りな顔立ちの割に大きな目を持っていて、ぎょろりと僕を見つめ、ゆっくりと力強く「猫は叩いて躾けなければいけません」と話した。その何とも言えぬ迫力に僕は圧倒されすっかりその気になってしまった。なにせこちらは猫と一緒に生活するのが初めてなのだ。右も左もわからない中で専門家から金言をいただいた気持ちになってしまった。
こうしてジュニアが1才頃からの約1年間がしつけ受難時代となる。ちょっとした事でジュニアは叩かれる事になる。そのうちにジュニアはこちらが近づくだけで自分の身を守ろうとするようになった。
Aさんから教えられた躾が誤りである事に気がついたのは、猫関連の様々なネットを読んでからであった。多くの人たちは言っていた。
「叩いたりする事は特に猫にとっては躾になりません」
それはそうだよな・・・人間だって叩くよりは誉めたほうがいいに決まってるし・・・猫だって同じだよな・・・
でもなんでAさんは僕にあんな事を言ったのだろう・・・Aさんと猫の関係は勿論わからないけど、そうやってAさんも教えられてきたと思う。でも考えてみればAさんの時代と今とでは随分と猫と人間の関係も変わっているのは事実だと思う。昔はネズミを捕る為の猫だったけど、今では誰も猫たちにそれを要求したりはしないし。
それからは叩く事はなくなったけど、その1年間の躾期間はジュニアにとって、神経質な猫になるには十分すぎる時間だったようだ。さわろうとするだけで怒り出すし、抱かせてもくれなくなってしまった。まぁ年齢と共にジュニアも性格が円くなっていったので、今では短時間であれば抱く事は出来るけど。
勿論ジュニアが神経質な猫になったのは、Aさんの一言だけが原因ではない。ジュニアが本来持っている性格もあるし、僕の接し方にも原因があったと思う。でもジュニアの生活環境を変えてしまったAさんのあの一言はやはり重たいと思うのだ。
そのAさんは今から5年くらい前に病気で亡くなった。今でもジュニアが怒る度にAさんのぎょろりとした目で僕に語った姿を懐かしく思い出す。そしてそのたびに何故Aさんはあんな事を言ったんだろうと苦笑するのだ。

























